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第五話 言葉にならない距離

مؤلف: 森村征爾
last update تاريخ النشر: 2026-07-21 13:55:56

互いの誤解が解けてから一週間。

職場の空気は、以前より少しだけやわらかくなった。

柳川圭介は、細木貴子と目が合っても不自然に逸らさなくなった。

細木も、必要以上に警戒した顔をしなくなった。

だが、そこから先に進まない。

柳川には重大な課題があった。

――食事に誘いたい。

それが言えない。

この歳にもなって、たったそれだけの一言が喉を通らないのである。

朝、細木が机を拭いている姿を見る。

今だろうか。

「細木さん、このあと……」

そこまで考えて、いや朝から食事の話は重い、と引っ込める。

昼、弁当を食べる細木を見る。

今なら自然かもしれない。

「細木さん、今度お昼でも……」

いや、職場の昼休みに“今度お昼でも”は曖昧すぎる。却下。

夕方、細木が退勤の準備をしている。

今しかない。

「細木さん、もしご都合が……」

電話が鳴った。

柳川は受話器を取りながら、人生とはこういうものかと思った。

その日の帰り道、柳川は駅のホームで深く反省した。

営業部の若手ならもっと軽やかに誘うのだろう。

「今度ご飯でもどうですか」

それだけだ。

なぜ自分にはできない。

管理職として百人の前で挨拶はできる。会議で厳しい指摘もできる。だが細木貴子一人に食事を誘う言葉だけが出てこない。

情けなかった。

一方、細木貴子もまた、静かに限界へ近づいていた。

あれだけ互いの気持ちを確認したような空気になって、なぜ誘わないのか。

普通、次の流れは食事ではないのか。

昼休み、若い事務員の真鍋に言われた。

「細木さん、柳川さん絶対ご飯誘うタイミング探してますよ」

「そうかしら」

「わかりやすすぎます。細木さんが席立つたび見てますもん」

細木は味噌汁の蓋を閉めた。

見ているなら来ればいい。

そう思う自分に驚いた。

誘われ待ちとは何事か。

だが自分から誘うのも違う気がする。

ここまで来たら、あちらが言うべきである。

細木には細木なりの意地があった。

その日も夕方。

柳川は書類を持って細木の机へ行った。

「この数字、確認お願いできますか」

「はい」

受け取る指先が触れそうになり、柳川は妙に緊張した。

今だ。今言え。

「あと……」

「はい?」

細木が顔を上げる。

落ち着いた目元。少し疲れて見えるのに、今日はどこか機嫌が良さそうだ。

柳川の心臓が跳ねた。

「……今日は、雨みたいですね」

言ってしまった。

細木は三秒黙った。

「そうですね」

それだけだった。

柳川は自席に戻り、机に額をぶつけたくなった。

細木は無表情で数字を確認しながら、内心で深くため息をついていた。

雨。

今この状況で、話題が雨とは。

もしや、あの給湯室での会話も全部勘違いだったのではないか。

いや、麦茶はくれた。

絆創膏もくれた。

塩入りコーヒーも飲み干した。

あれで何もないわけがない。

ではなぜ天気の話なんか。

段々とイライラしてきた。

細木は静かにペンを置いた。

我慢にも限度がある。

終業十分前。

細木は立ち上がり、柳川の机へ向かった。

柳川は驚いて顔を上げた。

「細木さん、どうしました」

「柳川さん」

「はい」

「雨が降る前に、食事に行きませんか」

柳川は固まった。

細木は続けた。

「あなたがなにやら言いたそうなので、こちらから申し上げます。食事に行きませんか。」

柳川は口を開けたまま、しばらく動かなかった。

それから立ち上がり、必要以上に背筋を伸ばした。

「ぜひ、お願いします」

声が裏返った。

細木は初めて、職場で声を立てて笑った。

五十二歳のもじもじした男と、五十歳の我慢強い女。

ようやく話が進み始めた。

店に向かうまでの道すがら、細木貴子はできるだけ平静を装っていた。

だが、装いきれていなかった。

歩幅がいつもより少し軽い。

バッグを持つ手が何度も持ち替わる。

信号待ちでは、意味もなく前髪を整える。

自分でも落ち着きがないとわかっていた。

やっと食事に行ける。

そこへ至るまで、どれだけこの男がもたもたしたことか。

思い出すだけで腹立たしい。

それなのに、胸の奥は妙に明るかった。

隣を歩く柳川課長は、背筋を丸め自分の不甲斐なさを呆れて歩いていた。妙に静かだった。

本当は謝りたかった。

誘いたいと思いながら言い出せず、ついには細木から声をかけさせてしまった。いい歳にもなって何をしていたのだと、自分でも情けない。

だが、いざ本人を前にすると言葉が出ない。

「……今日は、ありがとうございます」

やっと出たのは、その程度だった。

「いえ、こちらこそ」

細木は前を向いたまま答えた。

少し口元が緩んでいる。

柳川はそれを見て、胸が熱くなった。

入ったのは駅前の小さな和食店だった。

落ち着いた店内で、煮魚定食や刺身、小鉢料理が評判の店である。若者向けの洒落た店ではない。だが二人にはちょうどよかった。

最初は少しぎこちなかった。

「こういうお店、よくいらっしゃるんですか」

「たまにです。静かな店のほうが落ち着きます」

「わかります」

それだけの会話でも、どこか楽しかった。

やがて緊張はほどけ、話題は他愛もないものへ移っていく。

総務課の観葉植物が一鉢だけ元気すぎること。

営業部の若手がコピー機に話しかけていたこと。

社内旅行の温泉まんじゅうは柳川が嫌いな甘いものを選んだこと。

「そうだったんですか」

「ええ。嫌いな甘いものを選んでました」

柳川は声を立てて笑った。

細木もつられて笑った。

柳川の字が綺麗だとか他愛もない話だが、いつもの日常を話すだけだがただただ二人の仲でしかわからない事を話す時間が楽しかった。

笑うと、普段の薄幸そうな表情が消え、年齢よりずっと若く見える。

柳川は見とれそうになり、慌てて湯呑みに手を伸ばした。

食事は驚くほど自然に進んだ。

ずっと前からこうしていたような、不思議な心地よさがあった。

店を出るころには、外はすっかり夜だった。

駅までの道をゆっくり歩く。

今日の時間だけで終わらせたくない。

だが、ここで言わなければまた後悔する。

柳川は足を止めた。

「細木さん」

「はい」

「……私は、あなたといるととても楽しいです」

細木は黙って柳川を見た。

「できれば、これからも。食事だけでなく、もっと……お付き合いできたらと思っています」

言い終えた柳川は、自分の鼓動がうるさいほどだった。

細木はすぐには答えなかった。

視線を落とし、バッグの持ち手を両手で握り直す。

「……少し、考えさせていただけますか」

柳川の胸が冷えた。

「あ……そう、ですよね」

声が思った以上に乾いていた。

細木は慌てて顔を上げた。

「違うんです、そういう意味ではなくて」

「いえ、大丈夫です」

柳川は笑顔を作った。だが自分でも不自然だとわかった。

細木には、同居している母がいた。

足が悪く、通院も増えている。日々の食事、買い物、身の回りのこと。細木の生活には時間の制約が多かった。

自分一人の気持ちだけで、すぐ返事をしていい話ではない。

だからこそ、考えたいと言ったのだ。

だが柳川にはそこまで届かなかった。

断られた。

その言葉だけが頭に残った。

「今日は、ありがとうございました」

「……こちらこそ」

互いにぎこちなく会釈し、それぞれ反対方向へ歩き出す。

細木は数歩進んで振り返った。

柳川課長の背中は、さっきまでより少し小さく見えた。

説明すればよかった。

ちゃんと話せばよかった。

そう思いながらも、言葉は出なかった。

柳川課長もまた、歩きながら後悔していた。

また早とちりをした気がする。

だが、今さら戻る勇気もなかった。

夜道に、二人のため息だけが静かに消えていった。

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