エリンは走る。雪を踏み固めた道の上を、ひたすらに。
脳裏に浮かび上がる景色は、村外れのもの。 子どもたちは屋根のソリ滑りに満足できなくて、山の入口まで足を伸ばしたらしい。 それなりに距離のあるはずの場所は、だが、エリンにとって問題にならなかった。「すぐに行くから、待っていて!」
知らず、彼女は言葉に出して言った。無意識の力が作用して、雪道を蹴った足が浮く。
流れる風景がブレる。一歩が十歩に、百歩もの距離になって進む。たなびいたエリンの茶の髪が、残像のように閃いた。 冬の真昼の雪明かりを吹き散らして、エリンは疾走する。まるで一陣の風が吹き抜けるように。ごく短い時間を経て、彼女は子どもたちの元にたどり着いた。
肉体の目で見た光景は、先程まで幻視していたものと同じ。まばらな木立の中。打ち捨てられ、ひっくり返ったソリのそばに三人の子どもたちがいる。
一番小さいアルバが、柔らかい雪に足を深くはめてしまっている。何とか助けようとしている、フェイリムとティララ。 そして木立の向こう側、彼らを見下ろす巨大な獣のようなもの。獣は、一見すると猪に似ていた。けれど大きさが違った。普通の猪の十倍ほどもある巨躯は、白っぽい毛に覆われている。
銀と言うには艶のない、薄汚れた白。老人の白髪のような色。雪とつららとをまとわり付かせて、まるで巨大な雪像のようだ。 だが雪像ではない。雪像であるはずがない。 その証拠に獣の暗赤色の双眸は、怒りと憎しみと欲望とで煮えたぎっていた。――クルシイ、マブシイ、ヒモジイ。腹ガヘッタ、喰イタイ、肉ト血ヲ喰ライタイ……!
「……っ!?」
エリンは思わず両耳を押さえる。流れ込んできた思念は、今まで感じたどんなものよりもずっと、暗い苦痛に満ちていた。苦痛と怒りと欲望とでねじれた炎のような熱を放っていた。
同時に、逃げるのは不可能だと悟った。 この獣は、子どもたちを食うことしか考えていない。不自然な速さで現れたエリンに気づいても、獲物が増えた程度にしか思っていない。「エリンおねえちゃん!」
ティララが叫んだ。恐怖に顔を歪ませて、それでも年下のアルバの手を離そうとしない。
エリンは彼らに駆け寄った。震えて動けなくなっているアルバの上半身を抱きかかえる。 アルバはスノーシュー(雪の上を歩くための靴。かんじきのようなもの)を履いた足を雪に埋めてしまっていた。 エリンは手早くスノーシューの紐をほどいて、足を雪から抜いてやった。白い獣は重い地響きを立てながら、こちらに歩いてくる。
あれだけの巨体なのに、地響きが立つほどの重量なのに、柔らかい雪に埋もれることがない。 見れば、獣の進む足元が凍っている。一歩進むごと、氷が分厚い土台となって獣の足と体重を支えていた。――アァ、ヒモジイ、クルシイ、マブシイ……!
獣の歩みが一瞬だけ止まった。次の瞬間、
『ガアアァアアアアァァァァッ!!』
咆哮が空気を震わせた。バキバキと音を立てて、辺り一面の雪が凍る。
同時、獣が突進してくる。凍った雪にひびを入れ、氷のかけらを撒き散らしながら。 冬の真昼の太陽の下、氷がきらきらと不釣り合いな美しさで輝いた。(とても逃げられない。けれど、何とかこの子たちだけは……!)
子どもたちを背後にかばい、エリンは迫りくる獣を見る。
汚らしくよだれを垂らす口元に、黄ばんだ牙。苦痛と欲にまみれた赤い瞳。 怖い、とエリンは思った。きっと殺される。踏み潰されて、無惨に食われる。怖くてたまらない。 でも――彼女の背後に小さな子どもたちがいる。怯えて震えて、それでもエリンを信じてしがみついている。誰も一人で逃げ出そうとしない。誰もがエリンを一人にしない。
それが嬉しくて、切なくて、悲しくて。エリンに勇気を与えてくれた。「この子たちだけは、私が守る!!」
だからエリンは叫んだ。こみ上げる恐怖を飲み込んで、悲鳴のように。
彼女の人生で初めての、心からの叫びだった。 孤独を恐れるあまり心に蓋をしていたことも。打算でもって周囲と接していたことも。 全部忘れて、ただ必死に。ありったけの願いを叫んだ。「あそこだね」 エリンは建物の一つを見て呟いた。 小さな広場に面した角地の建物で、六階建て。一階は工房になっている。カーン、カーン、キンキン、と金属を叩く音が響いている。 通りすがりのふりをして工房を覗いてみると、もじゃもじゃヒゲの初老の男性と、他に何人か青年や中年の男性たちが作業をしていた。たぶん、ヒゲの人がセティのおじいさんだろうとエリンは思った。 先にエインヘリヤル本部へ行ったセティが、いつ帰ってくるかは分からない。 エリンはこっそり、おじいさんに精神感応<テレパシー>のマーキングをした。セティが帰ってくれば、おじいさんの心が動く。それで察知できる。「あとは、どうしようかしら」 人酔いで疲れてしまったし、後々シグルドを取り戻す作戦が控えている。ミッドガルド観光だと浮かれる気分には程遠い。 ただ、今後の作戦に備えて土地勘を養っておくのはいいかもしれない。 エリンは工房を離れて、散歩をしてみることにした。 夕暮れ時、薄暗くなるまでエリンが街歩きをしていても、マーキングに反応はなかった。「困ったなあ」 思わずエリンは呟いた。 手元にお金はある。ベルタとロキが当面の資金を分けてくれたのだ。 だから宿に泊まろうと思えばできるのだが、なんだか嫌な予感がした。 カア、カァと頭上をカラスが飛んでいく。真っ赤な夕焼けに真っ黒なカラスは、どこか不気味な組み合わせだった。 エリンは宿を探そうと思って、表通りまで行ってみた。 すると人通りが多いのは変わらないのだが、群衆が何箇所かに集まっている。 彼らの中心に大声を張り上げる人がいる。黒い制服を着ているので、何かの役人のようだ。 明かりが灯され始めたガス燈の光が、制服を鈍く光らせていた。 エリンは人混みをかきわけて、できるだけ前に行った。「市民諸君、静粛に! 静粛に聞くんだ! 大事件が起きた。主神オーディンの戦士、エインヘリヤルに裏切り者が出たのだ。 その名は第九小隊元隊長、シグ
疾駆するフレキの白い背にしがみついて、エリンは汽車を見る。 もくもくと黒煙を吐き出す鉄の機関車は、一定の速度で走っていく。時折、ピーッと甲高い笛の音が鳴り響いた。 フレキも負けてはおらず、ぴったりと並走を続けていた。彼の走り方は安定していて、一日中走ってもちっとも疲れていないようだった。 フレキの白獣としての能力は、牙と顎の強化だとエリンは思っていた。けれど予想を上回って、身体能力全ての大幅な向上も含まれるらしい。 ロキの作戦で、第九小隊の三人には改めて思考統制をかけ直している。ただしあくまで偽のもので、エリンが合図をすれば全て消えるのだ。 彼らは一時的にエリンのことも忘れている。ヴァルキリーから尋問を受けても、情報を渡さないためだった。「エリンには隠蔽術をかけておく。オーディンや他のアース神族相手ならともかく、ヴァルキリー程度であれば完全に欺けるだろう。 今のエリンは、ヴァルキリーから見ればただの市井の少女だ。目の前を歩いても、特に警戒はされないよ」 とは、ロキの言だった。 こうしてヴァルキリーの監視をかいくぐりながらミッドガルドに入って、アースガルドまで登る機会を待つ。 運が良ければ、囚われたシグルドと第九小隊の面々が面会する機会があるかもしれない。そうなれば居場所が分かる。 たとえそうはならずとも、彼らのミッドガルド入りは先方の呼び出しによるもの。怪しまれず侵入の足がかりになる。 ロキはアースガルド侵入の手はずを整えると言って、どこかに行ってしまった。準備ができたら知らせに来ると言い残して。 彼にはもっと聞きたいことがあったのに、エリンは残念に思う。「でも、いいんだ。今はシグルドさんを取り戻すのに全力をかけて、落ち着いたら話を聞くよ。 ロキさんはお父さんではないみたいだけど、私の両親はどこにいるんだろうね」「ワフン」 エリンがフレキに話しかけると、白狼は返事をした。彼の気遣いを感じて、エリンは毛皮をわしゃわしゃと撫でる。 フレキが走る森は、もう春の気配が満ち始めている。 鉄道を走る汽車の汽笛が鳴る
エリンはセティの手をぎゅっと握り返した。 彼女は考える。セティの気持ちはとても嬉しい。シグルドを見捨てるつもりはないのは、エリンも同じだ。 けれどここで二人だけでミッドガルドへ、その先のアースガルドへ向かったところで、シグルドを取り戻せる可能性は低い。「ロキさん。あなたも力を貸して下さい」 だからエリンは言った。目の前の仮面の人物は、とても強い力を持っている。恐らくは現時点のエリンより強い。 それに彼はアースガルドの事情に通じているようだ。であれば、侵入の方策も目処がついているのではないか。「私はシグルドさんに、何度も助けてもらった。恩人です。魔剣の責任もある。だから何としてでも、助けに行きます。でも私たちだけでは、勝ち目は薄い。あなたなら、何か手があるのでは?」「……私にとって大切なのは、エリンだけだ。他の能力者がどうなろうと、本音を言えば知ったことではない」「ですから、私は諦めません。それとも今度は、無理やりムスペルヘイムへ連れて行く? 北の村に置き去りにしたみたいに、私の意志を無視して。 やってみるといいよ。私、あの時みたいな無力な子どもじゃないから。全力で戦って、勝ってやるんだから!」 エリンは射抜くような力を込めて、ロキを見つめる。 ロキは仮面の下から彼女を見返して、やがて息を吐いた。「エリン……。お前は、本当に彼女にそっくりだな。頑固で、言い出したら聞きやしない。誰が教えたわけでもないのに、そんなところまで似るなど、因果を感じるよ。 ……分かった。手を打ってみよう。ただし私も万能ではない。この状況からシグルドを取り戻すのは、かなりの困難を伴うと覚悟しておいてくれ」「……! ええ、分かっています」 エリンが一瞬だけ表情を明るくして、すぐにまた口元を引き結んだ。 ロキが続ける。「そこの瞬間移動能力者と精神感応者は、覚悟が決まりきらないようだな。かなり強固な思考統制を受けているから、やむを得ないだろう」
誰もが息を呑んで言葉を発せなかった。 薄暗い冬の森の中に、空白のような沈黙が長く続く。 ようやく口を開いたのは、エリンだった。「バナジスライト? シグルドさんは人間です。白獣じゃありません。それに『収穫』とは、何のことですか……?」「なんだ? 気づいていなかったのか」 ロキは意外そうに言った。「逆に聞くが、どうしてバナジスライトが獣だけのものだと思った? 獣だろうが人だろうが、ユミル・ウィルスに感染すれば、一定の確率で能力に目覚める。そうなれば脳にバナジスライトが蓄積される。人間はただ、獣よりも病の進行がゆっくりで、能力が強く育つだけ。 収穫も文字どおりだよ。頭蓋を割って脳からバナジスライトを取り出す。エインヘリヤルが白獣に対して行っているのと同じ行為だ」「そ、そんな……。じゃあ、アースガルドの召し上げは、つまり……」 ベルタがよろけて、ラーシュに支えられた。セティも顔色を蒼白にしている。 ロキは首をかしげて、それから合点がいったとばかりにうなずいた。「お前たちエインヘリヤルには、思考統制プログラムがかなり強く入っているな。『神の言葉』に疑問を抱かないように、たとえ余計なものを見聞きしても信じないように。オーディンめ、この星の人間を全く信用していないと見える。全く彼女は、いつまでも変わらない」「オーディン……は、何故、あの宝石を集めているんですか」 エリンは前に出て尋ねた。かねてからの疑問である。「バナジスライトは、生命エネルギーの結晶だ。ユミル・ウィルスを介して大気中のエーテルを吸収し、体内に蓄積する。あれは光を閉じ込める、天然のフォトニック結晶体でもある。 そこの透視能力者<クレアボヤンサー>が持っている程度の質では、補助的に使うのがせいぜいだが」 セティがぎくりと荷物を押さえた。白獣のバナジスライトがいくつも入っている小箱が、そこにある。 ロキは続ける。「人間の能力者であれば、第二段
「妨害能力波<ジャミング>? でも、声まで出ないなんて」 エリンがペンダントを握った。『術式分析。チャンネルbjarkanでの妨害能力波<ジャミング>を検知しました。および、空気振動への干渉を検知。持続時間は短時間と推測します』「そのとおり。空気の振動を少しいじれば、声が聞こえなくなる。まったくお前は優秀だよ、エリン」 仮面の人物が木の幹から背を離して、エリンに歩み寄る。彼女は身をこわばらせた。「……よくここまで、頑張ったな。私はお前を巻き込みたくなくて、あの北の村に置き去りにした。 あの時は、それでいいと思っていたが。間違いだったかもしれないと、最近は感じていた」 彼が手を伸ばして、エリンの頭を撫でた。ひどく遠慮がちな、そっと触れるような手付きだった。「あなたは……」 その手の感触で、エリンは確信する。この人はエリンにペンダントをかけてくれた人だ。 あの頃のような大きな体格差はもうない。エリンの背が伸びたからだ。「大きくなったね、エリン。私の判断が甘かったせいで、いらぬ苦労をかけてしまった。だがこれからは、きちんと手助けをしよう。 まずはムスペルヘイムだ。私と一緒に来てくれ」「ちょっと待った!」 エリンの頭の手を乱暴に払って、セティが前に出る。「あんた、何なの? 俺らのエリンに気安く触れないでくれる? もしかしてエリンの親かよ。それなら、エリンがどれだけ親を探してるか知ってたか? 勝手に置き去りにされて、エリンがどれだけ悲しんだか知ってるのかよ!」 セティの剣幕に押されて、仮面の人物は一歩下がった。 エリンはセティの袖を引く。「セティ、いいから」「よくないよ、エリン! 何年もほったらかして平気な奴だもん、はっきり言ってやらなきゃ!」「そうね。親だからって、子供を好きに扱っていいなんてとんだ思い上がりだわ。まるでうちの父親みたい。あぁ、やだやだ」 ベルタも前に出た。 セティがさら
再び暗闇が部屋に満ちた。 それでもしばらく、残されたエインヘリヤルたちは動こうとしなかった。「部屋、出ようよ。シグ兄の召し上げをお祝いしなきゃ」 長い沈黙を破ったのは、セティの声。言葉に反して沈痛な響きを含む声音だった。 エリンは無言のまま重い扉に手をかける。腕力だけでは到底開かない扉だったが、今の彼女の能力があれば難なく動かせる。 両開きの扉の隙間から、廊下の光が差し込んで――「え?」 エリンは声を上げた。 扉の先は第八小隊の本拠地の建物のはずだったのに、目の前には冬の森が広がっていた。 雪深い大地と、雪に埋もれた木々。針葉樹が多くて森は高く暗い。エリンの故郷の村でよく見た、最北端の風景だった。「何、これ? 瞬間移動<テレポーテーション>?」 セティが言ってベルタを見るが、彼女は首を振る。何もしていないわ、と言っている。「フレキ! 来て!」 ただ事ではない空気を感じて、エリンが狼の名を呼んだ。『現在の空間座標を検索。検索中、……エラー。座標の算定が不可能にて、引き寄せ<アポーツ>の発動をキャンセルします』「ふむ。もうそこまで、力を使いこなせるようになったか」 不意に男性の声がした。 見れば前方、森の暗闇に紛れるように誰かが立っている。深緑のマントに白い獣の仮面を身につけた人物が、年老いた杉の木の幹に背を預けていた。 彼は仮面の目線を地面に向けたまま続けた。「ところで、さっさとこちらまで来てくれないか。その通信装置の間近で空間を繋ぐのは、それなりにリスキーなんだ。ヴァルキリーに察知されたくない」「……あいつ、怪しすぎでしょ。どうする?」 ベルタがひそひそと話しかけてきた。「ヴァルキリー様を呼び捨てにするなど、不埒の輩です。話を聞く必要はありません」 と、ラーシュ。「あいつ、一体何なんだ。透視<クレアボヤンス>で仮面の下が見えないよ。こんなのまるで、ユグド