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04:白い獣

last update Last Updated: 2025-08-18 08:50:53

 エリンは走る。雪を踏み固めた道の上を、ひたすらに。

 脳裏に浮かび上がる景色は、村外れのもの。

 子どもたちは屋根のソリ滑りに満足できなくて、山の入口まで足を伸ばしたらしい。

 それなりに距離のあるはずの場所は、だが、エリンにとって問題にならなかった。

「すぐに行くから、待っていて!」

 知らず、彼女は言葉に出して言った。無意識の力が作用して、雪道を蹴った足が浮く。

 流れる風景がブレる。一歩が十歩に、百歩もの距離になって進む。たなびいたエリンの茶の髪が、残像のように閃いた。

 冬の真昼の雪明かりを吹き散らして、エリンは疾走する。まるで一陣の風が吹き抜けるように。

 ごく短い時間を経て、彼女は子どもたちの元にたどり着いた。

 肉体の目で見た光景は、先程まで幻視していたものと同じ。

 まばらな木立の中。打ち捨てられ、ひっくり返ったソリのそばに三人の子どもたちがいる。

 一番小さいアルバが、柔らかい雪に足を深くはめてしまっている。何とか助けようとしている、フェイリムとティララ。

 そして木立の向こう側、彼らを見下ろす巨大な獣のようなもの。

 獣は、一見すると猪に似ていた。けれど大きさが違った。普通の猪の十倍ほどもある巨躯は、白っぽい毛に覆われている。

 銀と言うには艶のない、薄汚れた白。老人の白髪のような色。雪とつららとをまとわり付かせて、まるで巨大な雪像のようだ。

 だが雪像ではない。雪像であるはずがない。

 その証拠に獣の暗赤色の双眸は、怒りと憎しみと欲望とで煮えたぎっていた。

 ――クルシイ、マブシイ、ヒモジイ。腹ガヘッタ、喰イタイ、肉ト血ヲ喰ライタイ……!

「……っ!?」

 エリンは思わず両耳を押さえる。流れ込んできた思念は、今まで感じたどんなものよりもずっと、暗い苦痛に満ちていた。苦痛と怒りと欲望とでねじれた炎のような熱を放っていた。

 同時に、逃げるのは不可能だと悟った。

 この獣は、子どもたちを食うことしか考えていない。不自然な速さで現れたエリンに気づいても、獲物が増えた程度にしか思っていない。

「エリンおねえちゃん!」

 ティララが叫んだ。恐怖に顔を歪ませて、それでも年下のアルバの手を離そうとしない。

 エリンは彼らに駆け寄った。震えて動けなくなっているアルバの上半身を抱きかかえる。

 アルバはスノーシュー(雪の上を歩くための靴。かんじきのようなもの)を履いた足を雪に埋めてしまっていた。

 エリンは手早くスノーシューの紐をほどいて、足を雪から抜いてやった。

 白い獣は重い地響きを立てながら、こちらに歩いてくる。

 あれだけの巨体なのに、地響きが立つほどの重量なのに、柔らかい雪に埋もれることがない。

 見れば、獣の進む足元が凍っている。一歩進むごと、氷が分厚い土台となって獣の足と体重を支えていた。

 ――アァ、ヒモジイ、クルシイ、マブシイ……!

 獣の歩みが一瞬だけ止まった。次の瞬間、

『ガアアァアアアアァァァァッ!!』

 咆哮が空気を震わせた。バキバキと音を立てて、辺り一面の雪が凍る。

 同時、獣が突進してくる。凍った雪にひびを入れ、氷のかけらを撒き散らしながら。

 冬の真昼の太陽の下、氷がきらきらと不釣り合いな美しさで輝いた。

(とても逃げられない。けれど、何とかこの子たちだけは……!)

 子どもたちを背後にかばい、エリンは迫りくる獣を見る。

 汚らしくよだれを垂らす口元に、黄ばんだ牙。苦痛と欲にまみれた赤い瞳。

 怖い、とエリンは思った。きっと殺される。踏み潰されて、無惨に食われる。怖くてたまらない。

 でも――

 彼女の背後に小さな子どもたちがいる。怯えて震えて、それでもエリンを信じてしがみついている。誰も一人で逃げ出そうとしない。誰もがエリンを一人にしない。

 それが嬉しくて、切なくて、悲しくて。エリンに勇気を与えてくれた。

「この子たちだけは、私が守る!!」

 だからエリンは叫んだ。こみ上げる恐怖を飲み込んで、悲鳴のように。

 彼女の人生で初めての、心からの叫びだった。

 孤独を恐れるあまり心に蓋をしていたことも。打算でもって周囲と接していたことも。

 全部忘れて、ただ必死に。ありったけの願いを叫んだ。

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  • 終わりの大地のエリン   80:グングニル

     長槍がふわりと宙に浮いた。 オーディンはいっそ無造作に、右手をエリンに向ける。 グングニルは何の前触れもなく加速して、彼女の心臓に肉薄した。そう、あたかも『最初から心臓に命中するのが決まっていたように』。「……っ!」 本来であれば、エリンといえど回避の時間はなかっただろう。 割って入ったのはセティだった。 その手には、不確かな輪郭ながらも偽物《レプリカ》の神槍が握られている。その穂先で真物の一撃を受け止めている。 偽物《レプリカ》は真なる一撃を受けた後に砕けた。「ほう?」 オーディンの声音に、初めて薄いながらも色が乗った。「お前も、第三段階か。惜しいな、もう少し早く目覚めていれば、使い道は多くあったのに。今となってはただの廃棄物にすぎん」「使い道も廃棄もごめんだね! 俺はあんたの奴隷じゃないんだ!」 セティが気丈に言い返すが、顔色は真っ青だ。一度の偽物《レプリカ》の発動が、相当な負担をかけている。「では、もう一度。どこまで持つか試してみよう」 再度の投擲がなされた。セティは偽物《レプリカ》を起動させるが、どうやら最初の攻撃はかなり加減されていたものだったらしい。 真グングニルは偽物《レプリカ》を一瞬で砕いて、そのままの勢いでエリンの心臓を狙う。『走査《スキャン》! 対象、神造兵器グングニル。材質はユグドラシルと同質が七一・二パーセント。残り二八・八パーセントは不明。 穂先に全ての周波数《チャンネル》での妨害能力波《ジャミング》搭載を確認。防御、不可能』 防御術式は無駄だ。エリンはとっさにそう判断する。回避も無駄だと思われた。投擲は直線状に見えたが、魔術的な補正がかかっている。 さきほどセティが止められたのは、同質の力を持つ偽物《レプリカ》だからこそ。「エリン!」 立て続けに偽物《レプリカ》を作り出して消耗したセティが、必死で手を伸ばしている。 エリンはその手を握って――&nbs

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