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第10話

Author: 伊藤誠のサブアカウント
以前なら、それが妻として負うべき責任だと思っていた。

だが今は、ただ眉をわずかに上げ、笑みを浮かべて道を譲っただけだった。

健の表情が固まり、眉をひそめて問いかけてきた。

「お前と基樹、喧嘩でもしたのか?」

私は首を横に振った。

「いいえ、ただもう飽きただけ」

「喧嘩」か「飽きた」か、どちらに基樹を刺激したのかは分からない。

彼は突然、支えていた女を突き飛ばし、怒りに燃えた目で私を睨んだ。

「美香!いい加減にしろ!不満があるなら言え!直してやる!」

基樹が初めて頭を下げた。健は驚愕して目を見開いた。

しかし私の心は、何ひとつ動かなかった。

「失礼」と一言残し、立ち去ろうとした瞬間、基樹は私の手を強く掴んだ。

「美香、俺と一緒に帰るんだ」

言葉を返す間もなく、背後から伸びた手が私の腕を引き離した。

「そこの方、いい加減にしてください」

裕之は冷ややかな表情で、手にはコートを持ったまま基樹を引き剥がした。

「誰だ、お前は!」

基樹の目が血走り、殴りかかろうと身を翻す。

私は溜息をつき、裕之の前に立った。

「やめて」

軽い一言が、まるで時を止める合図のようだった。

基樹の動きは凍りつき、信じられないというように私を見た。

「お前、こいつの味方をするのか?一体誰なんだ?」

私は真っ直ぐに彼の充血した目を見返した。

「大事なこと?基樹、私たちはもう別れたの」

基樹の唇が動き、言いかけた言葉を私はもう聞こうとはしなかった。

健に笑顔で軽く挨拶し、そのまま背を向けて歩き出した。

レストランを出るまで、背後から突き刺さる執念の視線を肌で感じていた。

「さっきはありがとう」

裕之の隣を歩きながら、私は小さな声で礼を言った。

彼は短く「うん」と返し、冷淡な声で続けた。

「あれが福井基樹か。君、見る目がなかったな」

その言葉に、思わず笑いが漏れた。

もし彼が、私がかつて彼を好きだったと知ったら、後悔するのだろうか。

ふとした勢いで口にしていた。

「先輩、もし私が、昔あなたを好きだったって言ったら......それでも見る目がなかったって思います?」

「思う。昔の僕には、君に好かれる価値なんてなかったから」

裕之の足が止まった。

私は目を瞬かせ、彼を見上げた。

けれど彼は視線を逸らし、ぼそりと言った。

「昔
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