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第4話

Author: 伊藤誠のサブアカウント
私はうなずき、すぐにまた首を横に振った。

思い出してしまったのだ。婚姻届を出したあの日、基樹が逸らした視線を。

披露宴で、福井家の親戚たちが壇下で指を差しひそひそ笑っていたことを。

さらに本家で食事をするたびに、基樹の母親が「貧しい山奥から出てきた、はしたない女だ」と私を嘲ったことを。

私はずっと福井家の人間にただ見下されているのだと思っていた。だが今なら分かる。彼らの言葉は正しかったのだ。

私とほかの女たちに、実際の違いなどなかったのだ......

涙を拭い、友人に別れを告げて、私はひとり川辺へ向かった。

結婚が偽物だった以上、別れるのは思っていたよりずっと簡単だ。

ただ翔太(しょうた)を一緒に連れていける方法を見つけなければならない。

翔太は私と基樹の子どもで、今年で五歳になる。

出産のとき、私は難産と大出血で、手術台の上で死にかけた。

意識が遠のくなか、医者が「母体を優先するか、子どもを優先するか」と問いかけたのを聞いた。

基樹を除いて、誰もが「子どもを」と言っていた。

「彼女が死んだら、その子に新しい母親を探せばいい」とまで。

氷のように冷たいその言葉が、私を混沌から引き戻した。

美香、死んではいけない。

翔太に母親がいなくなってはいけない。

その一念で、私は死の淵から戻ってきた。

翔太は、私が生き続ける一番の理由だった。

けれど出産から二日も経たないうちに、基樹の母親は強引に翔太を抱き取った。

血を吐くように泣き叫ぶ私を前にしても、彼女は冷ややかに言った。

「美香、子どもをお前に育てさせないのは、この子のためよ。忘れるんじゃないの。お前は山奥から出てきたはしたない女だってこと。そんなお前が育てれば、子どもまで見下されるだけよ」

私は何も言い返せず、翔太が連れ去られるのを見ているしかなかった。

幾度も夢にうなされ、翔太のために用意した服や玩具を抱きしめて泣き崩れた。

就寝中、私が基樹を起こしてしまうと、彼は翔太の動画を一本送ってよこし「見たら早く寝ろ。仕事に差し支えが出る」と言った。

そうして私は、その動画だけを頼りに二年を生き延びてきた。

勇気を振り絞って再び離婚を切り出したとき、ようやく基樹の母親は折れて、週に一度だけ翔太と会うことを許してくれた。

今日は、その約束の日だ。

足を止め、タクシーを呼んで本家へ戻ろうとした瞬間、視界の端に基樹が翔太を連れて水族館へ入っていくのが映った。

隣には、結婚式に現れた茜の姿もあった。

私はすぐに悟った。これは基樹からの罰だ。

この数年、私が少しでも逆らえば、彼は翔太に会わせてくれなかった。

謝罪と引き換えに、屈辱を呑み込んで一度だけ息子に会う機会を得るしかなかった。

深く息を吸い込み、翔太のために私は基樹に電話をかけた。

「もしもし?ママ!」

懐かしい声が耳に届き、視界が一瞬で滲んできた。胸の奥が柔らかく溶けていく。

これが、私の子どもだ。

「翔太、いつパパと帰ってくるの?ママね、大事な話があるの」

水族館の騒がしい音楽の中、それでも翔太の声ははっきりと聞こえた。

「ママに会いたくない」

それを聞いた瞬間、涙が一瞬で凍りつき、私は信じられない思いで問い返した。

「翔太、今なんて言ったの?」

翔太の澄んだ声が、私の胸を鋭く突き刺す。

「ママに会いたくないって言ったの」

無意識にスマホを握りしめ、目の前にいるはずの子どもを見つめながら、私は必死に笑顔を作った。

「ママ分かってるよ。今は楽しいんだよね。じゃあ、思う存分遊んで。遊び終わったら会いに来てくれる?」
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