知里は彼を勢いよく突き飛ばした。「調子に乗らないでよ、ここには誰もいないんだから!」そう吐き捨てて、エレベーターに乗り込む。だが誠健は満面の悪戯っぽい笑みを浮かべながら、すぐに追いかけてきた。「誰もいなくても、カップルらしくしないとね。バレたら君の評判が下がっちゃうでしょ?」そう言って、またも彼女の肩を抱き寄せた。 知里がまた振りほどこうとした瞬間、彼は耳元で囁くように言った。「ひとつ、いいニュースがあるんだ。君の親友、佳奈のことなんだけど……。お利口にしてくれたら教えてあげるよ」佳奈の名前を聞いた途端、知里は顔を上げ、好奇心いっぱいの瞳で彼を見つめた。「なに?早く言ってよ」誠健はゆっくりと彼女の顔に近づきながら、真っ直ぐに目を見つめて言った。「佳奈と智哉が入籍したよ。今度こそ本当にね」そう言って、スマホでそのニュース記事を見せた。記事を見た瞬間、知里の顔が一気に明るくなった。「道理で今日の撮影中、なんかいいことある気がしてたのよね」その様子に、誠健は思わず吹き出した。「もしかして……それって、『イケメンでお金持ちの彼氏を手に入れた』前兆だったりして?」知里は彼に睨みをきかせた。「忘れてない?あんたは偽物よ」「でも、万が一偽物が本物になったら?」「絶対にありえないから、安心して」誠健のその言葉に、知里はまったく気に留めなかった。 頭の中は、佳奈と智哉の結婚でいっぱいだった。車に乗ってからも、眠くなりながら「新婚祝い、何を贈ろうかしら」などとぶつぶつ呟いていた。知里が眠ってしまったのを見て、誠健はそっと彼女の鼻先をつまみ、低く囁いた。「寝てる時だけは、静かで可愛いな」連日の夜撮影で、知里はすっかり疲れ切っていた。 シートに寄りかかっただけで、すぐに眠りに落ちた。家に到着した時も、彼女は目を覚まさず、誠健に抱きかかえられたまま、部屋へと運ばれた。翌日、昼近く。何度も鳴るスマホの音に、知里はようやく目を開けた。「誰よ……せっかくの休みなのに!」イラついた声で通話ボタンを押す。 まだ眠気の残るしゃがれ声で文句を言う。「誰……?」すると、電話の向こうから響いたのは、聞き慣れた声。「オレだよ。君の彼氏」その瞬間、知里は寝起き
「そんなに気を遣わなくていいから、知里ちゃんのラストカット、早く撮っちゃおう。みんな、もう帰りたくてうずうずしてるしね」それを聞いて、誠健はようやく自分が現場の進行を止めていたことに気づいた。少し気まずそうに笑いながら言った。「すみません、じゃあお詫びに、福満楼の夜食をご馳走します。あとで届けさせますね」「えっ!?福満楼!?」撮影班の全員が歓声を上げた。「知里ちゃん、彼氏イケメンな上に金持ちとか最高じゃん!私なら速攻で子ども作るわ!」からかわれても、知里はもう何も言わなかった。 弁解すればするほど、泥沼にハマるのはもう分かっていた。佳奈の妊娠をかばった結果、世間はすでに彼女に「彼氏あり、過去に子どももいた」という設定を付けていた。今さら誠健を否定したら、二股していたとでも思われかねない。だから知里は、黙って拳を握りしめた。誠健……絶対に許さない。覚えてなさいよ!撮影が終わったのは、午前三時を回った頃。誠健は、七時間の手術に加え、あれだけ出血もしたせいで体力は限界。 ホテルのロビーのソファに腰を下ろしたまま、ぐったりと眠っていた。知里は撮影班のメンバーと一緒にエレベーターに乗ろうとしたところ、アシスタントが彼女の手首を掴んだ。ロビーのソファを指さして、そっと言った。「知里さん……石井さん、ずっと待ってますよ。行ってあげてください」知里が返事をする前に、彼女は知里の背中を押して前へ突き出し、パタンとエレベーターのドアを閉めた。「おやすみなさい、知里さん!彼氏さんのこと、よろしくお願いしますね!」知里は舌打ちしながら睨んだが、扉はもう閉まっていた。仕方なく振り返ると、ソファで眠っている誠健の顔が目に入った。顔色は悪く、目の下にはうっすらクマができていた。少しだけ、心が揺れた。撮影で病院に行ったとき、知里は医者という職業の過酷さを知った。 誠健は心臓外科、特に手術が多くて長時間に及ぶこともある。彼が何度も十数時間の大手術をしているのを聞いたこともある。思わず、個人的な怒りをひとまず脇に置いて、彼のもとへ歩み寄る。つま先で彼の靴を軽く蹴りながら、冷たい口調で声をかけた。「誠健、さっさと帰って寝なさいよ」彼はまぶたを重たそうに持ち上げて、眠そうな顔で
知里の返事を聞いた瞬間、誠健は得意げに口元をにやりと持ち上げた。鼻を押さえたまま、もう片方の手で知里の手首をぐいっと引き、撮影現場へと戻っていった。そして、顔面に血をつけたまま立っている彼の姿に、現場のスタッフ全員が目を見開いた。若い女性スタッフたちがざわざわしながら騒ぎ出す。「えっ、知里さん、どうしたの!?彼氏にDVしたの?」「うそでしょ!?こんなイケメン、殴るなんてもったいなすぎる……嫌なら私にちょうだい」「メイクさん!氷持ってきて!この顔が傷ついたら、日本の損失よ!てか知里さんさ、ケンカしたって手は出さなくていいじゃん、若夫婦なんだから」あちこちからツッコミが飛んでくる中、知里のこめかみはピクピクと跳ねていた。ちょっと待って、被害者は私なんだけど!?しかも、よりにもよってこのクソ男の家政婦を一ヶ月もやる羽目になったのだ。 この先、どんな仕打ちが待っているか分かったもんじゃない。知里は歯をきしませるようにしながら、小声で問いただした。「……まさか、あんたの止血方法ってこれ?」誠健は悪びれもせず笑った。「そうそう。氷で冷やすのがいちばん手っ取り早い。血流を抑えて止血できるしな。ホテルの冷蔵庫に医療用のアイスパックぐらいあるって知らないの?ほんとに医者の彼女かよ」その余裕顔に、知里の拳がぎゅっと握りしめられる。この程度のことに、一ヶ月の契約……?誠健の腕をわざと強くつねり、怒りを抑えた声で囁いた。「誠健……覚えてろよ」誠健はそんな怒りすら楽しげに、彼女の耳元でささやいた。「何を?復讐?それともお返しのキス?俺、覚悟できてるよ?」「消えろ!」知里が蹴りを入れようとしたその時、アシスタントが慌てて駆け寄ってきた。「知里さん、氷持ってきました!冷たいタオルもあります!」知里は一歩引いて、顔をしかめる。「自分でやらせて。私はご遠慮します」しかしアシスタントは誠健の顔をチラッと見て、ためらいがちに笑った。「えっ……でも彼、知里さんの彼氏ですよね?やっぱご自身で拭いてあげた方が……」そう言って、氷とタオルを無理やり知里に渡し、逃げるようにその場を離れていった。知里が弁解しようとした瞬間、誠健が手を引いて彼女を引き止めた。さっきまでの余裕は消え、どこか弱々しい
誠健は知里をそっと床に下ろすと、すかさず背の高い体を壁際まで押し寄せ、彼女の行き場を塞いだ。顔にはいたずらっぽい笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近づけながら、唇を指さして不敵に言う。「仕返ししたいんだろ?いいよ、ここだ。噛み返してみな?」そう言い終わると、彼の唇が知里の唇に触れそうな距離まで迫った。濃厚な男のフェロモンが一気に知里の感覚を刺激し、胸の奥で心臓がドクンと跳ねた。普段はサバサバしてる彼女が、どうしてか今日はやけに動揺してしまう。「誠健、この変態!」知里は必死に彼の胸を叩く。誠健はその怒った表情と、以前自分が味わった柔らかな唇を見て、喉が無意識にごくりと鳴る。声を低くし、囁くように言った。「変態でもいい。俺が今欲しいのは……」その瞬間、知里が彼の口をがっと手で塞いだ。怒気を帯びた瞳で睨みつけながら叫ぶ。「誠健、ふざけたこと言ったらぶっ飛ばすわよ!もう一言でも言ったら、ぶっ殺すから!」そう言うや否や、彼女は膝を誠健の股間めがけて突き上げた――が、誠健はとっくに警戒していて、素早く後ろに避けた。 その表情には、さらに余裕たっぷりの笑みが浮かぶ。「なに赤くなってんの、知里。まさか……俺のこと好きになっちゃった?だったら俺が面倒見てやってもいいよ。お前を石井夫人にしてさ」この一言で、知里的怒火はついに頂点に達した。「夢でもみてろ、バカッ!」彼女は勢いに任せて、頭突きをくらわせた。――ゴンッ。ちょうど彼の鼻に直撃した。一瞬で血の匂いが広がり、誠健は手で鼻を押さえながら呻いた。「ちょ……知里……殺す気かよ!」知里は怒っていたとはいえ、出血するとは思っておらず、慌ててポケットからティッシュを取り出して鼻血を拭おうとする。だが、血はどんどん溢れてきて、どれだけ拭いても止まらない。知里の顔が真っ青になった。「誠健、あんた医者でしょ!?どうしたら止まるか教えてよ!」誠健は目を潤ませながら、鼻を押さえたまま口を開く。「教えてやってもいいけど……頼まれなきゃな」「は!?今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」「今がその場合だろ。これ傷害事件だからな。告訴してもいいんだぜ?さっさと頼めばいい」血が止まらず焦る知里は、ついに観念した。「……お願い、教え
監督の「スタート!」の声と同時に、知里は画面に入っていった。部屋の中をぐるりと見回したが、男性の姿は見当たらない。 代わりに、バスルームの方からシャワーの音が聞こえてくる。彼女はゆっくりとバスルームの前まで歩き、ノックしようとしたその瞬間―― ドアが開いた。目に飛び込んできたのは、玲央の引き締まった長身。 広い肩幅に、長い脚、見事なシックス……いや、八パックの腹筋。腰には黒いバスタオル一枚。 冷たい肌の白さとタオルの黒のコントラストが、強烈な視覚刺激を生んでいた。 まさに抑えきれない欲という言葉そのもの。知里がこういう姿を見るのは、今回で二度目。 一度目は――誠健だった。心の中でついツッコミを入れてしまう。誠健の野郎、自分の身体を自慢してたけど、玲央さんには敵わないわ。 胸筋も玲央さんの方が厚いし、腹筋は八つに割れてるし、あいつはせいぜい六つ。 ……って、なに考えてんのよ!どうしてあの男のことが頭に浮かぶの? 今目の前にいるこのイケメンでいいじゃない!シナリオ的には、知里が足を滑らせて玲央の胸に飛び込む流れ。 その際、唇が偶然玲央の胸元に触れて、セクシャルな緊張感を高めるという演出だ。だが、道具係が床に撒いた水が多すぎた。知里は予想外の勢いで転びそうになり、準備も何もないまま玲央の方向へ倒れ込んだ。しかも角度的に、このままでは彼の胸に収まるどころか、顔面から床に突っ込む羽目に――!それを察した玲央は、すぐに前屈みになり、彼女の腰をがっちりと抱きとめた。だがその反動で、彼のバスタオルが……落ちた。誠健が撮影現場に駆けつけたとき、目にしたのはまさにその瞬間。玲央はボクサーパンツ姿で、知里を抱きかかえたまま。 ふたりの肌はぴたりと密着し、距離ゼロのラブシーンそのもの。この事故が、逆に完璧な映像を生み出してしまった。監督が「カット!」と叫ぼうとしたその瞬間―― 背後から黒い影が突っ込んできた。誠健だった。彼は玲央の腕から知里を奪い取り、そのまま肩に担ぎ上げてスタスタと歩き出す。「撮影って言ったけど、ここまでやれなんて言ってない!もう帰るぞ。こんなもん二度と撮らせねぇ!最悪、俺が養ってやる!」その場にいたスタッフたちは
湊はその一言にぐっと詰まり、言葉が出てこなかった。やっぱりこのガキ、ひと筋縄じゃいかない。だが、ふたりがようやく夫婦になれたことは、彼にとっても喜ばしいことだった。 まだ佳奈と親子として名乗れない身ではあるが、渡すべきものはきちんと渡すつもりだった。湊はポケットから一枚のカードを取り出し、複雑な表情で佳奈に差し出した。「佳奈、これは叔父さんからの結婚祝いだ。結婚準備に必要なものを買いなさい。挙式の時には、私とお婆さまからちゃんとした贈り物を用意するつもりだ」佳奈は慌てて首を振った。「そんな高額なもの、受け取れません。お気持ちだけで十分です」だが、その言葉が終わるか終わらないうちに、智哉が湊の手からカードをさっと奪い取り、佳奈のポケットに押し込んだ。「おバカさん、ご祝儀っていうのは断っちゃいけないもんなんだ。もらえる分はしっかりもらっておくのが礼儀。分かった?」「えっ……そんなの聞いたことないけど?」「君みたいな小娘に誰が教えてくれるってんだよ。これは叔父さんの気持ちだから、ちゃんと受け取っとけ」ようやく佳奈が素直に受け取るのを見て、湊の張り詰めていた心が、ふっと緩んだ。病室を出るとすぐ、彼は橘お婆さんに電話をかけた。 声のトーンには隠しきれない興奮がにじんでいた。「母さん、佳奈と智哉が入籍したよ!父さんと一緒に、早く嫁入り道具の準備をしてくれ!」その知らせを聞いた橘お婆さんとお爺さんは、夜も更けた時間にも関わらず、慌てて倉庫をひっくり返した。箱の底に大事にしまっていたお宝が、次々と持ち出される。だが、それらを見たお婆さんは首を横に振った。「だめだわ、明日百貨店に行かなきゃ。これらは確かに価値はあるけど、デザインが古すぎるのよ。うちの外孫が嫁に行くっていうのに、時代遅れのものじゃ見映えしないわ」お爺さんも笑って頷いた。「その通りだな。限定品を買いに行こう。うちの佳奈には一番いい物を持たせるべきだ」――その晩、智哉に喜びを届けるため、佳奈は役所の職員を病院に呼び、ついに入籍を果たした。 そして、智哉がその場で目を覚ましたというニュースは、瞬く間にネット中に広まった。手術を終えたばかりの誠健も、そのニュースを見て思わず笑ってしまった。「このクソ野郎、嫁を手に入れるため
湊が事情を把握しきれずにいる時、病室のドアがノックされた。青い作業服を着た二人の男性が中に入り、礼儀正しく頭を下げた。「高橋社長、先日撮影された写真と書類一式をお持ちしました。高橋夫人との手続きは、あとはご署名だけとなっております。これでご結婚が正式に成立します」智哉は腕の中にいる、どこか驚いた様子の佳奈に目を落とし、頬を軽くつまんで微笑んだ。「ばあちゃんが言ってた通りだよ。名分を与えるのが遅すぎたら、子どもが生まれちゃうからな。だから善は急げってことで、今日ここで決めることにした。準備は万端。あとは最後の一歩を踏み出すだけだよ。高橋夫人、覚悟はできてる?」綾乃の件でまだ気持ちが落ち着かない佳奈は、突然の入籍に驚きつつも、瞳には抑えきれない喜びが浮かんでいた。「智哉……もう、今度こそ何も起きないよね?」その問いかけに、智哉は優しく見つめながら頷いた。「もう何も起きないよ。あと一分で、君は正式に俺の妻――高橋家の当主夫人になるんだ。佳奈さん、あなたは私と結婚してくれますか?貧しくても、富んでいても、健康でも、病気でも、ずっと一緒に生きてくれますか?」佳奈の目にうっすら涙がにじむ。「はい、結婚します」智哉は彼女の手にペンを握らせ、そっと耳元で囁いた。「じゃあ、サインして、高橋夫人」指先がわずかに震えながらも、佳奈は迷わず書類にサインをした。そしてペンを渡しながら、微笑んだ。「書いたよ。次はあなたの番」智哉はにやりと笑った。「俺の奥さんになるのが、そんなに待ちきれなかったのか?」彼もすぐにサインを済ませると、役所職員が二冊の真新しい赤い結婚証明書を取り出し、二人の写真を貼り、印章を押した。そしてにこやかに手渡した。「高橋社長、高橋夫人、ご結婚おめでとうございます。お幸せに、そして元気な赤ちゃんを早く生まれますように」智哉は結婚証明書の表紙を撫でながら、笑って答えた。「赤ちゃんはもういるんでね。あとは老後まで仲良くするだけだ」「それはおめでたいですね、社長!まさにダブルハッピーですね!」笑みを深めた智哉は、高木に目線を送った。高木はすぐに理解し、バッグから分厚い祝儀袋を二つ取り出し、職員に手渡した。「これは社長と夫人からの心ばかりの贈り物です。あとは、言われた通りにお願い
佳奈はすぐに手を引っ込めて、慌てて首を振った。「橘社長、それは受け取れません」「何言ってるんだ、おバカさん。これはな、叔父さんから智哉へのお見舞いだよ。あのクソガキに何も持って行かないで見舞いに来たって知れたら、俺が文句言われるんだぞ」そう言われて、佳奈はようやく笑みを浮かべて頷き、ふわりとした声で言った。「ありがとう、叔父さん」その愛らしい表情は、昔の美智子にそっくりだった。 湊は思わず目を細めて、佳奈の頭を優しく撫でる。「さ、叔父さんを連れてってくれ。顔だけ見たらすぐ帰るからな」彼らが並んで歩き去る背中を見ながら、清水は苛立ちを露わにして雅浩を睨んだ。「お前ってやつは……何年かかっても綾乃を口説けないって、何をやっているんだ?」雅浩は苦々しい顔をして答えた。「口説いたよ。でも……彼女が望んでないんだ。俺にはどうにもできない」清水は鼻で笑った。「口説いた?お前がしたことって、実家まで追いかけて一度顔出しただけだろ?橘お婆さんが俺の顔を立ててくれたから、中に入れてもらえたようなもんだ。あの娘を溺愛してる湊が本気で怒ってたら、お前ぶん殴られて追い出されてるぞ。雅浩、男ってのはな、大事なときに自分の本気を見せられなきゃ駄目なんだよ。一度や二度の食事や花束で、あの深い傷が癒えると思ってんのか?さっき湊が言ってただろ。綾乃が悠人を妊娠してたとき、どれだけ辛かったか。そんな経験、普通の女は一生忘れられないんだぞ」清水は大きくため息をつき、首を振りながらその場を離れていった。その後ろ姿を見送りながら、清水夫人がそっと息子の腕を叩いて優しく言った。「綾乃は今、体も心も弱ってる時期よ。妊婦っていうのは特に情緒が不安定になりやすいの。あんた、今がチャンスなんだから……頑張りなさいよ。母さん、ふたりがまた元通りになる日を待ってるからね」両親の背中を見送りながら、雅浩は地面に座っていた悠人を抱き上げた。小さな顔を覗き込みながら、眉をひそめて尋ねる。「君もパパがダメな男だって思ってるのか?」悠人は首を振った。「ちがうよ。パパ、裁判のときはかっこいい。でも……ママには優しくない。ママが何好きか、全然知らないでしょ?それで許してもらえると思う?」雅浩は黙ったまま、じっと息子を見つめた。半年もの
清水さんは息子の言葉を聞いて、満足そうに微笑んだ。そして雅浩の肩を軽く叩き、落ち着いた声で言った。「綾乃を家に連れて帰って休ませなさい。家にはかかりつけの医師もいるし、安心だ」それを聞いた綾乃はすぐに口を開いた。「いいえ、父がもうすぐ迎えに来ます。悠人だけお願いできれば十分です」「綾乃、今回のことは私に原因がある。きちんと責任を取らなければ、職務放棄と同じだ。せめて、償いの機会を私に与えてくれないか」清水さんの静かな言葉に、綾乃はさすがにそれ以上断れなくなった。その時、湊が数人を連れて急ぎ足でやってきた。 その顔には厳しい表情が浮かんでいた。「橘家の娘は、橘家でちゃんと守れる。市長にご迷惑をおかけするつもりはありません」彼は綾乃のそばに来て、優しい眼差しで彼女を見つめた。そして、そっと彼女の額に触れた。「バカな子だ……父さんの言葉を覚えておけ。お前は聖人じゃない、誰にでも優しくする必要なんかないんだ。悠人を産んだときの痛みは、お前だけのものだ。誰にも代われない」そう言うと、湊は雅浩の腕から綾乃を抱き取った。 その顔には冷ややかな笑みが浮かんでいる。「うちの娘がケガした件で、清水さんにも清水坊ちゃんにもご心配いただく必要はありません。最も優秀な医師を手配しますので、ご心配なく」その言葉に、雅浩は居たたまれない気持ちで顔を伏せた。湊が彼を受け入れたのは、あくまで「悠人の父親」としてだけ。 それ以上の関係は、初めから認めていなかった。彼の腕から綾乃が消えた瞬間、雅浩の胸がぎゅっと締めつけられる。それでも、静かな声で言った。「橘叔父さん、どうか……綾乃を私に任せてください。もう一度だけ、チャンスをください」湊は鼻で笑った。「チャンス?遅すぎるな。綾乃が妊娠していたとき、海外で一人放浪してたことをお前は知らないだろう?家族にも言えず、倒れて路上にいたところを、たまたま見つけられたんだ。あの時、もし誰も気づかなかったら、橘家の一人娘はもうこの世にいなかったかもしれない」その言葉を聞いた雅浩は、苦悶の表情で頭を下げた。「……すみません」「謝らなくていい。恋愛に強制はできない。あの時、あれだけ冷たく切り捨てたお前が、今さら何を言っても遅いんだよ。うちの娘を、もうこれ以上泣か