「わかった、問題ない。離婚を通じて財産を移すのは安全だ。誰も疑わないだろう。橘家と遠山家、それに佳奈……お前のせいで、これまで失ったものを思えば、適度な補償だっておかしくない。」二人は離婚協議書の細かい内容について、さらに具体的な取り決めを進めた。そのとき、高木がやって来て言った。「高橋社長、爆発の原因が判明しました」智哉は目を上げて尋ねた。「時限爆弾か?」「はい。これは国際的に最新型の超小型爆弾で、パチンコ玉ほどの大きさしかありませんが、殺傷範囲は半径十メートルに及びます。それが瀬名夫人が子どもに贈ったお守りの中に仕込まれていました。映像によれば、奥様が荷物を片付けているとき、そのお守りを見つけて綺麗だと思い、何度か見つめていたようです。幸いにも清司さんが異変に気づき、その守りを持って庭へ走ったおかげで、奥様とお子さんの命は助かりました」それを聞いた瞬間、智哉は拳をギュッと握りしめた。あのお守りは、奈津子がずっと前に佳奈へ贈ったものだった。まさか浩之が、あんなにも前から罠を仕掛けていたとは。浩之の狙いは最初から佳奈と子どもの命だった。彼はよく分かっていた。智哉にとって、何よりも大切なのは佳奈と子どもだということを。人が一番大切にしているものを奪うことは、殺すよりも残酷だ。……いいだろう。この借り、浩之に必ず返してやる。翌朝、佳奈は夢の中で大きな爆音を聞いた気がした。同時に、下半身に何かが流れ出す感覚があった。そして、血まみれになった父の姿が脳裏に浮かぶ。佳奈はガバッと目を開けた。視界に入ってきたのは、どこか疲れた様子の智哉の顔だった。その瞬間、胸騒ぎが走り、急いでお腹に手を当てた。……ぺたんこになったお腹の感触に、彼女の顔色が一気に青ざめた。震える声で尋ねた。「智哉……赤ちゃんは?」智哉は何も言わず、ただ大きな手で佳奈の頭を優しく撫でながら、かすれた声で言った。「佳奈……赤ちゃんは、また授かれる。今は何より、君の体をしっかり治すことが大切だ。お父さんは重傷で、まだ意識が戻ってない……君の声を、待ってるんだよ」赤ちゃんがどうなったのか、智哉ははっきりとは言わなかったが、その言葉の意味は十分に伝わった。佳奈は信じられないという顔で智哉を見つめた。「そんなはずない
高橋家、橘家、遠山家、それに清水家も、橘お爺さんに呼び出された。彼は一連の出来事を説明し、利害関係を丁寧に伝えた。誰もが、それが子どもと佳奈を守るための最善の方法だと納得した。みんなで口裏を合わせることにし、綾乃の二人の子どもは早産で、保育器の中にいることにした。そして、佳奈の子どもは衝撃が大きすぎて命を落としたと伝えることに。この知らせを聞いたばかりの綾乃は、手術を終えたばかりにもかかわらず、涙を止められなかった。母親として、佳奈が目を覚ましたとき、どれだけ絶望するかを想像できた。彼女は泣きながら雅浩を見つめた。「雅浩……二人の赤ちゃんが無事だったら、C市に一緒に帰ろう。私は佳奈の子どもを守る。絶対に、絶対に傷つけさせない」雅浩は心を痛めながら、綾乃の涙をそっと拭った。「もう泣くな。手術したばかりなんだから、涙はダメだよ。確かに一人を失ったけど……悠人の手術は成功した。数日後には退院できるって。そしたら一緒にC市に帰ろう」智哉はすべての手配を終えたあと、再び佳奈の病室へ戻った。椅子に腰かけ、佳奈の小さな手をぎゅっと握りしめた。どれだけ、これが夢だったらと願っただろうか。どれだけ、佳奈と自分が七年前のまま、時間が止まってくれていたらと願っただろう。あの頃のように、痛みも裏切りもなく、ただ信じ合って、支え合っていた9911の日々。彼は佳奈の手の甲にそっと口づけし、かすれた声で語りかけた。「佳奈……約束を守れなくて、ごめん。君と子どもの安全のために、どうしてもこうするしかなかった。きっと君は、俺を恨むだろう。でも、後悔はしない。君にはもう、これ以上俺のせいで苦しんでほしくない。佳奈……たとえ一緒にいられなくても、俺の愛する人は、いつだって君だけだ。君は、俺の佳奈であり、俺の11号なんだ」そう言って、彼は立ち上がり、佳奈の唇にそっとキスを落とした。涙が一粒、また一粒と、佳奈の頬に落ちていく。彼は衝動に駆られるように佳奈にキスを重ねた。目を覚ましたときには、もうすべてが変わってしまうと分かっていたから。彼と佳奈は、もう二度と交わることのない道を歩むのだ。智哉は佳奈の頭を抱き寄せ、そっとキスを続けた。力を込めることもできず、ただ優しく。もし今、佳奈が目を覚ましたら、自分はきっと耐え
「父さん、奴らが狙ってるのは子どもの命なんだ。俺に跡継ぎを残させたくないってことだ。だから、たとえ佳奈と別れたとしても、彼女と子どもは依然として危険に晒される。どうしても子どもを隠さなきゃならないんだ」そう言って、智哉は歩を進め、清司の病室へと入っていった。橘お爺さんと橘お婆さんはベッドの傍らに座り、ほぼ安定している清司の心電図の波形をじっと見つめていた。涙をこらえきれず、橘お婆さんが目元をぬぐう。「清司……お願いだから目を覚ましておくれ。佳奈と子どものために、こんな姿になって……佳奈が知ったら、どれだけ悲しむか……」その瞬間、橘お婆さんが顔を上げると、顔面蒼白の智哉が病室の入り口に立っているのが見えた。彼女は唇を震わせながらも、智哉を気遣うように声をかけた。「智哉、心配しないで。私たちが必ず一番腕のいいお医者さんを探して、清司を治してみせる。佳奈からお父さんを奪わせはしないわ」その言葉に、智哉の胸はさらに罪悪感で締めつけられた。高橋家のせいで、橘家の企業価値は三分の一も減ってしまい、いまだに危機から抜け出せていない。それなのに、この二人は一言の恨み言もなく、逆に自分を慰めてくれるなんて。智哉はゆっくりと橘老夫婦の前に歩み寄ると、バタリと地面に膝をついた。涙を浮かべながら、声を震わせて言った。「お爺ちゃん、お婆ちゃん……ごめんなさい」すぐさま橘お爺さんが彼の腕を掴み、言った。「何を言ってるんだ、馬鹿なことを。俺たちは家族だろ?謝ることなんて何もない。困ったときこそ、力を合わせるもんだ」そう言って、彼を立ち上がらせようとしたが、智哉は動こうとしなかった。涙をいっぱいにたたえた目で二人を見つめ、静かに口を開いた。「お爺ちゃん、お婆ちゃん……お願いがあります」橘老夫婦は即座に答えた。「言ってごらん。何でも聞いてあげるよ」智哉は感情を抑え込み、心の中で乱れた言葉を整理しながら、静かに語り始めた。「どうか……俺の息子を綾乃の元で育てさせてください。綾乃が失った子どもの代わりとして……世間には、あの子は綾乃の子だと伝えて。俺と佳奈の子どもは、この事故で亡くなったことにしてくださいお爺ちゃん、お婆ちゃん……子どもは俺のそばにいても、佳奈のそばにいても安全じゃない。佳奈に子どもを連れて離れて
双方の専門医たちは話し合いを重ねた末、まずは子供を救うことを決断した。佳奈の怪我は命に関わるものではなかった。だが、赤ちゃんを今すぐ取り出さなければ、命の保証はできない状態だった。手術が始まって四十分後、赤ちゃんが取り出された。その小さな命を初めて目にした瞬間、智哉の頬に再び涙がこぼれ落ちた。医師の腕の中に抱かれた、小さくて儚い存在。その小さな身体は目を閉じ、眉間に深い皺を寄せている。まるで苦しんでいるかのようだった。智哉は慌てて声を上げた。「赤ちゃんは……どうなんだ?」産婦人科医が答えた。「まだ何とも……これから救命処置をして様子を見ます」智哉の両拳は強く握りしめられ、首筋の血管が浮き上がる。張り詰めた心は、深い闇の底を彷徨うように、どこにも光を見いだせなかった。さらに一時間が過ぎた。知らせが届いた。赤ちゃんは助かった、と。だが未熟児のため、保育器に入れられることになった。佳奈は肋骨を二本折り、大量出血の影響で今も意識が戻らない。そして清司は、頭部への重傷により、植物状態になる可能性が高いという。その報告を聞いた瞬間、智哉は魂が抜けたように、椅子に座り込んだ。佳奈は助かった。赤ちゃんも助かった。けれど、佳奈が一番大切にしている父親が、もう目を覚まさないかもしれない。智哉の心に、どうしようもない痛みが広がった。佳奈は、彼と一緒にいるために、命を落としかけた。赤ちゃんも失いかけた。そして彼女の父親まで、こんなことに……。どれだけ自分に言い訳をしても、目の前の現実は変わらなかった。智哉は、佳奈に傷しか与えられなかった。高橋家の問題で、母親を亡くし、幼い頃に家を追われた佳奈。玲子や美桜に何度も陥れられ、心も体も深く傷つけられた佳奈。何度も命を狙われ、ようやく幸せをつかめると思った矢先の、この惨劇。すべて、自分が原因だった。もし自分と一緒にならなければ、佳奈の人生は違ったのではないか。もしあの時、父の言葉に従い、佳奈を手放していれば、こんな悲劇は起きなかったのではないか。「愛してる」と口にしながら、結局自分は彼女を不幸にしていた。智哉は両手で頭を抱え、胸が張り裂けそうな痛みに耐えた。呼吸すら苦しい。――手放すことが、佳奈と赤
庭の花や草は、爆発でめちゃくちゃになっていた。庭には警察と救急隊員が入り乱れ、混乱の中にあった。智哉はすぐさま担架に向かって駆け出し、声を張り上げた。「佳奈!」その声に気づいた誠健が駆け寄り、智哉をしっかりと支えた。声はかすれきっていた。「佳奈は大量出血で意識不明だ。命に別状はないはずだが……叔父さんは重傷だ。頭部をやられた。ボディガード二人も重傷。智哉、お前がしっかりしなきゃ、佳奈が待ってるんだぞ」智哉の喉が詰まり、かすれた声を絞り出した。「佳奈はどこだ?」「こっちだ。産婦人科の先生が応急処置してる。今すぐ病院に搬送しなきゃならない」誠健の言葉が終わる前に、智哉はすでに救急車に向かって走り出していた。「佳奈!佳奈!」その声はだんだん低く、枯れたようになっていく。まるで全身の力が抜け落ちていくようだった。そして、担架の上に横たわる佳奈を見た瞬間、呼吸器をつけ、血まみれの彼女の姿に、智哉の体は大きく後ろに揺らぎ、何歩もよろめいた。後ろで支えてくれた誠健がいなければ、倒れていただろう。智哉はふらつきながらも佳奈のそばへ駆け寄り、小さな手を掴み、唇に押し当てて何度も何度もキスをした。「佳奈、怖がらなくていい、俺がいる……絶対に大丈夫だ、赤ちゃんも大丈夫だ……」自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ佳奈に話しかけたかった。彼女に自分の声を届けたかった。もう二度と届かなくなるのが怖かった。その時、医師が声をかけた。「高橋社長、奥様の容態は非常に危険です。今すぐ帝王切開を行い、赤ちゃんを取り出す必要があります。赤ちゃんにはまだ生きる可能性があります」智哉の目が血のように赤くなり、医師を見据えた。「二人とも助けろ。絶対だ!」命令のような口調だった。医師は思わず身を縮め、「高橋社長、最善を尽くします。すぐに搬送します」と答えた。智哉は救急車に飛び乗り、佳奈の隣に座った。冷たくなった小さな手を両手で必死に握りしめる。もう何もかも構っていられなかった。今、彼の心にあるのは佳奈だけ。この手を離したら、本当にあの世とこの世を隔ててしまいそうで怖かった。頬を伝う涙が、一滴、また一滴と佳奈の手の甲に落ちていく。佳奈の下から溢れ出た血が、救急車の床にぽたぽた
智哉の車は家へ向かって猛スピードで走っていた。そのとき、雅浩から電話がかかってきた。「智哉、子どもの心臓が止まった。綾乃は今すぐ手術が必要だ。小児科の専門医に連絡してくれ」「わかった、すぐに」智哉は小児科の専門医に電話をかけ終えた瞬間、ふと顔を上げたその時だった。耳をつんざくような轟音が響き渡った。胸の奥がズシンと揺れる。反射的に音のした方角を見やる。白煙が一気に空高く立ち上っていった。そして……その場所は、ちょうど別荘のある方角だった。智哉はその瞬間、何と言い表せばいいのかわからない感情に飲み込まれていた。驚き、恐怖、そして現実を受け入れられない拒絶感。喉の奥に綿が詰まったように声が出ない。前で運転していた高木も異変に気づき、すぐに声を上げた。「高橋社長、あそこ爆発したみたいです。方角的に……別荘のあたりかと」別荘まではまだ数キロの距離があった。今すぐ駆けつけたくても、到底間に合わない。智哉の両手は冷たく、震えが止まらなかった。握りしめたスマホが何度も手から滑り落ちた。三度目にやっと気持ちを無理やり押さえ込み、佳奈に電話をかけた。だが、コール音が鳴り続けても、誰も出なかった。次に清司にかけたが、やはり応答はない。二人のボディガードにも電話したが、同じく繋がらなかった。その時になって初めて、智哉は心の底から悟った。危険が、ついに家にまで及んだことを。佳奈が……もしかしたらもう……飛行機の中で見たあの夢を思い出し、全身が小刻みに震えた。すぐさま征爾に電話をかけた。声には力がなく、かすれていた。「父さん、佳奈が……多分、何かあった……すぐに様子を見に行ってくれ……俺も今、向かってる……」何しろ本邸の方が、今いる場所よりも別荘に近いからだ。もしかしたら、佳奈と子どもを救える可能性が少しでも高いかもしれない。征爾は電話を受け、数秒間呆然としていたが、やがてこう答えた。「わかった、すぐ行く」電話を切ると、今度は誠健に電話をかけた。切羽詰まった、必死の声だった。「救急隊を連れてうちに来てくれ……急いでくれ……佳奈が危ないんだ」誠健は即座に答えた。「了解、すぐ向かう」智哉は考えうる限りの手を尽くし、頼れる人すべてに連絡を取った。