Share

第63話

Author: 藤原 白乃介
両手を強く握りしめた。

美桜が黙っているはずがない。あの録音は、彼女を刺激する最高の武器だ。

考えるまでもない。今頃、会社中の人間が智哉との公にできない関係を知っているはずだ。

副秘書が傍らに寄り、そっと彼女の腕を引いた。

「藤崎秘書、私たち皆さんあなたを信じています。きっと何か誤解があるはずです」

佳奈は苦笑いを浮かべた。「誤解なんかじゃありません。彼女の言った通りです」

智哉が自ら言ったことだ。嘘なんてあるはずがない。

隠そうとしても、隠せるわけがない。

出社する前から、覚悟はできていた。

でも、実際にこの問題に直面すると、やはり胸が痛むのだった。

智哉への7年の想い、3年の寄り添い合い。まさかこんな形で露見するとは。

かつて空想していた。智哉が皆の前で、彼女を恋人だと認め、将来妻にすると宣言する姿を。

夢見る心が大きければ大きいほど、現実は残酷なものになるのだと。

佳奈は何でもないかのように笑って、小声で言った。「仕事しましょう。土曜日はグループの周年記念式典です。この数日は残業になりそうですね」

高木は入口に立ち、先ほどの一部始終を録画していた。

戸惑いの表情を浮かべながら、智哉に見せた。

「社長、今、会社中がこの件について噂しています。石川さん以上にひどい言葉も......本当に放っておくんですか?」

智哉は画面の中の佳奈を見つめ、スマートフォンを握る指先が白く変色していた。

佳奈は彼の目には、柔らかく従順なペルシャ猫のように映っていた。しかし、その骨の髄まで、誇りと強情さが染み込んでいる。

今のように自分を卑下することなど、これまで一度もなかった。

たとえ彼が目的があって近づいてきたと疑った時でさえ、誇り高く背筋を伸ばして反論した。今のように、一見平然と受け入れるようなことは、一度もなかった。

智哉の深い瞳には、言葉にできない感情が渦巻いていた。

冷たい声で言った。「伝えろ。誰であれ、これ以上一言でも言えば、即刻クビだ」

高木は彼に向かって親指を立てた。「さすが社長!すぐに伝えてきます。誰が噂話なんかできるものか」

「佳奈を呼べ」

「はい」

数分後、佳奈はノックをして入室した。顔には一切の悔しさもなく、ただ事務的な表情だけがあった。

「社長、何かご用でしょうか?」

智哉はその漆黒の瞳で数秒間彼女を見
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第64話

    佳奈は淡く笑った。「社長、それは夫人が決めたことです。私には口出しする権利はありません」その上、彼女にはその気もなかった。智哉は彼女の冷淡な顔を見つめ、目尻を上げた。「佳奈、今年の式典で誰を連れて行くかがどういう意味を持つのか、わかっているはずだ。なぜ嫉妬しない?」佳奈の声色は相変わらず波一つなかった。「社長、愛人にはそこまでの権利はありません。ベッドの相手として、お相手を楽しませることだけが私の役目。それ以外のことは、口出しする権利はないんじゃないですか?」彼女の言葉は穏やかで優しく聞こえたが、一言一言が針のように智哉の心を刺した。智哉は彼女を抱きしめながら、かつて佳奈が嫉妬した時の姿を思い出していた。彼が欲しいのは、あの時の佳奈であって、今のような従順で非の打ち所のない佳奈ではない。彼は佳奈の頭を優しく撫でた。「仕事が終わったら、一緒にドレスを試着しに行こう」「社長、私のドレスはもう選んであります。美桜さんとご一緒に行かれてはいかがですか」「佳奈、お父さんの体調が悪いんだろう。私たちの関係を知ったら、また具合が悪くならないと思うのか?」佳奈は譲歩をやめた。智哉は彼女の弱点が父親だと知っていた。淡々と答えた。「わかりました。行きます。まだ仕事が残っていますので、失礼します」彼女は智哉を押しのけ、背を向けて立ち去った。佳奈は一日中忙しく働き、ようやく午後6時に仕事を終えた。同僚と別れを告げ、一人で駐車場へ向かう。車に着いた途端、裕子が笑顔で駆け寄ってきた。「佳奈、ママずっと待ってたのよ。家に帰りましょう。ママがあなたの大好きな魚の煮付け作ってあげる」佳奈の手を掴もうとしたが、かわされた。「私には母はいません。7年前に死んだはずです」そう言って車に乗り込もうとした時、あの女が脅すように言った。「佳奈、4000万円くれないと、お父さんのところに行くわよ」佳奈は裕子の襟首を掴み、冷たい声で言った。「お父さんに近づいたら、殺すわよ」「あら、私の命なんてもうどうでもいいの?実の娘が私のことを認めないだけじゃなく、殺すだなんて」地下駐車場には同僚たちが行き来しており、この騒ぎに多くの人が注目し始めた。佳奈はこんな母親の存在を知られたくなかった。裕子の襟首を掴んだまま車に押し込

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第65話

    実の母親なのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。父親を破産寸前に追い込み、心臓を痛めつけ、自分を重度の鬱病に陥れ、声まで失わせた。なぜこれほどの年月が過ぎても、まだ私たちを解放してくれないの。佳奈は泣き続け、どれくらいの時間が経ったのかもわからなかった。携帯の着信音で我に返った。すぐに感情を押し殺し、電話に出た。「佳奈、ドレスの試着に行くって言ってたじゃないか。どこにいる?」佳奈は平静を装って答えた。「私から行きます。もう半分くらい来ています」「わかった。入り口で待ってる」電話を切り、佳奈は化粧を直した。智哉にこのことを知られたくなかった。でも、自分の限界を過大評価していた。全身が震え、手足は氷のように冷たく、車を運転することなどできない。再び暗い淵に落ちていくような感覚。彼女の世界が再び暗闇に包まれようとしていた。全身の力が抜け、車の中でぐったりとしていた。どれくらい時が過ぎただろう。あの懐かしい声が聞こえた。かつて死の淵から彼女を救い出してくれた、あの声。「佳奈、俺だ。ドアを開けろ」佳奈は今ほど智哉に会いたいと思ったことはなかった。すぐにドアを開け、彼の胸に飛び込んだ。涙が一気に溢れ出た。だが一言も発せないうちに、意識を失ってしまった。「佳奈、佳奈!」智哉は運転席から彼女を抱き出し、冷や汗に濡れ、蒼白な顔をした彼女を見つめた。両手は氷のように冷たく、体は震えが止まらない。智哉は直ちに彼女を抱きしめ、大きな手で頭を優しく撫でた。温かい唇で、何度も彼女の額にキスを落とした。「大丈夫だ。家に帰ろう」佳奈はそのまま智哉に抱かれて車に乗せられ、彼の馴染みの香りと温かい体温を感じながら、少しずつ意識を取り戻していった。しかし智哉を抱く手は緩めることなく、すすり泣きが続いていた。「私は誘惑なんかしてない。私は安い女じゃない」泣きながら、体を震わせて言った。その言葉を聞いて、智哉は佳奈の異常な様子に理由があることを悟った。すぐに高木に指示を出した。「調べろ。彼女が誰と会っていたのか」智哉は佳奈を家に連れ帰り、風呂に入れ、髪を乾かしてやった。しかし始終、佳奈は一言も発しなかった。ただ静かに部屋に座り、虚ろな目をしていた。そんな佳奈を見て

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第66話

    智哉の体が硬直した。顔から優しい表情が一瞬で消え去った。彼女の口から、二度目のその人の名前を聞いた。毎回こんなにも親しげに呼びかける。平静を装い、何も聞こかなかったふりをしようとした。その人を佳奈の人生から消し去りたかった。だが男の強い独占欲が理性を失わせた。他の男が佳奈の心の支えになること、彼女が夢の中で自分以外の名を呼ぶことを、耐えられなかった。智哉の瞳が次第に深く沈み、ついに感情を抑えきれなくなった。佳奈の唇に顔を寄せ、低い声で言った。「いいよ。キスさせてくれたら、行かない」そう言うと、佳奈の反応を待たずに唇を奪った。このキスには強い独占欲が込められ、強引で狂おしかった。佳奈は乱暴な動きで目を覚まし、潤んだ瞳で智哉が唇を好き勝手に貪るのを見つめた。智哉はゆっくりと動きを止め、鼻先で佳奈の頬を撫で、魅惑的な声で囁いた。「佳奈、したくなった。いいか?」そう言いながら、大きな手が佳奈のパジャマの中へ忍び込んだ。熱い唇が佳奈の耳先を噛んだ。喉から熱い砂を含んだような声で。「佳奈、この苦しみを忘れさせてやれる。試してみるか?」佳奈の硬くなっていた体が、智哉の愛撫で蕩けていく。白い肌が魅惑的なピンク色を帯びていった。頭の中は智哉の言葉で満ちていた。苦しみを忘れさせてくれると。あまりにも辛くて、もうあの深淵に落ちたくなかった。智哉の方法を試してみたかった。佳奈は両手で智哉の頭を抱え、掠れた声で呼んだ。「智哉」別れ話以来、こんなに親しく彼を呼んだことはなかった。智哉はその声に、手の動きを一瞬止めた。その深い黒瞳には抑えきれない欲情が満ちていた。突然笑みを浮かべ、掠れた声で言った。「佳奈、もう一度」佳奈は素直に応えた。「智哉」智哉の喉仏が何度か上下し、佳奈の柔らかな肌に噛みついた。この夜は狂おしいものとなった。智哉は佳奈と何度も愛の海に溺れていった。まるで昔に戻ったかのよう。佳奈の目に自分だけが映っていた、あの頃に。彼は何度も何度も佳奈の体を奪った。彼女が泣きながら許しを乞うまで。散々に愛し尽くされ、甘い眠りについた佳奈を見つめ、智哉は口元に笑みを浮かべた。佳奈の唇に軽くキスをして、低い声で囁いた。「佳奈、これからもずっとこうしていいか

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第67話

    智哉はそう考えると、目の奥の殺気がさらに増した。「クビにしろ。二度とここに現れさせるな」「はい、すぐに手配します」翌朝、佳奈が目を覚ますと、智哉の整った顔が目に入った。男は上半身を露わにし、腕で彼女をきつく抱きしめていた。佳奈の脳裏に昨夜の光景が次々と蘇った。智哉と体を重ねた。しかも何度も。彼女が昂ぶった時、智哉は彼女に色っぽい言葉をたくさん言わせた。今思い出しても、顔が赤くなるような言葉ばかり。佳奈には智哉がなぜこんなに色気を帯びるようになったのか分からなかった。認めざるを得ない。昨夜は彼の色気に魅了され、確かに心地よかった。裕子がもたらした苦しみを忘れ。智哉と共に溺れていった。佳奈はゆっくりと智哉の腕を外そうとした。半分ほど外したところで、頭上から甘い低音が聞こえた。「使い終わったら逃げるつもり?」佳奈は急いで顔を上げ、朦朧とした睡眠の残る智哉の深い瞳と目が合った。まつげを何度か震わせ、小声で言った。「朝ごはん作りに......」智哉は長い指で彼女の顔を優しく撫で、唇に笑みを浮かべた。「そうだな、豪華な朝食を作ってもらわないと。昨夜お前を喜ばせようと、腰が砕けそうだったからな」そう言いながら、大きな手が佳奈の体を意地悪く撫で回した。佳奈は逃げ出そうとして慌てた。「智哉、離して」彼女は起き上がろうとして身をよじった。朝一番の智哉が最も危険だということを、彼女は知っていたから。智哉は彼女を放すどころか、さらにきつく抱きしめた。喉から低い声が漏れた。「もっと動くなら、朝食はなしだ。お前を食べる」その一言で、佳奈は身動きを止めた。智哉の体の反応を感じていたからだ。佳奈は抵抗を諦め、智哉の腕の中で大人しく横たわっていた。まるで従順な子猫のように。智哉は長い指で彼女の鼻先を軽く弾き、笑って言った。「ずっとこんな素直だったらいいのに」彼は彼女の額にキスをし、熱い視線を向けた。「周年記念式典で、お前にサプライズがある」朝食を済ませると、智哉は佳奈を連れてドレスショップへ直行した。店長は二人を見るなり、笑顔で迎えた。「社長、ご注文のドレスが用意できております。こちらへどうぞ」智哉は佳奈の頭を撫で、口元に笑みを浮かべて彼女を見た。「試着してきて。ここで待っ

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第68話

    佳奈はドレスに着替え、鏡の前に立つと、映る自分の姿に息を飲んだ。このドレスは彼女の大好きなスターライトブルー。ストラップレスで、後ろ姿は背中が開き、細いリボンで固定され、リボンの結び目には生きているかのような青い蝶が添えられていた。裾はフロアレングスで、ブルーのシフォンには所々にダイヤモンドが散りばめられている。ダイヤモンドは照明に照らされ、虹色の輝きを放ち、まるで夜空に瞬く星のよう。店長は思わず感嘆の声を上げた。「社長のお目が高い。このドレスは藤崎さんの雰囲気にぴったりです。優雅で気品があり、けれども派手すぎない。まるで天から舞い降りた天女のよう」裕子のことで乱れていた佳奈の心は、このドレスの素晴らしさに心を奪われ、暗い気持ちが吹き飛んでいった。スカートを持ち上げ、口元に笑みを浮かべ、智哉に見せようと振り返った時。見慣れた二人の姿が目に入った。高橋夫人が美桜の腕を取り、母娘のように親しげに笑いながら近づいてきた。美桜は佳奈のドレス姿を見て、目を見開いた。高橋夫人の腕を揺らしながら甘えるように言った。「おばさま、藤崎秘書のドレス、とても素敵ですね。私も試着してみたいです」高橋夫人は佳奈の魅力的な姿を見て、表情が曇った。「一秘書が派手すぎる。誰を誘惑するつもり?」佳奈の笑みを含んでいた瞳は、その言葉を聞いた途端に冷たくなった。高橋夫人との因縁は深かった。証拠となる映像を消させ、美桜への傷害罪で彼女を陥れようとした。父親を自殺に追い込もうとさえした。それを思い出すと、佳奈の心の中の冷たさは増していった。彼女は整った顔を上げ、唇に美しい弧を描いた。「もちろんあなたの息子ですよ。高橋夫人、分かっていながら聞くんですか?」高橋夫人はその言葉に胸を痛め、歯を食いしばって言った。「佳奈、あなたは智哉の愛玩動物よ。飽きたら捨てられる。こんな立派なドレスを着る資格なんてない。美桜に譲りなさい」佳奈は侮辱的な言葉に対しても、笑顔を崩さなかった。「あなたの息子が私のために特注したものです。私が要らないとしても、美桜さんが着て似合うと思いますか?」軽蔑的な目で美桜を上から下まで見渡した。平らな胸元に視線を落とし、冷笑を浮かべた。「美桜さんは、パッドを何枚も入れないとこのドレスは着られない

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第69話

    店長は躊躇いを見せたが、高橋夫人が社長の母親だけに、逆らうことはできなかった。仕方なく佳奈の方へ歩み寄った。佳奈のドレスに手を伸ばそうとした瞬間、背後から低く落ち着いた声が聞こえた。「そんなに気に入ったのか?」智哉は長い脚で佳奈の傍らまで歩み寄った。温かい手のひらを彼女の露わな腰に添え、軽く撫でながら、意味深な笑みを浮かべた。佳奈は先ほどの美桜への強気な態度とは打って変わって、自信なさげな様子に。智哉の目には、美桜が常に自分より上位にいることを知っていたから。彼女が何を言っても、何を望んでも、智哉は無条件で美桜を信じ、望みを叶えてやるのだから。佳奈は指先を軽く丸め、まつげを震わせた。「もし私がそうだと言ったら、それでも社長は美桜さんに譲れと言うんですか?」澄んだ瞳には、意地っ張りな性格と悔しさが隠しきれずに映っていた。まっすぐに智哉を見つめて。傍らの美桜はすかさず笑顔で言った。「智哉兄、周年記念式典で私、ピアノを弾くんです。あなたの好きな『月光』を。このドレス、曲にぴったりなんです。藤崎秘書さんに譲っていただきたいんです。どうせ主役じゃないんですから、そんな華やかな装いは必要ないでしょう?」高橋夫人も同調した。「美桜の言う通りよ。藤崎秘書は一社員なのに、私以上に派手な格好をして。メディアに誤解されたらどうするの?美桜に譲って、藤崎秘書には私が別のを選んであげるわ。費用は私持ちで」智哉は平然と佳奈を見つめ、感情の読めない声で言った。「彼女たちの言い分にも一理あると思うが、どう思う?」佳奈は強く拳を握りしめた。先ほどドレスを着た時の喜びが、今は痛みに変わっていた。やはり智哉に期待を寄せすぎてはいけない。皮肉めいた笑みを浮かべて。「社長がそうお考えなら、私の意見など必要ないでしょう」そう言って、試着室へ向かった。鏡の前に立ち、自分の目が徐々に赤くなっていくのを見つめた。智哉の優しさは、ただの気まぐれに過ぎなかったのだ。佳奈は素早く感情を整理し、ゆっくりとドレスを脱ぎ始めた。美桜はこの展開に、これ以上ない満足感を覚えた。佳奈に勝っただけでなく、欲しかったドレスまで手に入れられる。智哉の腕を取って笑顔で言った。「智哉兄、ご安心ください。パートナーとして、私きちん

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第70話

    佳奈は呆然として、智哉を見上げた。「今、何て?」智哉は彼女の白く輝く頬を摘まみ、茶目っ気たっぷりに言った。「お前のものだから、お前のオフィスに届けるに決まってるだろう。他のとこに届けるわけないだろ」その言葉に美桜は目に涙を浮かべた。「智哉兄、試着すら許してくださらないんですか?」智哉は眉を上げて彼女を見て、のんびりとした口調で言った。「これはお前には合わない。他のを見てみろ。代金は俺の口座で」そう言うと、美桜の反応を待たずに、佳奈の腰を抱いて階下へ向かった。二人の親密な後ろ姿を見て、美桜は悔しそうに泣き出した。「おばさま、智哉兄、まさか藤崎秘書をパートナーにするつもりじゃ......私はどうすれば......」高橋夫人は涙を拭いてやりながら慰めた。「安心なさい。高橋家の若奥様の座はあなたのものよ。今回の式典でしっかり見せれば、智哉もあなたの良さに気付くわ」美桜は見た目は悲しそうに高橋夫人の肩で啜り泣きながら、目の奥には憎しみの色が浮かんでいた。佳奈はまだ現実感が掴めないまま、智哉に車に連れ込まれた。以前のように、智哉が無条件で美桜の味方をすると思っていたのに。まさかこんな展開になるとは。彼女は少し戸惑っていた。認めざるを得なかった。この瞬間、彼女の心は揺れていた。感情を隠すため、車に座ると外ばかり見つめていた。智哉は彼女の顎を掴んだ。強引に顔を向かせ、「窓の外が俺より面白いのか?」彼は彼女の唇を噛んだ。佳奈は痛みで呻いた。「智哉、犬みたい」「俺を見ないからだ」彼は佳奈の後頭部を押さえ、報復のようにキスを深めた。頭の中は佳奈のドレス姿でいっぱいだった。妖艶で、セクシーで、そして誘惑的な純真さを持っていた。佳奈がこれほど華やかなドレスを着るのを見たのは初めてだった。認めざるを得なかった。あの瞬間、彼は心を奪われていた。この女を手放したくなかった。彼女の美しさを他の男に奪われるなんて耐えられない。智哉のキスは強引で支配的で、強い独占欲に満ちていた。吐息が佳奈の顔にかかり、すぐさま熱が広がった。しばらくして、ようやく佳奈から離れた。彼女の赤くなった目尻を指先でそっと撫で、低い声で言った。「周年記念式典で、最初のダンスを俺と踊れ」佳奈はまだ激しいキスの余韻か

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第71話

    「この子ったら、純粋で色気があって、いじめがいのある顔してるわね。お婆ちゃん、お姉ちゃんとして存在感出しに行かないと」立ち上がろうとした彼女を、お婆さまが手で制した。「弟の邪魔をしちゃだめよ。まずは彼の行動を見守りましょう」佳奈と智哉が入場した瞬間から、すべての視線が二人に集まった。今までも様々なパーティーに二人で出席したことはあったが、今日ほど華やかな雰囲気はなかった。ドレスもお揃いだった。智哉の佳奈を見つめる眼差しにも、深い愛情が溢れていた。下座の人々が噂し始めた。「高橋社長がこんな重要な場で藤崎秘書を連れてくるなんて、ただのパートナー以上の意味があるんじゃないかしら」「もしかしたら、この小鳥が鳳凰になる日も近いかもね」美桜はその言葉を聞いて、拳を強く握り締めた。智哉の意図が分からないはずがなかった。こんなに大勢の前で佳奈の立場を認めようとしている。絶対に許せない。すぐにスマートフォンを取り出し、メッセージを送信した。智哉は佳奈を連れて市の要人や重要なゲストに挨拶を済ませ、高橋お婆さまの元へ案内した。「お婆様、いじめられないように見ていてやってください」高橋お婆さまは笑顔で佳奈の手を取り「安心しなさい。お婆ちゃんが宝物のように見守ってあげるわ」麗美も冗談めかして「大切な宝物を小箱に入れて隠しておきましょうか」智哉は「宝物」という言葉が気に入ったようで、佳奈の耳元に顔を寄せた。湿った唇が意図的に彼女の熱くなった耳先に触れ、低い声で囁いた「ここで大人しく待っていなさい。サプライズがあるから」佳奈は近くにカメラが何台も向けられているのに気付き、後ずさりしようとした。細い腰を智哉の大きな手が止めた。耳元で低い笑い声が聞こえた「もうビビってるの?これからどうするんだ」「智哉」佳奈は小声で呼びかけた「一体何をするつもり?」大胆な予想が頭をよぎったが、すぐに否定した。でも智哉の普段と違う態度に、不安な気持ちが募った。智哉は彼女の戸惑った表情を見て、額にキスをした「オープニングダンスで頑張れよ。上手くできたら、ご褒美をあげる」意味深な笑みを浮かべた。長く白い指で軽く彼女の鼻先を撫で、麗美に二言三言言い残してから、主席台へ向かった。グループの社長として、智哉が最初に

Latest chapter

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第375話

    その言葉を聞いた瞬間、晴臣は一切の迷いなく拒絶した。「俺は反対です!そんなこと、間違ってると思いませんか?あなたには妻も子供もいる。そんな状態で母さんに付き添うなんて、母さんを“愛人”の立場に置くのと同じです。当時もそのことで、母さんは散々な目に遭ったんです。だったら俺は、母さんが一生このままでも構いません。絶対に、あなたには任せません」征爾は真っ直ぐな目で晴臣を見返し、はっきりと言った。「玲子との結婚は、もう何年も前に終わってる。俺たちは二十年以上も別居してるし、法的にも婚姻破綻の条件は十分にある。ただ、彼女が俺の母の命を救ってくれた恩義があって、離婚を先延ばしにしてきただけなんだ」そう言って、今度は佳奈を見つめた。「佳奈、俺は玲子と離婚する。その裁判、勝たせてくれ」佳奈は少し困った顔をした。「高橋叔父さん、裁判に勝つのは難しくないと思います。今回の件で玲子さんが高橋家に与えた損害も大きいですし……でも、それをやることで奈津子おばさんの気持ちを傷つけませんか?」「離婚が終わってから、奈津子さんに気持ちを伝えるよ。うまくいくかどうかは関係ない。少しでも病気の回復に繋がるなら、それでいい。俺はただ、彼女に記憶を取り戻してほしいんだ」奈津子の記憶のどこかに、自分の存在がある気がしてならなかった。彼女は一体、どんな存在だったのか。なぜ、自分には何一つ記憶が残っていないのか。 その理由を知りたい。それだけだった。智哉は佳奈をそっと引き寄せ、きっぱりと断った。「親父、離婚したいなら、他の弁護士を紹介するよ。雅浩も優秀だから。佳奈は妊娠してて、法廷に立つには向かない。それに、玲子は佳奈に強い敵意を持ってる。出廷中に何をするか分からない」その言葉で征爾はハッとした。玲子はいつも佳奈の出自を利用して揺さぶろうとしていた。彼は苦笑しながら言った。「俺もすっかり忘れてたな……雅浩に連絡するよ。すべて片付いたら、奈津子にも話す。今はまだ、黙っておく」そう言い残すと、晴臣の反応も待たずにスマホを取り出し、電話をかけながら部屋を出ていった。父の浮き立つような背中を見送りながら、智哉は思わず首を横に振った。「こんな顔、何年も見てなかった。玲子との結婚生活は、もうずっと死んだようなもんだった。道徳という名の鎖に縛られて、身

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第374話

    智哉は低く笑った。「残念だったな。俺が佳奈と出会ったのは、あいつが生まれる前だ。あいつは子供の頃から、俺がずっと嫁にするって決めてた相手なんだ。お前じゃ、一生かかっても敵わないよ」得意げに言い放ったその瞬間、彼は深く後悔することになる。佳奈の驚いた視線に気づいて、舌を噛み切りたくなるほどだった。佳奈は不思議そうに智哉を見上げた。「それって、美桜さんのことじゃないの?正確には遠山家が失った子供、私じゃないでしょ?」彼女の目に疑念が浮かんだのを見て、智哉は慌てて話題をそらすように、彼女の小さな鼻をつまんだ。「うちのアホな嫁、俺の作ったウソ、あっさり見破るなよ。お前、まさかアイツの味方か?」佳奈はあまり気に留めず、顔を上げて智哉を見た。「じゃあ、どうする? 高橋叔父さんと奈津子おばさんに話す?」晴臣が真っ先に否定した。「まだ事実が分かってないうちは、知らせたくない。余計な混乱を避けたいんだ。母さんが略奪者なんて言われるのは、絶対に嫌だから」それだけは、どうしても信じられなかった。彼は真実を突き止め、母親の名誉を取り戻すと心に誓っていた。智哉もうなずいて賛同した。「当時、お前たちを殺そうとしたのは、玲子じゃないかもしれない。その背後に本当の黒幕がいる。万が一、あの人にお前たちが生きてるとバレたら、危険かもしれない」その言葉を聞いて、佳奈は急に不安そうな顔になった。「でも、さっきエレベーターの中で、玲子は奈津子おばさんの顔を見てた。おばさんもすごく動揺してたから、もしかして、もう何か気づいたかも」「俺が人をつけて守らせる。真相もすぐに調べる。お前は心配するな、赤ちゃんによくない」智哉は彼女の頭を優しく撫で、軽く唇にキスを落とすと微笑んだ。「安心して、子供を産めばいい。俺の花嫁になる準備だけしてればいいんだ、分かった?」その声は風のように柔らかく、瞳には深い愛情が溢れていた。ビジネス界で冷酷非情と呼ばれる男とは思えないほど。佳奈にだって、それがわからないはずがない。頬を赤らめて彼を押しのけた。「智哉、人前でキスするなって、何回言えば気がすむの?」智哉は低く笑った。「人前じゃないよ。アイツは俺の弟だから」「だからってダメ!それにまだ兄さんって認められてないでしょ!」「は

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第373話

    智哉の口調は問いかけではなく、断定だった。その深く澄んだ瞳が、晴臣をじっと見つめている。部屋の空気は異様なほど静まり返り、お互いの呼吸音さえも聞こえるほどだった。十数秒の沈黙のあと、晴臣がふっと笑った。「いつ気づいた?」その一言に、智哉の胸がズシンと重くなった。この世に突然、自分と同じ血を引く兄弟が現れた。どう言葉にすればいいか分からない、複雑な感情が渦巻いていた。智哉はずっと晴臣に警戒心を抱いていた。彼の素性が謎に包まれていたこと、そして佳奈への感情――。いろんな可能性を考えたが、まさか異母弟だったとは夢にも思わなかった。数秒の沈黙ののち、智哉がようやく口を開いた。「俺がいつ気づいたかは重要じゃない。問題はお前はもう知ってたってことだ。玲子が母親をハメた犯人かもしれないって、ずっと調べてたんだろう?」晴臣は隠そうともしなかった。「そうだ。お前と初めて会ったとき、お前の持ち物を使ってDNA鑑定した。征爾が俺の母親を捨てたクズだってことも、とっくに分かってた。もし佳奈がいなければ、あいつに手出ししないでいられるわけないだろ?」その言葉に、智哉は眉をぴくりと動かした。「奈津子おばさんはこのことを知ってるのか?」「知らない。でも、あの人がお前の父親に特別な感情を持ってるのは、見りゃ分かるだろ」「それでも、お前の父親でもあるんだ」「違う。あいつがいなけりゃ、うちの母さんは傷つかなかった。俺たちも、ずっと追われるような生活を送らずに済んだんだ。全部あいつのせいだ。お前が父親って呼べるのは、あいつがお前に裕福で穏やかな生活を与えたからだろ? でも、俺がもらったのは、何度も死にかける日々だった。うちの母さんは、他人に家庭があるのを知ってて付き合うような人じゃない。きっと、あいつに騙されて子供ができたのに、あいつは一切関わろうとしなかった。母さんを見捨てたんだ」穏やかで上品な印象だった晴臣が、過去を語る今、その顔には確かな感情が滲んでいた。あの深い瞳も、どこか紅く揺れていた。征爾への憎しみが、無いはずがなかった。ひとりで妊娠し、大火で命を落としかけた母親。薬を使わず、子供を守ろうと必死に痛みに耐えた――その姿を想像するたび、心が引き裂かれるようだった。智哉は晴臣をじっと見つめ、かすかにか

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第372話

    彼はあまりの痛みに、呼吸すら忘れそうになった。眉をひそめながら奈津子を見つめ、できる限り優しい声で言った。「安心してください。絶対に誰にも彼を傷つけさせない」その言葉を聞いた奈津子は、ようやく彼の腕をそっと離し、少しずつ落ち着きを取り戻していった。晴臣は彼女を抱きしめ、目には何とも言えない感情が滲んでいた。その様子を見て、智哉は強く布団を握りしめた。晴臣と奈津子が、過去にどれだけ命を狙われてきたか。想像するだけで胸が痛んだ。そして、その命を狙った人物が誰なのか、彼にはもうほとんど見当がついていた。きっと、それは母・玲子——だから奈津子はあんなにも激しく反応したのだ。智哉の胸がずきんと痛んだ。晴臣を見つめ、低い声で問いかけた。「カウンセラーを呼んだ方がいいんじゃないか?」晴臣は首を振った。「大丈夫。今は落ち着いてる。ただ、毎回発作があると体力が消耗して、半日はぐったりしちゃうんだ」佳奈がすぐに奈津子を支えて言った。「おばさん、ベッドで横になりましょう」奈津子はふらふらと歩きながらベッドへ向かい、ゆっくりと身体を横たえた。佳奈は布団をかけてやりながら、そっと声をかけた。「私たちがそばにいます。誰にもおばさんやお兄ちゃんを傷つけさせません」奈津子は涙ぐんだ目で佳奈を見つめた。「佳奈、晴臣は小さい頃からたくさん苦労してきたの。あの子を捨てないで、ちゃんと幸せにしてやって……お願い」その言葉を聞いて、佳奈の目に一気に涙が溢れた。彼女は何度も何度もうなずいた。「晴臣は私にとって一番大切な兄です。絶対に離れません。安心してください」そう言って、彼女はそっと奈津子の額を撫で、柔らかくささやいた。「少し眠ってください。私がここにいます」奈津子はゆっくり目を閉じ、やがて穏やかな寝息を立て始めた。佳奈はその手を最後まで握りしめ、片時も離れようとしなかった。征爾はベッドのそばで静かに立ち尽くし、奈津子の顔をじっと見つめていた。なぜだろう、この女性にどこか見覚えがあるような——心の奥を、まっすぐ射抜くようなこの感覚は何なのか。まさか、本当に過去に付き合っていて、その記憶を失っているだけなのか?けど、当時自分が好きだったのは玲子だったはず……そ

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第371話

    晴臣はすぐさま駆け寄り、母を抱きしめて宥めた。「お母さん、怖がらなくていいよ。俺が絶対に守るから」奈津子は必死に首を振り、完全に取り乱していた。口の中ではずっと繰り返していた。「彼女がうちの子を殺すって、早く助けて、殺されちゃう、まだあんなに小さいのに……」征爾はそんな奈津子の姿を見て、胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼は玲子の膝に思いきり蹴りを入れ、氷のように冷たい声で言い放った。「死にたいのか」玲子は数歩よろめき、車椅子に尻もちをついた。奈津子の顔を見つめながら、彼女の口にした言葉を思い出し、悔しそうに歯を食いしばった。「征爾、あんた他の女のために私を殴るなんて、あんまりじゃない?いくら私が悪くたって、子供まで産んで育てたのよ?そんな仕打ちってある?」征爾は彼女の言葉に怒りでこめかみに青筋を立てた。VIP病棟のフロアに到着すると、彼は奈津子と佳奈を庇いながらエレベーターから降りた。そして冷たく命じた。「このイカれた女を連れて帰れ。俺の許可があるまで、絶対に外に出すな」「征爾、どうして他の女は私の子に会えるのに、私には会わせてくれないの?もうあの女とできてるんでしょ?だから私と離婚したいのね」征爾は、奈津子が恐怖で震えているのを見て、なおも追い詰めてくる玲子に怒りを爆発させた。手を振り上げて、彼女を平手で打った。「玲子、いい加減なことを言うんじゃねぇ。今すぐ黙れ、さもないと、殺すぞ」玲子はその一撃で目が回るほどの衝撃を受けた。ちょうどその時、もう一台のエレベーターから佳奈が降りてきた。手には薬の入った袋を持っている。この場の様子を見た瞬間、佳奈は思わず立ち止まった。無意識に両手でお腹を庇う。玲子が暴れたら、お腹の子に何かあるかもしれないと恐れたのだ。しかし、その仕草を玲子は見逃さなかった。彼女の目に陰険な光が宿り、すぐに泣き顔を作って佳奈にすがりついた。「佳奈、お願い、智哉に会わせて。ほんの一目でいいの。あの子、まだ目を覚まさないのよ。心配で眠れないの」佳奈は玲子が近づいてくるのを見て、驚いて身を引いた。冷たい目で彼女を睨みつけながら言った。「智哉がどうしてケガしたか、あなたは分かってるでしょ?目を覚ましてたとしても、一番会いたくないのはあなただと

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第370話

    晴臣はどこか余裕のある笑みを浮かべた。「俺の記憶が正しければ、お前と佳奈ってまだ籍入れてないよな?彼女は法的にはまだ独身のはずだ」「お前、何が言いたい?まさか佳奈を俺から奪うつもりか?忘れるなよ、佳奈が好きなのは俺だ。お前なんて、子供の頃のただの遊び相手にすぎない」「気持ちは変わるもんだ。俺がその気になれば、佳奈はいつだって俺の元に戻ってくる」「晴臣、貴様……!」「俺にその気があれば、って話だ。お前が少しでも佳奈を不幸にするようなことがあれば、俺はいつだって彼女を連れて行く。信じないなら、見ていればいい」晴臣は電話をベランダで受けていたため、部屋の中にいた人間は、二人のやり取りをまったく知らなかった。電話を切った後、彼はしばらく静かに外の景色を見つめていた。佳奈は、自分が子供の頃から守ってやりたかった人だ。彼女にはずっと、幸せでいてほしかった。でも今、智哉が彼女に与えているのは、傷ばかりだ。美桜に玲子、どっちも彼女にとっては爆弾のような存在。もし本当に玲子が美智子を殺した犯人だったとしたら——佳奈はそれを受け止めきれるのか。そんな時、背後から奈津子の声が聞こえた。「晴臣、私たちも佳奈について智哉の様子を見に行きましょう」晴臣はすぐに立ち上がり、クローゼットから上着を取り出して奈津子に着せ、彼女の腕をそっと支えた。「お母さん、まだ傷が治ってないんだから、ゆっくり歩いてください」数人で歩きながらエレベーターに乗り込む。エレベーターが十階に到着した時、誰かが車椅子を押して入ってきた。奈津子は反射的に後ろへ下がろうとしたが、足が車椅子の車輪に引っかかり、体が前のめりにエレベーターの壁へと倒れかけた。その瞬間、征爾が素早く腕を伸ばし、奈津子をしっかりと抱きとめた。おかげで傷口がぶつかることもなく、事なきを得た。奈津子は彼の体から漂う、懐かしい匂いに胸が詰まり、目に涙が浮かんだ。彼のことを、ずっと求めていた。もっと近づきたかった。もっと、彼を感じたかった。征爾は奈津子のうるんだ目尻を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。しかも、それだけではなかった。ずっともう機能しないと思っていた部分が、明らかに反応しているのを感じた。征爾は驚いて奈津子を見つめた

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第369話

    智哉は落ち着き払った表情で言った。「餌を撒け。大物が食いつくのを待とう」四大家族を動かして高橋グループに挑んでくる奴が、果たして何者か、見せてもらおうじゃないか。そう思いながら通話を切った智哉は、佳奈が病室のドアに手をかけていることに気づく。「どこ行くの?」そう声をかけると、佳奈は振り返って優しく笑った。「奈津子おばさんの様子を見に行ってくるわ。あなたは高橋叔父さんと会社の話してて」智哉は彼女をじっと見つめ、どこか寂しげに口を開いた。「高橋夫人……旦那は今、植物状態なんだよ?介護が必要なんだ。そんな俺を一人にして、他の男に会いに行くのか?」佳奈はふっと笑みを深めた。「あなたと高橋叔父さんは会社の話中でしょ?私がいたら邪魔でしょ。すぐ戻るわ」智哉が返事をする前に、佳奈はスタスタと部屋を出て行った。征爾も立ち上がり、にべもなく言い放った。「お前に介護されるようなもん、特にないだろ。一人で大人しくしてろ。俺も佳奈と一緒に奈津子を見てくる」そして彼は、急ぎ足で佳奈の後を追って出ていった。智哉はベッドの上で歯ぎしりしながら、その背中を睨んだ。——父さんの目つき……あれは絶対、奈津子に気がある。最近、病院に来てるくせに、自分の病室にはちょっと顔を出すだけで、あとは奈津子の病室に入り浸ってる。どう考えても、昔から何かあったとしか思えない。智哉はすぐにスマホを取り出し、高木にメッセージを送る。【父さんと晴臣のDNA鑑定、急ぎで】10分が経過しても、佳奈は戻ってこない。我慢できなくなった智哉は電話をかけた。その頃、佳奈はソファに腰掛け、晴臣が作ったストロベリーアイスケーキを食べていた。スマホの画面に智哉の名前が表示されると、急いで応答ボタンを押す。電話の向こうから、掠れたような低い声が聞こえてきた。「佳奈、奈津子おばさんの具合はどう?傷は順調に治ってる?」佳奈は口元のクリームも拭かず、急いで答えた。「順調よ。お医者さんもあと2、3日で退院できるって」智哉は意味ありげに「へぇ」と声を漏らす。「何かあったのかと思ったよ。君と父さん、なかなか戻ってこないからさ」佳奈は時計を見て笑った。「まだ10分も経ってないわよ?」「そっか。俺にはすごく長く感じたけどね。きっ

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第368話

    征爾は一切容赦なく玲子の襟元を掴み、そのまま床へ叩きつけた。その瞳には、憎しみ以外の感情は一切浮かんでいなかった。「玲子、よく聞け。お前は智哉が目を覚ますことだけを願ってろ。もし彼が死んだら、お前も無事じゃ済まねぇからな!」玲子は怯えきった顔で首を振り、涙を流しながら懇願した。「征爾、ごめんなさい、全部私が悪かったの、ちょっと脅かすつもりだっただけで、あんなに火が回るとは思わなかったの。智哉が私を助けようとするなんて、本当にごめんなさい。お願い、せめて一目だけでも会わせて。あの子は私の体から生まれたんだから、あの子が病院で昏睡してるなんて、私の心は針で刺されるように痛むのよ」だが、征爾は彼女の首をがっしりと掴み、怒りに満ちた声で唸った。「心が痛むだと?自責で狂いそうだと?それでいい。俺の息子は重傷を負って生死の境をさまよってるんだ。お前だけが楽になれると思うな。智哉が昏睡してる間、俺は毎日お前を苦しめてやる。死ぬより辛くしてやるよ!」玲子は呼吸ができなくなり、顔が紫色に染まっていく。喉が潰れそうになる中、彼女はこれまで見たことのない征爾の怒りを目の当たりにした。ああ、やっぱり本当に智哉は植物人になったんだと、内心でほくそ笑んだ。だが同時に、彼女の目からは自然と涙がこぼれていた。征爾は彼女が本当に死にかけているのを見て、ようやく手を離し、力任せに床へ放り投げた。そのまま踵を返して、智哉の病室へと向かった。病室のドアを開けた瞬間——さっきまでの怒気がすっかり消え、顔には柔らかな表情が戻っていた。佳奈を見るその目は、どこまでも優しい。「佳奈、君のおばあちゃんが鶏スープを作ってくれた。熱いうちに飲んでください」そう言って、自らお椀によそい、佳奈の手元にそっと渡した。ベッドで横たわる智哉は、溜息混じりにぼやいた。「父さん、俺、まだ生死不明の状態なんだけど、もうちょっと気遣ってくれてもいいんじゃない?」征爾は彼をちらっと見て、あっさりと言った。「お前はもう植物人間だ。今さら心配しても仕方ないだろう。高橋家の血筋を守るためには、佳奈と子どもを大事にしないとな」「なるほど。じゃあ、俺が早く死んだ方が都合いいってことか。俺が死ねば、佳奈がそのまま家督を継げるわけだ」「まあ、そういうことだな。お

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第367話

    知里は目を大きく見開き、しばらく固まっていた。十数秒ののち、ようやく我に返った彼女は、今自分が何をされたのかを理解した。あのクソ男にキスされた……しかも、ディープに。舌まで入れてきやがった。これはあたしの初キスだったのに!怒りが込み上げた知里は、思い切り誠健の唇に噛みついた。「いってぇ!」誠健は苦痛に顔をしかめ、すぐさま口を離した。「知里、お前犬かよ!」知里は怒りで目を吊り上げた。「こっちのセリフよ!なんでキスすんのよ!?さっきのクズ野郎とやってること変わらないじゃない!」誠健は唇の血を指で拭いながら、ニヤリと笑った。「助けてやったんだから、ちょっとくらい報酬あってもよくね?」「報酬もくそもない!緑影メディアの御曹司だかなんだか知らないけど、私があんたなんか怖がると思ってんの?警察に突き出してやろうか、わいせつ行為で!」「恩を仇で返すとか、まじでお前……図々しいにもほどがある。もういい、家に連れて帰る」そう言うと、彼女の手首を掴み、強引に出口へと引っ張っていった。しかし、まだ数歩も行かないうちに、玲央が慌てて駆け寄ってきた。「知里、ちょっとトイレ行くだけって言ってたのに、全然戻ってこないから心配したじゃん。何かあったの?」彼は誠健を睨みつけながら指をさす。「お前、知里に何かしたのか?」誠健は余裕の笑みを浮かべながら、知里としっかり手を繋いだ手を高く掲げた。「カップルがイチャついてただけだ。見苦しいから、さっさと消えろ」玲央は目を見開いて驚いた。「知里、この人が君の彼氏?」知里は否定しようとしたその瞬間、誠健が先に口を出した。彼は彼女の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。「否定してみろ?そしたらこの男、今すぐ業界から消してやるよ。試してみるか?」知里は歯を食いしばり、ぼそりと呟いた。「卑怯者!」「男が少しぐらい卑怯なのは、スパイスってもんだろ。知らなかったか?」「なにがスパイスだよ?!絶対認めるもんか、そんな彼氏なんて!」そう言い放ち、彼女は玲央の方を向いた。「ただの友達よ、玲央さん。もう行きましょう。あとで記者会見があるから」彼女は一切振り返ることなく、まっすぐ会場の方へと歩き出した。その背中を見つめながら、誠健は苦笑混じりに悪態をついた。

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status