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第896話

作者: 藤原 白乃介
知里はすっかり力尽きていた。

足の傷はまだジンジンと痛み、さっきの長台詞を二十七回も繰り返したせいで、喉はすっかり枯れていた。

かすれた声で、やっとの思いで言葉を紡ぐ。

「誠健……痛い……」

たった一言の「痛い」で、誠健の表情が一層緊張に染まる。

すぐに低い声で彼女を宥めた。

「すぐに着替えさせて、家に帰ろう」

そう言うと、知里をそっと抱き上げて休憩スペースへと向かう。

「佑くん、ついてきて」

呼びかけに応じて、佑くんがちょこちょこと小さな足で駆け寄ってきた。心配そうな瞳で知里を見上げる。

「義理のお母さん、すごく疲れたんじゃない?」

知里はその黒く輝く瞳に涙が浮かぶのを見て、無理に口元を引き上げた。

「大丈夫。熱いお風呂に入れば元気になるよ」

佑くんはぱちぱちと大きな目を瞬かせ、誠健に向き直る。

「石井おじさん、早くお風呂に連れてって。風邪ひいちゃうよ」

「わかった。君は後ろについてきなさい、勝手に動いちゃダメだぞ」

撮影所には入浴設備がなかったため、知里は清潔な服に着替えて髪を拭いただけで、誠健に連れ出された。

家に戻ってから、誠健はようやく知里の頬が熱く火照っていることに気づいた。

額に手を当てた瞬間、その高熱に息を呑む。

目の奥が一瞬、止まる。

声もかすかに震えた。

「熱があるな……」

知里はソファに横たわり、全身がだるかったが、それでも気力を振り絞って口を開いた。

「大丈夫……薬飲めば治るよ。今日はありがとう。もう遅いから、佑くん連れて帰って」

誠健の目が沈む。

「それで、君をここに一人置いて、死なせるのか?」

「そんなヤワじゃないよ。ただの熱、死にはしないって」

「知里、君そこまでして……足に怪我してるのに、なんで無理して撮影に出たんだよ」

知里は小さく笑った。

「だって稼ぎたいんだもん。今わかったの、お金って一番裏切らない。稼いで銀行に入れとけば、絶対にどこにも行かない。こんなに言うこと聞くもの、他にないよ」

その言葉に、誠健の胸がチクリと刺されたように痛んだ。

じわりと疼くような痛み。

指先が無意識にギュッと丸まり、かすれた声で問う。

「俺のせいで……そんな風に思うようになったのか?」

知里は笑って見せた。

「これが『失敗は成功のもと』ってやつよ。今じゃクソ男より金の方がよっぽど良
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