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結婚式の端っこで、君と乾杯を
結婚式の端っこで、君と乾杯を
Author: 団紡るう

1話「婚約破棄の夜」

Author: 団紡るう
last update Petsa ng paglalathala: 2026-06-17 04:38:45

 瑠衣るいは今日も仕事で帰りが遅くなった。

 "江品えしな"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した

 玄関に靴が多い。

 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。

仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。

 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣まい、婚約者の深内雅之ふかうち まさゆき、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで座っている。誰も笑っていない。誰も瑠衣を見ていない。

「座れ」

 父が言った。椅子を引いて座った。

「驚かないで聞いてね」

 母が続けた。

 驚かないで、と言う前置きを使う人間は、たいてい相手が驚くことを言う。瑠衣はコートも脱がないまま、正面を向いた。

 最初に口を開いたのは真衣だった。

「お姉ちゃん、ごめんね」

 そう言いながら、無意識に腹に手を置いた。

「赤ちゃん、できたの」

「そうなんだ」

「雅之さんとの」

沈黙。

テーブルの上に湯呑みが並んでいた。全員分の湯呑みが。瑠衣の分はなかった。

 雅之が話し始めた。視線をテーブルの一点に固定したまま、用意してきた言葉を読み上げるように。

「本当に申し訳ない。でも責任を取らなきゃいけない」

「子供には罪がない」

 父がさらっと告げた。

「まず赤ちゃんを優先しないと」

 母も当たり前のように流した。

 全員が正しいことを言っていた。

反論できる言葉がひとつもない。それが不思議なほど、反論できる言葉がひとつもなかった。

「私との結婚は」

「ごめん」

 雅之はそれだけ言って、また黙った。

 真衣が補足した。顔は申し訳なさそうだったが、声は明るかった。

「でも結果的には良かったと思うんだ。だって赤ちゃん来てくれたんだし」

 悪意がなかった。

 それが一番怖いことだと、瑠衣はこの瞬間に理解した。

「式なんだけど」

 母が口を開いた。まったく悪いという意識のない声色だった。

「そのまま使おうと思うの」

「何を」

「式場よ」

「キャンセル料も馬鹿にならないから」

 母の声に父が重ねた。

「招待客もほぼ同じだし」

 雅之も同調する。

 誰も結婚式の乗っ取りだと思っていなかった。効率の話をしていた。日程と費用と段取りの話を、テーブルを囲んでしていた。

 雅之の母が話を進めた。

「招待状は刷り直しますから」

「費用面はこちらで調整します」と雅之の父が続けた。

 もう結論の出た案件として処理されていた。瑠衣が帰宅する前から、すでに答えが決まっていた。この集まりは報告の場で、相談の場ではなかった。

「ドレスも売ったよ」

 真衣が言った。さらっと、思い出したように。

「私サイズ違うし。着ないもの置いといても仕方ないでしょ、って」

「…売った」

「もう式まで時間ないし。リサイクルショップに持っていったら意外と値段ついて、それでちょっとお祝いのお花買ったの」

 瑠衣は返事をしなかった。返す言葉が浮かばなかったのではない。言葉にする前に、何かが止まった。

(バカしかいないのか、この家)

脳の静かな場所で、そんな言葉が生まれた。怒りでも悲しみでもなく、ただの確認みたいに。

「しばらく家を出てくれ」

「私、今日婚約破棄されたんだけど」

「だからだ。。これから式の打合せで顔合わせする時、お前がいるとやりづらい」

 父の顔は真剣だった。

「お前なら大丈夫だから頼んでいるんだ」

「私、雅之さんといると安心するから、しばらく実家にいる」

 真衣が補足した。この家の正義はいつもこうだった。困っている方を助ける。強い方が我慢する。そして"強い方"はいつも瑠衣だった。

 誰も瑠衣が困っているとは思っていなかった。困っているのは真衣で、赤ちゃんで、雅之で——瑠衣は「大丈夫な方」として最初からカウントされていた。今日この部屋で話し合いが始まる前から、ずっと。

 瑠衣はもう一度、部屋を見渡した。

 父の顔、母の顔、真衣の顔、雅之の顔、雅之の両親の顔。

 誰も敵意を持っていない。誰も意地悪をしようとしていない。誰も悪人の顔をしていない。

ただ、誰も瑠衣の人生を当事者として扱っていなかった。

 今夜どこで眠るのか、明日どんな顔で出社するのか、この部屋の誰も考えていなかった。

 婚約者を取られた瑠衣、結婚式を取られた瑠衣、家を出ていく瑠衣——それは解決すべき問題ではなく、すでに片付いた話として、この部屋では処理されていた。

 私はここにいない。

 最初からいなかった。

 立ち上がると、真衣が明るい声を出した。

「あ、結婚式出てね!お姉ちゃんに来てほしいから!」

 その声は無邪気で、本当に来てほしいと思っているようだった。

「……考えとく」

 それだけ返して、廊下へ出た。リビングのドアを閉めると、中から父と雅之の声が聞こえてきた。式の段取りの話だった。

 自室に戻った。

 電気をつけなかった。暗いまま、ベッドに腰を下ろした。

 クローゼットを見た。引き出しを見た。本棚を見た。全部自分のものだったが、どれも自分のもののように感じなかった。

 スマホが光った。

 画面には「結婚式まであと三十一日」という通知が出ていた。式のカウントダウンアプリ、雅之と一緒に入れたやつだった。削除するのを忘れていた。-

 友人に連絡しようとした。

 連絡先を開いたまま、閉じた。

 今夜この話をする気力がなかった。驚かれて、怒ってもらって、慰められて、また明日から普通に仕事に行く。そのルートを辿る体力が、今はなかった。

 窓の外、近所の家の明かりが見えた。

 誰かが夕飯を食べている時間だった。

 ここを出たらどこへ行く。

 ネットカフェに一泊して、それから。

 実家を出て一人暮らしの経験はない。会社の給料は悪くないが貯金は結婚の準備で半分近く使った。式のドレスに積み立てていた分は——もう売られていた。お花になっていた。

 打開策が何もなかった。

 誰かに頼れる、という回路が瑠衣の中にはなかった。子供のころからずっと「大丈夫な方」だったから、助けを求める練習をしたことがなかった。

 スマホのカウントダウンをタップして、アプリを削除した。

 三十一日、という数字が消えた。

 代わりに何も表示されなかった。

 この夜が人生最悪の日じゃないことを、瑠衣はまだ知らなかった。

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