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2話「人生最悪の日、乾杯」

Autor: 団紡るう
last update Fecha de publicación: 2026-06-17 04:39:18

 招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。

"披露宴開始 13:00"

 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。

 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。

 歩いて、何度か立ち止まった。

(あれ、なんで私こんなことしてるんだろう)

 もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。

 それより心にあるのは"無"だった。

 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。

(一番バカなのは、私かもしれない)

 受付に並んで、順番が来た。

「江品家で招待されている、江品瑠衣です」

 スタッフの女性が名簿を確認した。一瞬だけ、表情が固まった。ほんの少しだけ。しかしわかった。

「新婦様より、ご祝儀は不要とのご連絡を承っております」

「……そうですか」

 後ろに並んでいた女性が、隣の友人に何か囁いた。

 聞こえた。含み笑いまで聞いてしまった。自分の耳の良さが恨めしい。

 足は止めなかった。

 親族控室の前まで来て、ドアに手をかけようとしたところで、スタッフに呼び止められた。

「申し訳ございません。こちらはご利用いただけません」

「私は親族ですが」

「新郎新婦からのご指示ですので」

 スタッフは丁寧に頭を下げた。感情のない、訓練された角度だった。

 ちょうどそのとき、ドアが少し開いた。中から笑い声が漏れた。真衣の声だった。母の声だった。

 ドアは閉まった。

 三十一日後に挙式予定だった人間が、結婚式の親族控室に入れない。我ながら、すごい状況だと思った。

 案内された席は、披露宴会場の一番端の円卓だった。

 席次表が置いてあった。自分の席を確認して、周りの名前を見た。

 大学の友人たちの名前。高校の同期の名前。会社の同僚の名前。

 全員、欠席だった。

「行けない」と言ってきた子はいなかった。全員「行かない」という返信だった。みんな、怒っていたのだ。私の代わりに。

 胸の奥が少しだけ痛んだ。怒っていてくれた人たちが、この会場にいないことが。

 同じ円卓に、初老の男が一人いた。

 安物のスーツ。古い革鞄。片耳にイヤホン。スマホの画面を見ている。よく聞くと、電子書籍の読み上げ音声が流れていた。

 周りが花とシャンデリアと白いテーブルクロスで埋まっている中、この男だけが完全に浮いていた。

 ただ、座り方が変だった。姿勢が綺麗で、鞄の置き方も、グラスの扱い方も、妙に洗練されていた。スーツと所作が合っていなかった。

 席次表を確認した。

 相沢灯あいざわ ともる。続柄——父の弟。

 見たことがない顔だった。父方の親族に、こんな人間がいたとは知らなかった。

 披露宴が始まった。

 新郎新婦が入場した。会場が拍手した。瑠衣も拍手した。自分でも驚くほど、無表情で。

 スクリーンにプロフィールムービーが流れ始めた。真衣の子供の頃の写真、雅之との旅行写真、家族写真。

 自分の写真を探した。姉として映っている写真、家族として映っている写真。

 一枚もなかった。

 なぜか泣けなかった。怒りも悲しみも、どこかへ行ってしまっていた。ただ空っぽだった。

 会場を見渡した。遠くの円卓では親族たちが笑っていた。スクリーンに見入っている雅之の両親。真衣の友人らしいグループが、すでにグラスを傾けていた。どの顔も知っていて、どの顔も知らなかった。

 隣の灯はまだ本を聞いていた。新郎新婦のことを一切見ていなかった。この会場で、自分と同じくらい場違いな人間が一人いる。それだけが、妙に落ち着いた。

 料理の一品目が運ばれてきた。男は本を聞きながら、特に急ぐでもなくフォークを取った。その動作がまた妙に様になっていた。

 しばらくして、スクリーンに「新婦の生い立ち」というテロップが出た。真衣の子供のころの写真が次々と映った。真衣が笑っている。母が笑っている。父が笑っている。

 家族写真が一枚映った。

 瑠衣も写っていた。ただし端だった。フレームの隅で、少し体が切れていた。

 いつ撮った写真だろう、と思った。真衣の成人式だったかもしれない。あの日も瑠衣は着物を着ていなかった。準備で忙しいからと、自分から言い出した記憶がある。

 誰かが「かわいいー」と声を上げた。別のテーブルから笑い声が起きた。

 瑠衣はグラスの水を飲んだ。味がしなかった。

 乾杯のアナウンスが入る少し前、男がイヤホンを外した。

「面白いですよ、これ」

 誰かに話しかけているとは思わなかったので、一拍遅れて顔を向けた。男は瑠衣を見ていた。

「……結婚式より?」

「比べるものではありませんが」少し考えてから、続けた。「今日は、あまり興味のない結婚式でしたので」

 真顔だった。悪気がなかった。社交辞令もなかった。ただ事実として言っていた。

 吹き出した。

 人生最悪の日なのに、今日ここで初めて、本当に笑った。

「それ、当事者の前で言います?」

「当事者?」

「新婦の姉です」

 灯は少し黙った。

「それは失礼しました」

 表情は変わらなかった。謝罪というより、情報の訂正に近かった。

「でも本当のことを言いました」

「知ってます」

 また少し笑えた。

「乾杯!」

 司会の声で全員が立ち上がった。シャンパングラスを持つ。

 隣の灯も、少し遅れて立った。グラスを持ちながら、特に誰かを見るわけでもなく、瑠衣の方へ向けた。

「せっかくグラスがありますし」

「何にですか」

 少し考える間があった。

「今日を生き延びたことに」

 冗談なのか、本気なのか、判断できなかった。顔を見てもわからなかった。

「そうですね」

 小さくグラスを上げた。灯のグラスと、静かに当たった。

 会場の乾杯の音に紛れて、その音は消えた。

 料理が運ばれてきた。灯はまたイヤホンをつけて、本の続きを聞き始めた。

 話しかけてくるわけでもなく、気を遣うわけでもなく、ただそこにいた。

 遠くのテーブルから笑い声が届いた。スクリーンでは真衣と雅之の馴れ初めが流れていた。瑠衣はフォークを持ったまま、特に何も考えていなかった。

 またいつか話しかけてくるだろうか、と思った。思ってから、なぜそんなことを考えたのか分からなかった。

 披露宴はまだ続いている。

 頭に残っているのは受付の顔でも、親族控室のドアでも、空席だらけの席次表でもなかった。

「今日は、あまり興味のない結婚式でしたので」

 変な人と、隣に座っている。結婚式の端っこで。

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