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3話「鍵」

作者: 団紡るう
last update publish date: 2026-06-18 08:56:10

「ブーケトスのお時間です!」

 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。

「お客様はご着席でお待ちください」

 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。

「……わかりました」

 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。

 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。

「ねえ、君いくつ?」

 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。

「二十九です」

 男は数秒、止まった。

「え」

「二十九歳です」

「おばさんじゃん」

 笑いながら去っていった。完全に悪意のない顔だった。傷つけようとしていなかった。だから余計に言葉が変なところに刺さった。

 怒る気力もなかった。

 少し間を置いてから、隣で灯が口を開いた。

「二十九歳でしたか」

「はい」

「私から見ると学生です」

 それだけだった。フォローをしようとしているわけでも、怒っているわけでもなかった。四十八歳から見れば事実そうだというだけの話を、ただそのまま言っていた。

なのに、少し楽になった。

 キャンドルサービスが始まった。

 新郎新婦がテーブルを順番に回っていた。真衣のドレスが遠くに見えた。雅之のスーツが見えた。二人が少しずつ近づいてくるのを、瑠衣はグラスを持ったまま眺めていた。

 やがて、こちらの円卓へ来た。

 スタッフがキャンドルに火を灯した。真衣が笑った。雅之がキャンドルを見たまま、小さな声で言った。

「……ごめん。幸せになって」

誰に言っているのかわからなかった。少なくとも、瑠衣の目を見ていなかった。

 真衣が続けた。

「これから頑張ってねー」

 お姉ちゃん、ではなかった。廊下で会った知人に声をかけるような言い方だった。

 二人は次のテーブルへ移っていった。

 沈黙が戻った。

 隣で、ふっという音がした。

 キャンドルの火が消えていた。灯が吹き消していた。

「熱いので」

 顔は真剣だった。理由は絶対に違う。しかしそれ以上は何も言わなかった。

 遠くのテーブルから真衣の声が聞こえた。「なにあのおじさん」という声が風に乗ってきた。

 灯は聞こえていないのか、気にしていないのか、すでに本の続きを聞いていた。ページが変わる電子音が、かすかに聞こえた。

 披露宴も終盤に入った。

 司会が「新婦からご両親へ、手紙の朗読です」と告げた。

 真衣がマイクの前に立った。泣いていた。文字を目で追いながら、声を震わせて読んだ。

 お父さん。お母さん。おじいちゃん。おばあちゃん。生まれてくる赤ちゃん。雅之さん。これからの未来のこと。

 たくさんの名前が読み上げられた。

 瑠衣という名前は、最初から最後まで出てこなかった。

 会場のあちこちで、ハンカチを目に当てている人がいた。真衣の友人たちが泣いていた。雅之の母が目を押さえていた。

 瑠衣はグラスの水を一口飲んだ。

 呼ばれなかった。存在しなかった。それで終わった。怒りが来るかと思ったが、来なかった。ただ静かに、そうかと思った。

 隣を見た。灯はイヤホンをつけたまま、手紙の朗読中もずっと本を聞いていた。この会場で、手紙を聞いていなかったのは二人だけだった。

手紙が終わり、閉式のアナウンスが流れた。ゲストが席を立ち始めた。

瑠衣も立った。灯も本をしまって立った。

会場の出口に向かって歩いていると、前を歩くスタッフ二人の声が聞こえてきた。

「略奪婚の修羅場になるかと思ったけど」

「案外普通だったよね」

小さく笑い合いながら、別の通路に消えていった。

普通。

そう見えたなら、うまくやれたということだと思った。それ以上でも以下でもなかった。

クロークで番号札を渡すと、スタッフがキャリーケースを運んできた。

灯が見た。

「式の後、ご旅行ですか」

「いえ」

 少し迷ってから、答えた。

「お恥ずかしながら、今日から家がなくなりまして」

 沈黙。

 灯は驚かなかった。表情も変わらなかった。「それは大変ですね」とも言わなかった。ただ少しの間、無言でいた。

 灯がスーツのポケットに手を入れた。

 鍵が出てきた。小さなメモと一緒に。

 差し出した。

「空き家があります」

 瑠衣は固まった。

「……はい?」

「住みます?」

 傘を貸しますか、と同じくらいの口調だった。声に迷いがなかった。大きな決断をしている顔ではなかった。

 鍵を見た。本物だった。メモを見た。住所が書いてあった。見たことのない地名だった。

「あの、叔父さんですよね」

「そうです」

「今日初めてお会いしましたよね」

「そうです」

「なぜですか」

 灯は少し考えた。

「空き家は人が住まないと傷みます。あなたには家が必要です。条件が合いました」

 それだけだった。親切にしようとしている顔ではなかった。計算した顔でもなかった。ただ筋道を言った顔だった。

「……ご迷惑では」

「私が提案しています」

 言い返せなかった。

 鍵と住所を見た。選択肢を数えた。今夜泊まれる場所、明日から住める場所、頼れる人間。

 何もなかった。

 今日会ったばかりの人間の家か、ネットカフェか。それだけだった。

「……お借りしてもよいですか」

「どうぞ」

それで終わった。

 出口では新郎新婦が並んでいた。ゲストを一人ずつ見送っていた。

 父が来た。

「元気でな」

 母が続いた。

「あなたなら大丈夫よ」

 真衣が笑った。

「私たち幸せになるねー」

「うん」

 それだけ答えて、歩いた。

 振り返らなかった。会場の明かりが背中から遠ざかっていくのがわかったが、確認しなかった。

 何か感じるかと思ったが、何も感じなかった。ただキャリーケースが少し重かった。

 夜風が冷たかった。

 駅へ向かう道で、メモをもう一度開いた。

 住所と、名前。

 相沢 灯。

 席次表で見た名前だった。今日初めて顔を見た。本を聞いていた人だった。キャンドルを吹き消した人だった。「今日を生き延びたことに」とグラスを上げた人だった。

 この一日で一番言葉を交わした相手が、今日初めて会った父の弟だった。

手の中の鍵が少し重かった。

 これ、どうする。

 答えはもう出ていた。

 鍵を握った。冷たかった。金属の、ただそれだけの重さだった。出ていたけれど、もう少しだけ考えるふりをしながら、瑠衣は駅への道を歩いた。

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