登入朝、瑠衣が灯火書房の扉を開けると、いつもの時間には聞こえる藤堂の声がなかった。受付を通り、資料室へ向かう途中で時計を見る。始業時刻を少し過ぎている。 いつもなら誰より先に来ている藤堂の机には、まだ鞄がなかった。昨日まで置かれていた小さな菓子袋もない。瑠衣が席についたところで、入口の扉が開いた。 しばらくして藤堂が入ってきた。息を切らしているわけでもなく、髪が乱れているわけでもない。鞄を机の脇に置くと、いつものように資料を抱えた。「おはようございます」「おはようございます」 それだけだった。 藤堂はパソコンを立ち上げ、昨日の続きの資料を机へ並べた。いつもと同じ手つきだった。 午前中、藤堂はいつも通り仕事をした。遅れてきたことには触れなかった。瑠衣も触れなかった。ただ、いつもより少しだけ動作が遅い気がした。資料を手渡すときも、机に置くときも、ほんの少しだけ。 昼休み、瑠衣が席を立とうとしたとき、藤堂の机の上に古い社員証のようなものが置かれているのが見えた。角が擦れ、写真も今より若い。藤堂はそれを指先でなぞっていた。 瑠衣の気配に気づくと、藤堂はすぐに裏返した。「昔のものです」「……そうなんですか」 藤堂は社員名簿を元の場所に戻した。丁寧に、ゆっくりと。それから別の資料に手を伸ばした。話は終わった。そういう空気だった。瑠衣は抱えていた資料を棚に並べながら、その背中を少しだけ見た。藤堂の肩幅は、思っていたより小さかった。いつも資料を抱えて歩いている姿しか見ていなかったから、気づかなかった。 午後、瑠衣が資料を運んでいると、資料室の隅で藤堂が古いファイルを整理していた。茶色く変色した紙が何冊も並んでいる。表紙には年度が手書きされていた。 瑠衣が一冊を持ち上げると、中から古い社員名簿が滑り出した。紙は薄く、端が少し波打っている。 目を走らせていくと、藤堂の名前があった。日付は二〇〇〇年代の初めだった。「藤堂さん、長いんですね」「そうですね
出勤すると、入口で藤堂が待っていた。「昨日の資料、ちゃんと眠れました?」 瑠衣は靴を脱ぎかけたところで止まった。「……資料ですか?」「はい」 藤堂は真顔だった。「大丈夫です」「ならよかったです。でも今日は無理しないでくださいね」 瑠衣は鞄を置き、昨日使った机へ向かった。 席につくと、今度は御厨が机の横に立った。「昨日動かした資料、戻してください」「すみません」「いえ。戻す場所はこちらです」 指された棚へ目を向ける。 昨日は同じように見えた背表紙が、今日は少しだけ違って見えた。御厨が示した位置には、青いファイルが三冊並んでいる。「左から二冊目です」「はい」 手を伸ばす前に、御厨が続けた。「その隣には触らないでください」「分かりました」 資料を戻す。 その直後だった。「そのファイル、表紙の紙が違いますね」 氷川がいつの間にか隣にいた。 瑠衣は藤堂、御厨、氷川の順に顔を見た。「……はい」 朝から、三人とも元気だった。 資料整理を始めてしばらくすると、また藤堂が来た。「お昼、ちゃんと食べますよね?」「はい」「昨日の昼も少なかったですよね」「見てたんですか?」「新人教育ですから」 真顔のまま離れていく。 その背後から御厨が手を伸ばした。「この資料だけは分類を変えないでください」「分かりました」「場所を覚えるまで、付箋を貼っても構いません」 御厨が一枚の付箋を置いた。「ただし、貼る位置は右上です」「……はい」 御厨が去る。 瑠衣が付箋を見つめていると、今
朝、灯火書房の前に立った。大きな看板もなく、三階建ての古いビルの一角だけが事務所になっている。ガラス扉の向こうに受付があった。 外から見るより中は明るかった。入口脇には新刊の見本が数冊並び、奥からコピー機の作動する音が聞こえる。人の気配はあるのに、どこか静かな会社だった。 「本日から資料整理・事務補助として勤務する和久井瑠衣です」 名乗った声が少し硬い。瑠衣は一度だけ指先を握り直した。「藤堂さんがお待ちです」 案内された廊下を、背筋を伸ばして歩いた。 奥から、きびきびした足音が近づいてきた。五十代半ばほどの女性が立ち止まり、瑠衣を上から下まで一度だけ確認する。 「藤堂です。今日からよろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「新人だからって、甘やかすつもりはありませんからね」 瑠衣の背筋がさらに伸びた。 「……とはいっても、初日だから無理はしないでくださいね」 「はい」 「分からないことがあったら聞いてください。忙しそうに見えても大丈夫ですから」 「はい」 「あと、お昼はちゃんと食べてくださいね」 藤堂は真顔だった。眉一つ動かさない。 「新人教育って、最初が大事ですから」 瑠衣は一瞬、返事をするのを忘れた。 「……ありがとうございます」 「いえ。仕事ですから」 そう言って朱音は資料の束を抱え直した。表紙が少しずれている。 「それと、分からないまま進めるのが一番困ります。遠慮しないでください。聞かれたほうが私も助かります」 「分かりました」 「それから、冷房が寒かったら言ってくださいね」 そこまで聞いて、瑠衣の肩がようやく下がった。 「はい」 「では、資料室へ行きましょう」 案内された部屋の扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。 棚が壁際を埋めている。ファイルは背表紙をこちらに向けて並んでいるものもあれば、横倒しになったものもある。机の上には封筒、綴じられた契約書、新聞の切り抜き。床際にも箱が重なり、通路だけが細く残っていた。窓は一つしかなく、午後になる前なのに部屋の奥は少し薄暗い。 古い紙の乾いた匂いに混じって、インクのような匂いもする。誰かが少し前まで作業していたのか、机の端には開いたままのホチキスと、切り取られた紙片が置かれていた。天井近くの換気扇が低く唸り、紙の
朝、灯火書房の前に立った。大きな看板もなく、三階建ての古いビルの一角だけが事務所になっている。ガラス扉の向こうに受付があった。 外から見るより中は明るかった。入口脇には新刊の見本が数冊並び、奥からコピー機の作動する音が聞こえる。人の気配はあるのに、どこか静かな会社だった。「本日から資料整理・事務補助として勤務する和久井瑠衣です」 名乗った声が少し硬い。瑠衣は一度だけ指先を握り直した。「藤堂さんがお待ちです」 案内された廊下を、背筋を伸ばして歩いた。 奥から、きびきびした足音が近づいてきた。五十代半ばほどの女性が立ち止まり、瑠衣を上から下まで一度だけ確認する。「藤堂です。今日からよろしくお願いします」「よろしくお願いします」「新人だからって、甘やかすつもりはありませんからね」 瑠衣の背筋がさらに伸びた。「……とはいっても、初日だから無理はしないでくださいね」「はい」「分からないことがあったら聞いてください。忙しそうに見えても大丈夫ですから」「はい」「あと、お昼はちゃんと食べてくださいね」 藤堂は真顔だった。眉一つ動かさない。「新人教育って、最初が大事ですから」 瑠衣は一瞬、返事をするのを忘れた。「……ありがとうございます」「いえ。仕事ですから」 そう言って朱音は資料の束を抱え直した。表紙が少しずれている。「それと、分からないまま進めるのが一番困ります。遠慮しないでください。聞かれたほうが私も助かります」「分かりました」「それから、冷房が寒かったら言ってくださいね」 そこまで聞いて、瑠衣の肩がようやく下がった。「はい」「では、資料室へ行きましょう」 案内された部屋の扉を開けた瞬間、紙の匂いがした。
求人票を見返す日が、何度か続いた。机の引き出しから取り出し、蛍光灯の下で文字をなぞり、また戻す。何度目かの夜、瑠衣は求人票の端がすでに柔らかくなっていることに気づいた。折り目の部分が、指の圧で白く筋になっている。手にするたび、同じ場所に視線が落ちる。その繰り返しの中で、瑠衣はある夜、パソコンを開いた。 応募フォームの画面には、いくつもの入力欄が並んでいた。氏名、経歴、志望動機。カーソルが点滅する志望動機の欄で、指の動きが止まった。エアコンの音だけが、静かな部屋の中で低く続いている。窓の外を、遠くの電車の音が一度だけ横切っていった。 しばらく考えてから、文字を打ち込んでいく。書いては消し、また書き直す。何度目かの文面で、ようやく手が止まった。 「広告代理店に勤務していた際、資料整理や企画業務に携わっていたため、貴社の業務に活かせると考えました」 打ち終えた文章を、もう一度読み返す。灯の名前は、どこにも書かなかった。個人的な関係を示す言葉は、一文字も入れなかった。文面を三度読み直し、誤字がないことを確かめてから、画面を見つめたまま、瑠衣はしばらく動かなかった。それから、送信ボタンにカーソルを合わせ、押した。画面が切り替わり、受付完了の表示が出る。それだけのことに、思ったより長く目を落としていた。パソコンを閉じたあとも、しばらく机の前に座ったままだった。 数日後、スマートフォンに着信が入った。灯火書房の採用担当者からだった。面接の日程を告げる声を、瑠衣はメモを取りながら聞いていた。通話を切った後、カレンダーアプリにその日付を入力する。予定の欄が、久しぶりに文字で埋まった。 面接当日、瑠衣は指定された住所へ向かった。ビルの入口に掲げられた社名を確認し、自動ドアをくぐる。ロビーはガラス張りで、朝の光が床のタイルに反射していた。受付で名前を告げると、案内の社員が奥へと導いてくれた。案内の社員は歩きながら、簡単にフロアの説明をしてくれたが、瑠衣の意識は半分、周囲の景色に向いていた。 廊下の両側には、ガラス張りの資料室がいくつも並んでいた。棚には古い書物と、電子端末が並列に置かれている。紙の匂いと、機械の静かな稼働音が混じり合っていた。ラベルの貼られた資料の背に、几帳面な文字で
午前、ハローワークの求人検索コーナーには、蛍光灯の白い光が均一に落ちていた。 壁際に据えられた棚には、透明なファイルに入った求人票がずらりと並んでいる。空調の音が低く響き、時折、順番を呼ぶアナウンスがそこに重なった。掲示板の隅には、季節外れのポスターが少し色あせたまま貼られている。床のタイルは、朝の混雑の名残でわずかに靴跡が残っていた。長椅子に座る人々の中には、スーツ姿の若者もいれば、瑠衣と同じくらいの年頃の人もいた。 瑠衣はファイルを一枚ずつ手に取り、めくっていった。紙の表面はどれも少し湿り気を帯びていて、指先に薄く貼りつくような感触がある。広告代理店での経験を活かせる仕事。事務職。広報補助。資料整理。見出しの文字を目で追い、給与、勤務時間、勤務地の欄を確認しては、次のファイルへ手を伸ばす。棚の前を数歩ずつ移動しながら、同じ動作を繰り返した。フォントの大きさも、紙の質も、それぞれ少しずつ違っている。会社によって、求人票の作り方にも差があるのだと、瑠衣はぼんやり思った。 なかなか、条件に合うものが見つからなかった。近くの窓口で相談していた別の求職者の声が、途切れ途切れに耳に入る。子どもを連れた女性が、隣のブースで担当者と何か話し込んでいた。瑠衣は担当者のいる窓口へ向かい、腰を下ろした。「前職の経験を活かしたいんですけど、なかなか難しくて」「これまでの経験は十分ありますよ」 担当者はそう言いながら、画面に表示された求人をいくつか印刷してくれた。プリンターの排出音が、静かなフロアに小さく響く。瑠衣はそれを受け取り、また棚の前へ戻った。求人票を一枚ずつ手に取りながら、ゆっくりと歩を進めていく。窓の外では、駐輪場に自転車を停める人
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。 天井が違う。染みがない。高い。白い。 ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。 スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。 「無理して来なくていいぞ」 「出ます」 少し間があった。 「そうか」 それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六