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第292話

Author: 山田吉次
蒼生は、竹内家のクルーズ船でのことをよく覚えていた。

そのとき美羽は淡い緑色のスリットドレスを着ていた。

髪をまとめ、簪を挿し、手すりを支えながら階段を上ってくる姿は、しなやかに揺れて、まるで三月の川辺で風にそよぐ柳の枝のようだ。

――自分が彼女に興味を抱いたのは、あの時からだったのかもしれない。

「霧島社長、オーダーでしたら人違いかと思います」美羽は淡々と告げた。

蒼生は勝手に話を進めた。「スリットドレスを仕立てるのが上手な職人を知っているんだ。今度、その色のを一着仕立てて贈ろうか?サイズは?……それとも週末に俺が直接連れて行ってあげよう。スリットドレスはやっぱりオーダーメイドがいいからな」

「……」美羽は、蒼生には妙な特技があると気づいた。

それは、自分の聞きたいことしか耳に入れず、自分の言いたいことしか言わない、というものだった。

彼女は、専横な男翔太も、礼儀正しい男慶太も見てきた。

だが、これほどまでに無頼な男は、蒼生で初めてだった。

「失礼します、霧島社長。お手洗いに行ってきます」これ以上相手をしていられず、彼女はそう言って足早に離れた。

しばらく歩いて振り返ると、蒼生はすでに別の人と談笑しており、美羽は思わず呆れて首を振った。

そして再び前を向いた、その刹那――

トレイを手にしたウェイターが横をすり抜けた!

思わず数歩後ずさった。

トレイにはいくつものグラスが並び、このままぶつかれば全て彼女の体にかかるところだった。

頭をよぎったのは――これはわざと?

顔を上げ、ウェイターに問い質そうとした瞬間。

背後から、突然誰かが彼女の首元の紐を強く引き下ろした!

今日のドレスは首掛けタイプで、首のリボン一本で支えられている。そのリボンの紐が緩んだ瞬間、ドレス全体がずるりと落ちかけた。

反射的に胸元を押さえ、間一髪で露出を防いだ美羽は、勢いよく振り返った。

――そこに立っていたのは、千聴だった。

「きゃっ、どうしてこんな場で服がはだけるの?目立ちたいにしてもやり方が下品すぎるんじゃない?」千聴が大げさに叫んだ。

その声で、周囲の視線が一斉に集まった。

美羽は、まさか彼女がこんなことを仕掛けてくるとは夢にも思わなかった。

翔太が眉をひそめ、結意の手を振り払って駆け寄ろうとした。

だが、それより早く慶太が自分のジャケッ
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