共有

14.百貌様

作者: 渡瀬藍兵
last update 公開日: 2025-10-09 22:42:54

 階段は、一段上がるたびに軋んだ。

 ぎし、ぎし、と古い木の悲鳴が足裏から伝わってくる。

 穂乃果は俺の背中に額を押しつけたまま、ほとんど目を伏せるようにしてついてきていた。

 二階へ上がると、廊下には五つの扉が並んでいた。

 どの扉も閉まっている。

 窓から差し込む夕日の赤だけが、床板の上に細長く伸びていた。

 その奥。

 一番突き当たりの部屋の前に、またあの老婆が立っていた。

 血に濡れた顔。

 白く濁った目。

 苦しげに歪んだ口元。

 老婆は、ゆっくりと腕を持ち上げる。

 伸びた人差し指が、目の前の扉を指していた。

 ――中へ入れ。

 そう言っているように見えた。

「……」

 俺は小さく頷いた。

 近づくと、老婆の輪郭がすうっと薄れていく。血に濡れた袖も、伸ばされた指も、白く濁った目も、夕闇に溶けるように消えていった。

 間違いない。

 あの老婆は、俺を導こうとしている。

 俺は扉の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけた。

 金属は冷たかった。

 妙に湿っているようにも感じた。

 ゆっくり押す。

 扉は、抵抗なく開いた。

 そこは、広い書庫だった。

 壁一面に本棚が並んでいる。天井近くまで詰め込まれた本の背表紙が、薄暗い部屋の中で静かにこちらを見下ろしていた。奥には長机が置かれていて、古い椅子が一脚だけ引かれている。

 きっと、そこで読んでいたのだろう。

 誰かが。

 長い時間をかけて。

「……すごい本の量だな」

 思わず呟く。

 本棚に近づき、背表紙を目で追った。

 霞沢県の歴史。

 古代信仰の変遷。

 郷土史。

 山岳信仰の民俗学。

 そして、神鳴山の起源に関する本。

「秋崎さんって、考古学者だったのか?」

「えっと……確か、そう。お母さんの方が考古学者だったはず……」

 穂乃果が、俺の背中から少しだけ顔を離す。

「なんで分かったの?」

「ここ、本の種類が偏ってる。地理から歴史、民俗学まである。趣味で集めるにしては、量が多すぎるんだ」

 ただ、古い本ばかりというわけでもなかった。

 比較的新しい装丁の本も、何冊か混じっている。

 その中で、一冊の背表紙が目に留まった。

 ――霊との向き合い方。

 著者、櫻井悠斗。

「……」

 気づけば、その本を手に取っていた。

 今の俺には、霊が見えてしまっている。

 昨日の叶。

 この家の老婆。

 普通なら見えないはずのものが、当たり前みたいに視界へ入り込んでくる。

 なら、こういう本に手が伸びるのも、自然なことなのかもしれない。

 適当なページを開く。

 そこには、霊とは心に強い未練を残した存在であり、我々と同じくかつては生きていた人間である、といった内容が書かれていた。さらに、霊に対して恐怖だけで向き合うな、相手が何を伝えようとしているのかを考えろ、と続いている。

 妙に細かい。

 怪しげな本かと思ったが、書き方は意外なほど冷静だった。

「……どうしたの?」

 穂乃果が恐る恐る俺の手元を覗き込む。

「悪い。ちょっと気になってな」

「霊との……向き合い方……」

 表紙の文字を読んだ穂乃果の声が、少し沈んだ。

「輝流は、本当に幽霊が見えるようになっちゃったんだね……」

「まあな。でも、別に日常生活に支障が出るわけじゃないし、構わない」

 言ってから、自分で少しだけ鼻を鳴らした。

 ずいぶん他人事みたいな言い方だ。

 普通はもっと焦るところだろう。

 霊が見えるようになった。知らない女に指輪を返せと言われた。血まみれの老婆に導かれて、誰もいない屋敷の二階まで来ている。

 どこを切り取っても、まともじゃない。

 なのに俺は、案外こうしていられる。

 穂乃果の方が、よほど正しい反応をしていた。

「み、見たところ……書庫みたいだね」

「ああ。孝之さんの書庫ほど広くはないけど、それでも十分な量だ」

 本を棚に戻そうとした時、別の一冊が目に入った。

 古びた背表紙に、黒い文字でこう書かれている。

 ――山ノ神。

 俺は『霊との向き合い方』を棚へ戻し、その本を手に取った。

 ページをめくると、神鳴山についての記述が目に入る。

 神鳴山には古来より、山ノ神が坐すと伝えられている。

 その一文で、俺の指が止まった。

「……山ノ神」

 俺が呟くと、穂乃果が肩越しに本を覗き込んでくる。

「それ……私たちが知ってる話に近いね」

「ああ」

 町の人間は、神鳴山そのものが人を喰うと信じている。

 山に近づくな。

 山に入れば喰われる。

 夜に神鳴山の方を見てはいけない。

 子供の頃から、嫌というほど聞かされてきた。

 けれど、俺と穂乃果は少しだけ違う話を知っている。

 穂乃果は昔から、この土地の歴史や伝承を調べるのが好きだった。白石孝之が残した記録を見つけては、俺に話して聞かせていた。

 だから俺たちは知っている。

 人を喰うのは、山そのものじゃない。

 山にいる、何か。

 山ノ神だ。

 俺は、さらに続きを読んだ。

 山ノ神は定まった貌を持たず、人の前に現れる時、死者の貌を借りることがある。

 失せ人の貌を借りることがある。

 山へ消えた者の貌を、その身に宿すことがある。

 背筋に、冷たいものが走った。

「顔を……借りる神様……?」

 穂乃果の声が震える。

「らしいな」

 俺は本から目を離せなかった。

 さらに下の行へ視線を落とす。

 山より帰らぬ者、その貌は神のものとなる。

 故に人々はこれを畏れ、いつしか百の貌を持つもの、すなわち――。

「|百貌様《ひゃくぼうさま》……」

 声に出した瞬間、部屋の空気がわずかに沈んだ気がした。

「百の貌を持つ神、ってことか」

 穂乃果は青ざめた顔で、小さく首を振る。

「でも、それって……百の顔を持ってるんじゃなくて……」

「ああ」

 俺はページを見下ろしたまま、奥歯を噛んだ。

「百人分の貌を、持ってるって意味かもしれない」

 言葉にした途端、書庫の奥がやけに暗く見えた。

 死者の貌。

 失せ人の貌。

 山へ消えた者の貌。

 それがただの伝承なら、よくできた怪談で済んだ。

 けれど今の俺は、血まみれの女を見ている。

 指輪を返せと訴える秋崎叶を見ている。

 そして、この家の中で、血に濡れた老婆に導かれている。

 ただの昔話だと笑えるだけの距離は、もう残っていなかった。

 その時だった。

 バタン、と激しい音を立てて、書庫の扉が閉まった。

「ひゃっ!?」

 穂乃果の肩が跳ね上がる。

「なになになに!? 今度はなに!?」

 俺はすぐに扉の方を見た。

 そこに、老婆が立っていた。

 扉の前。

 穂乃果の少し先。

 血に濡れた姿で、こちらを見ている。

 だが穂乃果は、老婆に気づいていない。閉まった扉だけを見つめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「扉が勝手に閉まるなんて……もうやめてよ……」

 やっぱり、見えてないのか。

 俺は穂乃果の手を引き、自分の背中側へ回した。

「きゃっ……な、なに?」

「穂乃果。俺の後ろにいろ」

「え……?」

「霊が、いる」

 その言葉を聞いた瞬間、穂乃果の顔から血の気が引いていった。

 何も見えていないはずなのに、俺の背中へぴたりとくっつく。震える手が、俺の服をぎゅっと掴んだ。

 老婆の口が、ゆっくりと動く。

『……に……を……み……』

 声は、ほとんど声になっていなかった。

 喉の奥で擦れ、途切れ、空気だけが震えている。言葉の形になる前に、音が崩れていく。

「……にを、見て?」

 俺が聞き返すと、老婆は苦しげに顔を歪めた。

 違う。

 そう言うように、ゆっくりと首を横に振る。

『に……わ……を……み……て……』

「庭を見て、か?」

 反射的に窓の方へ目を向ける。

 夕闇に沈みかけた庭が見えた。

 伸び放題の草。赤く染まった土。風もないのに、背の高い雑草だけがゆらゆらと揺れている。

 何かあるのか。

 そう思った瞬間、老婆が激しく首を振った。

 血に濡れた髪が頬に貼りつき、白く濁った目が苦しげに俺を見つめる。

『に……っ……』

「二階?」

 ここはもう二階だ。

 自分で言っておきながら、違うと分かる。

 けれど老婆の声はあまりにも途切れ途切れで、拾える音が少なすぎた。

 老婆は、また首を横に振る。

 違う。

 そうじゃない。

 もっと別のもの。

『にっ……き……を……』

「……にっき?」

 その言葉が形になった瞬間、老婆の濁った目がわずかに見開かれた。

『み……て……』

「日記を、見て……?」

 老婆が、ゆっくりと頷いた。

 穂乃果が俺の背中で小さく息を詰める。

「輝流……なに? 何て言ってるの……?」

「日記を見ろ、だと」

「日記……?」

 老婆は答えなかった。

 ただ、俺たちに背を向ける。

 そして、ついて来いと言うように、書庫の外へゆっくりと歩き出した。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十六話:か細い生命の灯火

    静寂は、絶望によく似ていた。  病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。  そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。  その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。  ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。  ピッ、ピッ、ピッ。  無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」  喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」  自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。  悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。  だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。  無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。  知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。  知らなければならない。  何が起きたのか。  どうして、こんなことになったのか。  もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」  ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。  虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」  言葉を選ぶ。  薄氷を踏むみたいに、慎重に。  今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」  そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」  言葉の先が、嗚咽に変わる。  震えが強くなる。  俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。  何かを言ってやりたかった。  大丈夫だ、とか。  助かる、とか。  そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。  でも、言えなかった。  今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十五話:燈子に起きた悲劇

     ――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十四話:黒い木箱

    「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十三話:死よりも辛いこと

    憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十二話:紅色の御守り

    再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   第五十一話:山姥への説得

    対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   16.白石孝之の調査録

     俺と穂乃果は、その場に立ち尽くしていた。  開かれた日記の最後のページには、もう何も書かれていない。  七月六日。そこで、叶の言葉は途切れていた。  妙な居心地の悪さが、胸の奥に沈んでいく。  白紙のページは、ただ白いだけだ。  なのに、そこには何かがびっしりと書き込まれているような気がした。  書かれなかった言葉。  書けなかった理由。  そして、その翌日に起きたこと。  背中を、冷たい汗が一筋流れた。 「輝流……これ……」  穂乃果の声も、ひどく小さかった。  考えたくはない。  でも、そういうことなのだろう。  叶は、その次の日に死んだ。  本来なら、新婚

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   15.叶の日記

     老婆の後に続くと、書庫のさらに奥へ出た。  本棚と本棚の間に、細い通路がある。人ひとりが通るだけで肩が触れそうな幅だった。両側から古い本の背表紙が迫ってきて、埃と紙の匂いが濃くなる。  その突き当たりに、もうひとつ机があった。  長机ではない。もっと小さな、誰かがひとりで座るための机だ。窓から離れているせいで薄暗く、机の上だけが影の中に沈んでいる。  老婆は、その机の前で足を止めた。  俺が近づくと、また姿が薄れていく。血に濡れた肩も、皺だらけの手も、白く濁った目も、静かに空気へ溶けていった。  あとには、机だけが残された。 「……これは」  机の上には、一冊のノートが置かれ

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   13.招き入れたもの

     俺たちが玄関をくぐった瞬間だった。  背後で、扉が勢いよく閉まった。  バタン、と屋敷中に響くような音がして、穂乃果が短く悲鳴を上げる。 「きゃぁっ!」  握っていた手に、ぎゅっと力がこもった。  俺は一度だけ振り返る。  ついさっきまで夕日の赤を背負って開いていた扉は、今は何事もなかったように閉じていた。 「……扉が勝手に閉まったな」 「な、なんでそんなに冷静なのぉ……!」  穂乃果の声は、ほとんど泣き声だった。 「いや、だって俺たちはもう、不自然に開いた扉の中に入ってるんだぜ。今さら閉じたところで、おかしさとしては順当だろ」 「た、たしかに……って、そうじゃなくて!

  • 縁が結ぶ影 〜神解きの標〜   12.時間が止まった家、誘う扉

     夕日は、秋崎邸の屋根を赤く照らしていた。  燃えているみたいだ、と思った。  もちろん、本当に火がついているわけじゃない。傾いた陽が瓦に反射しているだけだ。けれど、周りに家が一軒もないせいで、その赤だけが妙に浮いて見えた。  二階建ての、かなり大きな家だった。  古い。  だが、ただの廃屋という感じでもない。  庭がやけに広く、門から玄関までの距離もある。伸びた草が夕風に揺れていて、誰も住んでいないはずなのに、まるでここだけ時間の流れから取り残されているようだった。 「まさか、直接来ることになるなんてな」  俺がそう呟くと、隣で穂乃果が小さく肩を跳ねさせた。 「そ、そ、そう

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status