Mag-log in黒崎の身体が、見えない鎖に縛られたように硬直している。痙攣はまだ続いていたが、先ほどの爆発的な暴力は完全に封じ込められていた。
「はぁ……、はぁ……」 悠斗は床に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返す。指先の感覚が遠い。視界の輪郭がぼやけ始めている。 「おいおい……! どうしたんだよ! 何が起きてんだ!?」 春雪が悠斗の肩を掴み、顔を覗き込む。霊眼を持たない彼には、この場で何が起きているのか一切見えていない。痙攣する黒崎も、胸を押さえてうずくまる石津も、そのどれも。ただ親友が暗闇の中でぼろぼろになって座り込んでいるという事実だけが、春雪の目に映る全てだった。その顔に浮かぶ不安が、痛いほど真っ直ぐで。 「もう、大丈夫だよ…」 そう告げた瞬間、糸が切れた。安堵が堰を壊すように全身に広がり、緊張だけで支えていた意識が急速に傾いでいく。視界が明滅し、春雪の声が水の底から聞こえるように遠ざかって—— 革靴の足音が、それを引き戻した。 規則正しく、けれど硬い足取り。コンクリートの床を叩くローファーの音が、通路の奥から近づいてくる。 『くそ……! なんだこれ……!? こんなもの…っ!』 黒崎が結界に抗い、もがく。しかしその声に先ほどまでの威圧はない。力を振り絞るほどに封印の術式が締め上げるのか、藻掻くたびに身体の痙攣が強くなっていく。 「無駄ですよ」 足音が止まった。 「あなたを縛り付けている結界は、力を失ったあなたには破れません」 美琴だった。薄暗い通路の向こうから姿を現した彼女の表情を見て、悠斗の背筋に別種の緊張が走る。 怒っている。 普段の美琴からは想像できないほど、はっきりと。眉間に刻まれた皺、薄く引き結ばれた唇。制御された所作のひとつひとつに、押し殺した感情の圧が滲んでいた。まずい、と悠斗は直感した——ただしその直感が何に対する「まずい」なのかは、まだ言語化できていない。 『弱くなったァ!? どういうことだ!?』 黒崎が喚く。結界に縛られた身体で、なお虚勢を張ろうとする。 『い……った……た……』 石津が片膝をつきながら、声を絞り出した。胸の傷を押さえ、苦痛に歪む顔のまま、それでも黒崎を見据えている。 『く、黒崎…。お、お前は自分の力で霊としての力を持っていた訳じゃないんだとよ……』 『はぁ!? 何言ってやがる! 俺は強えー!!』 「残念ですが、あなた一人の力では私の足元にも及びません」 美琴の声に温度がない。事実を述べているだけの、平坦な響き。それがかえって、言葉の刃を研いでいた。 「あなたはあなたが殺めた人の憎しみのおかげで強くなってしまった。言わば、偽物の力です」 黒崎のプライドを、最も効率的に抉る一言。美琴がそれを意図して選んだのか、それとも苛立ちが選ばせたのかは分からない。 『くそ……! ふざけんじゃねぇよ! 離せ!』 黒崎の前で足を止めた美琴が、もがく霊の身体に御札を一枚、貼りつけた。それから——人差し指の先で、ちょん、と胸を押す。 それだけだった。 指一本の、ほんのわずかな力。それだけで黒崎の身体は抵抗する間もなく仰向けに倒れ、コンクリートの床に背中を打ちつけた。 『ゔっ゛』 呻き声を最後に、黒崎は動かなくなった。消滅したのではない。結界と御札が完全に自由を奪い、身動きひとつ取れない状態に封じ込めたのだ。 美琴が、悠斗のほうへ振り返った。 「美琴、助かっ——」 「どうして無茶したんですか!!」 声が、通路を叩いた。 「ひっ……!」 隣で春雪が小さく跳ねる。霊も見えず状況も分からないまま、突如現れた少女の怒声に本能で竦んだらしい。悠斗もまた、言葉を喉の奥に押し戻されていた。 「私、言いましたよね!? 危ないと感じたら、絶対に呼んでくださいって!」 美琴の瞳が真っ直ぐに悠斗を射抜く。紅く染まった霊眼術の残光がまだ瞳の奥にわずかに揺れていて、それが感情の熱を二重に際立たせていた。 「そ、それは……。で、でもほら……美琴が無事で……」 口にした瞬間、悟った。 これは——完全に、最悪の返答だった。自分が無事であることを喜んでほしかったのではない。美琴はそういう話をしているのではない。分かっている。分かっていて、口が滑った。燃え盛る炎に、自ら油を注ぎ込んだ形。 「言い訳しないで!!!!」 美琴の声が割れた。 抑制の効いた彼女が、声を荒げている。それだけで、悠斗には十分だった。自分がどれだけ心配をかけたのか。囮になると告げた時、美琴が何を飲み込んでいたのか。結界を張りながら、どんな思いでこちらの無事を祈っていたのか。その全部が、この一言に凝縮されている。 「今回の先輩の行いは、私を助ける為とは言え、とてつもない無茶だったんですよ!?」 一語一語が、釘を打つように重い。美琴の声は怒りで震えていたけれど、その奥にあるものを悠斗は正確に聴き取っていた。怒っているのではない。怒りの形を借りなければ、もっと脆いものが溢れてしまうから。 「私は……!!」 言葉が、途切れた。 美琴の唇が震え、続くはずだった声が喉の奥に沈んでいく。紅い瞳の縁に、光の膜が揺れていた。 悠斗の胸を、鈍い痛みが突いた。霊の刃とは違う、もっと深い場所にあるもの。自分は勢いだけで走っていたのだと、今さらのように思い知る。囮になると決めたとき、挑発を選んだとき、刺されても走り続けたとき——その全部が、美琴にとってどれほどの重さだったのか。結界を張る手は、震えていなかっただろうか。 「ごめん……。美琴に、負担をかけたくなくてさ……」 美琴の目元を直視できず、声がしぼんだ。 「それは痛いほど分かっています…!」 美琴が一歩、踏み込む。涙を堪えようとする呼吸が、言葉の合間に細く挟まる。 「でも、私だって先輩の事が心配で仕方なかった…! とても不安だったんです。ほんとに呼んでくれるのか、正直疑わしいとさえ思ってしまいました……」 悠斗は何も返せなかった。疑わしい、と美琴に思わせてしまったこと。その不信が正しかったこと。実際に悠斗は呼ばなかった。限界を超えても、刺されても、一度も美琴の名を呼ばなかった。 「うっ……」 反論の余地がない。 「先輩、私に負担をかけないようにしてくれるのは凄くありがたいことです」 美琴の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。 「でも、私は先輩に頼って欲しい。そう強く思ってるんです…!」 「……でも代償が」 「もちろん、代償はあります…」 美琴は頷いた。その事実から逃げない、真正面からの頷き。 「でも、先輩が自分の身より私を大切にしてくれているように、また私も先輩が大切なんですよ……! だから……」 声が震えて、最後まで続かなかった。 悠斗は黙って、その言葉の続きを受け取った。代償を払いたくないのは悠斗の都合で、美琴にとっては悠斗が傷つくことこそが代償なのだ。片方だけが背負う優しさは、もう片方にとっての重荷になる。そんな簡単なことに、どうして今まで気づけなかったのか。 美琴の頬を、涙が伝っていた。一筋ではなく、堰を切ったように。拭おうともせず、ただ悠斗を見つめている。 「美琴、ごめんね。これからは気をつけるよ。負担をちゃんと分け合えるように」 精一杯の、嘘のない言葉。 「本当ですか…? 約束してくれます?」 「うん。約束する」 その声が消えるか消えないかの間に、美琴が動いた。 一歩を踏み出し、悠斗の胸に額を預けるように——抱きしめた。細い腕が背中に回り、制服の布越しに伝わる体温が、霊に冷やされた身体にじんわりと沁みていく。小さな肩が、まだかすかに震えていた。 春雪が目を丸くし、石津の霊が感じ入ったように息をついた。それから二人は、示し合わせたようにそっぽを向く。春雪は天井の配管に急に興味を持ったふりをし、石津は咳払いひとつ落として闇の向こうへ視線を逃がした。 「………」 悠斗は動けなかった。何をすればいいか分からず、両腕が中途半端に浮いたまま硬直している。ただ、振りほどこうとは微塵も思わなかった。 「無事で良かった……」 耳元で、美琴がそう零す。声は小さく、けれどどんな怒声よりも深く悠斗の胸に届いた。 『くそ!! ガキ共!! 見せつけてんじゃねぇ!! このよくわかんねぇのを解きやがれ!』 台無しにするような怒声が、床の上から響いた。仰向けに封じられたまま身動きの取れない黒崎が、結界の中でなお喚いている。 美琴が、ゆっくりと顔を上げた。 悠斗の胸から離れ、涙の跡が残る頬のまま振り返る。その目から柔らかさが消えるのに、一秒とかからなかった。 「うるさいですね」 冷えた声が、工場の闇に落ちる。 間違いなく、今この場で最も恐ろしいのは、殺人鬼ではなく——涙の跡を頬に残したまま、静かに黒崎を見下ろす少女だった。### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
「本当に……するの?」 悠斗の声は、ひどく低かった。押し止めたい気持ちが喉元までせり上がっているのに、それを掴む言葉だけが見つからない。目の前の美琴は静かに立っていて、その静けさがかえって揺るぎのなさを際立たせていた。 「ええ。それが、私の役目ですから」 ──役目。 美琴がその言葉を口にするとき、迷いはいつも消えている。優しさも苦しさも知ったうえで、それでも進むと決めた者の響き。悠斗はもう知っていた。こうなった彼女は、止まらない。いや、止められない。 「悠斗、そんなに考え込んでどうしたんだよ? 美琴ちゃん、なにをするってんだ?」 春雪が戸惑ったように二人を見比べる。事情を
石津が脇腹を押さえ、低い呻きを漏らした。 その姿を見て、悠斗の喉が詰まる。あの傷は自分を庇った結果だ。黒崎のナイフが石津の胸に突き立てられたあの瞬間、もし石津が飛び込んでこなければ、刃は悠斗の背中に届いていた。 「すみません…。僕のせいで…」 『なに、気にするな……っ……。た、大したことじゃない』 石津は脇腹を押さえたまま、片手を振ってみせた。 『そんなことより、まさか本当に黒崎を封じ込めるなんてな』 感嘆というより、安堵に近い響き。工場の主として、従業員を殺した男の暴走を誰よりも長く見てきた霊が、ようやく肩の荷を下ろしたような声だった。 「それはあなたと佐条さんのおかげ
やがて追いつかれたのは、三度目の角を曲がり損ねた時だった。 背中に、冷たい衝撃。 刃が肉を裂く感触はない。血も出ない。けれど魂の表面を鋭利な何かが抉る感覚は、肉体の痛みよりもよほど深く、よほど正確に悠斗の神経を灼いた。霊の刃は肌を素通りし、その奥にあるものだけを傷つける。身体は無傷のまま、中身だけが壊されていく矛盾。 「うっ……!!」 膝が折れかける。視界が歪み、コンクリートの床が急激に近づいた。両手をついて踏みとどまったのは、意志の力というより反射だった。背中から腰にかけて広がる鈍痛が、立ち上がるという動作そのものを拒絶している。 それでも、悠斗は立った。 よろめきな
工場の闇を背に、悠斗は走った。 星燦ノ礫を放った直後の身体は、中身をごっそり抜かれた抜け殻のようだった。肺が軋む。足が重い。全身から力という力が潮のように引いていくのを感じながら、それでも振り返る暇すら惜しんで駆け出していた。 『待ちやがれぇぇぇ!!!!』 背後から、怒号。 『てめぇ!! まじで許さねぇ!!!! ぶっ殺してやる!!』 鉄骨の残響を割るほどの絶叫が工場の空気を震わせる。黒崎剛三——殺意そのものが声帯を得たような咆哮だった。激昂のあまり言葉が短く途切れ、その一語一語が釘を打ち込むように悠斗の背中を叩く。 悠斗は走る。ただ、走る。 右太ももの霊的損傷が着地