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一〇五話:善意の行き止まり

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-06-30 19:00:00

 意識が落ちる感覚は、一瞬だった。

 暗転した視界が開けたとき、悠斗は見覚えのある場所に立っていた。石津製鉄所——ただし、廃墟ではない。天井の蛍光灯が白い光を落とし、機械の駆動音が空気を低く震わせている。鉄と油の匂い。作業着姿の人影が行き交い、フォークリフトのエンジン音が遠くから響く。稼働していた頃の、生きていた頃の工場がそこにあった。

『黒崎』

 声がした。

 悠斗の視線が、声の主を捉える。作業着に安全帽、日焼けした腕。——あの男だった。石津製鉄所に足を踏み入れた時、最初に遭遇した被害者の霊。生前の姿は霊として見た時より幾分か若く、目尻に笑い皺が刻まれている。

『?』

 振り返った黒崎も、生きていた。霊としての青白さはなく、肌には血の色が通い、作業着の袖を無造作にまくり上げている。ただ、その目つきだけは変わらなかった。何もかもを面倒くさがるような、投げやりな光。

『パレットをフォークリフトで下ろして来るから、お前は製鋼工程を頼む』

『うっす』

 返事とも呻きともつかない一音。男は苦笑いを浮かべて去っていった。慣れた反応だったのだろう。黒崎のやる気のなさに、いちいち目くじらを立てる段階はとうに過ぎているという顔だった。

 記憶の空から、声が降ってくる。

 黒崎の内面——本人すら意図しない、剥き出しの独白。霊眼術が過去の記憶に深く潜った時にだけ聞こえる、心の底に沈んだ言葉。

──俺は空っぽだった。昔から、他人に共感なんか出来ねぇ。寄り添うとか思いやりとか、親切とか……そういうの全部、くだらねぇ。

 悠斗は息を呑んだ。

 空っぽ。あの男が、自分自身をそう認識していた。他者への共感が欠落していることを、黒崎は知っていたのだ。知っていて——埋め方が分からなかった。

 場面が、切り替わる。

 工場の喧騒が遠のき、狭い一室が現れた。事務所だろうか。古びたスチール机の向こうに、石津が立っている。生前の石津明。霊として見た姿より肩幅が広く、声にも腹の底から押し出す力があった。

『黒崎っ!!  お前ちゃんと製鋼工程を見ておけと言われたんだろう!?  なぜ見ていなかった!?』

 黒崎は黙っていた。壁にもたれ、腕を組み、石津の目を見ようともしない。

『黒崎…!  聞いているのか!?  お前の不注意で、事故に発展するところだったんだぞ!?』

 石津の怒声には、切迫があった。単なる叱責ではない。本当に誰かが怪我をしかけたのだ。その危機感が声を荒げさせている。

 空から、黒崎の心が落ちてくる。

『……うっせぇな。なんで俺が説教されなきゃなんねぇんだよ。どいつもこいつも偉そうにしやがって……マジでムカつくぜ』

『そもそも俺に任せるのが間違いなんだよ。やらせたいなら、それなりのモンを寄こせっての』

 悠斗の胸に、冷たいものが広がった。

 さっき石津は言った。どうしようもない息子のように思っていた、と。叱ることで矯正しようとしていた、と。けれど黒崎の内側にあったのは、反省でも反発でもなく——自分が特別扱いされて当然だという、歪んだ確信だった。任された仕事を放棄し、その結果を咎められたことに逆上する。自分の怠慢ではなく、頼んだ側が悪いと本気で思っている。

 石津の言葉が届くはずがなかった。器が空っぽなのではない。器の形そのものが、最初から他者を受け入れる構造をしていなかったのだ。

『黒崎……!  しっかりしろ!  お前、もう三十だろう?』

 石津の声が、怒りから別の色に変わっていた。叱責の鋭さが削れ、その奥にあったものが剥き出しになる。

『ちゃんと真面目に仕事をして、いい相手でも見つけろよ。ここをやめるのもいいが、せめて真面目に仕事を出来るように……』

 踏み込みすぎている、と悠斗は思った。上司と部下の距離を、石津は自分から越えてしまっている。それが善意からだと分かるからこそ、この先に待つものが見えてしまう。

『うるせえよ!!  何様だ!?  俺に口出しすんじゃねぇ!』

 黒崎が弾けた。壁にもたれていた身体を起こし、石津を真正面から睨みつける。首筋に血管が浮いていた。

『っ……。そうだな。プライバシーに口を出すのは……俺の落ち度だったな。悪かった』

 石津が、引いた。

 自分が正しいと分かっていても、相手が受け取れないなら引くしかない。その判断ができる人間だった。そしてそれは同時に、この人がいつも損をする側に立つということでもあった。

『でも、真面目に仕事をこなせるようにはなってくれ。お前ここを辞めたらいまのままじゃ、生きていけなくなる』

 最後の一言だけは、譲らなかった。声を荒げるのではなく、静かに、けれど確かに。

 黒崎は答えなかった。答える代わりに踵を返し、事務所の扉を叩きつけるようにして出ていく。安普請の壁が振動し、机の上の書類がばさりと崩れた。

『あぁ……!  クソッ……!  腹立つぜ……!!』

 扉の向こうから、押し殺しきれない怒声が漏れてくる。

 悠斗はその声を聞いていなかった。

 目が離せなかったのは、石津の顔だった。誰もいなくなった事務所で、石津はしばらく扉を見つめていた。怒りではない。諦めでもない。伝わらなかった言葉の重さを一人で飲み込んでいる、あの表情。眉の下がり方、口元の力の抜け方——それが悠斗の網膜に焼きついて離れない。

 石津は本当に、黒崎のことを想っていたのだ。

 想っていなければ、とうにクビを切れたはずだった。勤務態度の悪さ、仕事の放棄、周囲との軋轢。解雇の理由はいくらでもあった。それでも石津はそうしなかった。この工場から放り出したら、黒崎は行き場を失う。いまのままでは、どこへ行っても同じことを繰り返す。だからせめてここで、働くということを——人と関わるということを、身につけさせてやりたかった。

 それは祈りに近い感情だったのだろう、と悠斗は思う。

 報われることのない、静かな祈り。

 場面が移る。

 工場の一角。資材置き場の陰になった、人目につかない場所だった。

『なぁなぁ。あんた俺の事気にかけてくれてたろ?』

 黒崎が、一人の女性に詰め寄っていた。佐条恵。悠斗が言葉を交わし、憎しみの奥の悲しみに触れた、あの女性の生前の姿がそこにあった。作業着姿で、黒崎より頭ひとつ低い。壁際に追い込まれている。

『俺を好きなんだろ?  だったらヤらせてくれよ』

 軽い口調だった。冗談のような声音で、冗談では済まないことを言っている。佐条の顔から、みるみる血の気が引いていく。

『わ、私そんなつもりはありません……!』

 声が震えていた。怯えている。必死に平静を装おうとして、まるで保てていない。身体が壁に張りつくように後退し、逃げ場がないことに気づいた目が泳ぐ。

『あ゙?』

 黒崎の目が据わった。笑みが消え、代わりに浮かんだのは侮蔑だった。

 頭上から、心の声が降る。

──なんだよこいつ。ぬか喜びさせやがって…… 許せねぇこの場で犯してやろうか?

 悠斗の全身が、強張った。

 吐き気がせり上がる。佐条の親切を好意と読み違え、好意を欲望の許可証にすり替え、拒絶されれば報復に転じる——その回路に、人間の感情と呼べるものは何ひとつ混じっていない。相手を一人の人間として見ていない。自分の欲求を満たすか否か、ただそれだけの装置として認識している。

 佐条恵が霊となって抱えていた恐怖と憎悪の根が、今はっきりと見えた。

 理解した、と悠斗は思った。石津の善意も、佐条の親切も、従業員たちの歩み寄りも——黒崎の中では全てが自分本位に変換される。共感の欠落とは、こういうことだった。他者の感情を読み取れないのではない。読み取った上で、自分の都合のいい形に捻じ曲げる。そしてその歪みを、歪みとすら認識していない。

 常人とは、かけ離れている。

 その結論が胸に落ちた瞬間、悠斗は初めて——美琴が強制成仏を選んだ理由を、感情ではなく理屈で理解した。

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