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三十四話:トンネルの記憶

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-05-27 19:27:44

 それから数日が経った。

 休みの都合を合わせ、二人はあの風鳴トンネルへと足を運んでいた。日が西へ傾きはじめた時刻。トンネルの入り口はただ黒い口を開け、ひんやりとした空気を吐き続けている。

「今は……いないみたいですね」

 美琴がトンネルの奥へ視線を向けた。その瞳が、じわりと紅に滲んでいく。|霊眼術《れいがんじゅつ》——彼女だけに許された視界が、暗闇の奥を透かし見ているのだろう。

(やっぱり……紅くなってる)

 気づけば、悠斗はその横顔に目を奪われていた。普段の柔らかな茶色とはまるで違う、幻想的な色。吸い込まれそうなほど深く、神秘的で——

 その瞳が、こちらを向いた。

「先輩、聞いていますか?」

 頬がわずかに膨らんでいる。拗ねているような、呆れているような。

「あっ、ご、ごめん——もう一度」

 視線を逸らし、言葉を絞り出す。耳の奥で心臓の音が、やけに近い。

「今は彼女、いないみたいです。どうやら場所を変えながら現れるようですね」

「……そっか。移動するってことはやっぱり、思い入れのある場所に?」

「そうだと思います」

 美琴は小さく息をつき、トンネルから視線を引き戻した。瞳はいつもの茶色に戻っている。唇に指を当て、何かを確かめるように視線を宙へ泳がせながら、続けた。

「そういえば先輩は、一度彼女の記憶の一部をご覧になったとおっしゃっていましたよね」

「うん。あの……濃い感情が流れてきた時のことだね」

 思い出すだけで、胸の奥が重くなる。あの日、前触れもなく雪崩れ込んできた誰かの記憶——その重さは、きっと彼女のものだ。

「彼女の身に何があったのか——まずはそこを知らないといけませんね。何か、わかったことはありましたか?」

「うーん……。あっ、そういえば——」

 記憶を手繰り寄せながら、言葉を探す。断片的に蘇る映像。激しい声。そして胸の底を焦がすような、あの感情。

「最後のシーンで……お母さんとものすごく揉めていたような気がして。その時だと思う、身を焦がすんじゃないかってくらいの後悔が流れてきたのは」

「後悔……」

 美琴の表情が、わずかに翳る。視線が足もとへ落ちた。風がトンネルの奥から吹き抜け、低く唸るような音を連れてくる。

「……わかりました。先輩が見たというトラックも、きっと無関係ではないはずです」

 呟くように言ってから、美琴がふと顔を上げた。その目に、迷いのない色が宿っている。

「先輩、ここはあれをしましょう!」

「あれって?」

 首を傾げる悠斗に、美琴は人差し指を一本立て、にこりと笑った。

「聞き込み調査です!」

「…………ええっ!?」

 思わず声が裏返る。聞き込み調査——刑事ドラマの中だけの話だと思っていたものが、突然自分の足もとに降ってきた感覚だった。

「善は急げです。行きますよ、先輩!」

 美琴が悠斗の手首を掴み、迷いなく引いた。細い指から伝わる、柔らかな体温。手首の内側がじんわりと熱を帯びていく。

(ま、まいったなぁ……)

 苦笑しながら、悠斗は引かれるままに歩き出した。背後でトンネルが遠ざかり、夕陽が二人の影を道の上に長く伸ばしている。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 夕暮れの住宅地を、二人は並んで歩いていた。トンネルからほど近い、古い家々が点在する一帯。舗装のひび割れた路面を、西日が斜めに染めている。

「情報収集は、近隣住民の方に聞くのがいいでしょうね。さっそく——」

 向こうから、杖をついた老人が歩いてくるのが見えた。

「あちらの方に尋ねてみましょうか」

 美琴が小走りに近づき、丁寧に頭を下げる。

「すみません、少しお話を伺えないでしょうか」

「おや。こんな峠に、お嬢ちゃんみたいな可憐な子が来るなんて」

 老人は足を止め、目尻に皺を寄せて笑った。その人の良さそうな笑みに、美琴の肩からわずかに力が抜けていく。

「ありがとうございます。実は私たち、風鳴トンネルについて調べておりまして……」

「風鳴トンネル?」

 笑みが、すっと消えた。

「二十年前に閉鎖されたあのトンネルね。なんでまた、そんな場所を?」

「昔、よく事故があったと聞きまして」

 美琴の声音は変わらず穏やかだ。けれど悠斗には見えていた——彼女の肩が、ほんの少しだけ固くなっているのが。

「……ああ」

 老人の視線が、遠くへ流れた。風が、トンネルの方角から吹いてくる。

「トラックの事故がよくあったらしいね。今じゃ心霊スポットだなんて言われているよ。君たちも——それが目当て?」

 言葉の端に疑念が滲み、さきほどまでの温かさが一段引いた。

(まずい——)

 反射的に、悠斗は一歩前へ出ていた。

「そ、その! 僕たち、ミステリーサークルをやってまして!!」​​​​​​​​​​​​​​​​

「そういった謎の現象を理論づけて調査するサークル活動をしているんです!」

 咄嗟に吐いた嘘だった。だが正直に話していたら、その時点で会話は打ち切られていただろう。老人の怪訝そうな目が、まっすぐこちらを射抜いている。

「心霊目的で来てるわけじゃ、ないんです!」

 言い切ってから、ぎこちなく笑みをつくった。唇の端が引きつっている自覚はあったが、それでも引くわけにはいかなかった。

「じゃあ別に、心霊スポットとして来ているわけじゃないのかい?」

「は、はい!」

 頷く。ようやく心臓が、少しだけ大人しくなった。

「ふむ……それなら良かった」

 老人の表情から、険しさが溶けた。杖に体重を預け直し、どこか懐かしむように目を細める。

「昔はね、あのトンネルをよく使っていたんだよ。今じゃ車での立ち入りは禁止されてしまってね。おかげで遠回りせざるを得ない。街への唯一の近道だったのに、使うのと使わないのじゃ一時間近く変わってしまうんだよ」

「なるほど……そういった事情でしたか」

 美琴が静かに頷く。その横顔に、申し訳なさのような色がよぎった。

(そっか……)

 悠斗は改めて、周囲を見渡した。古びた家々。静まり返った峠道。トンネルが封鎖されてから、ここに住む人たちが背負ってきた不便——その重さが、今さらになってじわりと沁みてくる。

「それに最近じゃ、若い子がネットで『あのトンネルには人柱が入ってる』だの、『昔、入口前で焼身自殺があった』だの、ありもしないことを書いてるらしいじゃないか」

 老人の声に、静かな憤りが滲んだ。

「……ネットは、そういう無責任な場所ですよね」

 悠斗の声は、自分でも驚くほど低かった。軽い噂話が、本当に苦しんでいた誰かの存在をかき消してしまう——その理不尽さが、喉の奥でくすぶっている。隣の美琴も唇を引き結び、静かに、けれど確かな意志を込めて頷いていた。

「はぁ……」

 老人が深くため息をつく。

「あのトンネルでは悲しい事故があったらしいが、それ以外にそういった事件はないんだがねぇ……」

 ——事故。

 その一言に、胸の奥で何かが引っかかった。

「おじいさん、その事故について……教えていただけますか?」

 老人は少し驚いた様子で悠斗を見つめ、それから視線を遠くへやった。記憶の糸を手繰るように、ゆっくりと口を開く。

「あれは確か……大雨の夜だったかな。一人の若い女性がトンネル内を歩いていたところ、大型トラックに跳ねられる悲惨な事故があったんだよ」

 ——大型トラック。

 脳裏に、あの映像が蘇った。暗闇の中で膨れ上がる光。耳を裂くクラクション。全身を貫いた恐怖の残響が、今この瞬間にまで届いてくるようだった。

「っ……美琴」

 咄嗟に、隣へ小声で呼びかける。茶色い瞳が、こちらを向いた。

「……なるほど。先輩が見たトラックは……」

 それ以上は、言葉にならなかった。言葉にしなくても、伝わっていた。

「その事故は、何年前に?」

「確か……二十年前くらいじゃなかったかな。その後もトラックによる事故が相次いだものだから、あのトンネルは封鎖されたんだ」

 二十年前。その言葉が、胸の底でゆっくりと重みを帯びていく。

「……ネットの軽い噂を信じるわけではないけどね」

 老人は苦々しげに続けた。

「その事故を起こしているのが、その女性の霊なら私だって信じられるんだけど……ありもしないことを書くのはやはり許せないね」

 美琴の表情が、一瞬だけ強張った。それでもすぐに穏やかな笑みを取り戻し、丁寧に頭を下げる。

「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません。……それから、ありがとうございました」

「君たちは心霊スポットとして調べているわけではないのだろうけど」

 老人は二人を交互に見つめ、諭すように言葉を継いだ。

「いかないようにね」

 杖をつく音が、ゆっくりと遠ざかっていく。老人の背中が坂道の向こうに小さくなり、やがて見えなくなった。

「……美琴、もっと色々聞けたんじゃ?」

 悠斗が小声で問いかけると、美琴は首を横に振った。

「聞けたかもしれませんが、これ以上深追いして通報されても大変ですから」

「た、たしかに」

 思わず苦笑が漏れる。彼女の冷静さに、どこか救われたような心地がした。

「ですが、大きな収穫が一つ」

「うん」

 悠斗は静かに頷いた。暗闘の中で迫りくる光。あの恐怖。あれは——彼女が最後に目にした光景だったのかもしれない。そう思った瞬間、喉の奥がきつく詰まった。

「僕が見たトラックだね」

「はい」

 美琴の瞳が、確かな意志を宿して悠斗を見据えた。

「この調子で、聞き込みを続けましょう」​​​​​​​​​​​​​​​​

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