登入それから数日が経った。
休みの都合を合わせ、二人はあの風鳴トンネルへと足を運んでいた。日が西へ傾きはじめた時刻。トンネルの入り口はただ黒い口を開け、ひんやりとした空気を吐き続けている。 「今は……いないみたいですね」 美琴がトンネルの奥へ視線を向けた。その瞳が、じわりと紅に滲んでいく。|霊眼術《れいがんじゅつ》——彼女だけに許された視界が、暗闇の奥を透かし見ているのだろう。 (やっぱり……紅くなってる) 気づけば、悠斗はその横顔に目を奪われていた。普段の柔らかな茶色とはまるで違う、幻想的な色。吸い込まれそうなほど深く、神秘的で—— その瞳が、こちらを向いた。 「先輩、聞いていますか?」 頬がわずかに膨らんでいる。拗ねているような、呆れているような。 「あっ、ご、ごめん——もう一度」 視線を逸らし、言葉を絞り出す。耳の奥で心臓の音が、やけに近い。 「今は彼女、いないみたいです。どうやら場所を変えながら現れるようですね」 「……そっか。移動するってことはやっぱり、思い入れのある場所に?」 「そうだと思います」 美琴は小さく息をつき、トンネルから視線を引き戻した。瞳はいつもの茶色に戻っている。唇に指を当て、何かを確かめるように視線を宙へ泳がせながら、続けた。 「そういえば先輩は、一度彼女の記憶の一部をご覧になったとおっしゃっていましたよね」 「うん。あの……濃い感情が流れてきた時のことだね」 思い出すだけで、胸の奥が重くなる。あの日、前触れもなく雪崩れ込んできた誰かの記憶——その重さは、きっと彼女のものだ。 「彼女の身に何があったのか——まずはそこを知らないといけませんね。何か、わかったことはありましたか?」 「うーん……。あっ、そういえば——」 記憶を手繰り寄せながら、言葉を探す。断片的に蘇る映像。激しい声。そして胸の底を焦がすような、あの感情。 「最後のシーンで……お母さんとものすごく揉めていたような気がして。その時だと思う、身を焦がすんじゃないかってくらいの後悔が流れてきたのは」 「後悔……」 美琴の表情が、わずかに翳る。視線が足もとへ落ちた。風がトンネルの奥から吹き抜け、低く唸るような音を連れてくる。 「……わかりました。先輩が見たというトラックも、きっと無関係ではないはずです」 呟くように言ってから、美琴がふと顔を上げた。その目に、迷いのない色が宿っている。 「先輩、ここはあれをしましょう!」 「あれって?」 首を傾げる悠斗に、美琴は人差し指を一本立て、にこりと笑った。 「聞き込み調査です!」 「…………ええっ!?」 思わず声が裏返る。聞き込み調査——刑事ドラマの中だけの話だと思っていたものが、突然自分の足もとに降ってきた感覚だった。 「善は急げです。行きますよ、先輩!」 美琴が悠斗の手首を掴み、迷いなく引いた。細い指から伝わる、柔らかな体温。手首の内側がじんわりと熱を帯びていく。 (ま、まいったなぁ……) 苦笑しながら、悠斗は引かれるままに歩き出した。背後でトンネルが遠ざかり、夕陽が二人の影を道の上に長く伸ばしている。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 夕暮れの住宅地を、二人は並んで歩いていた。トンネルからほど近い、古い家々が点在する一帯。舗装のひび割れた路面を、西日が斜めに染めている。 「情報収集は、近隣住民の方に聞くのがいいでしょうね。さっそく——」 向こうから、杖をついた老人が歩いてくるのが見えた。 「あちらの方に尋ねてみましょうか」 美琴が小走りに近づき、丁寧に頭を下げる。 「すみません、少しお話を伺えないでしょうか」 「おや。こんな峠に、お嬢ちゃんみたいな可憐な子が来るなんて」 老人は足を止め、目尻に皺を寄せて笑った。その人の良さそうな笑みに、美琴の肩からわずかに力が抜けていく。 「ありがとうございます。実は私たち、風鳴トンネルについて調べておりまして……」 「風鳴トンネル?」 笑みが、すっと消えた。 「二十年前に閉鎖されたあのトンネルね。なんでまた、そんな場所を?」 「昔、よく事故があったと聞きまして」 美琴の声音は変わらず穏やかだ。けれど悠斗には見えていた——彼女の肩が、ほんの少しだけ固くなっているのが。 「……ああ」 老人の視線が、遠くへ流れた。風が、トンネルの方角から吹いてくる。 「トラックの事故がよくあったらしいね。今じゃ心霊スポットだなんて言われているよ。君たちも——それが目当て?」 言葉の端に疑念が滲み、さきほどまでの温かさが一段引いた。 (まずい——) 反射的に、悠斗は一歩前へ出ていた。 「そ、その! 僕たち、ミステリーサークルをやってまして!!」 「そういった謎の現象を理論づけて調査するサークル活動をしているんです!」 咄嗟に吐いた嘘だった。だが正直に話していたら、その時点で会話は打ち切られていただろう。老人の怪訝そうな目が、まっすぐこちらを射抜いている。 「心霊目的で来てるわけじゃ、ないんです!」 言い切ってから、ぎこちなく笑みをつくった。唇の端が引きつっている自覚はあったが、それでも引くわけにはいかなかった。 「じゃあ別に、心霊スポットとして来ているわけじゃないのかい?」 「は、はい!」 頷く。ようやく心臓が、少しだけ大人しくなった。 「ふむ……それなら良かった」 老人の表情から、険しさが溶けた。杖に体重を預け直し、どこか懐かしむように目を細める。 「昔はね、あのトンネルをよく使っていたんだよ。今じゃ車での立ち入りは禁止されてしまってね。おかげで遠回りせざるを得ない。街への唯一の近道だったのに、使うのと使わないのじゃ一時間近く変わってしまうんだよ」 「なるほど……そういった事情でしたか」 美琴が静かに頷く。その横顔に、申し訳なさのような色がよぎった。 (そっか……) 悠斗は改めて、周囲を見渡した。古びた家々。静まり返った峠道。トンネルが封鎖されてから、ここに住む人たちが背負ってきた不便——その重さが、今さらになってじわりと沁みてくる。 「それに最近じゃ、若い子がネットで『あのトンネルには人柱が入ってる』だの、『昔、入口前で焼身自殺があった』だの、ありもしないことを書いてるらしいじゃないか」 老人の声に、静かな憤りが滲んだ。 「……ネットは、そういう無責任な場所ですよね」 悠斗の声は、自分でも驚くほど低かった。軽い噂話が、本当に苦しんでいた誰かの存在をかき消してしまう——その理不尽さが、喉の奥でくすぶっている。隣の美琴も唇を引き結び、静かに、けれど確かな意志を込めて頷いていた。 「はぁ……」 老人が深くため息をつく。 「あのトンネルでは悲しい事故があったらしいが、それ以外にそういった事件はないんだがねぇ……」 ——事故。 その一言に、胸の奥で何かが引っかかった。 「おじいさん、その事故について……教えていただけますか?」 老人は少し驚いた様子で悠斗を見つめ、それから視線を遠くへやった。記憶の糸を手繰るように、ゆっくりと口を開く。 「あれは確か……大雨の夜だったかな。一人の若い女性がトンネル内を歩いていたところ、大型トラックに跳ねられる悲惨な事故があったんだよ」 ——大型トラック。 脳裏に、あの映像が蘇った。暗闇の中で膨れ上がる光。耳を裂くクラクション。全身を貫いた恐怖の残響が、今この瞬間にまで届いてくるようだった。 「っ……美琴」 咄嗟に、隣へ小声で呼びかける。茶色い瞳が、こちらを向いた。 「……なるほど。先輩が見たトラックは……」 それ以上は、言葉にならなかった。言葉にしなくても、伝わっていた。 「その事故は、何年前に?」 「確か……二十年前くらいじゃなかったかな。その後もトラックによる事故が相次いだものだから、あのトンネルは封鎖されたんだ」 二十年前。その言葉が、胸の底でゆっくりと重みを帯びていく。 「……ネットの軽い噂を信じるわけではないけどね」 老人は苦々しげに続けた。 「その事故を起こしているのが、その女性の霊なら私だって信じられるんだけど……ありもしないことを書くのはやはり許せないね」 美琴の表情が、一瞬だけ強張った。それでもすぐに穏やかな笑みを取り戻し、丁寧に頭を下げる。 「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません。……それから、ありがとうございました」 「君たちは心霊スポットとして調べているわけではないのだろうけど」 老人は二人を交互に見つめ、諭すように言葉を継いだ。 「いかないようにね」 杖をつく音が、ゆっくりと遠ざかっていく。老人の背中が坂道の向こうに小さくなり、やがて見えなくなった。 「……美琴、もっと色々聞けたんじゃ?」 悠斗が小声で問いかけると、美琴は首を横に振った。 「聞けたかもしれませんが、これ以上深追いして通報されても大変ですから」 「た、たしかに」 思わず苦笑が漏れる。彼女の冷静さに、どこか救われたような心地がした。 「ですが、大きな収穫が一つ」 「うん」 悠斗は静かに頷いた。暗闘の中で迫りくる光。あの恐怖。あれは——彼女が最後に目にした光景だったのかもしれない。そう思った瞬間、喉の奥がきつく詰まった。 「僕が見たトラックだね」 「はい」 美琴の瞳が、確かな意志を宿して悠斗を見据えた。 「この調子で、聞き込みを続けましょう」### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
訪れたのは、やはり桜翁の前だった。 花はとうに散り、枝には深い緑だけが残っている。けれど二人の足は迷いなくここへ向かっていた。言葉にしなくても、この場所がそうであることを互いに知っている。 「美琴、その……身体は本当に大丈夫なの?」 「ふふ、心配していただいてありがとうございます。この通り元気ですよ」 美琴が両手を軽く広げてみせる。 (顔色は良くなったけど……結局、原因が分かってない……) 「……原因はなんだったの? 美琴が静江さんを支える時に霊気が流れてるのは見えたけど……」 「……やはり、霊眼術を持った以上、見えてしまいましたか」 美琴の目が一瞬だけ伏せられた。睫
「美琴たちも、屋上で昼食を?」 悠斗がそう尋ねると、美琴は小さく頷いた。 「そうですよ。どうしても、澪が屋上で食べたいって言っていて」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、隣から弾けるような声が飛んだ。 「じゃあさ! 俺たちと一緒に食べねー!?」 春雪が身を乗り出して、両手を広げてみせる。 「えっと……よろしいのでしょうか?」 美琴が遠慮がちに視線を落としかけたその横で、澪がぱっと顔を輝かせた。 「何言ってんの美琴! これはお誘いだよ! えっと、はい! ぜひ一緒に!」 「隣いいですか!?」 「おう!」 澪は迷いなく春雪の隣に腰を下ろした。弁当箱を抱え
「これは……?」 二枚のチケットを手の中で返しながら、悠斗は静江を見上げた。 「詩織が小さい頃に一緒にその温泉郷へ行ったんだよ」 静江の声が、少しだけ遠くなった。視線がチケットではなく、その向こう側にある景色を見ている。 「そしたら、詩織が温泉郷をやけに気に入ってね。事故直前は詩織の誕生日も近かったから、サプライズで連れていこうと思ったんだけど……」 言葉の末尾が自然と消えた。その先を語る必要はなかった。悠斗の手の中にあるチケットが、使われなかった理由を静かに語っている。 「じゃあこれは……詩織さんとの思い出作りのために……。そんな大切なもの受け取れませんよ」 悠斗がチケ
静江の声が、暗がりに溶けた。 「……詩織。ありがとうね」 その言葉には、長い歳月をかけてようやく見つけた呼吸のような軽さがあった。涙の痕が頬に残ったまま、静江の口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。 竹中が静かに静江の横に並んだ。二人の視線は、詩織がいた場所——今はただ薄暗いトンネルの空気が揺れるだけの空間——に向けられている。 「逝ってしまいましたね……」 「……ああ。でもなんだろうね、ずっと心が軽くなったよ」 静江の声に、先ほどまでの張り詰めた響きはない。何十年もかけて背負い込んだものが、ほんの数分前に解けたばかりだとは思えないほど、その横顔は穏やかだった。 「僕もです