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一〇六話:言葉は刃

작가: 渡瀬藍兵
last update 게시일: 2025-07-01 18:57:52

 また、場面が変わる。

 空から、黒崎の声が落ちてくる。独白。記憶の底に沈殿した、剥き出しの自己認識。

──ここで働いて、もう三年って時だった。石津の野郎以外は、俺に目も合わせねぇ。それが俺には愉快に感じていた。

 愉快。その一語が、悠斗の耳に引っかかる。周囲から孤立していることを、この男は勝利だと思っていた。怖がられていることが、自分の価値の証明になっていた。

──だが、石津の野郎に呼び出されて、俺の人生はメチャクチャにされたんだ。

 事務所だった。見覚えのある、あの狭い部屋。スチール机を挟んで、石津と黒崎が向かい合っている。石津の表情には、以前の叱責の時とは違う重さがあった。覚悟を決めた人間の顔。

『……黒崎。このままじゃお前をクビにしなくちゃいけない』

『は?』

 黒崎の目が見開かれた。予想していなかったのだ。本気で。石津がどれだけ叱っても最後には引いてくれることを、この男は学習していた。だから今度もそうだと高を括っていた。

『おまえは態度が悪すぎる。他の従業員もお前が怖いと言っていてな。俺はこの製鉄所のリーダーだ。お前のことだけじゃなく、他の奴らのことも見なきゃいけない』

 石津の声は低く、平坦だった。感情を排した声。それが逆に、この言葉がどれだけの逡巡の果てに出てきたものかを物語っている。

『残念だが、これが最後のチャンスだ。今期のうちにその態度を改めないならお前をクビにする』

 沈黙が落ちた。ほんの数秒。

『ざけんじゃねぇ!!』

 黒崎が椅子を蹴って立ち上がった。

『俺をクビにするだぁ!?  だったらその前に、俺に合わせられねぇそいつらをクビにすればいいだろうがよ!!』

『本気で言ってるのか?』

『ったりめえだろ!?  俺のがあんな奴らより価値があるんだからよ!』

 石津の顔が、凍った。

 怒りでも悲しみでもなかった。驚愕だった。三年間、叱り、諭し、引き留め、時には謝りながら向き合ってきた相手の口から出た言葉が——これだった。他の従業員を全員切って自分だけ残せ。本気でそう言っている。冗談や虚勢ではなく、心の底からそれが当然だと信じている目をしていた。

 石津は、しばらく何も言えなかった。

 悠斗も、何も言えなかった。三年かけても、一ミリも届いていなかった。石津の忍耐も、歩み寄りも、息子のように想っていたというあの感情も——黒崎の内側では「俺に逆らえないから従っている」としか処理されていなかったのだ。

 成仏の間際、石津が浮かべていた表情の意味が、今ようやく分かる。あれは、三年ぶんの徒労を全部知った上での顔だった。​​​​​​​​​​​​​​​​

 石津は、深く息を吐いた。その吐息には、怒鳴りつける者の熱ではなく、何度も手を尽くした末にようやく諦めへ辿り着いた者だけが持つ、乾いた重さが滲んでいた。

「残念だ。他の連中はな、確かに素行が悪かったり、ビクビクして臆病だったりする」

 黒崎は苛立たしげに眉をひそめる。だが石津は怯まなかった。まっすぐに黒崎を見据えたまま、低い声を重ねる。

「だが、お前と違って頼んだことはしっかりこなしてくれるし、ちゃんと周りと連携が取れている。お前をクビにせず彼らをクビにするのは、道理に反している」

「あ゙!?」

 喉の奥から漏れたその声は、怒声というより獣の唸りに近かった。

 それでも石津の目は逸れない。厳しさの奥に、わずかに痛ましささえ滲ませながら、彼は短く首を振った。

「お前には本当に何を言っても無駄なんだな……。残念だよ、黒崎」

 その瞬間だった。

 空から落ちてくるように、黒崎自身のものとも思えない昏い声が響く。

 ──俺を……そんな目で見るんじゃねぇ……!! その目は俺を見下してんのか!? 許せねぇ……。こいつだけは絶対に許せねぇ……!!

 ひやりとしたものが、悠斗の背を這い上がった。

 怒鳴り返している黒崎本人よりも、その心の底で渦巻いているものの方が、よほど醜く、よほど空虚だった。叱責されたからではない。解雇を告げられたからでもない。ただ、自分を正面から見たその視線に、勝手に侮蔑を読み取っている。そこにあるのは被害者意識ですらなく、自分の空洞を他人のせいにし続けるための、歪んだ怒りだけだった。

「今期と言ったが、その考え方ならもう無理だな。黒崎、本日をもって――お前をクビにする」

 石津の宣告は淡々としていた。感情で突き放したのではない。ただ、決めるべき線を引いた。それだけのはずだった。

「明日から来なくていい。荷物をまとめて出ていけ」

 その言葉が落ちた途端、空気が変わった。

 黒崎の肩がびくりと跳ねる。次の瞬間、その瞳に灯ったものは怒りというより、濁った執着だった。

 ──もう来なくていいから。この言葉が、俺の怒りに火をつけた。言葉は刃物だ。人を傷つける。それが分からねぇなら――分からせるしかねぇだろ。

 理屈にもなっていない。自分が受けた痛みを、痛みとしてすら正しく理解できず、ただ他人へ叩き返そうとしているだけだった。

 ぞっとする間もなく、黒崎の手が作業着のポケットへ滑り込む。

 嫌な予感が形になるまでに、ほとんど時間はかからなかった。

 取り出された刃物が鈍く光ったかと思うと、黒崎は躊躇なく石津との距離を詰め、その喉元へ突き立てた。

「がっ……!?」

 短い悲鳴が、湿った音に掻き消される。

 喉元から溢れた血が石津の胸を濡らし、その飛沫が黒崎の頬や作業着にまで散った。それでも黒崎は怯まなかった。むしろ口元を歪め、薄気味悪い笑みさえ浮かべている。

「ずっとこうしてやりたかったんだよ……! 俺を見下すテメェのその目が、ずっと気に食わなかった……!」

「く、黒……」

 名を最後まで呼ぶこともできず、石津の身体がぐらつく。けれど黒崎は容赦なく拳を振り抜き、その身体を床へ叩きつけた。

 鈍い音が、やけに広い工場内に響いた。

「まだ死ぬんじゃねぇぞ。俺を散々コケにした罪は償ってもらわねーとなぁ」

 声だけは妙に楽しげで、そのことがいっそう胸の悪さを際立たせる。

 黒崎は倒れた石津をロープで乱暴に縛り上げると、引きずるようにして運び出そうとした。血の跡が床に線を引く。それを見た作業員たちが、ようやく何が起きたのか理解したように駆け出した。

「やめろ!」

「石津さんを離せ!」

 必死の声が飛ぶ。恐怖に竦みながらも、それでも助けようと手を伸ばしたのだろう。その事実だけで、悠斗の胸は締めつけられた。

 彼らは臆病だったのかもしれない。素行も良くなかったのかもしれない。だが少なくとも、見捨てはしなかった。

 黒崎はそんな彼らに向かって、唾を飛ばすように怒鳴った。

「てめぇらもだ!! てめぇらもずっと気に食わなかった!! だから、殺してやるよ!!」

 もう歯止めなど最初からなかったのかもしれない。あるいは今、この瞬間に完全に壊れたのか。

 床に転がっていた鉄パイプを拾い上げた黒崎が、一人の男の頭を殴りつける。鈍く、重い音がした。男は声もなく崩れ落ちる。

 もう一人が止めようと飛びついたが、黒崎は振り払うようにしてその頭部を何度も殴りつけた。一度、二度では終わらない。音が響くたび、工場の空気そのものが濁っていくようだった。やがてその身体から力が抜け、ぴくりとも動かなくなる。

「おえっ……」

 耐えきれず、悠斗の喉から声が漏れた。

 胃の奥がひっくり返るように波打ち、酸っぱいものがせり上がってくる。視界の端が滲み、膝がわずかに震えた。見ているだけなのに、肺の中まで鉄臭い血の匂いが入り込んできた気がして、呼吸がうまく整わない。

 目を逸らしたかった。今すぐ、この記憶から逃げ出してしまいたかった。

 だが、逸らしてはいけないとも分かっていた。

 これは黒崎のための記憶ではない。彼の悲劇ぶった言い分を汲み取るためのものでもない。

 ここで理不尽に命を奪われた人たちが、たしかに生きていて、たしかに苦しみ、たしかにここで終わらされたのだと、その事実を受け止めるためのものだ。

 吐き気で滲む視界の向こう、冷えきった工場の床に広がる血だけが、いやに鮮やかだった。

 悠斗は震える喉を押さえ込みながら、無理やり息を吸った。

 見届けなければならない。

 黒崎のためではなく、名も、声も、未来も奪われた彼らの無念を、少しでも拾い上げるために。

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