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一〇四話:殺人鬼の記憶へ

作者: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-29 19:01:06

『なんだ……? 急に眠気が……』

 石津の身体が、不意に揺らいだ。立っているはずの足元が定まらず、まるで長い一日の終わりに睡魔に攫われるように、その輪郭がわずかにぼやける。

「……それは、未練が無くなった証です」

 美琴が静かに告げた。その声には感傷を押し殺した硬さがあったけれど、瞳だけは温かかった。

「ってことは成仏か!?」

 春雪が悠斗の肩を掴む。悠斗が頷くと、春雪はまだ誰もいないように見える虚空へ身体ごと向き直った。

「えっとさ、石津さん?  工場のことは俺らに任せてくれよ。今の管理人にはきっちり話を通しておくからさ!」

 見えない。聞こえない。それでも春雪の声には一片の迷いもなかった。相手がそこにいると信じている人間だけが出せる、あの真っ直ぐな響き。

『てめぇら!  勝手に話を進めてんじゃねえよ!!』

 床に縛られたままの黒崎が吠える。

『離し——』

 最後まで紡がれなかった。薄く紅い光の膜が、黒崎の口元に巻きつくように纏わる。霊力で編まれた封緘。言葉が、空気に触れる前に潰される。

「少し静かにしてください」

 黒崎を見下ろす横顔に浮かぶのは、怒りですらない冷ややかさ。虫の羽音を煩わしく思う程度の、あの温度。口を塞がれてなお身体を捩り、目だけで殺意を叫び続ける悪霊を、美琴はまるで風景の一部のように視界の端に置いたまま、石津へと向き直っている。

 悠斗の背中を、霊の刃とは無関係の冷たいものが伝った。

 この先——この人だけは、絶対に怒らせてはいけない。

『……あんたら、ありがとうな』

 石津の声が、柔らかくなっていた。悪霊に怯え、工場に縛られ、死してなお責任を背負い続けた男の声が、初めて荷を下ろした人間の音をしている。

『まさかこんな風に解放される時が来るなんて……思わなかったよ』

 一拍、間を置いて。

『俺の声が届かないそこの人にも、代わりに伝えてもらえるか?』

「春雪、石津さんがありがとうと言ってるよ」

「へへ、気にしないでくれ!」

 春雪が照れたように鼻の頭を掻いた。見えない相手に向かって笑う姿が、ひどく眩しい。

『あぁ……こんなに穏やかに……あの世に行けるなんて』

 石津の輪郭が淡く発光し始めていた。足元から、光の粒子がゆっくりと立ち昇る。

 その光に溶けるように、傷が消えていく。喉に刻まれた刺し傷——黒崎の凶刃が奪った命の証が、薄れ、閉じ、やがて跡形もなくなった。土気色だった肌に血の色が戻り、苦悶に歪んでいた表情が穏やかに解ける。

 かつて石津製鉄所を率いた男の、生前の顔がそこにあった。

『……黒崎を……頼む……』

 最後の言葉が、光の中に溶けた。

 石津明の姿が、工場の暗闇に淡く尾を引いて——消えた。

 殺された相手を、最後まで気にかけていた。その重さを、悠斗はしばらく声にできなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

 *

「……これで、ここに囚われていた被害者の方は全員成仏することが出来ました」

 美琴の声が、静まり返った工場に落ちる。その響きには達成感よりも、次に控えるものへの覚悟が滲んでいた。

「次は……」

 視線が、床に封じられた黒崎へ向かう。

 口元を霊力の膜で塞がれたまま、黒崎は血走った目で二人を睨みつけていた。声にならない罵声がくぐもった振動になって唇の裏で暴れている。封じられてなお、この男の眼光から敵意が消えることはない。

「そうだね。次は彼の番だ」

 悠斗がそう言った直後、美琴の表情がわずかに翳った。

「ですが、先輩。先にひとつ謝らないといけません」

「え?  なに?」

「彼を……強制成仏させます」

 空気が変わった。

 悠斗は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。強制成仏——禊火。美琴自身に高熱と霊力の枯渇が代償として返り、対象にも激痛を強いる禁術。あの時、悠斗が反対して退けたはずの選択肢が、今ふたたび美琴の口から出てきている。

「えっ!?  で、でも結界で彼は存在を保てなくなるんじゃ……」

 美琴が、静かに首を横に振った。

「いいえ。彼は、五芒星の結界で身動きが取れなくなった訳ではありません。私が焦って途中で中断してしまいましたから」

 悠斗の血の気が引いた。結界は完成していない。今この瞬間、黒崎を縛りつけているのは不完全な術式の残り火にすぎない。それはつまり——

「そ、それじゃあ……」

「このままでは彼がまた暴れだします。その前に彼を成仏させなければなりません」

 淡々とした声。事実を述べているだけの、揺らぎのない口調。けれどその平静さの下に何があるのか、悠斗にはもう分かっていた。美琴は焦って駆けつけてくれたのだ。結界の完成より、悠斗の安全を優先して。

 春雪が口をつぐんでいた。会話の内容は半分も理解できていないだろう。けれど二人の間に流れる空気の重さを肌で感じ取って、余計な言葉を呑み込んでいる。

「でもそんなことをしたら代償が……!」

「私なら大丈夫ですよ」

 美琴の声に、迷いはなかった。

「代償が来たとしても、後悔はしません。それに、私は彼が許せないんです」

 一拍。

「彼は、石津さんの心を。被害者の皆さんの心を踏みにじりました。今回に関しては、そうするべきだと私の心が告げているんです」

 怒りだった。美琴にしては珍しい、感情を隠さない言葉。石津が最後まで黒崎を想い続けたこと、その想いを黒崎が唾を吐くように蹴り飛ばしたこと——その一部始終を見届けた美琴の中で、何かが決壊している。

 悠斗は美琴の瞳を見た。紅い霊眼の奥に宿る意志は、硬く、深く、揺るぎない。この目をした美琴を説得できた試しがない。分かっている。分かっていて、それでも止めたい。彼女が苦しむ姿を見たくないから。けれどその感情を今ここでぶつければ、さっき自分が交わした約束を裏切ることになる。負担を分かち合うと言ったばかりだ。美琴の覚悟を、自分の不安で塗り潰していい道理はない。

 悠斗の拳が、音もなく握られた。

「ひとまず、彼の過去を覗きましょう」

 美琴が声のトーンを落とす。

 「それなら、今回は僕が見てくる。殺人の記憶なんて、美琴には見せられないよ」

「……わかりました。今回はきっと先輩の霊眼術も以前より力を増しているので、深くまで入り込めてしまうはず……」

「決して無理して全貌を見ないでくださいね」

 その言葉の端に、心配の色が滲む。強制成仏という重い選択を告げた直後に、悠斗の身を案じることを忘れない。この人はいつもそうだ。

「……分かった」

 頷いて、悠斗は疲弊した瞳に残りわずかな霊力を灯した。

 霊眼術が起動する。視界が紅く染まり、世界の輪郭が変わる。床に縛りつけられた黒崎の血走った眼と——目が合った。

 憎悪に満ちた瞳の奥に、暗い穴が開いている。

 悠斗の意識が、その穴に呑まれるようにして沈んでいった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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