僕の意識は、あの壮絶な記憶の奔流から、ゆっくりと、けれど確かに現実へと引き戻された。
目を開けると、頬に、一筋の熱い涙が伝っていくのが分かった。 隣を見ると、美琴もまた、長いまつ毛を伏せたまま、その白い頬を静かに涙で濡らしていた。 彼女もまた、誠也くんの、あのあまりにも短い人生の記憶を、共に辿ってくれていたのだろう。 「……本当に……辛い過去でしたよね。」 彼女の声はひどく小さく、そして、心の底からの同情で僅かに震えていた。 「うん………。」 僕もまた、同じように震え、そして掠れた声でしか答えることができない。 こんなにも小さな子供が、たった一人で、どれほどの大きな寂しさと恐怖を抱えたまま、この冷たく暗い廃墟の地に、永い間、縛られていたというのだろう。 もう──僕の目に映る誠也君の姿は、得体の知れない恐ろしい霊的な存在なんかでは、決してなかった。 ただ、そこにいるのは、温もりを求める、いたいけな一人の男の子だった。 美琴の膝の上で、誠也君は、今はもう穏やかに目を閉じている。 あのボロボロになった木彫りの犬の人形を、まるで宝物のようにその小さな胸にぎゅっと抱きしめながら、彼自身から発せられるかのような、温かく清浄な光に優しく包まれていた。 『……誠也……やっと、みんなに……会える、の……?』 その、か細く、そして期待に満ちた問いかけに、美琴が女神のような優しい微笑みを浮かべて、深く頷く。 「うん。もう、大丈夫だよ、誠也君。もう、何も怖がることはないから。」 まるで祈りを捧げるかのような、静かで、けれど確かな力強さを秘めた声で、美琴は厳かに言葉を紡ぎ始めた。 「──浄魂の祈り……汝、汚れを知らぬ純なる魂よ──今こそ全ての苦しみから解き放たれ、浄土へと、穏やかに還りなさい…。」 美琴のその詠唱に応えるように、彼女の身体から、鮮やかで、けれどどこまでも優しい“紅い光”がふわりと広がり、誠也くんの小さな身体を、まるで母親の温もりで包み込むかのように、やさしく、やさしく包み込んでいく。 月明かりが差し込む薄暗い院長室の中で、その光に包まれた誠也くんの姿は、ゆっくりと揺らぎながら、その輪郭を次第に淡く、そして周囲の空気へと溶け込ませはじめる。 『……ありがとう……お兄ちゃん……お姉ちゃん……本当に、ありがとう……。』 その、心の底からの感謝の言葉が、僕たちの胸に温かく響いた、すぐあと── 『……あっ……あれ……? みんなが……お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんなが、見えるよ……!』 誠也くんが、驚きと、この上ない喜びに満ちた声で、ぽつりとそう呟いた。 その表情は、もう苦痛も寂しさもどこにもなく、ただ純粋な子供の笑顔だった。 そして……その小さな両手を、まるで天から差し伸べられた誰かの手を掴むかのように、あるいは、大好きな誰かに抱きしめられるのを心の底から嬉しそうに受け止めるかのように、そっと、ゆっくりと、虚空へと広げる。 その、あまりにも無垢で、美しい姿のまま、彼の身体は静かに揺らぎ続け、やがて、降り注ぐ月明かりの中に、ゆっくりと、そして完全に──その存在が溶けて消えていった。 「……今の、は……?」 「きっと……誠也君のご家族が、迎えに来てくれたのでしょうね……」 美琴が、どこまでも優しい眼差しで、誠也くんが消えていった天井の辺りを見上げて、そっとそう言った。 (そっか……そうなんだ……。彼は、誠也くんは、ようやく……本当に、ようやく、大好きな家族のもとへ、温かい場所へ、帰ることができたんだ……) 僕の胸の中は、不思議な達成感と、そして静かな感動で、どこか温かく満たされていた。 彼がこうして安らかに旅立てたことが、心の底から嬉しかった。 美琴はそっと、いつの間にか床に落ちていた木彫りの犬の人形を拾い上げようと、床に手を伸ばした。 その指先が、ほんの僅かに、こまかく震えているのが、月明かりに照らされて見えた気がした。 彼女は、その震えを隠すかのように、すぐに人形をぎゅっと握りしめ、愛おしそうに、自分の膝の上にそっと置く。 その仕草は、どこか寂しげで、それでいて、言葉にできないほどの深いあたたかさに満ちていた。 僕は、静かに長く息を吐き出し、床に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。 まだ、身体の節々が痛む。でも、それ以上に、心が軽くなっていた。 そのとき、自然と、僕の口から言葉がこぼれ落ちた。 「美琴……さっきの不思議な力は……?」 あの、全てを浄化するような、温かい紅い光。 そして、僕の額に触れて、他者の魂の記憶を鮮明に映し出した、あの不思議な力。 これらは、決して普通の人間ができることじゃない。 美琴が、ほんの一瞬だけ、ぴくりと動きをを止めた。 窓から差し込む月明かりが、彼女の美しい横顔を、神秘的に照らし出している。 彼女は、ゆっくりと僕の方へと視線を向けた。 「私は……古くから続く、巫女の血を引いています」 その、凛とした、けれどどこか重い響きを持った言葉に、僕は思わず息を呑んだ。 「巫女……美琴が……?」 美琴は、その大きな瞳を伏せることなく、僕の目を真っ直ぐに見つめ返し、小さく、けれどはっきりと頷いた。 「はい。ただし……それは、決して誇れるものではありません。私のこの血は……“穢《けが》れた血”なんです」 その声は、まるで夜の静かな風に溶けていくかのように静かで、そして、どこか自分自身を深く責めるような、痛切な響きを帯びていた。 「巫女の血が……穢れた血って、それは……一体、どういう意味なの……?」 僕の問いかけに、美琴は目を伏せたまま、絞り出すように、静かに答える。 「私の遠い先祖は……決して許されない、大きな禁忌を犯しました。だから、この私に流れる力もまた……本来の清浄さを失った、“穢れたもの”なんです」 その、淡々とした声。けれど、その言葉の一つ一つが、まるで重い鉛のように、僕の胸に深く、深く沁みこんでくる。 何を聞いてはいけないのか。どこまで、彼女の心の奥深くに踏み込んでいいものなのか。 今の僕にはまだ、それが、どうしても分からなかった。 だけど── そんな僕の葛藤を見透かしたかのように、美琴が、ふっと、本当に儚げに、でも確かに微笑んだ。 「でも……それでも、私は、この力を使います。この血が、どれほど穢れてしまっていたとしても…。」 「私の目の前で、誰かが助けを求めて、苦しんでいるのなら──私は、この力で、その人を救いたいんです。」 その声は、とても静かで、か細かったけれど、その奥には、何者にも屈しない、どこまでも真っ直ぐで、そして強い意志が宿っていた。 月明かりの下で、美琴のその美しい横顔は、どこまでも儚く、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で、それでいて、どんな困難にも立ち向かっていける、どこまでも強く、そして気高く見えた。 僕はただ、その彼女の姿を、言葉もなく、見つめることしかできなかった。 ───────────────────── 掌に残る あの日のかたち 愛されしこと 忘れずとも 逢えぬ日々 ただ祈りを 胸に宿して 名を呼ぶ声 ついに届き いまこそ 還りゆかん ──琴音「なら……僕はもう逃げない。」 夜の静寂に、僕の声が、低く、だけどはっきりと響いた。さっきまでの、情けない自分に別れを告げるように。心の中で、確かな覚悟が芽生える。 「迦夜と真っ向から対峙してみせる。美琴の負担を…僕が少しでも担ってみせる…!」 そうだ、もう独りで背負わせない。その想いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくるのを感じた。 「悠斗くん……」 美琴が、息を呑むように僕の名前を呟く。 「だから美琴…今度こそ、二人で迦夜の事を祓おう。」 まっすぐに彼女の目を見て、僕は言った。 もちろん、今の僕自身に、二人を祓うほどの力なんてない。その無力さが、また胸にちくりと痛む。だけど、もういい。今は力がなくても、必ず、彼女と肩を並べて戦えるくらい、強くなってみせる。その覚悟が、僕の中でさらに強く、固く、根を張った。 僕の言葉を、美琴は静かに受け止めていた。 やがて、その唇に、ふわりと微笑みが浮かぶ。 それは、どこまでも優しい微笑みだった。 「悠斗くん…ありがとう。」 だけど、その瞳は。 どうしようもなく、深く、哀しい色をしていた。 まるで、僕のその決意が、巡り巡って、彼女自身の、逃れられない運命を証明してしまったとでも言うように。 その切なげな表情の意味を、今の僕には、まだ知る由もなかった。 *** 翌日の放課後。 西日が差し込む無人の教室は、どこか気だるいオレンジ色に染まっていた。窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が、微かに聞こえてくる。 そんな、ありふれた日常の中で、僕たちは、ありえないほど非日常的な話をしていた。迦夜の対策についてだ。 「今日の放課後、私が迦夜の痕跡を辿るね。」 机を挟んで向かいに座る美琴が、静かに切り出した。 「うん。ひとつ聞きたいんだけど…迦夜の痕跡…って、普通の霊の痕跡とは違うの?」 昨日の今日で、僕の質問も、少しだけ具体的になっていた。 「うん。普通の霊は痕跡として、残り香やその気配が残るけど、迦夜に関しては違うの。」 美琴は頷く。 「迦夜の痕跡は、紫色の瘴気っていうのかな?それが、迦夜の歩いた道に残ってるんだ。」 「紫色の…瘴気…?」 その言葉に、僕ははっとした。 (そういえば…昨日、迦夜に遭遇する前に
俯く僕の顔を、美琴はまっすぐに見つめていた。 「悠斗くん、あなたはね…間違いなく成長してるよ」 その声は、どこまでも優しかった。だけど、その響きには、揺るぎない確信が込められている。 「だから…自分が成長してない、なんて思わないでね」 「………!」 僕は、思わず顔を上げる。 「本当に…そうなのかな…?」 自分でも、縋るような声が出たのがわかった。 「うん。霊力の扱いに関しては、もう比べ物にならないくらいに上手になってるもん」 彼女は、きっぱりと言い切った。 「………」 その言葉に、僕は何も返せない。 「きっと悠斗くんは、迦夜っていうトラウマに遭遇しちゃって、今は自信が持てないかもしれない。けどね、あなたは間違いなく成長してる」 繰り返される、その真っ直ぐな言葉。 それは、まるで固く閉ざしていた僕の心の扉を、一枚、また一枚と、ゆっくりと開けていくようだった。 「だから、心配しなくても大丈夫なんだよ?」 美琴の言葉が、冷え切っていた胸の奥に、じんわりと染み渡っていく。僕は、無意識に止めていた息を、長く、静かに吐き出した。 *** しばらくの沈黙の後、僕はようやく、ちゃんとした声で言うことができた。 「ありがとう、美琴」 「落ち着いた?」 彼女が、少しだけ安心したように、ふわりと微笑む。 「うん、おかげさまでね」 僕も、ようやく力の抜けた、小さな笑みを返す。 あんなに取り乱して、情けない姿を見せてしまった。その恥ずかしさが、今になって込み上げてくる。 でも、それと同時に、不思議な安堵感があった。 きっとこの子は、僕がどんなに弱くても、みっともなくても、こうして隣で、静かに全部受け止めてくれるんだろうな、と。 その確信が、何よりも僕の心を、温かくしてくれていた。 「それなら良かった。」 彼女は、心の底から安心したように、ふわりと微笑んだ。 その笑顔に、僕も少しだけ救われた気持ちになる。だが、その安堵が、僕の思考の隅に追いやっていた、ある決定的な違和感を呼び覚ましてしまう。 そうだ、あれは。 「あっ……!そういえば…迦夜が、幽護ノ帳を使ったんだ…!」 我に返った僕が、切羽詰まった声でそう告げると、美琴の表情から、すっと笑みが消えた。その顔が、見る間に曇っていく。 「美琴…隠さないで教えて欲しい…迦夜って…何
どれだけの時間、そうしていたのだろう。 迦夜が去った後も、僕はあの鉄の箱の中で、ただ身を丸めていた。冷たい汗が肌に張り付き、体は意思とは無関係に、カタカタと震え続けている。 (でも…いつまでもこうしてはいられない…) 脳裏に、美琴の顔が浮かんだ。 そうだ、伝えなければ。迦夜が現れたこと、そして、あの「黒い帳」のことを。 その使命感が、ようやく凍りついていた僕の身体に、か細い熱を灯していく。 僕は、震える腕で、重いゴミ入れの蓋をゆっくりと押し上げた。 闇に慣れきった目に、路地裏を照らす街灯の光が、やけに眩しく突き刺さる。 鉄の箱から這い出ると、ひんやりとした夜気が、汗で濡れた身体を撫でた。まさに、その時だった。 聞き慣れた、今一番聞きたかった声が、すぐ側から響く。 「悠斗くん!?」 その声の方へ、ゆっくりと顔を向ける。 そこに立っていたのは、息を切らし、心配そうに僕を見つめる美琴だった。 「美…琴…?」 彼女の姿を、その顔を、その声を認識した瞬間。 胸の奥で張り詰めていた氷の糸が、ぷつりと切れるような感覚がした。全身から、急速に力が抜けていく。ああ、よかった。助かったんだ。 そう、心の底から安心したら、もうダメだった。 急に視界がぐにゃりと歪み、足がもつれる。倒れかけた僕の身体は、駆け寄ってきた美琴の華奢な腕に、力強く支えられた。 「どうしたの…!??すごい汗だよ…!?」 僕の顔を覗き込む彼女の声が、ひどく遠くに聞こえていた。 *** 美琴の肩に寄りかかるようにして、僕たちは近くの公園までなんとかたどり着き、湿った夜気を含むベンチに腰を下ろす。 「悠斗くん…どうしたの…?何があったの?」 心配そうに僕の顔を覗き込む美琴に、僕はすぐには答えられない。 瞼の裏に、あの光景が焼き付いているんだ。空間を裂いて現れた異形。血の涙を流す、黄金の瞳。そして、僕の技をいとも容易く、絶望の色に染め上げた、あの黒い帳。 「迦夜が…現れたんだ…。」 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 「えっ…!?」 美琴が息を呑む気配が、隣で伝わってくる。 「迦夜は、僕を追いかけて来た。なんの目的があったのかは分からない。でも…体感では、すごく長い時間、あの路地裏から出ら
「あれは…!!幽護ノ帳…!?」 間違いない。 見た目も、そこから発せられる禍々しい気配も、僕の知っているものとはまるで違う。けれど、その術が持つ根本的な構造、その霊的な“骨格”とでも言うべきものが、僕自身の術と寸分違わず一致している。魂が、それが同質のものであると理解していた。 だが、どうして使える? なぜ、あの怨霊が、僕たちに伝わるはずの術を。 思考が混乱の渦に飲み込まれかけた、その時だった。脳裏に、先ほどの光景がフラッシュバックする。 (そういえば…迦夜はボロボロの巫女服を…着ていた…。) それを思い出した瞬間、頭の中で何かが、かちりと音を立てて繋がった。 散らばっていたパズルのピースが、一つの悍ましい絵を形作る。 巫女の装束。そして、巫女の使うはずの術。 (つまり…迦夜は僕達、古の巫女の末裔と…何かしら関係がある…!!もしくは…!) そうだ、断言できる。あれは偶然じゃない。 その結論に至った途端、僕の身体は恐怖を振り払うように、再び駆け出していた。振り返り、追いすがる絶望に向かって、立て続けに霊力の弾丸を撃ち込む。 ここで僕は、ある可能性に気づいた。あの「黒い帳」は完璧な防御であると同時に、術者の視界を完全に塞ぐ、分厚い「目隠し」でもある、ということに。 僕は走りながら、闇に慣れた目で必死に周囲を探る。あった。少し先の薄暗がりに、大型の業務用ゴミ入れが転がっているのが見えた。 「はぁ…!はぁ…!星燦ノ礫!!」 碧い光弾を連射して迦夜の注意を真正面に引きつけ続け、僕はゴミ入れの目前で急停止する。 「そして…!幽護ノ帳!!」 僕がそう叫ぶと、今度は澄んだ青い光を放つ、本来の結界がゴミ入れの数メートル手前に展開された。 これは、隠れるための陽動。僕の霊力が込められたこの結界に、迦夜の意識はまず向かうはずだ。僕がその奥にある、ただの鉄の箱に身を潜めたとは、思わないだろう。 (一か八か…賭けだ…!) 僕は結界を展開した直後、すぐさまその奥にあるゴミ入れの蓋を押し上げ、その中に転がり込んだ。 僕は息を殺す。震えが止まらない喉を、爪が食い込むほど強く、押し潰すようにして、音を漏らさないように必死に耐える。 ぺた…ぺた…。 不気味な、あの裸足の足音が、ゆっくりと、確実に、こちらへ近づ
ぎしり、と。 錆びついたブリキの人形のように、僕の首が、ゆっくりと、恐る恐る、背後を振り返る。 見たくない。見てはいけない。本能の全てが、悲鳴を上げて拒絶している。 けれど僕は、見た。 路地裏の、一番深い闇の中に、ソレはいた。 人ではなかった。かつて、人だったのかもしれない、という異質なその姿。 その肌は、死斑が浮き出たかのように、不気味な紫色に変色している。腰まで伸びた髪は、まるで水底に沈んだ屍のように、もつれ、生気なく垂れ下がっていた。 その指先からは。 黒く、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた爪が、異様な長さに伸びていた。剥き出しの足もまた、同様の禍々しい爪が、地面を抉るように生えている。 そして、顔。 僕の視線が、恐る恐るその顔へと向かった時、暗闇と目が合った。 爛々と光る、一対の黄金の瞳。 それは人間のものではない。夜の闇を支配する、獰猛な獣の、飢えた眼光。 その双眸からは、涙の代わりに、どす黒い血が、止めどなく、止めどなく、流れ落ちていた。 ── 迦夜。 『ハハハ…ヒヒ…ィ』 その声を聞いた瞬間、僕の世界から音が消えた。 声を出そうにも、喉が氷のように凍りついて、ひくりとも動かない。脳裏に、見たくもない記憶が灼きつくようにフラッシュバックする。白いシーツに横たわる、意識不明の母さんの顔が。 そして、幼い美琴の家族をこいつは殺した。 そうだ、こいつが。こいつが、全部。 僕たちの日常を、幸せを、未来を、すべてを壊した元凶が──今、僕の目の前に、いる。 全身が鉛を流し込まれたように重く、動かない。まるで、見えない鎖でがんじがらめにされた金縛りのように。指一本、動かせなかった。 ──その時だった。 『……アァ…ア……ア……』 空気がねじれる。声とも音ともつかぬ“なにか”が、空間に食い込んだ。怒鳴ってもいない、囁いてもいない。ただ、何層にも重なった声が、響いた。それは、魂を直接揺さぶるような、耐え難い不快感。 本能が警告する。ここから逃げろ。今すぐに。でも、身体が……動かない。恐怖が、僕の四肢を縛りつけている。 (動け…!!動けよ…!!) 心の中で、自分自身に何度そう叫んだ。 でも足はまるで地面に根を張ったかのように、ぴくりともしない。目の前では、迦夜がゆっくりと、しかし着実に、その距離を詰めてくる。ぺた、ぺ
昼間の喧騒と、あの決意が、嘘のように遠い。 僕は一人、夕暮れの商店街を歩いていた。 惣菜屋から漂う揚げ物の匂い、八百屋の店主の威勢のいい声、家路につく人々のざわめき、そして、どこかの家の窓から漏れ聞こえてくるテレビの音。 見慣れた、いつもの帰り道。 聞こえているはずの音は、いつもと同じ。 なのに──なぜだろう。 全ての音が、まるで分厚いガラス一枚を隔てた向こう側で鳴っているかのように、ひどく空虚に感じられた。賑やかなはずの世界から、自分だけが切り離されてしまったかのような、奇妙な静寂。 (なんだろう…この感覚…。いつも見慣れているはずの、この景色なのに……) 僕がその違和感の正体を探して、無意識に視線を彷徨わせた、その時だった。 道の向こうに、「それ」はいた。 焦点の合わない虚ろな目で、口の端からだらりと涎を垂らした、一人の霊。 その霊は、何かに突き動かされるように、商店街を行き交う人々に向かって、無差別に殴りかかっていた。もちろん、その腕は、何事にも気づかない人々の体を、虚しくすり抜けるだけ。 だが、その行動は、僕が今まで見てきたどんな霊とも違っていた。そこには、意思も、明確な憎悪もない。ただ、空っぽの衝動だけがあるように見えた。 僕は、すっと息を吸い込むと、霊眼術を発動させた。 世界から色彩が抜け落ち、霊的な存在だけが色を帯びて浮かび上がる。 そして、僕の目に飛び込んできたのは──燃えるような、真っ赤な影だった。 (敵意を持った霊…!!) 間違いない。あの霊は、危険だ。 けれど、その禍々しい影とは裏腹に、その行動はあまりにも支離滅裂で、どこかおかしい。ただならぬ気配は感じる。やばい、という直感もある。でも、それ以上に……。 (なんだ…あの霊は…!通りがかる人に当たるはずの無い拳を振ってる…??) その、不気味で、どこかちぐはぐな姿から、僕は目を離すことができなかった。 あのまま放置しておくのは、まずい。 僕の本能が、強く警鐘を鳴らしていた。 僕は、すっと手のひらに意識を集中させる。じりじりと、霊力が熱を持って集まっていくのが分かった。やがて、僕の手のひらの上に、小さな光の粒が生まれる。 「星燦ノ礫…!!」 僕がそう呟くと同時に、圧縮された碧い光の弾丸が、手のひら