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縁語り其の十五:刻還しの追憶

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-19 18:45:49

 院長室の中は、しんと静まり返った深い闇が、底なし沼のように広がっていた。

 辛うじて割れた窓の隙間から滲み入る、冷たく青白い月明かりだけが、床の一部分を頼りなげに照らし出している。

 その、ぼんやりとした光の中で、小さな子供の影──誠也くんの霊が、ふわりと淡く揺れていた。

 そして、その傍らには。

 部屋のすみに置かれた、埃を被った古い革張りのソファに、美琴が静かに腰を下ろし、まるで慈しむように、その膝の上で眠るかのような誠也君の髪を、そっと、繰り返し撫でていた。

 (綺麗だ……)

 彼女の白い指先が、淡い影のような誠也君の髪に触れるたび、空気がゆるやかに揺らめき、彼女自身の祈りが具現化したかのような、温かく清らかな気配が、その場に満ちていくのを感じた。

 「あっ……先輩、こちらへ来ていただけますか?」

 美琴が、僕の気配に気づいてゆっくりと振り返り、穏やかな、けれどどこか厳粛な声で僕を呼ぶ。

 僕は無言で頷き、ゆっくりと彼女の隣へと進み、そのソファの端に腰を下ろした。

 「……目を、閉じていただけますか?」

 美琴の、静かなその一言に従って僕がゆっくりと目を閉じると──。

 すぐに、僕の額に、ふわりと、やわらかく、そして温かい何かがそっと触れた。

 美琴の、指先だろう。

 その感覚は、心の奥底に仕舞い込んでいた遠い日の記憶を呼び覚ますようで、どこかひどく懐かしくて、ささくれ立っていた僕の心を静かに優しく包み込んでくる。

 ドクン……。

 胸の奥深くで、何かが、今までとは違うリズムで確かに脈打ったのを感じた。

 美琴の澄み切った声が、僕の意識の深い闇の中へと、清らかな水が一滴ずつ染み込むように、やさしく響いてくる。

 「──刻還ときかえしのひびき……なんじぎし時の断影よ。我が祈りに応え、その魂に刻まれし記憶の深淵を、今こそこのまなこに映し出せ──」

 途端に、僕の身体全体が、淡く、けれど力強い赤い光にふわりと包まれた。

 瞼を閉じているはずなのに、その鮮烈な光が、目の裏にまで届いてくる。

 そして、その温かい光に導かれるように、僕の意識は、深く、深く、沈んでいった──。

 ***

 【追憶:静止した世界】

 気がつくと、僕は見知らぬ道路の真ん中に、一人で立っていた。

 世界から、音が消えている。

 夕暮れのはずの空は、色褪せたセピア色に染まり、風も、光の粒子さえも、全てが凍りついたように静止していた。

 (こ、ここは…? 僕はさっきまで、院長室にいたはずなのに……)

 頭は混乱しているのに、心は妙に落ち着いていた。

 辺りを見渡すと、

 一台の古いセダンが、道の真ん中で止まっている。

 いや、違う。時ごと、固められているんだ。

 その車だけが、この色褪せた世界の中で、妙に存在感を放っていた。

 そして、後部座席の窓から、淡い青色の光が、まるで魂の在処を示すかのように、静かに明滅めいめつしている。

 (なんだ………?)

 僕は、何かに引き寄せられるように、その車へと近づいた。

 一歩、また一歩と、凍てついたアスファルトを踏む。

 車内にいる、時を止められた家族の姿が見える。母親の手は、隣に座る息子の背中に触れる寸前で止まり、その表情は心配の色に染まったまま固まっている。

 僕が、その後部座席のすぐ隣まで来た、その瞬間。

 魂から直接、声が響いてきた。

 『ごめんね、誠也。お母さんたちも、誠也が早く元気になるように一生懸命頑張るから……だから、誠也も、頑張ってくれると嬉しいな』

 『うんっ! がんばる!』

 『お母さん……誠也ね、早く、早く元気になりたいんだ……。そしたら、また……』

 声が途切れる。

 見ると、凍りついた誠也君の口が、咳き込む形でわずかに開いていた。

 『ごほっ、ごほごほっ!けほっ…!』

 『誠也!? 大丈夫、しっかり息をして……!』

 『……大丈夫よ。きっと、すぐに元気になるわ。誠也は、とっても強くて、いい子だもの…』

 母親の、自分に言い聞かせるような声が響く。

 僕は、母親の腕の中で、窓の外を虚ろに見つめる誠也君の凍った横顔に近づいた。

 『……お兄ちゃんにも……早く、会いたいな……。また、一緒に遊びたいな……』

 (これは……誠也君の記憶……?)

 まるで絵の具を洗い流すかのように、世界の風景が、白く滲んで溶けていく。

 僕は、巨大なコンクリートの建物の前に立っていた。

 (ここは……)

 桜織旧病院だ。でも、僕の知っている廃墟じゃない。ここは、まだ「生きて」いた頃の姿で、時を止めている。

 家族から少し離れた場所で、僕は彼らの凍りついた姿を見つめていた。

 母親は、しゃがみこむ途中の姿勢で、その両手は誠也君を抱きしめる寸前で止まっている。父親の大きな手は、息子の頭を撫でようと、空中で静止していた。

 そして誠也君は、病院の扉を前に、不安げな表情のまま固まっている。

 僕が、その小さな体に近づくと、彼の心の声が聞こえてきた。

 『……お母さん、誠也……すぐ、お家に帰れる、よね……?』

 『ええ、もちろんよ。すぐ、だからね…』

 母親の、強く、そして震える声。

 僕は、次に父親の凍った姿へと歩み寄る。

 『誠也……帰ってきたら……また一緒に、あの海へ釣りに行こうな…約束だぞ』

 その声は、頼りなげに震えていた。

 (この時代…結核は本当に深刻な病気だったんだ……)

 病院の自動扉は、半分開いたまま時を止め、その隙間から、白衣を着た医師が、優しい笑みを浮かべたまま固まっている。

 彼が誠也君の手を取ろうとした、まさにその瞬間。

 誠也君は、両親の方を振り返ったまま、動かない。その瞳から一筋、零れる寸前で凍りついた涙が、きらりと光った。

 僕が、その涙に引き寄せられるように近づくと、彼の最後のつぶやきが聞こえた。

 『お母さん……お父さん……行っちゃ、いやだ…よ…』

 また……場面が、変わる。

 薄暗く、長い廊下。

 僕は、院長室の扉のすぐそばの物陰に立っていた。

 その少し先で、凍りついた光景が広がっている。

 床に崩れ落ちる寸前の母親。その肩を支えようとする父親。そして、厳しい顔で立つ老医師。

 彼らの魂に近づくと、絶望の会話が響いてくる。

 『……残念ながら、誠也くんの病状は、私たちが予想していた以上に、進行が早く、深刻です。正直に申し上げて……状況は、あまり良くありません』

 『どうして……どうして、あの子が……誠也が、こんな目に……うっ……うっ……』

 僕は、廊下の角で、壁に寄りかかって固まっている、小さな誠也君の姿を見つけた。

 その小さな影に近づくと、彼の悲しい独り言が、僕の心に直接流れ込んでくる。

 『……誠也が……悪い子だった、からなのかな……? だから、神様が怒ってるのかな……?』

 『……がんばるから……。誠也、もっともっと、がんばるから……。だから、お母さん、もう、泣かないで……』

 彼の小さな両手は、膝を強く抱きしめたまま。

 その頬を伝う涙は、軌跡を描いたまま、時の中に凍りついていた。

 (っ……! 違う……! 君は……君は悪くないんだ……!)

 また、場面が変わった。

 人気のない、静まり返った病室。

 僕は、部屋の隅に、影のように立っていた。

 ベッドの上で、誠也君は横たわったまま時を止めている。その隣で、「じいちゃん先生」と呼ばれた医師が、彼の顔を覗き込む姿勢で固まっていた。その表情は、悲痛に歪んでいる。

 僕が、ベッドのそばに歩み寄る。

 残酷な真実を告げる、魂の声が聞こえ始めた。

 『誠也君……落ち着いて、聞いてくれるかい……。実は……君のご家族が、病院へ来る途中で……大きな、事故に……』

 『……え……? じいちゃん先生……いま、なんて……?』

 『じいちゃん先生……うそ……だよね……? ねぇ……そんなの、絶対に嘘だって、言ってよ……?』

 医師は、唇を固く噛み締めたまま、動かない。

 その沈黙が、何よりも雄弁に、真実を物語っていた。

 誠也君の、シーツを握りしめたままの、小さな手。

 枕に顔を埋め、叫び声を上げる寸前で凍りついた、その姿。

 僕が彼に触れてしまいそうなほど近づくと、彼の最後の叫びが、絶望が、僕の魂を直接揺さぶった。

 『お兄ちゃん……お母さん……お父さん……っ……! 誠也、みんなに、会いたいよ……! また、一緒に、遊びたいよぉ……!』

 『なんで……どうして、僕だけ……! ひとりにしないでよ……! ねぇ、お願いだから……!』

 そして、最後の、か細い声。

 『……じいちゃん……先生……。誠也……さみしい、よ……』

 それが、この子がこの世で紡いだ、最後の言葉だった。

 (これが……誠也君の……人生……。この世に残ってしまった未練……)

 彼の小さな胸は、もう動かない。

 医師の口が、声なき叫びの形に大きく開かれたまま、固まっている。

 その、あまりにも静かで、残酷な光景だけが、永遠に、そこに在った。

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  • 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   縁語り其の百七十八:呪いからの解放

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