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十五話:記憶の扉

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-05-19 18:45:49

 屋上を後にした二人は、再び病院の中へと戻り、誠也の姿を探して歩いていた。

 これまでに覗いた部屋は、どれも空だった。残された候補は二つ——地下倉庫と、院長室。そのどちらかに、あの子は隠れているはずだ。

「残りはあと二部屋だけど……どっちから探しに行こうか?」

 悠斗の問いに、美琴は小さな顎に指を添えて少し考え込んだ。

「院長室にしましょう」

 壁に掲げられた構内案内図は、文字がかすれてほとんど読めない。それでも二人はわずかに残る線をたよりに、院長室への道筋を辿り始めた。

「……時間の流れって、残酷だね」

 不意に、悠斗の口からそんな言葉がこぼれた。

「そうですね。ここにも、かつてはたくさんの患者さんがいらっしゃったのでしょうし」

 もう誰も横たわらない病室。電話の鳴ることのないナースステーション。椅子だけが整然と並んだ、寂れたデイルーム。

 ここはかつて、多くの生と死を見届けた場所だった。回復を喜ぶ声、別れを悲しむ声——それらが日々忙しなく交差し、この建物は息づいていたのだろう。今はただ、埃と静寂だけがその記憶を抱いている。

 名前のつけようのない切なさが、悠斗の胸に静かに広がっていった。

 やがて、二人は院長室の前に立った。

「……あけるね」

「はい」

 重厚な黒い扉を押し開ける。埃を被った革張りのソファと、書類が積まれたままの机が、主のいない部屋の中で静かに佇んでいた。

 その時——微かな物音。

「……あれ〜? 誠也くんはここにいないのかなぁ?」

「どこかなぁ〜?」

 美琴は柔らかな笑みを浮かべたまま、机の内側へ回り込んだ。

 ——その直後。

「見つけたっ!」

 美琴の明るい声が、薄暗い院長室に弾けた。

『うわぁ!! 見つかった!!』

「なかなかいい場所に隠れたね」

(……霊と人間がこんなふうに遊ぶ光景なんて、この先そうそうないだろう。でも——)

 微笑む美琴と、楽しそうに笑う誠也。この穏やかな時間が、いつまでも続くわけではない。その事実が、悠斗の胸をちくりと刺した。

『お姉ちゃんたち、隅々まで探してくれてたんだね! それに、屋上の嫌な紙も取ってくれた! ありがとう、お姉ちゃんとお兄ちゃん!』

「ううん、気にしないで。——でもこれで、あなたはもう自由だよ。あなたの邪魔をするものは、もう何もなくなったから」

『うん! でも……なんだろう……眠くなってきちゃった……』

 誠也が小さな手で目を擦った。その仕草は、夜更かしをした幼子そのものだ。

 美琴はそっと目の前のソファへ腰を下ろし、膝の上を軽く叩いてみせた。

「誠也くん、おいで。お姉ちゃんが膝枕してあげるから、少しだけ眠ろう?」

『……うん。お姉ちゃん……ありがとう』

 誠也はゆっくりと歩み寄り、やがて美琴の膝の上に、そっと小さな頭を横たえた。

 すぐに、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始める。

 ——その時だった。

 誠也の小さな身体が、朝靄が陽の光に溶けていくように、ゆっくりと透き始めたのだ。輪郭が淡くなり、月明かりがその向こう側を薄く透かしている。

「これは……」

「成仏が近づいている証です」

 美琴は誠也の髪をそっと撫でながら、静かに答えた。

「霊というのは、この世に残した未練や心残りをすべて解き放つことができると、自然と深い眠りに誘われるものなのです。そうして、そのまま静かに——還っていく」

「そうなんだ……」

 悠斗は呟いた。知らないことばかりだ。霊のこと、成仏のこと、この世と彼岸の狭間で起きる現象のこと。自分がいかに何も知らなかったか、この一夜で痛いほど思い知らされている。

「ふふ。これから一緒に、知っていきましょう」

 美琴の声に、温かな笑みが滲んだ。

「私は——霊に怯えている先輩に、彼らがみな恐ろしい存在ではないということを、知っていただきたいんです」

「……そうだね」

 悠斗は一度深く俯いた。数秒の沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げ、美琴のほうへ視線を向ける。

 ——息を、呑んだ。

 いつの間にか、厚く垂れ込めていた雲が裂けていた。その切れ間から差し込む月光が、舞台を照らす一条の灯のように、美琴と誠也の二人だけを柔らかく包んでいる。

 膝の上で安らかに眠る幼子を、慈しむように見つめる少女。その横顔に、月の光が淡く降り注いでいた。

(……なんて、綺麗なんだ)

 言葉にはできなかった。ただ、心のいちばん奥でそう思った。

『……寂しい。みんなに……会いたいよ……』

 誠也の寝言が、静寂に包まれた院長室にか細く響いた。眠りの中にあってなお、あの子の心は家族を求めている。寝言とは——意識の表層では抑え込んでいた想いが、眠りの淵からそっと浮かび上がってくるもの。

 誠也の魂の奥底に沈んだ寂しさは、まだ解けていなかった。

「誠也くん……」

 美琴の眉が、わずかに曇った。それから——何かを決意したように、すっと表情を引き締める。

「先輩。これから、彼を解放する最後の工程に入ります」

「えっ?」

「このままでは、誠也くんは完全には還ることができません。最後の未練を解き放つために——これから私たちは、誠也くんが生前に経験した過去の記憶を、直に見届けることになります」

 その言葉は、まるで明日の天気でも告げるかのような穏やかさで紡がれた。あまりにも自然に、あまりにも軽やかに。だからこそ——その内容の重さが、一拍遅れて悠斗の脳を貫いた。

「ちょっと待って……! 今、なんて——過去を見るって……!?」

「はい。過去を見る——私は、そう言いました」

 美琴の声は揺るがない。

「多くの霊は、この工程を必要とするのです。過去を見るという行為——それは、彼らが生きた証を誰かに知ってもらうこと。私たちがその記憶を受け止めることで、霊は初めて本当の意味で……受け入れられるのです」

 一瞬の沈黙。美琴は膝の上の誠也を見つめたまま、ふっと小さく微笑んだ。

「説明で理解していただくより——実際に、体験していただいた方が早いかもしれませんね」

「先輩、こちらに来ていただけますか?」

 美琴が小さく手招きをする。悠斗は頷いて、美琴の隣——ソファへと腰を下ろした。

「先輩、目を閉じてください」

「わ、わかった」

(一体なにを……)

 すると、悠斗の額に何か温かなものが触れた。美琴の手だ。

──暖かい。

 その温もりを感じ取っているうちに、意識が急速に微睡みへと沈んでいく。

 抗うこともできず——悠斗の意識は、まるで暗闇に引き込まれるように、深い深い眠りの底へと静かに沈み込んでいった。

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