どうにか美琴を起こした僕は、彼女の手を繋いで外に出た。村は朝からざわついており、その異様な雰囲気に胸騒ぎを覚える。「っ……! 悠斗さん……!」庭先で顔を合わせた霊砂さんは、僕を見るなり、信じられないほど顔色が悪かった。その表情は、不安と恐怖に染まっている。「どうしたんですか……?」僕が尋ねると、霊砂さんは何も言わず、ただ僕と美琴を交互に見る──いや、違う。彼女は僕の顔と、僕が手を繋いでいる“何もない空間”を、痛ましそうに見つめるだけだった。何か……何か様子がおかしい。言葉にならない焦りが、僕の胸に広がる。そのまま、外へ出ようとすると──「お待ち……」背後から声が聞こえてきた。長老だった。その顔もまた、霊砂さんと同じように青ざめている。「お、おばあちゃんまでどうしたの?」美琴の声にも、長老は反応を示さない。その場に、重い沈黙が降りてくる。「ど、どうしたんですか? 何かあったんですか……?」僕は重ねて尋ねた。喉がひりつき、心臓の鼓動が早くなる。すると、長老は苦しげに顔を歪めた。「やっぱりかい……」え? なんだ? どういう事だ?長老の言葉の意味が理解できなかった。しかし、ただ事ではない様子が、痛いほどわかる。同時に、とても嫌な予感がしてきた。昨夜の戦いで得た安堵が、一瞬にして凍りついていくような感覚だった。 ***長老に連れられるまま、僕たちは長老の家へと向かった。部屋に入り、向かい合って座ると、長老は重い口を開いた。「さて……なにから……話そうかね……」その声は、どこか苦しげだった。「おばあちゃん……?」美琴が心配そうに長老に呼びかける。しかし、長老は美琴の声に反応しない。その視線は、まるでそこに美琴がいないかのように、僕の顔だけを、ただ悲しそうに見つめていた。どうして……美琴の声に反応しないんだろう。その違和感が、僕の胸に張り付く。「あ、あの……なんで先ほどから美琴の声に反応してくれないんですか?」僕は意を決して尋ねた。喉がカラカラに乾き、心臓が大きく脈打つ
161君の寝息と、村のざわめき山を降りると、あの重厚な木造の扉が見えてきた。もうヘトヘトだ。全身の霊力は枯渇し、体は鉛のように重かった。それでも、美琴と生きてこの場所に戻ってこられたという事実に、僕の心は静かに満たされていた。「戻りました」僕は扉の向こうにいる門番へ、かすれた声でそう告げた。「おぉ……!!! おかえりなさい……!」門番の一人が、震える声で労いの言葉をかけてくれる。その声には、心からの安堵と喜びが滲んでいた。そしてもう一人が、村の奥へと向かって叫び始めた。「みんなー!! 大変だー!!! 奇跡が……奇跡がおきたぞー!!」大袈裟かもしれないけれど……僕たちが成し遂げたことは、まさにそれほどの偉業だった。琴音様を祓い、美琴と共に生きてこの山を降りてくる。絶望的だった状況を覆した、それは小さな奇跡だったんだ。重い木造の扉が、ゆっくりと開かれる。その向こうには、見慣れた家々の灯りが見え、村人たちがずらりと立ち並び、僕たちを出迎えてくれていた。「二人とも……! おかえりなさい!!」彼らの声が、僕の胸に温かく響く。その中に、長老の声が混じっていた。彼女は奥から、駆け寄るようにこちらへやってくる。「二人共……! よくぞ……よくぞ、やってくれたな……!」長老の声は震えていた。その瞳は、涙で潤んでいる。美琴はそんな長老の元へと駆け寄り、その胸に飛び込んだ。「おばあちゃん…! 今回はほんとうに私一人じゃ琴音様を祓うことなんて……出来なかった…!」美琴は、僕をまっすぐ見てそう言った。その瞳には、感謝と、僕への深い信頼が宿っている。彼女の言葉が、僕の心にじんわりと広がり、温かい光を灯した。「そうか……悠斗……! 感謝する……!」長老が、深々と頭を下げた。その頬には、止めどなく涙が流れている。長老だけじゃない。出迎えてくれた村人みんなが、目頭を押さえ、涙を流していた。その光景を見て、僕の胸も熱くなる。それだけ、僕たちの生還は絶望的だったんだ。彼らがどれほどの不安を抱え、僕たちの無事を祈ってくれていたか、痛いほど伝わって
「うっ……。」僕は体を起き上がらせた。頭の奥がズキズキと痛み、視界がぐらりと揺れる。何が起こったのかを確認すると、つい先ほどまでどす黒い雲に覆われていた空に、満点の星が輝いていた。一体どれほど気を失っていたのだろう。少なくともかなりの時間、意識を失っていたのは確かなようだった。僕は周囲を見渡し、美琴を探した。なのに……同じ場所にいたはずの彼女の姿がどこにも無い。焦りが込み上げてくる。心臓が嫌な音を立てて、激しく脈打った。「美琴ー!!!」叫んで、辺りを見渡す。山頂に僕の声だけがむなしく響き渡り、彼女からの反応はなかった。それから十数分後、僕は山を降りながら、必死に美琴の姿を探していた。なぜか、どこにも見つからない。心臓の鼓動が……どんどん速くなっていく。悪い予感ばかりが、僕の胸を締め付けた。「美琴ぉー!!!!!」いくら叫んでも、彼女が姿を現すことはなかった。ついさっきまでこの場所を支配していたおぞましい呪いは祓われ、あの重苦しい雰囲気が嘘のように浄化された空気なのに、彼女だけが、いない。その事実が、僕の心を深く切り裂いた。僕は諦めることができずに、それから数十分もの間、彼女を探し続けた。喉が枯れ、足が棒のようになっても、彼女を見つけ出すまで止まるわけにはいかなかった。 ***「どうして見つからない……! どこにいる……!」霊力を使い果たした身体の疲れと焦りが、限界を迎えていた。喉は枯れ果て、足元はふらつく。それでも、美琴を見つけられない焦燥が僕の心を支配していた。その時、微かな、しかし確かな声が聞こえてきた。「悠斗君っ!!!」「っ!!!」僕はばっと後ろを振り返る。そこにいたのは、僕が必死に探し求めていた彼女だった。「美琴!!!」僕は彼女へと駆け寄り、その身体を強く、強く抱きしめた。ああ……!良かった……!!本当に、本当に良かった……!!生きていてくれた。その事実だけで、僕の心は安堵に包まれた。目頭が熱くなり、僕の瞳からは止めどなく涙が零れ落ちた。「悠斗君も……無事でよかった……!」美琴もまた、僕の
黒い光と金色の光が、空の中心で激突した。ズズ……ッ!!耳を塞いでも意味のない、重く、分厚い音が世界を震わせる。ふたつの光は、互いを飲み込まんとせめぎ合い、ねじれ、空間ごと引き裂こうとしていた。「っ……! う、うぅ……っ!」だけど──押されていたのは、美琴の光のほうだった。金色の祈りの輝きが、黒の呪いに少しずつ、少しずつ蝕まれていく。美琴の手が、わなわなと震えている。顔を苦痛に歪めながら、それでも祈りの術式を崩すまいと、必死に抗っていた。それでも、琴音様の怒りは──あまりにも、重かった。「ど、どうすれば……!」焦燥が、胸の奥で爆ぜる。僕の霊力は、もうとっくに尽きかけていた。結界を張ろうとしても、手のひらに力は宿らない。空に結の字を描こうとしても、ただ虚しく腕が空を切るだけだった。こんなときに……! こんなにも、大切なときに……!!僕は、ただ見ていることしかできない。美琴は、なおも踏みとどまっていた。だけど──黒い呪いの光は、容赦なく金色の祈りを飲み込んでいく。そして。パァンッ――!耳を劈くような甲高い音が響いた。次の瞬間、美琴が身につけていた碧い数珠が、砕け散った。かつて琴音様が愛用していたとされる、霊具の数珠。それが、まるで限界を告げるように……破裂した。(っ……!)美琴の術式が、崩れかけている。あれはただの道具じゃない。彼女の霊的な守護を担っていた最後の砦。それが壊れたということは──(美琴……)ここまで、なのかもしれない。どんなにもがいても、踏ん張っても……琴音様の怒りと呪いは、あまりにも強すぎた。だけど。僕の足は、自然と動いていた。美琴の傍へ。そして、彼女のすぐ隣に立った。「っ……! 悠斗君!? 離れて!! もう、持たない……っ!」焦ったように美琴が叫ぶ。でも、僕は首を横に振った。「言ったでしょ? 一緒にいるって」「君を一人では……逝かせないよ」「ゆ、悠斗君…っ!」手が、震える。心臓の鼓動が、やたらと大きく響く。だけど、後悔はなかった。そっと目を瞑る。美琴と出
「な、な……なんで……っ、沙月さんが……!?」驚愕で言葉がつっかえる。けれど、彼女は何も答えない。「沙月様…!?」舞いの最中である美琴も、その瞳に驚きを浮かべていた。沙月さんは静かに僕の前に立つと、何の詠唱もなく――ただ、すっと手をかざした。それだけで、桜色の結界が幾重にも展開し、迫りくる迦夜たちを音もなく霧散させていく。「……ッ!」唇が震える。あの人はもう、この世にはいないはずなんだ。確かに、桜翁の地下で消えていったはずなのに――どうして、ここに……?『沙月……!! そんなもの……本物などではない……! 貴様の“想い”が形を成した、ただの残滓ごときが……!!』琴音様が、否定するように叫ぶ。魂の残響、想念の残滓――ただそれだけ、と。だけど──それでもいい。今、この瞬間に僕の隣に立ち、力を貸してくれる彼女の存在が、偽物なわけがない。“想い”だけで顕現したというのなら、その想いこそが、何よりも真実だ。何より、その温もりのような気配が、僕の心を確かに奮い立たせてくれた。(ありがとう、沙月さん……)空を埋め尽くす迦夜たちが、怒涛の勢いで僕たちに殺到する。禍々しい爪の斬撃、呪詛の塊である星の礫。殺意の嵐が、四方八方から襲いかかる。「神籬ノ帳っ――!!」咄嗟に手をかざし、桜色の結界を展開する。ドン、と衝撃が重なるたびに、手のひらが痺れていく。防いでも、防いでも、次の一撃がすぐにやって来る。けれど僕は、一歩も退かない。僕のすぐ後ろでは、美琴が世界の命運を懸けて舞い続けているのだから。彼女を守る。それだけは、何があっても曲げられない誓いだ。僕が力で受け止め、こぼれた攻撃を、すかさず沙月さんが受け流す。まるで呼吸を合わせるように。何も言わなくても通じ合うように。ただ静かに、柔らかく、でも確かな意志を持って、彼女の結界が僕の結界と重なり合い、僕と美琴を包み込んでいく。その姿に、僕は確かに──勇気をもらっていた。『おのれ…!! 貴様はなぜ……!!』琴音様の瞳に、炎のような憎悪が宿った。それは怒りではない。怨嗟という名の──呪いそのもの。『廻り、廻りて……この身は業と
「ダメだ……っ! 沙月さんっ!!」突き飛ばされた僕は、地面に手をつきながら叫んだ。そのとき──視線の先で、彼女がこちらに向けて微笑んでいた。静かに、やさしく。どこか──儚さすら感じさせる笑顔。そして……その唇が、確かに動いた。『──生きなさい』そう聞こえた、気がした。否、それはもう“想い”として、僕の胸に直接届いていた。沙月さんが追加で展開した結界は、まるで紙のように打ち砕かれる。そして。凄まじい衝撃音と共に、黒い照焔が沙月さんの全てを呑み込んだ。爆発と共に巻き起こる風。そのあまりの威力に、僕の体は枯れ葉のように地を転がった。「うっ……!!」視界が、黒煙にかき消される。立ち上る黒い霧と灰が、空をさらに曇らせていく。「沙月さんっ……!!」必死に目を凝らす。でも、何も見えない。どれだけ叫んでも、返事はない。……違う。違うんだ。沙月さんは、確かにそこにいたんだ。あの一瞬、あの場所で、僕を──守ってくれた。僕は…また、守られてしまった。(だから……僕は、応えなきゃ……)そのときだった。──ひら、ひら。視界の中に、淡い光が舞い落ちてきた。「これは……桜……?」それは桃色に近い、やわらかな薄紅。でも、どこか神々しさを纏った光の花びら。そして、煙の向こうで。ひとつの影が──ゆっくりと、舞っているのが見えてくる。「美琴……っ」彼女は、静かに手を広げ、天を仰ぎ、踊っていた。音もなく、風に身を委ねるような舞。けれど、その一挙一動がこの世の穢れを祓わんとする、祈りの具現だった。そして…「浄化の舞い、成就しました。沙月様…私と悠斗君を、ここまで守っていただいて…ありがとうございました」美琴がそう、天にいるはずの魂へ向けて、静かに呟いた。煙が晴れていく。『その程度の──不出来な浄化の舞い如きで……!!』琴音様の声が、空気を裂いた。『この妾の怒りが祓えるものか……!!』その瞳は、赤黒い怨念の炎を宿して燃え上がっていた。激情が爆ぜたよう