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五十話:壊したくない記憶

last update Veröffentlichungsdatum: 02.06.2025 18:59:48

 トンネルの内部は、昼間とは別の場所のようだった。

 天井の蛍光灯はとうに死んでおり、懐中電灯の光だけが足元を頼りなく照らしている。コンクリートの壁面を伝う水滴の音が、不規則に反響しては消えていく。そして霧——トンネルの奥から這い出すように漂う白い靄が、数メートル先の視界を曖昧に溶かしていた。

 悠斗と美琴が先頭を歩き、少し離れた後方を竹中と静江が続く。悠斗は時折振り返り、二人の足取りを確かめていた。静江の歩みは遅かったが、止まりはしなかった。

 そのとき——空気が、震えた。

『ごめん……なさい……。ごめん……なさい……』

 声だった。どこから響いているのかわからない。壁から、天井から、あるいは霧そのものから滲み出すように、掠れた女の声がトンネルの内壁に反響する。悲痛に引き裂かれた、けれど確かに誰かに届こうとしている声。

「っ……!  この声は……」

 静江の足が止まった。竹中も同時に立ち竦む。二人の顔から、一瞬で血の気が引いていた。

「……間違いない!  間違いないよ……!  この声は、詩織だ……!」

 静江の目が見開かれた。その瞳に浮かんだのは恐怖ではなかった。もっと深い、もっと切実な何かだった。老いた脚が弾かれたように駆け出し、悠斗と美琴の間をすり抜けていく。

「詩織!!  いるんだろう!?  出てきておくれよ……!」

 声が霧の中に吸い込まれる。竹中もまた、静江の背を追って走り出した。

「詩織……!  僕もいる!  どうか……姿を見せてくれ……!」

『母……さん……?  裕二……さん……?』

 霧の奥から、声が返ってきた。輪郭のない、けれど確かに此方へ向けられた声。

『……どうして……来たの……!  私は……もう二人には……会えないのに……!』

 震えていた。怒りでも拒絶でもない。もっと複雑な、いくつもの感情が絡み合って解けないまま声になっている。悠斗の胸の奥が、つられるように軋んだ。

「っ!  ほんとうに……詩織なんだね……。詩織、あたしが悪かったよ……!  あんたたちを、もっと信じてやれば、こんなことには……!」

 静江の膝が崩れかけた。涙が頬を伝うのを拭おうともせず、霧の向こうへ手を伸ばしている。届かない。わかっていても、伸ばさずにはいられない。

『……!』

 霧の奥で、空気がわずかに揺れる。息を飲んだのだと、悠斗は直感した。詩織がそこにいる。姿は見えなくても、確かに。

「たくさん苦しんだろう……?  もう、やめようじゃないか……!  だから詩織、姿を見せておくれ……」

 静江の声は祈りだった。懇願というにはあまりに剥き出しで、母親という肩書きすら剥がれ落ちた、ただの一人の人間の叫びだった。

 しかし、返ってきた声は——

『……ダメだよ。私は……二人には会えないの』

「な、なんでだい!?  やっぱり……あたしを憎んでるのかい……?」

『そんなことない……!  でも……会えないの。お願い……どうか……わかって』

 詩織の声が掠れ、霧に溶けるように細くなっていく。拒んでいるのではなかった。守ろうとしている——悠斗にはそう聞こえた。けれど何から、誰を守ろうとしているのかは、まだわからなかった。

「詩織……。僕は今でも、君を愛している。この気持ちに変わりはないんだ……!  だから、せめて姿だけでも……!」

 竹中が前に出た。その声は震えていたが、一語ずつ、確かめるように言葉を紡いでいる。

『……裕二さん。その言葉はね、今の私には何より受け入れ難い言葉なんだよ』

「どうしてだい……!?  話さなきゃ、分からないだろう……?」

 竹中の頬を涙が伝う。唇を噛み、それでも声を絞り出した。

「お義母さんも、ずっと君を……!  だから……!」

『できないものはできないのォォォォォォォ!!!!』

 空気が裂けた。

 トンネルの壁面が共鳴するほどの慟哭が、四方から叩きつけるように響き渡る。悠斗の鼓膜が痺れ、足元のコンクリートさえ震えた気がした。

『なんで……!  なんでわかってくれないのぉぉ……!』

 その声と同時に、鉄錆の匂いが鼻腔を刺した。湿った空気の中に、鮮明な血の匂いが滲み始めている。

「……この匂いは」

 竹中が息を詰めた。悠斗もまた、喉の奥がきつく締まるのを感じる。ただ見守ることしかできない。二人の前に踏み出す言葉を、まだ持っていなかった。

「詩織……頼むよ……!  お前を一度抱きしめさせておくれ……!」

 それでも、二人は退かなかった。血の匂いも、拒絶の叫びも、この母と夫の足を止めることはできない。

『なんで……!!  どうしてわかってくれないの……!!  私の姿は……あの時のまま止まってるのに……!!!  そんな姿、二人に見せたくないのにぃぃぃぃぃぃ!!』

 悠斗の胸を、冷たいものが貫いた。——そういうことだったのか。拒んでいたのではない。見せたくなかったのだ。事故で損なわれたまま、時の止まった自分の姿を。愛する人たちの記憶の中にある自分を、壊したくなかったのだ。

『なら……見せてあげるよ……今の私の姿を……!!』

 霧が割れた。

 奥から、人影が滲み出るように現れる。はじめは輪郭だけだった。肩、腕、足——ひとつひとつが霧の中から形を成していく。

「あぁ……!  しお——」

 静江の声が途切れた。

 口が動いている。言葉を紡ごうとしている。けれど音にならない。目の前に立つものを、脳が認識することを拒んでいた。

 竹中もまた、息を呑んだまま動けない。顔から血の気が引き、唇が微かに戦慄いている。

「……ひ、ひぃっ!」

 静江の喉から、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れた。

 霧の切れ目に立っていたのは、詩織の輪郭をした“死”だった。

 肌は血に濡れ、乾きかけた赤黒さが布のように貼りついている。その下、紫黒い死斑がまだらに浮いていた。生きた人間の色ではない。

 静江の口は開いたまま、名前を呼ぶ形だけを作る。けれど音にならなかった。脳が、認めることを拒んでいた。

『……ほら……ね。そうなるのは、分かってた……!  だから……、姿を見せられないって言ってたのに……!!』

 詩織の声に、怒りが滲んだ。悲しみの底を突き抜けた、もっと深い場所から湧き上がる感情だった。彼女もまた、この再会を望んでいなかったのだ。愛する者たちの顔に浮かぶ恐怖を、見たくなかったのだ。

『……母さん……!!  裕二さん……!  なんできたのぉぉぉぉぉぉ……!!!!!!』

 詩織が走り出した。

 砕けた身体のまま、こちらへ向かってくる。両腕が不自然な角度に折れ、走るたびに意志を持たない振り子のように揺れている。悠斗の背筋を、氷の指が一気に駆け上がった。

 静江の身体が反転した。本能だった。恐怖が理性を凌駕し、足が後方へ動こうとした——その肩を、美琴が掴んだ。

「静江さん……!  怖いのは分かります、でも逃げないでください……!」

「む、無茶だよ……!!  あれが詩織だって!?」

 静江の顔が恐怖に引き攣っている。視線が詩織と美琴の間を行き来し、瞳孔が揺れていた。

「あなたがここで逃げ出したら、詩織さんが本当に悪霊になってしまいます!  彼女を……、彼女を受け入れてあげてください……!」

 美琴の声が震えていた。——いや、声だけではない。静江の肩を掴む指先に、力がこもりすぎている。悠斗にはそれが見えた。美琴もまた、必死なのだ。

 詩織は、もうすぐそこまで迫っていた。

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    そして、私は力の使い過ぎで倒れてしまった。 きっと、この時また寿命を減らしてしまったのだろう。 それでも、彼の力になれたのなら、それでいいと、そう思えた。 だけど。あの時の彼の心配そうな顔が、私の脳裏にこれ以上ないほど強く焼き付いてしまったんだ。 私の無事を確認した彼は、本当に安心した様子で、微笑んだ。 ……どうしてだろう? 私は、そう思った。 私の命に、そんな価値など、ないはずなのに。 *** 次に、二人で初めての調査。温泉郷へと赴いた。 私はこの時、生まれて初めて──人生を「楽しい」と思えた。 これまでの私の記憶には、誰かと心穏やかに過ごす時間など、ひとつもなかった。遊

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  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   縁語り其の百三十:君の時間が、散る前に

    桜華さんたちが成仏されたあと、僕と美琴の間には、重く、気まずい空気が漂っていた。静まり返った迦夜の結界の中で、僕の心臓の、嫌な音だけが、やけに大きく響いている。 理由は…もちろん、桜華さんたちの記憶から僕の霊眼が捉えた、あの言葉だ。 『代償により……命を、削られ、苦しみ続けた』 それはつまり…美琴にも、当てはまるんじゃないのか? その、最悪の可能性が、僕の思考を支配し、全身の血の気を奪っていく。 美琴が、僕の傍から居なくなる…? そんなこと、想像するだけで、耐えられない。 「み、美琴…桜華さん達の、魂が削られるって…どういうこと……?」 声が、震える。今まで味わったことのない種

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