LOGINそれから、どれほどの時間が流れただろう。
静江と詩織は、互いを確かめるように抱き合い続けていた。腕の力を緩めれば消えてしまうとでも言うように、どちらも離れようとしない。 悠斗と美琴は、ただその光景を見守っている。言葉を挟む余地などなかった。挟む必要もなかった。 「詩織……」 『母さん……』 「……なんてこった……まさか本当にあんたをこうしてまた抱きしめることができるなんて……!」 静江の声が詰まる。信じられないという響きと、信じたいという響きが、同じ声の中でせめぎ合っていた。 『……それは私も同じ気持ちだよ。ずっと、このトンネルで私は……母さんを待ってたの』 詩織の声が、嗚咽のあいだから零れ落ちる。言葉がうまく形にならない。それでも、伝えなければいけないことがある——その一心だけが、途切れそうな声を繋ぎとめていた。 『私は、父さんと同じように母さんを裏切っちゃったと思ってたから……! 怖くて……怖くてずっとここから離れられなくなっちゃった……』 静江の手が、詩織の頬に伸びた。血に汚れた肌を、指先でそっと撫でる。我が子の輪郭をなぞるように。二十年のあいだ触れられなかったものに、もう一度触れるように。 「馬鹿な子だよ、本当に……! あんたが悪いんじゃない……! 娘を信じてやれなかったあたしが悪いんだ……!」 『……母さん!』 詩織の腕に、力がこもった。静江の身体が小さく揺れる。 『ごめんなさい……! 一人にして、ごめんなさい……!母さん……私、戻れなかった……! 家に、帰れなかったんだよぉ……!』 「いいんだ……。こうしてまたあんたを抱きしめることが出来たんだから……! むしろ、あたしが謝らないとね……」 「詩織、逃げてすまなかったね……。信じてやれなくて、すまなかったね……」 『…母さんこそ、もういいよ。今日だけで、何度も謝ってるじゃない』 詩織の口元が、かすかに緩んだ。泣き腫らした目のまま、それでも笑おうとしている。不器用な、けれど確かな微笑みだった。 「…………」 竹中は少し離れた場所に立ち、親子の姿を見つめていた。涙が顎を伝い、静かに地面に落ちている。拭おうとする素振りもない。 『裕二さん、いつもこのトンネルに来てくれていたよね』 「……うん。ずっと、君に会いたくて。ここに来れば会えるんじゃないかって、そう思ってたんだ」 『あはは……! 私幽霊なのに……! 怖くないの?』 詩織の声に、初めて軽さが混じった。涙の跡が残る頬で笑っている。その笑い方が、二十年前もきっとこうだったのだろうと思わせた。 「最初は怖かったさ。でもさっき、君を逃げずに抱き止めただろう?」 二十年分の感情を吐き出したからだろうか。トンネルの中の空気が、少しずつ緩んでいく。張り詰めていた糸が、一本ずつほどけていくように。 『……うん。そうだね、あなたはそういう人だもん……! だから私は、あなたの奥さんになりたかったんだ……』 「っ……。君は……僕の妻だ」 『えっ……』 「僕は、君以外と結ばれるつもりはない。これからも」 短い言葉だった。飾りはどこにもない。けれどその一言に込められた重さは、この場の誰もが感じ取っていた。二十年間、別の誰かを選ばなかった。その事実だけが、どんな誓いよりも雄弁だった。 (——そうだ、この人は受け止めたんだ。死んでしまったあの日のまま、止まってしまった彼女を) 「……そうだねぇ。結局、あたしの人を見る目がなかったってことか」 静江がぼそりと呟いた。諦めたような口調だった。けれどその声には、長い間固く閉じていたものが、ようやくほどけたような響きがあった。 『えっ? なに? 母さん』 「……認めるよ。あんたたちを」 詩織と竹中が、同時に目を見開いた。声が出ない。言葉の意味を、二人とも信じかねている。 「……あんたなら、詩織を託していいと、いまなら本気でそう思うよ」 静江は頬をかいた。気恥ずかしさと、それだけでは済まない何かが、その仕草の奥に滲んでいる。もっと早くこう言えていたら——その後悔を、静江は飲み込んでいるのだろう。 「ありがとうございます。これで僕は詩織の夫だと、自信を持って……胸を張って生きていけます」 『そ、そんな! 大袈裟だよ!』 詩織が慌てたように声を上げる。けれどその頬は——血の跡の下でも分かるほどに、緩んでいた。 『……それはずるいって! でも、……はいっ!』 その声が、トンネルの暗がりの中で不思議なほど明るく響いた。 ——その時だった。 詩織の身体から、淡い光の粒が立ち昇り始めた。ふわり、ふわりと。蛍火のように緩やかに、けれど確かに、天へ向かって。 (これは……!) ——成仏が近い。 時とは残酷なものだ。ようやく触れ合えたと思った直後に、別れが口を開けて待っている。 だが——悠斗はその場にいる全員の顔を見渡した。静江も、竹中も、詩織も。寂しそうな表情は浮かべている。けれど、悲しそうな顔をしている者は、一人もいなかった。 『……』 詩織が、静江と竹中の傍を離れ、悠斗と美琴のほうへ歩み寄ってきた。光の粒が、歩くたびにこぼれ落ちる。 『二人とも、ありがとう。私の正直な想いを伝える機会をくれて』 「いえ、私たちは何もしていません。竹中さんが、そして静江さんが、私たちを信じてついてきてくださった。お二人が信じてくださらなければ、また違った結末を迎えていたかもしれません」 『……あなた、そんなに謙遜しないで。あなたたちがこうして私の為に動いてくれた。間違いなくあなたたちのおかげだよ』 美琴が小さく口を開きかけた。まだ何か言おうとしている。 「……美琴、彼女の言葉を受け取ろう」 悠斗の手が、美琴の背にそっと触れた。軽く、ほんの一瞬だけ。けれどその一触が、美琴の口元をわずかに緩ませた。 『……あなたにはなんだか、とても心の内を明かしやすかった気がするよ』 詩織は悠斗をまっすぐに見つめて、微笑んだ。その笑顔には、もう恐怖の影も、痛みの跡もなかった。ただ穏やかで——どこか、眩しかった。 詩織は竹中のほうへ向き直る。 『ねぇ、あなた』 「な、なんだい?」 竹中が頬を染める。照れ隠しのように目を伏せかけて、やめた。もう、目を逸らしたくなかったのだろう。 『母さんを気にかけてくれて、ありがとう』 「……当然じゃないか。君の、僕のお義母さんなんだから」 『あはは、結果論〜』 詩織がおどけるように笑った。その軽さが、かえって胸に沁みる。こういう笑い方をする人だったのだ。二十年の闇の中でも、この人はこの明るさを失わなかったのだ。 『……せっかくやっと会えたけど、もうお別れが近いみたい……』 光の粒が、さっきよりも多くなっている。詩織の輪郭が、わずかに淡くなり始めていた。 「……今後もお義母さんのことは任せて」 『……うん。信じてる』 短い言葉だった。けれどその「信じてる」に、一片の迷いもなかった。 詩織が、静江のほうへ振り返る。 『……母さん、結婚を認めてくれてありがとう。それから…親不孝でごめんなさい…』 「……ああ。本当にしょうもない子だよ…っ」 静江の声は掠れていた。それ以上、言葉が出てこない。唇を噛み、堪えている。 『長生き……してね? すぐにこっちに来るなんて許さないんだから』 「……わかったよ」 静江は、ただ頷いた。何度も、何度も。 やがて——詩織を包む光が、ひときわ強くなった。 光の中で、詩織の姿が変わっていく。血の跡が消え、乱れた髪が滑らかに流れ落ち、透き通るような黒髪が肩を覆った。強張っていた表情が解け、快活な笑みが浮かぶ。 悠斗の目が、見開かれた。記憶の中で見た姿。記憶の中でしか知らなかったはずの——松田詩織が、そこにいた。 『……あぁ。なんだか眠いや——』 詩織の瞼が、ゆっくりと落ちかける。眠りに身を委ねる子どものような、穏やかな顔だった。 『二人とも、またね。上で待ってるから』 光が、弾けた。 トンネルの闇を一瞬だけ塗り替えるほどの、温かな光。それは天井を抜け、岩肌を透かし、どこか遠い場所へと昇っていった。 あとには何も残らなかった。冷たい空気と、薄暗いトンネルと、かすかに漂う——花のような、懐かしい匂いだけが。 ──────────────── 母の涙 胸に刺さりて悔いぬ 遠き日に 別れし縁の痛みよ されど愛は 消えぬと響き いまこそ 光に還りゆかん### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
訪れたのは、やはり桜翁の前だった。 花はとうに散り、枝には深い緑だけが残っている。けれど二人の足は迷いなくここへ向かっていた。言葉にしなくても、この場所がそうであることを互いに知っている。 「美琴、その……身体は本当に大丈夫なの?」 「ふふ、心配していただいてありがとうございます。この通り元気ですよ」 美琴が両手を軽く広げてみせる。 (顔色は良くなったけど……結局、原因が分かってない……) 「……原因はなんだったの? 美琴が静江さんを支える時に霊気が流れてるのは見えたけど……」 「……やはり、霊眼術を持った以上、見えてしまいましたか」 美琴の目が一瞬だけ伏せられた。睫
「美琴たちも、屋上で昼食を?」 悠斗がそう尋ねると、美琴は小さく頷いた。 「そうですよ。どうしても、澪が屋上で食べたいって言っていて」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、隣から弾けるような声が飛んだ。 「じゃあさ! 俺たちと一緒に食べねー!?」 春雪が身を乗り出して、両手を広げてみせる。 「えっと……よろしいのでしょうか?」 美琴が遠慮がちに視線を落としかけたその横で、澪がぱっと顔を輝かせた。 「何言ってんの美琴! これはお誘いだよ! えっと、はい! ぜひ一緒に!」 「隣いいですか!?」 「おう!」 澪は迷いなく春雪の隣に腰を下ろした。弁当箱を抱え
「これは……?」 二枚のチケットを手の中で返しながら、悠斗は静江を見上げた。 「詩織が小さい頃に一緒にその温泉郷へ行ったんだよ」 静江の声が、少しだけ遠くなった。視線がチケットではなく、その向こう側にある景色を見ている。 「そしたら、詩織が温泉郷をやけに気に入ってね。事故直前は詩織の誕生日も近かったから、サプライズで連れていこうと思ったんだけど……」 言葉の末尾が自然と消えた。その先を語る必要はなかった。悠斗の手の中にあるチケットが、使われなかった理由を静かに語っている。 「じゃあこれは……詩織さんとの思い出作りのために……。そんな大切なもの受け取れませんよ」 悠斗がチケ
静江の声が、暗がりに溶けた。 「……詩織。ありがとうね」 その言葉には、長い歳月をかけてようやく見つけた呼吸のような軽さがあった。涙の痕が頬に残ったまま、静江の口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。 竹中が静かに静江の横に並んだ。二人の視線は、詩織がいた場所——今はただ薄暗いトンネルの空気が揺れるだけの空間——に向けられている。 「逝ってしまいましたね……」 「……ああ。でもなんだろうね、ずっと心が軽くなったよ」 静江の声に、先ほどまでの張り詰めた響きはない。何十年もかけて背負い込んだものが、ほんの数分前に解けたばかりだとは思えないほど、その横顔は穏やかだった。 「僕もです