Mag-log in夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう
私はその後、無我夢中で雨の中を走っていた。 空を裂く稲光が、集落を囲む山々を一瞬だけ白く浮かび上がらせる。そのたびに遅れて雷鳴が轟き、胸の奥まで震わせた。 雨は痛いほど顔を打ちつけてくる。服はとっくに肌へ張りつき、靴の中には水が溜まっていた。それでも、足を止める気にはなれなかった。「なんで……っ。なんで分かってくれないのよ……!」 吐き出した声は、雨音に呑み込まれていく。「彼は……竹本さんは、そんな人なんかじゃないのに……! どうして分かってくれないのよ……!」 母さんから離れたかった。 あの家から、一刻も早く遠ざかりたかった。 それだけを考えて走り続けた私は、いつの間にか集落を抜け、町へ続く道の途中まで来てしまっていた。 もっとも、町まではそこからさらに一時間ほどかかる。風鳴トンネルへなら、あと三十分ほど。 息が苦しい。 身体もすっかり冷えきっている。 さすがにこのまま朝まで歩き続ければ、明日の仕事に差し支える。風邪でもひいたら、竹本さんにも心配をかけてしまう。 だから私は、風鳴トンネルでひとまず雨宿りをしようと考えた。 この辺りには、ほかに雨風をしのげる場所などない。 少し休んで、気持ちが落ち着いたら、トンネルを抜ける。そのまま峠道をぐるりと回り、別の道から家へ帰ればいい。 今すぐ引き返せば、きっとまた母さんと顔を合わせる。 そうなれば、同じことの繰り返しだ。 私もまだ腹を立てていたし、母さんだって頭に血が上っていた。少し時間を置いた方がいい。互いに冷静になってから話せば、今度こそ分かり合えるはずだ。 そんなふうに、自分へ言い聞かせていた。 それに、ほんの少しだけ、母さんを困らせてやりたいという気持ちもあった。 いつも聞き分けのよかった娘が本気で家を飛び出せば、母さんだって少しは考え直してくれるかもしれない。 あれが、私にとって初めての反抗期だったのだろうか。 本当に家を捨てるつもりなんてなかった。 母さんを置いていくつもりだって、なかった。 ただ、私がどれほど竹本さんを大切に思っているのか、それを分かってほしかっただけだった。 やがて、闇の中に風鳴トンネルの入り口が見えてきた。 私は逃げ込むように、その中へ足を踏み入れる。 途端に、雨が身体を打つ感触が消えた。 代わりに聞こえてきたのは、天井や壁から落