LOGIN──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう
私はその後、無我夢中で雨の中を走っていた。 空を裂く稲光が、集落を囲む山々を一瞬だけ白く浮かび上がらせる。そのたびに遅れて雷鳴が轟き、胸の奥まで震わせた。 雨は痛いほど顔を打ちつけてくる。服はとっくに肌へ張りつき、靴の中には水が溜まっていた。それでも、足を止める気にはなれなかった。「なんで……っ。なんで分かってくれないのよ……!」 吐き出した声は、雨音に呑み込まれていく。「彼は……竹本さんは、そんな人なんかじゃないのに……! どうして分かってくれないのよ……!」 母さんから離れたかった。 あの家から、一刻も早く遠ざかりたかった。 それだけを考えて走り続けた私は、いつの間にか集落を抜け、町へ続く道の途中まで来てしまっていた。 もっとも、町まではそこからさらに一時間ほどかかる。風鳴トンネルへなら、あと三十分ほど。 息が苦しい。 身体もすっかり冷えきっている。 さすがにこのまま朝まで歩き続ければ、明日の仕事に差し支える。風邪でもひいたら、竹本さんにも心配をかけてしまう。 だから私は、風鳴トンネルでひとまず雨宿りをしようと考えた。 この辺りには、ほかに雨風をしのげる場所などない。 少し休んで、気持ちが落ち着いたら、トンネルを抜ける。そのまま峠道をぐるりと回り、別の道から家へ帰ればいい。 今すぐ引き返せば、きっとまた母さんと顔を合わせる。 そうなれば、同じことの繰り返しだ。 私もまだ腹を立てていたし、母さんだって頭に血が上っていた。少し時間を置いた方がいい。互いに冷静になってから話せば、今度こそ分かり合えるはずだ。 そんなふうに、自分へ言い聞かせていた。 それに、ほんの少しだけ、母さんを困らせてやりたいという気持ちもあった。 いつも聞き分けのよかった娘が本気で家を飛び出せば、母さんだって少しは考え直してくれるかもしれない。 あれが、私にとって初めての反抗期だったのだろうか。 本当に家を捨てるつもりなんてなかった。 母さんを置いていくつもりだって、なかった。 ただ、私がどれほど竹本さんを大切に思っているのか、それを分かってほしかっただけだった。 やがて、闇の中に風鳴トンネルの入り口が見えてきた。 私は逃げ込むように、その中へ足を踏み入れる。 途端に、雨が身体を打つ感触が消えた。 代わりに聞こえてきたのは、天井や壁から落
その夜の雨音を、私は今でも覚えている。 屋根を叩き、窓を揺らし、集落そのものを押し潰そうとするような雨だった。空の奥で雷が鳴るたび、家の中まで青白い光が差し込み、遅れて腹の底に響くような轟音が追いかけてきた。 後になって、あれは歴史的な豪雨だったと知った。 けれど私にとって、あの夜を忘れられない理由は雨ではない。 忘れたくても、忘れられるはずがない。 あの日、私は母さんに、取り返しのつかない言葉を投げつけた。 銀行での失敗を竹本さんに助けてもらった夜から、一年ほどが過ぎていた。 憧れだった人は、いつの間にか私の恋人になっていた。 そして、その日。 私は竹本さんから、結婚を申し込まれた。『これからも、そばにいてほしい。私と結婚してくれないか』 場所は、二人で訪れた遊園地だった。 夜の園内を彩るイルミネーションが、まるで星を地上に集めたみたいに輝いていた。赤や青、金色の光が幾重にも重なり、竹本さんの差し出した小さな箱まで、夢の中のもののようにきらめいて見えた。 箱の中には、とても綺麗な指輪が収められていた。 けれど、そのときの私は、指輪の形も宝石の輝きも、きちんと見られていなかったと思う。 竹本さんの言葉を聞いた途端、目の前が涙で滲んでしまったから。 嬉しくて、幸せで、胸の奥から何かが溢れてきて。 本当にこれは私の身に起きていることなのだろうかと、どこか他人事のようにさえ感じていた。『はい……! こちらこそ、よろしくお願いします……』 泣きながら、どうにかそう答えた。 きっとひどい顔をしていた。涙で化粧も崩れていただろうし、声だってまともに出ていなかった。 それでも竹本さんは、心から嬉しそうに笑ってくれた。 私の人生で、いちばん幸せだった瞬間。 今でも思い出せる。 光の色も、彼の声も、指輪をはめてもらったときの指先の震えも。 全部、昨日のことのように。 母さんも、きっと喜んでくれる。 竹本さんがどれほど優しくて、誠実で、私を大切にしてくれる人なのか。それをきちんと話せば、きっと分かってくれる。 私は、そう信じていた。 家に着く頃には、雨脚はすっかり強くなっていた。 空にはひっきりなしに稲光が走り、雨粒が窓を激しく打ちつけている。それでも私の胸は、まだ遊園地の光の中にいた。 左手には、もらったばかりの指輪が
あの頃、ぬいぐるみたちに囲まれた部屋で胸に誓った願いは、やがて叶った。 立派な会社に勤めて、今度は私が母さんを支える。 そう夢見ていた私は二十四歳になり、目標だった銀行に就職していた。 まだ入行して一年目の、ある夜のことだ。 広いオフィスは、私の席を残してすっかり暗くなっていた。 等間隔に並んだ机も、書類棚も、窓際に置かれた観葉植物も、夜の闇に輪郭を沈めている。その中で、私の頭上の照明と、パソコンの青白い画面だけが、ぽつんと灯っていた。 スーツの袖を肘までまくり、私は何度も同じ数字を打ち直す。「んん……。どうすればいいのよ……」 弱音が、誰もいないオフィスへこぼれた。 返事の代わりに聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけ。 一年目の私は、まだ仕事に慣れているとは言い難かった。 それでも、頼まれたことはできるかぎり早く終わらせたし、分からないことがあれば何度でも確認した。母さんに楽をさせたい。その一心で、どんな仕事にも手を抜かなかった。 きっと、そんな姿勢を評価してもらえていたのだと思う。 私は銀行の入出金に関わる記録を確認し、金額を管理する仕事を任されていた。 お金を扱う以上、たった一つの数字も間違えてはいけない。 分かっていた。 誰よりも気をつけていたつもりだった。 それなのに私は、その日、一つの金額を誤って入力してしまった。 しかも、間違いに気づかないまま、その数字をもとに次の処理を続けてしまったのだ。 一つのずれが次のずれを生み、そのずれを正しいものとして、さらに別の計算が重なっていく。 画面を遡っても、どこまでが正しくて、どこからが間違っているのか、もう簡単には見分けがつかない。 並んでいる数字のほとんどが、最初の過ちに引きずられていた。 上司や周囲の人たちは、明日、みんなで確認しようと言ってくれた。 初めての失敗なのだから、一人で抱える必要はないとも。 けれど、私には帰ることができなかった。 私が間違えたのだ。 このまま翌日の処理へ持ち越せば、影響がどこまで広がるか分からない。もしかしたら、取り返しのつかない損害を出してしまうかもしれない。 そんな不安が、椅子から立ち上がろうとするたび、私の肩を押さえつけた。 退勤の打刻さえしないまま、私は一人で数字を追い続けた。 けれど、焦れ
次に浮かんだ記憶もまた、夕日の色をしていた。 集落を縫う細い道も、家々の屋根も、遠くに広がる畑も、何もかもが柔らかな橙色に染まっている。 自宅の前に立つ私の背中を、沈みかけた夕日がじんわりと温めていた。まだ身体に馴染んでいない真新しいセーラー服。その襟にも、スカートの襞にも夕日の色が滲んで、いつも見ていたはずの我が家さえ、少しだけ特別な場所に見える。 そして記憶の中で、次にその扉を開けたとき――私はもう、高校生になっていた。「母さんっ! ただいま!」 弾む声とともに家へ飛び込む。 その途端、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。 |鰆《さわら》だ。 脂の乗った皮がぱちぱちと爆ぜる音に、ほどよく焦げる匂いがかすかに混じっている。私の大好物だった。「おかえり」 台所から顔を出した母さんが、いつもの声で迎えてくれる。 幼い頃と比べれば、目尻には細い皺が増えていた。それでも、私を見る眼差しだけは少しも変わらない。温かくて、優しくて――いつだって私の帰る場所になってくれる、自慢の母さんだった。「念願の高校生活はどうだった?」「うーん、ぼちぼちかな!」 なんて、わざと何でもなさそうに答えたけれど。 今思い返せば、ぼちぼちだなんて言える声音ではなかった。声は自分でも分かるほど弾んでいたし、きっと頬も緩みきっていたのだろう。 母さんは私の顔をしばらく眺めたあと、堪えきれなくなったように、ふっと笑った。「何さ、その顔」「別に。ぼちぼちだったんだなと思ってね」「そうだよ。ぼちぼち!」 言い張る私に、母さんはますます可笑しそうに目を細める。「はいはい。ほら、早く上がんな。夕飯の支度、もうできてるからね」「うんっ!」 靴を脱ぎ、鞄を置くと、私は着替えもせずに居間の食卓へ向かった。 待ちに待ったセーラー服を、まだ脱ぎたくなかったのだ。今日一日だけでは足りない。家に帰ってからも身につけたまま、何度だって眺めていたかった。 そんな私を見て、母さんが呆れたように唇を尖らせる。「こら、詩織。いくらそのセーラー服が気に入ったからって、家に帰ったらちゃんと着替えな」「えーっ。だって、ずっと着たかったセーラー服なんだよ? 母さん、ちゃんと見てよ。可愛くない?」 椅子から立ち上がり、母さんの前で両腕を広げてみせる。その場でくるりと回れば、スカートの裾がふわ
──松田詩織── あれはまだ、ブランコに座った私の爪先が、地面に届かなかった頃の話。 物心がついたときから、私の家には母さんと私しかいなかった。 世間では、そういう家庭を母子家庭だとか、シングルマザーだとか呼ぶらしい。けれど幼い私に、自分の家に何かが足りないという感覚はなかった。 母さんがいてくれれば、それで家族は全部だった。 父がどんな人だったのか、私は母さんから聞いた話でしか知らない。 ただ、そのわずかな話だけでも、どうして母さんがそんな人を愛してしまったのかと、不思議に思うほどひどい男だった。 その人がいなければ、私はこの世に生まれていない。 それでも、母さんを傷つけたことも、私たち親子を置き去りにしたことも、許せる理由にはならない。 幼い頃の記憶にいる母さんは、いつも少し疲れている。 重そうな肩。目の下にうっすらと落ちた影。ふとした拍子にこぼれる、小さなため息。 それでも、私に向けられる手はいつだって優しかった。声を上げて笑ってくれたことも、一緒になってはしゃいでくれたことも、数えきれないほどある。 これは、そのひとつ。 母さんが私を公園へ連れていってくれた、ある夕暮れの記憶だ。 夢の中で見るその公園は、いつも茜色に染まっている。 滑り台も、砂場も、金網の向こうの街並みも、何もかもが同じ色に沈んで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに静かだ。 私は古びたブランコに座り、短い足を懸命に前後させていた。鎖が軋むたび、きい、きい、と寂しげな音が響く。手のひらに残るのは、錆びた鉄の冷たさ。地面に伸びた影が、漕ぐたびに長くなり、また短くなる。 母さんは少し離れたところから、そんな私をずっと眺めていた。 そこへ、幼い子供を連れた女の人が二人、公園に入ってきた。 女たちは母さんに気づくと、ちらりと視線を交わし合う。そして自分の子供の帽子を直しながら、潜めたつもりの声で話し始めた。「ねえ、聞いた? 松田さん、離婚したんですって」「まあ。あんなに格好いい旦那さんだったのに、もったいないわねえ」「でも、松田さんって気が強いところがあるでしょう? 家でもあんな調子だったなら、旦那さんも息が詰まったんじゃない?」「ああ、それで逃げられたのね」「仕方ないわよ。男の人だって、安らげる家に帰りたいでしょうから」 くすくすと、押し殺した