Masuk再び目を開けると、颯斗は自分が見渡す限りの草原にいることに気づいた。薫風が微かな暖かさを運び、足元では野花が揺れている。颯斗は辺りを見回したが、この広大な草原にいるのは自分一人だけのようだ。そして前後左右の四方向には、それぞれ扉が一つずつ、草原の上に唐突にそびえ立っていた。「ここはどこだ?」颯斗は訳が分からないといった様子だ。「俺は……霧生さんの心界に入ったのか?」自分の心界は監獄だというのに、練のそれは、あまりにものどかな大草原だった。両者の対比が強烈すぎて、颯斗は思わず気恥ずかしさを感じてしまった。「霧生さんー!」颯斗は大声で練の名を呼んでみた。しかし荒野には、自分の声が虚しくこだまするだけで、何の応答もなかった。それにしても、練も変わった男だ。自分から颯斗を心界へ招き入れておきながら、いざ入ってみれば本人は影も形もない。一体何のトレーニングだというのか。あまりにも無責任ではないか。仕方なく、颯斗は歩き出し、四つの扉のうちの一つへと向かった。どうせ周囲には四つの扉以外何もないのだ、とりあえず進んでみるしかないだろう。そういえば、以前自分の心界にいた時、練はあの奇妙なサングラスをかけることで、意識を通わせて会話ができるようになっていたはずだ。しかし今回は、いくら叫んでも応答がない。もしかして練の身に何かが起き、サングラスをかけられない状況にあるのではないだろうか。あれこれと考えを巡らせながら、颯斗はある扉の前へと辿り着いた。それはゴシック様式の尖頭アーチ扉で、四つの中で最も存在感を放っていた。近づいて手をかけ、軽く押してみると、扉の隙間から微かな光が漏れ出した。「うわっ
颯斗は一瞬、何を言われたのか呑み込めず、一拍置いてからおずおずと自らを指差した。「……俺が?お前の心界に、入るだと?」「その通りだ。D.I.A.を介して、な」練は片手でこめかみを支え、もったいぶるようにゆっくりと告げた。「初回はテストも兼ねる。お前の共感力がどこまで通用するか、この俺が直々に見極めてやる。前回は俺がお前の『中』に入ったが、今回はお前が俺の『中』に入る番だ」その言葉を耳にした途端、颯斗の脳裏にあの日の記憶――自分の心界で、練と交わした破廉恥な行為の数々――が鮮やかに蘇り、羞恥に顔を真っ赤に染め上げた。「なっ……!何が『俺がお前の中に入って、お前が俺の中に入る』だ!もっとまともな言い方ができねえのかよ!」「事実だろう。俺は何か間違ったことでも言ったか?」練はそう言いながら、いつの間にか音もなく颯斗の手に触れ、その指を絡めとっていた。「前にも言ったはずだ。潜在意識は人によって千差万別。単純な思考回路の人間ほど、心界への侵入は容易い。……例えば、お前のような、な」颯斗は言葉を失い、改めてリクライニングチェアと物々しい装置全体を見回す。その間にも、練は颯斗の指にさらに深く己の指を絡ませてくる。その感触に、颯斗は一瞬、息を詰めた。「おい、話があるなら口頭で済ませろよ。何でそうベタベタ触ってくるんだ」「手ずから教えてやっているんだ。俺の心界への侵入は、そう容易いことではない。ましてやお前は、右も左も分からぬ素人なのだからな」練が不意に腕を引いたため、颯斗は体勢を崩し、その
睦弥は長く、深い息を吐き出した。「霧生さんの言う通りです……最近いろいろありすぎて、僕には感情の捌け口が必要なのかもしれません」「そうでなくては。ですから星野先生、もしご都合がつくようでしたら一度うちの診療所へ。積もる話は、直接お会いしてゆっくりと」練がそう口にした時、ちょうど風呂から上がった颯斗が、湯気の立つ裸の上半身のまま姿を現した。リビングに足を踏み入れた途端、己のスマートフォンを片手に通話する練の姿が目に入り、颯斗はあからさまに眉をひそめた。練は振り返って彼を一瞥し、口の端をにやりと歪める。「そうそう、うちの診療所で最近黒猫を飼い始めたんですよ……ええ、人懐っこくて、好きなだけ撫でられますよ……肩のマッサージ?もちろん、お安い御用です。うちの颯斗くんにやらせますから……ええ、もちろんできますとも。あいつは何でもできますから」特に最後の「あいつは何でもできますから」というくだりで、練は颯斗へ向けてことさらにOKサインを作ってみせる。「はあ!?」颯斗の頭は無数の疑問符で埋め尽くされ、状況がまったく呑み込めない。「ええ、では明後日の午後四時にお待ちしております」練が通話を切るや否や、颯斗は濡れた足も構わず駆け寄り、その手からスマートフォンをひったくった。「勝手に俺のスマホ使ってんじゃねえよ!今の電話、誰だ?それにマッサージって一体何なんだよ」「誰って、星野睦弥に決まっているだろう。安心しろ、もう丸め込
「もしもし?」一秒ほどの間の後、受話器の向こうから、おずおずとした声が届いた。「あの、こちらは鳴海颯斗さんの携帯電話でしょうか」その声を聞いた瞬間、練の眼差しに確信の色が灯った。間違いない、これは睦弥の声だ。練はスピーカーモードを解除し、スマートフォンをすっと耳元に寄せた。「ええ、そうです。颯斗くんなら今、シャワーを浴びているところですが……。よろしければ私がご用件を伺いましょうか。後で必ず本人に伝えますので」睦弥は一瞬言葉に詰まったが、やがて何かに思い当たったように、はっと息を呑む気配がした。「霧生……さん?あなた、霧生さんですよね」練は口元を綻ばせた。「はい、その通りです。星野先生に覚えていただけていたとは、光栄の至りです」「すごいですね、声だけで僕だとお分かりに?」睦弥は感心したように、それでいて少し照れくさそうに言った。「いえ、颯斗くんからお話は伺っていました。今夜、先生からお電話があるかもしれないと。それで、気をつけているようにと頼まれていましたので」「そうでしたか……。すみません、僕の個人的な事情で、お二人の手を煩わせてしまって……」睦弥の声が、申し訳なさそうに沈んでいく。「とんでもないことです。むしろ、私たちの方からお節介を焼かせていただきたいくらいですから」練は声を潜め、言葉を継いだ。「星野先生とは、一度ですが食事をご一緒した仲です。もし何かお困りのことがあれば、私や颯斗くんが見て見ぬふ
「星野のこと、哀れんでいるのか」練が目を細めて颯斗に視線を送ると、颯斗は憤然と振り返った。「お前だってあの場にいれば、そう思うに決まってる!俺だって本気で助けてやりたかったさ。だが、下手に目立って奏に勘繰られるのが怖かったんだ。だから考えた。誰にも気づかれずに、睦弥へSOSを送る方法を」「ほう?どんな手だ、聞かせてもらおうか」練は興味深げに彼を見つめた。「これだ」颯斗はそう言って、バッグから一冊の本を取り出した。今日、サイン会のためにわざわざ購入した漫画――『パペット』である。練は颯斗の手から漫画を受け取ると、帯に印刷された宣伝文句に目を落とした。「『パペット』。作画:N.N人気美少年漫画家の最新力作」「扉のページを開いてみろ」と、颯斗が促した。練が『パペット』の扉を開くと、まず目に飛び込んできたのは睦弥の流麗なサインだった。その右上の隅に、ボールペンで書かれた小さな一行が添えられている。『もし暴力を振るわれていたり、何か困っていたりするなら、俺に連絡してください』「これをお前が?」練は顔を上げて颯斗を見た。颯斗は頷いた。「俺も列に並び、自分の番が来たところでこの本を彼の前に広げた。さらに、扉のページに小さな紙片を挟んでおいたんだ。俺の携帯番号を書いたやつをな」「悪くない手だ」練は漫画を閉じ、感心したように彼を見た。「それで?星野の反応はどうだった」「特にこれといった反応はなかった。最初は一瞬きょとんとしていたが、
睦弥は何も言わなかった。焦燥を煽るような沈黙の中、微かな電子的な振動音だけが響く。不意に、その振動音が耳障りなほど大きくなった。「聞こえなかったのか?」奏は鋭い声で詰め寄る。「返事は!?」「分かったから……」睦弥の声は痛々しいほどに震え、どこかねっとりとした艶を帯びていた。「止めて、お願いだから……あっ、んぅ……!」「最初からそう言えばいいものを」奏の声がようやく和らぐと、あの振動音もぴたりと止んだ。「N.N先生?もうそろそろお時間ですが――」その時、廊下の突き当たりからスタッフらしき声が聞こえてきた。「今行く!」奏がそう答えるのと同時に、衣擦れの音が再び立つ。どうやら睦弥が慌ただしくズボンを穿いているらしい。「奏、そんなに早く歩かないで……腰が抜けて……」「ケツの穴にローターを入れたくらいで歩けなくなるのか?本当にしようがない奴だな。ほら、しっかり掴まってろ」奏は呆れたような、それでいて仕方なさそうな笑い声を上げた。やがて二人の足音は遠ざかり、トイレを出て会場へ戻ったのだろう。個室には、颯斗が一人呆然と便座に座り込んでいるだけだった。耳にしたばかりの生々しいやりとりに衝撃を受け、しばらく我に返ることができずにいた。その日の夜、練の診療所にて。「このあとのサイン会、お前はこれを着けたまま出ろ。俺がいいと言うまで外すことは許さん」スマートフォンから、奏の声が流れ出した。