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第37話

Author: 霜晨月
last update Last Updated: 2026-01-08 17:19:44

「二時の方向、警戒しろ!」練が叫ぶ。

その声は単なる警告ではない。

そこに敵がいる、という現在ではなく、

そこに“危険が発生する未来”がある、という座標の提示だった。

間一髪、翼を持つゴブリンが抜き身の刃を構え突っ込んできた。

颯斗は一歩退き、まず相手の攻撃を空振りさせる。そして息つく暇も与えず跳びかかると、鋭い牙を剥き出しにした血滴る顎で、ゴブリンの喉笛に噛みついた。

鮮血の味が口中に広がった瞬間、颯斗は未だかつてない高揚を覚えた。屠り尽くすという快感が込み上げ、電流となって全身の神経を隅々まで駆け巡る。

怖い。

悍ましい。

それなのに、身体が歓喜している。

――これが、SAの力。

理性の奥深くで最後の枷が外れ、獣性と戦闘本能が剥き出しになっていく。

見渡す限りの血の海の中、返り血を浴びた一頭の銀狼が、ゴブリンを口に咥えたまま、敵の群れの中で暴れ狂っていた。

咥えられたゴブリンに悲鳴を上げる間はなかった。首は既にあらぬ方向へとねじ曲がり、虫の息であった。やがて、ばきり、と骨の砕ける音を最後に、颯斗の口中で灰と化して消えた。

戦闘が終結した後も、颯斗は昂ぶった精神を鎮めるのに、しばし時間を要した。

せせらぎの聞こえる小川のほとりで、颯斗は頭を垂れ、貪るように水を飲んだ。冷たい水が口内の血腥さを洗い流してくれると、ようやく顔を上げ、爪に残る血を舌で舐め取ってから、その手でごしごしと顔を洗った。

「初めての本格的な戦闘だったな。気分はどうだ」いつの間にか隣に立っていた練が、静かに尋ねる。

「……少し、怖い」

「あの魘たちがか」

「いや……自分自身が、怖い」

颯斗は俯き、己が爪をじっと見つめた。

「さっき……確かに、楽しいと、思っちまったんだ。壊すのが。殺すのが」

それは、懺悔にも似た告白だった。

練は小さく息を吐くと、そのふさふさとした銀の髪を優しく撫でた。

「それでいい。魘は人の恐怖と破壊衝動から生まれるものだ。お前にそれがなければ、心界では戦えん。だが、それに呑まれるか否かはまた別の話だ。そこを制御し、支えるのが俺たちSPの役目だからな」

練は、穏やかに笑った。

「まあ、本当に手強い敵と遭遇すれば、そんな感傷に浸る余裕もなくなるさ」

「手強い敵?」

「『魘』の強さは、マインドホルダーの精神の歪みの深さに比例する。本人に近付けば近付くほど、対処は困難になるんだ」

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