FAZER LOGIN志津が颯馬をすっかり気に入っているのは事実だ。目に余るような青年であれば、そもそも病室で長々と世話を焼かせるような真似は許さなかっただろう。今の拝島家はとうの昔に壊れていた。誰もが己の打算ばかりを隠し持ち、志津はそんな醜い争いに深い絶望を抱いていた。どうせ自分はもう長くないのだと、生きる気力すら手放しかけていたその時……颯馬という思いがけない存在が現れた。優雅で善良、そして驚くほどよく気の利くこの新しい血縁者が、志津に再び「もう少しだけ生きてみようか」という前向きな活力を与えてくれたのだ。こうして穏やかな時間の中で笑い合える。それだけで志津の心は十分に満たされていた。もうこの歳になって、無意味な財産や権力を欲する気持ちなど毛頭ない。ただ静かに、家族としての温もりを感じながら平穏に過ごせれば、それだけで十分だった。「お義母さん、そんなに目くじらを立てないでくださいな。他意はありませんし、ただ思ったことを口にしただけじゃありませんか」早苗は悪びれる様子もなく言い返した。「それに、私の言っていることは事実でしょう?皆が腹に抱えて言えないことを、私が代わりに言ってあげただけ。どうせお互いの狙いなんて分かっているんですから、今さら猫を被る必要なんてないじゃありませんか」その声には見下すような響きが含まれており、律と紫音への敵意を微塵も隠そうとしなかった。「おい、いい加減にしろ。母さんの具合がせっかく良くなってきたんだ、これ以上刺激するようなことを言うな」見かねた正人が横から声を荒らげた。ただでさえ母親からの心証が最悪だというのに、場所もわきまえずに火に油を注ぐ妻に、正人でさえほとほと呆れ果てていた。これ以上の面倒ごとには巻き込まれたくないのだ。結局、その場は正人がその場を収める形となり、揃って病室を後にした。帰り道、紫音と律は自分たちの車で、志津は颯馬と共に本家の車に乗り込んで帰路についた。「ねえ」助手席に座る紫音は、前を向いたまま静かに口を開いた。「志津様と颯馬くん、すごくいい雰囲気だったわね。彼も、本当に志津様を大切にしているみたいだった。裏にどんな思惑があるかは分からないけれど……もしあれが本心からの優しさなら、それはそれで、悪いことじゃないと思うわ」紫音の口調には一切の迷いがなく、状況を冷静に見極めようとする
いずれにせよ、今後は祖母の様子を見に来た時に顔を合わせる程度の関係だ。わざわざ警戒心を剥き出しにして、つまらない火種を作る必要もないだろうと紫音は割り切っていた。「あんたたち、これまで会う機会もなかっただろうから、お互いのことはまだよく知らないだろうね。でも、颯馬はしばらくこっちにいるんだろう?だったら兄弟、仲良くやりなさい」志津は優しく、しかしどこか芯のある声で二人に言い聞かせた。「律は最近、会社の仕事で随分忙しくしているみたいだから、時間があるなら颯馬も手伝ってやりなさいな。律の仕事ぶりからたくさん学ぶといい。うちのグループが今日ここまで大きくなれたのも、全部律の努力があってこそなんだからね」志津は颯馬の会社への出入りを認めるような口ぶりだったが、それはあくまで「律の下で学ばせるため」という線引きをはっきりと示していた。彼女は決して情に流されて判断を誤るような人ではない。入院中も、颯馬が自分に対して甲斐甲斐しく、細やかに世話を焼いてくれる姿を静かに観察していた。その優しさは素直に嬉しかったし、こうして孫たちが揃って平和な時間を過ごせる日を心待ちにしていたのも事実だ。それでも、各々の立場やこれまでの献身への配慮を忘れることはなかった。「おばあちゃんに言われるまでもなく、兄さんがどれだけ優秀かは分かってるよ」颯馬は朗らかに笑って応じた。「前に兄さんが手掛けたプロジェクトをいくつか調べたことがあるんだけど、本当にすごい手腕だよね。僕が一生かかって努力しても、たぶん兄さんには敵わないな」そう言って肩をすくめると、颯馬はまっすぐな視線を向けた。「でも安心してよ。兄さんという最高のお手本が目の前にいるんだから、たくさん勉強させてもらうつもりだよ」颯馬の言葉はどこまでも謙虚で、志津の前では完璧なほどに身の丈を弁えた態度を崩さなかった。そんな和やかなやり取りを見て、志津はさらに目を細めた。その顔には、この上ない安堵と喜びの色がはっきりと浮かんでいた。ちょうど病室を出ようとしたその時、ドアが開き、正人と早苗が連れ立って入ってきた。 室内に律と紫音の姿を認めるなり、早苗の表情がサッと険しくなる。「あら、あんたたちも来てたの。わざわざ来なくてもよかったのに」早苗は口元にだけ笑みを貼り付け、あからさまに棘のある声で言った。「ここにはお
祖母の穏やかな表情を見る限り、颯馬は機嫌を取るのが非常に上手いらしい。律は、祖母がここまで明るさを取り戻したこと自体には深く安堵していた。もしこの青年に何の打算もなく、純粋に祖母を慕ってくれているのなら、世話を任せてもいいとさえ思う。だが、あの欲深い親族たちが送り込んできた相手だ。到底、額面通りに親愛の情を信じ切ることはできなかった。「どんなに忙しくても、志津様の顔くらい必ず見に来るわよ」紫音は柔らかく笑いかけた。「ここ数日はちょっと仕事が立て込んでて来られなかったけど……志津様がすっかり元気になったみたいで、胸のつかえが取れたわ」紫音は心からホッとしていた。無理にでも病院へ連れてきて本当に良かった。そもそも志津が頑なに治療を拒んでいたのは、欲に狂った親族たちに絶望していたからだ。自分を心から案じてくれる人間なんて、もはや紫音と律しかいない――そう思い詰め、生きる気力自体を失いかけていた。そこに、血の繋がりを持つ『正式な孫』である颯馬が現れ、つきっきりで世話を焼いてくれたのだ。思いがけない親族からの温もりに触れたことで、志津も再び生きる張り合いを取り戻すことができたのだろう。そんな志津の嬉しそうな顔を見ていると、紫音の胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。律のことがたまらなく不憫に思えたのだ。この家の誰よりも祖母を想い、身を粉にして尽くしてきても、結局「血の繋がりがない」というだけで正当な評価は得られない。「本物の孫」が現れた今、彼が一人で背負ってきた苦労や献身すらも、どこか霞んでしまうのではないか――「兄さん、紫音さん。一緒におばあちゃんを連れて帰ろうよ。せっかくだから、帰りにお祝いも兼ねてみんなで食事でもどうかな?」颯馬が人懐っこい笑顔で提案してきた。「実はずっと二人とゆっくり話したかったんだよね。仕事のことも兄さんにいろいろ教わりたかったし。おばあちゃんの付き添いがあってなかなか誘えなかったんだけど、今日こうして会えたんだから、このチャンスは絶対に逃さないよ!」その態度はあまりにも自然で愛想が良く、まるでその場にいる全員が求めている正解を、完璧に計算し尽くしているかのようだった。祖母の目の前で、こんなに無邪気に誘われては断れるはずもない。志津が何より家族の団欒を望んでいることは、紫音にも痛いほど分かっていた。
「紫音さん、こちらが昨日私がミスしてしまった資料の修正版と、ここ数日で滞っていた案件のリストです。今朝、少し早めに出社して急ぎの分はすでに処理しておきました」吹っ切れた蘭の仕事ぶりは、本来のキレを取り戻していた。自分の不調が上司である紫音にどれほど負担をかけていたかを自覚しており、そのマイナスを一気に取り戻そうと猛烈な巻き返しを図っているのだ。「いいペースね、その調子で頼むわ。あともう一つ、新しいプロジェクトの企画書をメールで送っておいたから、内容の整理とデータの集計をお願い。今日の終業までに提出してね」紫音はわざと少し多めにタスクを振った。今の蘭には、仕事に没頭させて余計なことを考える隙を与えないのが一番の荒療治だ。下手に気遣って業務量を減らし、一人で塞ぎ込む時間を与えてしまうほうが、かえって立ち直りを遅らせてしまう。よし、ここから一気に遅れを取り戻すわよ――そう気合を入れて本格的に業務を開始しようとした矢先、紫音のスマホが震えた。画面の表示を見ると、律からの着信だった。「もしもし、律?」「ああ、今大丈夫かな?実は、おばあちゃんの容体がここ数日かなり安定していてね。医師からも退院して自宅療養に切り替えていいと許可が下りたんだ。今日これから退院するんだけれど……君ももし仕事の都合がつくなら、一緒に実家へ顔を出さないか?」すっかり弱り切っていた志津が、予想以上に早く退院できることになったと聞き、紫音はぱっと顔を輝かせた。もちろん、断る理由などない。「ええ、もちろん行くわ。それじゃあ、後でオフィスまで迎えに来てくれる?二人で一緒に帰りましょう」どんなに仕事が山積みであろうと、あの優しく温かい志津様のことを後回しにすることなどできない。自分たちが揃って顔を見せれば、きっと志津様も心から喜んでくれるはずだ。病院に到着した紫音と律が病室に足を踏み入れると、志津のベッドの傍らには颯馬の姿があった。他の親族の姿はなく、どうやら一人きりで付き添っていたようだ。「律兄さん、紫音さん、来てくれたんだね」二人の姿を認めるなり、颯馬は立ち上がって愛想よく口を開いた。「普段から仕事で忙しいんだし、わざわざ来なくても大丈夫だったのに。おばあちゃんのことは僕がちゃんと看てるよ。この数日でだいぶ打ち解けられたし、すっかり仲良くなったんだ。だから安
翌朝。紫音がいつものように目を覚ますと、すでにキッチンから食欲をそそる良い匂いが漂ってきていた。リビングへ向かうと、両親が並んで朝食の準備をしてくれている。しかも、テーブルに並び始めているのはどれも紫音の大好物ばかりだった。朝起きてすぐに、お父さんとお母さんの手作りのご飯を食べられる。そんな些細でありふれた日常の風景が、今の紫音にはたまらなく温かく、幸せに感じられた。「おはよう、紫音。よく眠れた?」娘の姿に気づいた琴音が、嬉しそうに目を細めた。「今日は会社のほうは忙しいの?もし急ぎの用事がないなら、もう少しゆっくり出社すればいいのに。毎日遅くまで無理してるんだから、たまには家でお母さんたちとのんびり過ごしましょうよ」せっかく近くに来ているのだから、少しでも長く娘のそばにいたいのだろう。「ごめんね、お母さん。今日はプロジェクトでどうしても外せない重要なタスクがあるの」紫音は申し訳なく思いつつも、苦笑いをして首を横に振った。「でも、今日は定時で上がるようにする。仕事が終わったら真っ直ぐ帰ってくるから、一緒に夕飯を食べよう。その時にゆっくりおしゃべりしてあげるわ」紫音自身、今日はどうしてもオフィスに出向かなければならない理由があった。ここ最近、優秀なアシスタントである蘭の精神状態が不安定だったため、やはり自分が現場で見ておかないと安心できなかったのだ。娘がそう言うのならと、琴音もそれ以上引き留めることはしなかった。オフィスに到着すると、紫音はほっと胸を撫で下ろした。蘭がすでに自分のデスクにつき、きびきびとタイピングを始めていたのだ。昨日、実家で温かい雰囲気に触れたおかげか、顔色は見違えるほど明るく、目に生気が戻っている。きっと昨晩はぐっすりと眠り、自分なりに気持ちの整理をつけてきたに違いない。「おはようございます、紫音さん」蘭が顔を上げ、すっきりとした笑顔で挨拶をしてきた。「おはよう。すごくいい表情をしてるわね。その調子で頼むわよ」紫音もにっこりと微笑み返し、わざと少しだけ上司としての凛としたトーンを作った。「それじゃあ、今日は私から一つだけミッションを与えるわ。雑念は一切捨てて、目の前の業務に集中すること。今日はノーミスで完璧に仕上げてちょうだい。できるわよね?」決して無茶な要求をしているつもりはない。これは、昨日まで失恋で思い悩
琴音の言葉には、我が子を想う深い愛情が滲んでいた。今回、両親がわざわざ彼らの近くに越してきたのも、仕事に対してストイックで真っ直ぐすぎる兄妹のことが、どうにも放っておけなかったからなのだ。「もう、お母さんったら。私たち、もういい大人なんだから自分のことくらいちゃんとできるわよ。毎日そんなふうに心配しなくていいって。今の私たち、仕事もプライベートもすごく上手くいってるでしょう?」紫音は、心配性の母を安心させるように、甘えるようなトーンで言った。「それに、これからは私たちが親孝行して、お父さんとお母さんを支えていく番なんだからね」昔は幼くて親に心配ばかりかけていたが、今はもう自分の足でしっかりと立ち、愛する人と共に生きている。紫音はそう胸を張れるようになっていた。「自分が親になれば、この気持ちがわかるわよ。親にとって、子どもはいつまで経っても子どもなの。……それにね、あなたたちもそろそろ、人生の次のステップについて真剣に考えてもいい時期じゃない?」琴音は少し声のトーンを変え、ふふっと笑いながら核心を突いてきた。「無事に婚約も落ち着いたことだし、派手な結婚式はこだわらないつもりなんでしょう?だったら、そろそろ赤ちゃんのことを考えてみてもいいんじゃないかしら」「えっ、ちょっとお母さん……!」「お母さんだって、少しはあなたたちの役に立ちたいのよ。正直なところ、今は毎日家で時間を持て余してるしね。もし二人に赤ちゃんができたら、私がいつでも面倒を見てあげるわ。そうすれば、私の毎日ももっと張り合いが出るし、あなたたちも仕事に集中できるでしょ?」琴音はずっと前から心の中で、やがて生まれてくる孫の顔を心待ちにしていたのだ。二人の絆もすっかり深まっている今なら、子作りのタイミングとしても申し分ない。拝島家がどれだけ醜い権力争いの渦中にあろうとも、律という男自身が非常に誠実で、底知れぬ器の大きさと包容力を持った頼りになるパートナーであることは、両親の目から見ても疑いようもなかった。彼になら、安心して大切な娘のすべてを任せられる。だからこそ、一日も早く二人の間に子どもが産まれて、温かい家庭を築いてほしいと心から願っているのだ。「お母さん、子供のことは自然に任せようって思ってるの。見ての通り、今は私たち二人とも仕事が手一杯でしょう?お母さんが面倒を見







