LOGINやり場のない悲痛に耐えきれず、律はベッドの傍らに膝をつき、志津の徐々に冷たくなっていく手を両手で固く包み込んだ。この病室の扉を開ければ、もう二度と、彼女の温かい微笑みを見ることはできない。だからこそ、今この僅かな時間だけは、誰にも邪魔されない二人きりの空間で、彼女の穏やかな寝顔を深く瞳に焼き付けておきたかった。それにしても、どうしてこんなにも不条理なのだろうか。律にとって、母を除けば、志津はこの世でたった一人残された『本当の家族』だった。血の繋がりがない自分を庇護し、無償の愛を与えてくれた唯一の存在。そんな慈愛に満ちた彼女が、なぜこれほどの苦しみと孤独を味わわなければならなかったのか。志津の人生における最大の悲劇は、正人と宏――あの二人の息子を育ててしまったことだろう。血を吐くような苦労を重ね、自分の人生の全てを犠牲にして二人を育て上げ、この家を守り抜いてきたというのに。結果として育ったのは、母親の恩を仇で返し、私欲のためなら平気で母親を食い物にしようとする、狼のように冷酷な獣たちだった。彼らは、志津の心の痛みに寄り添おうとしたことなど、ただの一度もなかったのだ。「……おばあちゃん、もう、我慢しなくていいんだ」震える声でぽつりと呟き、律は志津の冷たい手に自身の額を押し当てた。誰にも見せることのない一筋の涙が、彼の美しい頬を伝い、静かに零れ落ちていった。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。永遠にも思える静寂は、控えめなノックの音によって破られた。「……律様」申し訳なさそうに病室に入ってきたのは主治医だった。ここは高度な治療を必要とする急患のための病室であり、次に入室を待っている患者がいる以上、いつまでもこの空間を占有し続けるわけにはいかないのだ。律は静かに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。これで本当に、おばあちゃんとの最後のお別れになる。真っ白なシーツを掛けられ、ストレッチャーに乗せられた志津の亡骸が、看護師たちの手によって静かに運び出されていく。その光景をただ黙って見つめながら、律の胸中には言葉にならない虚無感が広がっていた。これから、彼女を見送るための手配をしなければならない。かつて拝島家を牽引し、絶対的な権力を誇った志津の葬儀となれば、政財界から数え切れないほどの弔問客が押し寄せる壮大な社葬
「うっ……」正人の顔からスッと血の気が引いた。わなわなと唇を震わせるだけで、もはや反論の一つも口から出てこない。強欲な彼にとって、会社の権利を完全に失うことは死を意味するのだ。結局、正人はその場から一歩も動くことができず、ただ立ち尽くすしかなかった。他の親族たちも同様に、恐怖で縫い留められたように押し黙る。群がるハイエナたちを冷徹に一瞥すると、律は再び病室の扉へと向き直った。誰一人として寄せ付けない、気高くも悲痛な背中。彼はたった一人で、愛する祖母が待つ病室へと足を踏み入れたのだった。重い扉が背後で閉まり、外の喧騒が完全に遮断された。静寂に包まれた病室の中で、律はゆっくりとベッドへ近づいた。そこには、無数の無機質で冷たい医療機器に繋がれ、虫の息で横たわる志津の姿があった。生命維持装置の無機質な電子音が、冷酷なカウントダウンのように室内に響く。その音を聞きながら、律の脳裏に、かつて志津と交わしたある約束が蘇っていた。自身の心臓が限界に近づいていることを、彼女は誰よりも早く悟っていたのだろう。ある日の穏やかな時間、志津はまるでお茶飲み話でもするかのような穏やかな口調で、律にこう告げたのだ。「もしも私が目を覚まさなくなって、機械に生かされるだけの体になったら……その時は律、あなたの手で私の管を全部外しておくれ」志津は、誇り高く、気丈な女性だった。誰かにすがり、哀れまれながら徒に命を長引かせることなど、彼女の矜持が許さなかったのだ。人生の最期は、人間としての尊厳を保ったまま旅立ちたい――それが彼女の切実な願いだった。「分かった。約束するよ」その時、律は彼女の手を握りしめ、静かに頷いた。だが内心では、そんな日が永遠に来ないことを、誰よりも強く祈っていた。この優しく気高い祖母が、いつまでも自分のそばで微笑んでくれると信じていたかったのだ。あれから随分と長い年月が経ったように思えるが、二人の交わした言葉や、あの時の温かな眼差しは、昨日のことのように鮮明に胸に焼き付いている。ベッドの傍らに立ち、律はきつく拳を握りしめた。どうして、あの強欲な親族たちは、これほどまでに彼女を追い詰めたのだろうか。彼らが少しでも志津の心を思いやり、穏やかな日々を過ごさせていれば、彼女が今日、こんな無惨な姿で横たわっているはず
拝島家の醜悪な言い争いがなおも続く中、重い足音と共に主治医が再び姿を現した。「……ご家族の皆様」沈痛な面持ちの医師が口を開くと、その場の空気が一瞬にして凍りついた。医師は簡潔に、しかし極めて残酷な選択を突きつけた。もしこのまま延命措置を続けるのなら、直ちに集中治療室へと移す必要がある。だが、もしもここで『諦める』覚悟があるのなら――今すぐ、すべての生命維持装置を外す決断を下さなければならない、と。「大変申し上げにくいのですが……これ以上の延命は、医学的に見ても意味がありません。ただ、志津様に徒な苦痛を強いるだけです」それは、実質的な『死の宣告』だった。分厚い扉の向こう側。今この瞬間も、無機質で冷たいチューブや医療機器に繋がれ、一人で必死に呼吸を保っている祖母の姿を想像するだけで、律は息が止まりそうになった。誰よりも志津に愛され、その手で大切に育てられてきた律にとって、それは身を切り裂かれるような苦しみを伴う決断だった。どうして、あんなにも優しく気高かった人が、こんな無惨な状況に置かれなければならないのか。どうして、あれほど自分の人生を犠牲にして家族を守ってきた人が、最後の最後にこんな苦痛と拷問のような時間を耐えなければならないのか。理不尽な運命に対する行き場のない怒りが、律の胸で渦巻く。だが、いくら延命が無意味だと分かっていても。自分の手で、あの温かかったおばあちゃんの『命の綱』を外す決断を下すことなど、どうしてできようか。愛しているからこそ、そんな非情な真似は到底できなかった。いや、違う……絶望の底で、律は一つの残酷な真実に気づいてしまった。おばあちゃんの体は、もう何年も前から限界を迎えていたのだ。絶え間ない病の恐怖と、身内たちの醜い争い。本当なら、とうの昔に全てを投げ出して、楽になりたかったのかもしれない。それなのに彼女が、度重なる発作や苦痛に耐え、今日まで必死に生き長らえてきた理由。それは他でもない――律たちのためだ。「自分に生きていてほしい」と願う愛する孫たちのために。彼らを悲しませないように、ただその一心で、彼女は自身の限界を超え、過酷な運命に耐え続けてくれていたのだ。自分たちのエゴが、おばあちゃんを苦しめていたのかもしれない。そう気づいた瞬間、律の心は千々に砕
しかし、正人は全く引き下がる気配がない。どんな手を使ってでも会社を自分の手中に収めると息巻いており、目的を果たすまでは絶対に諦めないという執念が滲み出ていた。彼らの生き様を見ていると、紫音は哀れでならなかった。自分の力で正当に努力して地位や富を築く道もいくらでもあったはずなのに、正人は昔から何一つ努力することなく、ただ怠惰に身内に寄生し、利権の甘い汁を吸うことしか考えてこなかった。その果てに、こんなにも醜い怪物に成り果ててしまったのだ。「もう……いい加減にしてください!」耐えきれず、紫音は鋭い声を上げた。「志津様は今も、あの扉の向こうで生死の境を彷徨っているんですよ!?あなたたちが実の息子だと言うなら、今すべきことは、いつ延命治療を打ち切るのか、それとも最期までどうやって安らかに見送るのかを話し合って、決断することでしょう!」紫音は怒りと悲しみで声を震わせながら、正人と宏を真っ直ぐに睨みつけた。「それなのに……こんな時に遺産や権力のことばかり。あまりにも見当違いだと思いませんか?あなたたちの頭の中がどうなっているのか、私には到底理解できません。でも、これだけははっきり言っておきます。私は、志津様を心から慕っています。これまでずっと温かく接してくださったあの方を、絶対に見捨てたりはしません」紫音の瞳には、一切の迷いがなかった。「志津様のことには、最後まで関わらせてもらいます。あなたたちが実の息子であろうと、私が志津様の傍に残り、最期の瞬間まで寄り添うことを邪魔する権利はないわ。誰にも、私をここから追い出すことなんてできはしない!」目の前に立つ、血の繋がった実の息子たち。そのあまりにも冷酷で無慈悲な姿に、紫音は心底から冷え切るような絶望を覚えた。この世界に、ここまで血の通っていない人間が存在するなんて……彼らの浅ましさを目の当たりにして、紫音はようやく理解した気がした。なぜ、志津があれほどまでに深く傷つき、心を閉ざすように生きてこなければならなかったのかを。もし自分が彼女の立場なら、実の息子たちから向けられる欲まみれの刃に、とうの昔に心が折れ、耐えきれなくなっていただろう。志津は、本当に強い人だった。長年、一人で全ての重圧と悲しみを背負い込んで、巨大な拝島グループを守り続けて
律の低く冷ややかな声が、重苦しい空気を切り裂いた。本当なら、こんな形で彼らと真っ向から争うような真似はしたくなかった。だが、利益の亡者と化した彼らのあまりにも身勝手で醜悪な振る舞いを前にして、律の心には静かだが決して消えない怒りの炎が灯っていた。律自身もこれまで、拝島グループの発展のために計り知れないほどの努力と心血を注いできた。それなのに、この血の繋がっただけの親族たちの目には、金と権力しか映っていない。これまでの律が、正人たちの浅ましい挑発や嫌がらせを相手にせず、黙って耐えてきたのは、ひとえに志津の体を案じていたからである。自分が彼らと正面からいがみ合えば、志津に無用な心労をかけ、不安にさせてしまう。それが嫌だったからこそ、彼らと同じ土俵に立つことを避けてきたのだ。しかし、志津はもうすぐ彼らの前から永遠に旅立とうとしている。彼女がいなくなる以上、律がこのさもしい連中に対して、これ以上少しでも手加減や遠慮をしてやる理由は、もうどこにもなかった。「お前、最初は都合のいいことを抜かしていただろうが!口を開けば『すべてはおばあちゃんのためだ』とかなんとか言って、自分から会社の実権には執着しないような素振りを見せておいて、今更なんだその言い草は。笑わせるな!」正人は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。「そもそもお前はこの家の血を引いていない、ただの『よそ者』だろうが。母さんがどうなろうと、お前がしゃしゃり出る筋合いはないんだよ。目障りだ、今すぐここから出て行け!」志津がもう助からないと分かった今、正人は表面上の遠慮すら完全に捨て去っていた。彼がこの世で最も憎悪している相手、それが律なのだ。何が何でも彼をこの場から追い出し、会社のすべてを掌握してやると、その態度はどこまでも強硬だった。「……私がここに残るかどうか、あなたが決める権利はありません」律は、激昂する正人とは対照的に、氷のように冷ややかな声で言い放った。「こんな場所で、あなたと同じレベルに落ちて無様に言い争い、恥を晒すつもりもない」これまで律が正人たちの浅ましい嫌がらせを黙殺してきたのは、すべて志津のためだった。だが彼女が死の淵にある今、この親族たちの良心の欠片もない振る舞いがただただ許せなかった。志津は女手一つで二人の息子を育て上げ、血の滲む
「志津様はもう、これ以上持ち堪えることはできません。……医師の言葉通り、今繋がれている生命維持装置をすべて外せば、それが志津様の最期になります。ですから、私たちも早く覚悟を決めて、これからの手はずを整えなければなりません」紫音は、自分勝手な言い分をぶつけ合う正人と宏に向けて、毅然とした声で言い放った。拝島家は誰もが知る名門である。だからこそ、志津の最期は滞りなく、どこまでも立派に見送ってあげなければならない。志津は生涯を通じて気高く、自分の誇りと一族の体面を何よりも重んじてきた人だ。だからこそ、最期の瞬間は美しく、せめて表面上だけでも家族が調和している姿を見せて旅立ちたいと願っているはずだ。これ以上、他人に家内の醜態を晒すような真似は絶対に避けなければならない。今この期に及んで、個人の利権争いなどしている場合ではないのだ。紫音は志津のこれまでの苦労を思うと、胸が張り裂けそうだった。目の前にいる正人や宏の姿を見て、ただただ絶望と深い悲しみが湧き上がる。この一家の人間は皆、腹に真っ黒なものを抱え、己の利益しか頭にない。あまりの嘆ましさに、紫音は彼らにかける言葉すら見失っていた。いっそ今すぐ、律の手を引いてこのおぞましい場所から立ち去ってしまいたいとすら思う。そしておそらく――今回こそが、本当の意味での『決別』になるのだろう。志津という唯一の繋がりがこの世から消えてしまえば、紫音と律が、彼らのような強欲な人間たちと関わる義理はもう何もないのだから。もし律が「会社を手放す」と決断するなら、紫音は全面的に彼を支えるつもりだった。そもそも、律がこの泥沼のような拝島グループに留まり、矢面に立っていたのは、すべて志津の心を守るためだったのだ。彼女がいなくなってしまえば、彼がこの場所に残り続ける意味はどこにもない。仮に権力も財産もすべてを失ったとしても、また二人で一からやり直せばいい。彼らにはゼロから立ち上がる勇気も、新しい道を切り拓く確かな実力もあるのだから。こんな無益な権力争いに執着する必要など、最初からなかったのだ。執着すればするほど、自分たちを雁字搦めにし、重圧を増やすだけだ。どうして、自分たちまでこんな息苦しい生き方に付き合わなければならないのか。なぜ、これほどまでに血も涙もない連中のために、自分たちの貴重な人生の







