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第4話

作者: 林檎
翌日。

FSグループの社長室では、苛立った様子の柊馬がファイルをデスクに放り投げ、指先でこれまた高級な木製の机を叩いていた。「柚希はまだ出社してこないのか?」

柊馬の秘書は俯いて答える。「はい。柚希さんは……3日ほど出社しておりません」

柊馬の眉間に深い皺が寄った。

カードを止めたというのに、柚希はこの数日間どうやってしのいでいるんだ?お腹を空かせて、路頭に迷っているのだろうか?それとも野良猫のようにどこかの角で震えているのか……そんな光景を想像するだけで、柊馬の胸は締め付けられた。

自分があまりにも甘やかしてきたせいだ。だから柚希はこんなにも頑なになり、どれほど辛い目に遭っても、自分から折れようとはしないのだろう。

柊馬は疲れ切った様子で眉間を押さえ、仕方がないというように溜め息をついた。「居場所を調べろ。連れ戻しに行くから」

「柊馬くん!」

社長室のドアが勢いよく開けられ、妊娠7ヶ月目の膨らんだお腹を抱えた莉奈が、焦りを浮かべた顔で入ってきた。その手にはダイヤが輝く指輪が握られている。

「友達とショッピングしてたら、この指輪をつけてた女性を見つけて……私、一目で、柊馬くんが柚希ちゃんに贈った結婚指輪だって分かったの!だって、柊馬くんが、結婚式の時にオーダーメイドで作った、世界に一つだけの指輪だったから。

だから、慌ててその人に、どこで手に入れたのか聞いてみると……」

莉奈は言葉を濁し、困ったような表情を浮かべた。「その人が言うには……中古品の店で購入したらしい」

パキッ。

柊馬の手元にあった高級万年筆が、怒りによって真っ二つに折れた。

柊馬の顔色がみるみるうちに変わり、こめかみには血管が浮かび上がった。唇を震わせ、言葉を吐き出す。「柚希……やってくれたな」

自分は柚希が苦労していないか心配していたというのに、よりによって自分が贈った結婚指輪を売ってお金に換えていたとは。

「柊馬くん、全部私のせいだよね……私のせいで、柚希ちゃんはこんなこと……」

莉奈はわざとらしく涙を拭いながら、同情するように言った。「……結婚指輪なんて、二人の愛の証なのに。それを売っちゃうなんて、別れるつもりなのかな?」

「別れる……?」

柊馬はまるで馬鹿げたことでも聞いたかのように、鼻で笑ったが、その瞳の奥には恐ろしい怒りが渦巻いている。

「柚希は俺に心底惚れているんだから、別れるなんて決断、あいつには考えられないはずだ。きっと、わざと結婚指輪を売って、俺を困らせようとしているに違いない。

普段のわがままなら、俺が甘やかしてやれば済む話だけど、跡継ぎの問題は別だ。それだけは譲れない。

どうやら、少し痛い目を見せてやらないといけないみたいだな」

——

高級別荘地スカイ・ペニンシュラ。

健一が丁寧に柚希へと問いかける。「奥様、今日はご都合いかがですか?ホテル・マジェスティックの手配は済んでおりますので、いつでも会場選びに行けますよ」

「午後なら大丈夫です」柚希は眉間を揉みながら答えた。「お昼は木下社長と契約の約束があるので」

この契約を成立させるために柚希は3カ月間奔走した。すべて話し終え、あとはサインを交わすだけ。

これがFSグループでの最後の仕事だ。どうせなら最後まで責任を持ってやり遂げたいし、それだけではなく、この契約のインセンティブは4000万円。

正当な対価だ。これを捨てるなんてしたくない。

この件を終えたら、心置きなくこの仕事をやめ、3年分の未払い賃金を受け取って、FSグループとは完全に縁を切る。

「かしこまりました。では、午後に車の手配をしてお待ちしておりますね」

「いえ、大丈夫です。木下社長と契約の話をするのは、ホテル・マジェスティックに入っているレストランですから」

正午。柚希は時間通りにホテル・マジェスティックの個室に到着した。

ドアを開けた瞬間、そこにいた二人の人物に目を疑った。柊馬、そして彼の隣には、満足げに微笑む莉奈の姿。

ペンを持った莉奈が、契約書にサインを書き込んだ。

そして視線を上げると、柚希に向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべ、あからさまな挑発をする。

「あら、柚希ちゃん、今来たの?ごめんね、言い忘れてたんだけど、柊馬くんがもっと優秀な人材が会社には必要だって判断して、今日から私が総務部長に就任することになったの。だから、これからは私があなたの上司で、この契約も……」

莉奈は手の中のファイルを見せびらかした。「柚希ちゃんの代わりにサインしておいたから」

莉奈は妊娠7か月。産休に入るのも時間の問題だろう。それにもかかわらず、この時期にわざわざ自分の上司になるなど、この案件を奪うためとしか思えない。これは、もはや嫌がらせなどというレベルではなく、あからさまな侮辱だ。

怒りが一気に込み上げ、柚希は奥歯を噛みしめながら、その元凶へと鋭い視線を向ける。

「柊馬!この契約のために、私がこの3ヶ月、どれだけ寝る間を惜しんで苦労してきたか知ってる?なのに、あなたはこんなにも簡単に彼女に渡して……莉奈さんにサインする権利があると思ってるの?」

しかし、冷ややかな目で柚希を見据えている柊馬。その目に浮かぶ怒りは、柚希以上のものだった。

柊馬は柚希に近づき、怒りを露わにした声で問いただす。

「なんで結婚指輪を売った?柚希、お前の中に少しでも俺という存在はあるのか?」

柚希は呆れて思わず笑ってしまった。

彼が卑怯な手を使ってくるとは予想していたが、まさかここまで公私混同するとは。

「柚希、これは忠告だ。もう二度と結婚指輪を外すな。さもなければ……」

柊馬は骨が砕けそうなほどの力で柚希の腕を掴み、無理やり薬指に指輪をはめた。そして、静かに語りかける。「……会社にいられなくなっても、俺のせいにするなよ?

現実を見ろ、柚希。今の生活と仕事、それはすべて俺から与えられたものだ。俺がいなければお前には何もない……

まあ、これ以上は言いたくないし、お前も分かってるだろうから、おとなしく家に戻ってきて、俺と莉奈の子どもを受け入れろ。そうしたら、全てを水に流してやるし、お前のことだって大切にしてやるから」

柊馬の眼差しは昔と変わらず優しかったが、彼の口から紡がれる言葉は、柚希の胸を激しくかき乱し、吐き気すら覚えさせた。

だが、これこそが柊馬の「愛」なのだ。

柚希が言うことを聞いている間は甘やかし、惜しみなく優しさや恩恵を与える。だが従わなくなれば、その「与えていたもの」を平然と取り上げ、脅しや見下しによって彼女の尊厳を踏みにじる。

しかし、柊馬はどうやら忘れているようだ。

3年前、柚希は卒業したばかりであるにもかかわらず、世界トップクラスの企業からいくつものオファーを受けていた。将来を期待される存在で、業界一と言っても過言ではない、ノクターン財閥からでさえ、AI研究開発部のチーフ就任を打診されていたのだ。

それでも彼女は、柊馬の「お前が必要だ」という一言のために、すべてのオファーを蹴って、迷うことなくFSグループへ飛び込み、彼と共にゼロから事業を築き上げてきた。

この3年間、柚希は文字どおり心血を注ぎ込み、一人の力だけでFSグループのAI研究開発部を支えてきた。その結果、FSグループは競争の激しいAI業界で確かな地位を築き上げ、数多のライバルを押しのけて頭角を現した。

間もなく発表予定の「AIエモリンクシステム」も、柚希が主導して進めてきたもので、これが成功すれば、FSグループは一気に業界の頂点へと駆け上がるはずだった。

だが、柚希を失えば、FSグループが誇るAI研究開発部など、見かけだけの張りぼてに過ぎない。

「え?クビってこと?」

柚希は悲しくなって笑った。「今言ったこと、忘れないで。それに、もしそうなった時は、ちゃんと退職金と未払いの給料を払ってよね。あと、裁判の費用も一緒に、ね?」その口調は淡々としていたが、言葉の一つひとつはかなり刺々しい。

「あ、それと……」

柚希はテーブルで食事をしていた木下社長に向かって穏やかに笑いかけた。「木下社長。ご覧の通り、私は社長からクビを言い渡されてしまいましたので、お約束していたプログラミングコード……残念ながら、ご提供することはできません」

それだけ言うと、柚希は躊躇うことなく踵を返した。

バタンッ!

すると背後からは、怒りを露わにした木下社長が、テーブルを叩く音が聞こえてきた。「この契約は無しだ!」

柊馬は、破り捨てられた契約書と柚希の迷いのない背中をただ茫然と見つめた。今までに感じたことのない、焦りが心の中に渦巻いている……

今までの柚希だったら、どんなに喧嘩をしても、いつも柊馬の利益を優先し、会社のために譲歩してくれていた。

だから、今日もそうだと思っていたのに!

今までこんなことは一度もなかった。まさか……本当に、もう二度と元に戻る気はないのか?

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