LOGIN加藤拓海(かとう たくみ)の愛人が、またごねているらしい。 彼は私に離婚協議書を差し出した。 「サインしてくれ。形だけだから。百合をなだめるためなんだ」 私はスカートの裾を強く握りしめ、頷いた。 そして、黙ってサインした。 部屋を出ようとした時、拓海の友達がからかう声が聞こえた。 「明里さんは聞き分けが良すぎるな。あなたが本気で離婚届を出せって言っても、何も言わずに従うんじゃないか?」 拓海は楽しそうにタバコに火をつけた。 「賭けるか?」 彼らは賭けをしていた。1ヶ月後、私が役所でどんなに泣きじゃくっても、結局は大人しく言うことを聞いて、離婚届をきちんと提出するほうに。 スマホを握りしめ、私は何も言わなかった。 ただ、さっき届いたメッセージに返信しただけ。 【俺と、結婚してくれないか?】 【いいわ】
View More少し大きくなってからは、ピンク色のウサギが一番好きだった。自分はウサギ星から世界を救うために来たんだって、よく言ってた。でも、莉奈はあまり幸運に恵まれなかったみたい。生まれてすぐに母親が亡くなって、8歳の時には、父親も亡くなった。彼女は、兄が欲深い叔父たちと必死に渡り合っている姿を、ずっと見ていた。心も体も、すり減っていくのを。自分は世界を救いにきたのだから、兄の足手まといにだけは絶対にならないって思ってたの。だから、家で使用人にひどい扱いを受けても、莉奈は一言も文句を言わなかった。失語症のせいで同級生にからかわれ、いじめられた時も、彼女は渉の前でだけは笑っていた。失語症があるのは、渉じゃない。莉奈の方だった。彼女は自分の病気のことを隠すために、よく渉にメモを残していた。【お兄ちゃん、やっぱり学校の方が楽しいから、今年の夏休みは寮に残って帰らないね。お兄ちゃんも元気でね!】【お兄ちゃん、また新しい友達ができたよ。今日も楽しい一日だった!】【お兄ちゃん、ケーキの作り方を覚えたの。冷蔵庫に入れておいたから、ちゃんと食べてね!】でも、莉奈が渉に残した最後のメモは、こんな内容だった。【お兄ちゃん、地球はつらすぎたから、ウサギ星に帰るね!安心して、時々様子を見に戻ってくるから】渉は、あまりにも忙しすぎた。学校も、会社も、どこも戦場みたいだったから。でも、その戦いが終わった時、彼を待っていたのは、湖の底に沈んだ莉奈の冷たい体だけだった。本当は、莉奈だって頑張って生きようとしてたの。色んな支援グループに参加してた。うつ病の人たちの会とか、失語症で悩む人たちの会とか。彼女にメッセージを送ってきた人も、たくさんいた。でも、みんな自分のことで精一杯で、他の誰かを助ける余裕なんてなかった。ほとんどの人が2、3日やりとりしただけで、いなくなってしまったわ。それから何年も経って、私が莉奈のピンクのウサギのアイコンをタップして、メッセージを送った。【ねえ、エンジェルちゃん。私を友達に追加してよ】【エンジェルちゃん、今忙しい?】【エンジェルちゃん、今日もすごくいいお天気だね!よかったら、返信してくれたりしないかな?】渉は、私のことをうるさすぎるって言ったわ。彼は来る年も来る
「百合にあんなことを言ったのは、俺がどうかしてたんだ。いや……そうだ、あいつが上手だったんだ!あいつに誘惑されたんだ!本気で君と離婚しようなんて思ってなかった。君にサプライズがあるって言っただろ?次の日、もう一度プロポーズするつもりだったんだ。明里、全部ただの行き違いなんだよ!あの日の夜、俺だって君のところに行こうとしてたんだ……でも、友達がどうしても飲みたいって言うからさ!」「そうね、ぜんぶ人のせいなのね」拓海の涙を見下ろしながら、私は言った。「コンドームも、誰かにポケットに入れられたっていうの?あの女と寝たのも、誰かに無理やりやらされたって?私を見下して、辱めるような言葉も、全部他の人に言わされたっていうわけ?」こんなに長い言葉を、私は一息に話していた。「拓海、あなたはただ、私があなたから離れられないと思ってただけでしょ。だから私を軽く見て、無視して、見下してた。私を馬鹿にして押さえつけることが、あなたのうまくいかない人生で、唯一自分の価値を見出せる方法だったんじゃないの?」加藤家には息子が二人いる。長男は家業をすべて受け継いでいる。次男はいい加減で、毎日遊び暮らしている。拓海がやりたくないわけじゃない。ただ、彼にはできなかったのだ。そんな人生で、唯一誇れることといえば、一人の女の子を守っていたことだけ。その女に心の底から自分を信頼させ、離れられなくすること。「もう、やめにしよう。子供の頃からの仲なのに、こんなひどい終わり方はしたくないの」拓海の手が大きく震えた。そして、私の腕から離れた。「明里!もう一度だけチャンスをくれないか?今度こそ、絶対に……」彼はそう言いながら、私の手を掴もうとした。私はさっと身をかわして言った。「汚らわしいわ」拓海の言葉が、ぴたりと止まった。私はスーツケースを引いて、背を向けた。少し先に立っていた渉のそばへ行き、彼の腕に自分の腕を絡めた。背後から突然、泣き叫ぶ声が聞こえてきた。それから長い間、私は拓海に会うことはなかった。たまにルームメイトから、百合と彼の噂を聞くくらいだった。百合の件は、大事になったらしい。拓海を含め、何人かの御曹司たちが、そろって彼女を訴えたそうだ。百合は退学処分になり、卒
耳の奥がキーンとして、頭に血がのぼってくる。やっぱり、拓海だった。彼はライブ配信者たちを引き連れて、私と渉が住む家の前にやって来た。「植田グループはやりたい放題です!みなさん、どうか証人になってください!今日こそは、絶対に俺の妻に会います!」私は前に印刷しておいた資料を掴むと、そのまま階下を駆け下りた。使用人たちをみんな、買い物に行かせていたのをすっかり忘れていた。今、家には私ひとりしかいない。交通事故の後、たくさんの取材を受けて、心が深く傷ついたこともすっかり忘れていた。あれから、カメラを向けられると、一言も話せなくなってしまうのだ。でも、何かを守りたいという想いがあれば、人はこんなにも強くなれるものなんだ。私はそのまま玄関に向かい、ドアを開けた。「明里……」拓海は嬉しそうな顔をした。彼が次の言葉を発する前に、私は一歩前に出て、思いっきり平手打ちをした。「拓海!鏡でも見て自分の顔をよく見てよ!私があなたから離れないなんて、どうしてそんなに思い上がれるの?!」さらにもう一発、平手打ちをした。「それに、誰に吹き込まれたの?人を誹謗中傷して、デマまで流して!」そして、もう一発。印刷しておいたラインの履歴を、拓海の体に押しつけた。「よく見て!二度と『幼馴染』なんて言葉を口にしないで!」最後に、ボイスレコーダーを拓海の胸に投げつけた。中からは、私が家を出たあの夜、彼からかかってきた電話の録音音声が流れていた。「救ってやっただと?ふざけんな!あいつには何年も前からうんざりしてたんだ!母に押し付けられなかったら、相手になんてしなかったさ!結婚?なんで……」拓海の顔は、血の気が引いて真っ青になった。彼は慌てて再生停止ボタンを押した。でも、引き起こした騒動は、そう簡単に止められるものではなかった。ライブ配信は強制的に中断され、渉のすべての切り抜き動画も跡形もなく削除された。代わりに世間に出回ったのは、あの日、百合が私に送りつけてきた、彼女と拓海とのラインのやり取りを写したスクリーンショットだった。ネット上は、二人のあまりにも常識外れな言動に、呆れる声であふれ返った。すぐに、これまで身を隠していた百合の素性が、根こそぎ暴かれた。彼女が拓海から与えられた高級マンシ
私は慌てて地下1階のボタンを押した。エレベーターのドアが閉まる寸前、渉は意地悪く口元を歪めた。そして、拓海の前で私の顎を掴むと、さらに力強くキスしてきた。聞くところによると、拓海は加藤家の人に軟禁されているらしい。クレジットカードは取り上げられて、もう二度と私にちょっかいを出さないと誓わない限り、外には出してもらえないらしい。あのあと、私は渉と一緒にJ市に戻った。ちゃんとした結婚の形も考えたけど、渉が面倒くさがって、さっさと役所に婚姻届を出してしまった。私も、彼の友達や家族に一緒に会った。噂通りだった。渉は長男で、母親は早くに亡くなり、父親も彼が18歳のときに心臓発作で急死したそうだ。渉の叔父たちは後継者争いに敗れらからなのか、私にはとても丁寧だった。渉の友達も、みんな上品で礼儀正しい人ばかりだった。でも一人だけ、たぶん渉の親友なのだろう。彼の目の前で「いい歳して、ようやく卒業かよ」なんてからかっていた。まさか。30歳を過ぎてるのに、童貞なの?でも、入籍して2週間になるけど、確かに渉はまだ私に指一本触れてこない。もしかして、やり方を知らないとか……それとも、知らないってバレるのが怖いのかな?だからその夜、ベッドに入った時、なんだか変な雰囲気だった。私は渉に触れたいような、でも避けた方がいいような、複雑な気持ちでいた。万が一、知らないんじゃなくて、その、機能しないんじゃ……コホン。いや、そんなはずはない。キスされた時の感じだと、そういうわけでもなさそうだし。渉は社長で毎日忙しいし、簡単に近寄れる雰囲気でもない。だから、こういうのも普通なのかな?たとえ普通じゃなくても、もう結婚したんだから、私は気にしないのに。「なにを考えてる?」突然、渉が寝返りをうって、私をぐっと抱き寄せた。私は何度も首を横に振った。彼は少し屈んで、私の唇を奪った。最近、渉がキスしてくる回数はどんどん増えて、時間も長くなっていた。「君が俺を受け入れるための時間を、もう少しあげたいだけなんだ」布団の中の温度が上がっていく。暗闇の中、渉は少し息を切らしながら、掠れた声で言った。「私……」ドキドキと高鳴る心臓の音で、声が続かなかった。でも、ベッドの足元で安心