LOGIN不治の病を患った石津音(いしづ おと)が夫の子を出産するその日、義父母は私が騒ぎに来ないようにと、出産室の前に十人ものボディーガードを配備していた。 だが、出産が終わるまで、私は現れなかった。 義母は音の手を取り、しみじみと言った。 「私たちがいる限り、澪にあなたやお腹の赤ちゃんを傷つけさせたりしないわ」 夫は音の出産に付き添いながら、顔に心配の色を浮かべ、額の汗を拭っていた。 「心配するな、親父が人を連れて病院の正門を見張ってる。澪が来て騒ぎでも起こそうもんなら、追い出してやるさ」 私の姿がいつまで経っても現れず、ようやく彼は安堵の息をついた。 彼には理解できなかった。 ただ音の「母になりたい」という願いを叶えたいだけなのに、なぜ私があんなにも理不尽に怒ったのか。 看護師の腕の中で元気に泣く赤ん坊を見て、彼は満足げに微笑んだ。 そして心の中でこう思った。 明日、私が音に謝りに来さえすれば、これまでの喧嘩は水に流してやってもいい。 赤ん坊の母親の座も譲ってやる、と。 だが彼は知らなかった。 私はちょうど国連への渡航申請書を提出したところだった。 一週間後には国籍を抹消し、国境なき医師団の一員となって、彼とは二度と会うことはない。
View More私は特に大きな怪我はなかったが、火月は足を一部負傷していた。申し訳なさでいっぱいの私は、彼に一生を捧げる覚悟を決め、彼の面倒を見続けることを約束した。最初は、本当に彼の看病と罪滅ぼしのつもりで一緒にいた。けれども時が経つにつれ、彼と過ごす日々の中で、私はだんだんと自分の本当の気持ちに気づくようになった。彼の優しさ、包容力、深い愛情と思いやり。それらが冷えきった私の心を少しずつ溶かしてくれた。気がつけば、私はまた誰かを愛せるようになっていた。同僚たちの後押しもあり、私は心の底から彼を受け入れ、本当の意味で恋人となり、彼と一生添い遂げることを誓った。きっと神様が、一人ぼっちでいた私を不憫に思って、特別にこの縁を運んできてくれたんだと思う。だから今度こそ、この縁をしっかりと掴んで離さない。......やがて帰国の日がやって来た。空港まで迎えに来てくれたのは、かつての中央病院の院長・江野先生だった。彼は嬉しそうな顔で私を見つめた。「ずいぶん痩せたな、澪くん。この二年、大変だったろう」何気ない労いの言葉だったが、胸に深く刺さった。鼻の奥がツンと痛んだが、こらえて笑い、腕を広げて院長と抱き合った。そして少し歩いたところで、男の子の手を引いている景の姿が目に入った。彼は一体どこから情報を仕入れたのか、わざわざ空港まで来ていた。だが、たった二年なのに彼はまるで別人のようだった。無精髭に、目の下の隈、血走った目。かつての整った雰囲気は消え、代わりに漂っていたのは疲れ切った人生の重みと、ところどころ白くなった髪。彼がこの数年、いかに苦しんできたかは一目瞭然だった。しばらく躊躇った末、彼は結局、私に手を伸ばしかけて、そのまま引っ込めた。私もまた、無表情で彼を見返しただけだった。そんな中、隣の火月が何かに気づいたように、私の手を取って、指を絡めてきた。「澪、あの人......君の元旦那?挨拶してくるかい?何か言いたそうにしてたけど」その言い方には、あからさまな嫉妬心がにじみ出ていた。やれやれ、うちのヤキモチ焼き彼氏は相変わらず独占欲が強い。私は視線を逸らし、軽く首を振った。「話すことなんてないよ」「それに......もう火月がいるのに、彼と話す必要はないでしょ?」
私は冷たい目で彼を見据え、一語一語はっきりと言った。「私は絶対に元の鞘には戻らないし、あなたとあなたの息子の無料のベビーシッターになるつもりもない。もう諦めて」景は目を赤くして、何かを言いたそうに口を開いた。だが彼が口を開くより先に、私は遮るように話し出した。「まだ仕事があるの。この辺りは危険だから、あなたも早く帰国しなさい」そう言い残して、私はキャンプの方へ歩き出した。背後から景の声が追いかけてきた。「澪が帰らないなら、俺も帰らない。ここに残って君と一緒にいる。君がやりたいことをやり終えたら、一緒に帰ろう」私は一瞥もくれず、彼の言葉には一切反応しなかった。ただ、数歩進んだところで、彼が電話を取っているのが聞こえてきた。どうやら国内の病院からの電話のようだった。「......何だって?音が死んだ?」「すぐに帰国する、絶対に俺が戻るまで待っていてくれ!」まさにその時、頭上を爆撃機が2機、低空で通り過ぎていった。聞き慣れた轟音に、私は咄嗟に景を突き飛ばした。「お前?!何するんだ!」と景は怒鳴った。だが彼の声はすぐに近くで起きた爆発音にかき消された。大地全体が揺れ、爆風で舞い上がった土が私たちに降りかかる。私は彼の怒鳴り声など気にも留めず、周囲を一瞥してから素早く立ち上がった。景は突然の襲撃に完全に怯えて、地面に座り込んだまま動けなかった。私は彼を一瞥し、手を引いて立ち上がらせた。「とりあえず中で隠して」景は完全に怯えていて、声が震えていた。「......今、俺たち......もう少しで死んでた?」私はすでに、命の危険と隣り合わせの日々に慣れていたが、彼にとっては初めての経験だった。唇を引き結び、しばらく黙ったあと、私は口を開いた。「後で隊長に頼んで、あなたを送り返してもらうよ。......もう二度と来ないで」景の顔には土がつき、彼はスマホを握りしめたまま黙り込んでいた。しばらくして、隊長が現地の人を連れてやってきた。その男は古いピックアップトラックを運転していて、景に早く乗るよう促していた。見送るとき、私はドライバーの手に紙幣を数枚余分に押し込み、必ず空港まで無事に送り届けるよう念を押した。たとえ彼との関係がすでに終わっていたとしても、生きている人
だから今さら、どうしてわざわざここまで来る必要がある。そう思った瞬間、私は少しぎこちなく彼を押しのけ、冷たい表情を浮かべた。「横山さん、私たちはもう離婚したよ」そう言うと、景の目はさらに赤くなり、かすれた声で言った。「俺を突き放さないでくれ......俺はすべての空港を回って、あらゆる人に聞いて、やっと君を見つけたんだ......」「知ってるか?君がいなくなったこの一ヶ月の間に、たくさんのことがあったんだ。俺の母さんも......亡くなった」私は一瞬言葉を失った。まさか景の母親がもうこの世にいないなんて、思いもしなかった。私が茫然としている間に、景は一人で話し続けた。「澪、本当にごめん。あの時、俺たちは君のことを信じなかった。君が嘘をついてると思ってたから。でも、本当に嘘をついてたのは音だった!」「彼女は詐欺師だったんだ。権威のある医者を探しに行くなんて言ってたけど、全部嘘だった。母さんの病気もそのまま放置されて......もしあのとき、君の言葉を信じて専門の医者に診てもらっていれば、母さんはもしかしたら今も生きていたかもしれない」「全部、俺のせいなんだ。あの時、君を信じるべきだった。君を傷つけて、母さんまで死なせてしまった......」「親父が言ってた通りだよ、俺は疫病神だ......」そう言って景は顔を手で覆い、地面にしゃがみ込んで声をあげて泣いた。彼が泣きじゃくる姿を見て、私はその場から動けなかった。胸の奥に、ちくりと痛みを感じた。ここに来てからの一ヶ月、私は毎日、命の境を見てきた。感覚なんてもう麻痺してると思っていたのに、景の言葉を聞いて、心は思った以上に揺れた。思い返せば、音が私たちの間に入る前、彼の母親はまだ私に優しかった。私が子どもを失ったとき、彼女は料理を作ってくれたり、寝返りを打つのを手伝ってくれたりもした。でも音が現れてから、義母は私が子どもを産めないことにあれこれ文句を言い始めて、孫への執着も強くなっていった。......ぼんやりしていると、景の声が再び私の思考を断ち切った。「澪、本当にごめん。俺はずっと君を探して......どうしても自分の口で謝りたかったから。けどそのときやっと知ったんだ、君はただ会社を辞めたんじゃなくて、MSF(国境なき医師団)に入
景はうなだれて、何も言わなかった。まるで悪いことをした子供のようだった。だが、義父の怒声が腕の中の赤ん坊を驚かせ、激しく泣き出した。赤ん坊の泣き声に苛立った義父は、怒りに任せて子供を隣のプラスチック製の椅子に乱暴に置いた。「泣くな!一日中泣いてばかりいてうるさいぞ!」「景、これはお前の息子だ。自分であやせ!」だが景は、もはやそれどころではなかった。彼はゆっくりとスマホを取り出し、私に電話をかけようとした。もしかしたら、今となっては専門医に連絡できるのは私しかいないのかもしれない。しかし、私の電話はつながらなかった。そのときの私は、すでに国外へ向かう飛行機に搭乗していたのだから。飛行機の中で、私は窓辺に頭を預けながら、外の景色がどんどん遠ざかっていくのを見ていた。そして機体が大きく傾き、空へと舞い上がるあの慣性に包まれた瞬間、私は、現実ではないような感覚を覚えた。この瞬間から、私はもはや国籍を持つ人間ではない。私は自分自身を、世界に捧げる人間になったのだ。十数時間に及ぶフライトを経て、疲労困憊のまま仲間たちと共に現地へ到着した。国内の平和とはまるで異なる光景。ここでは戦火が絶えず、武装勢力があふれ、少しの油断が命取りになる。車の中で少し仮眠をとっていると、迎えに来てくれた医療チームのリーダーが、目的地の状況を説明してくれた。そして、彼は私たち一人一人に銃を手渡した。「命を救うのも大切だ。でもそれ以上に大切なのは、自分の命だ」その言葉は、私の胸に深く響いた。私はふと、景と結婚していたあの数年間を思い出した。当時の私は、彼こそがすべてだった。彼を自分の命以上に大切に思っていた。だが、記憶の中の少年はもう死んだ。あの私を愛してくれた人はもうこの世にいない。そして私たちの関係も、完全に終わったのだ。これからの私は、もう彼に感情を揺さぶられることはない。彼と音の親密さに心を乱されることもない。彼のために自分の将来や夢を捨てることもない。余生は、私自身のために泣き、私自身のために笑い、私自身のために生きていく。すぐに、私たちは目的地へ到着した。ぬかるんだ道には、多くの負傷者たちが地べたに座り、腕や足には血がにじむ痛々しい傷があった。そこで私は