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雲の如く、自由な空へ

雲の如く、自由な空へ

By:  夕暮れCompleted
Language: Japanese
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小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ姿になった。 しかし、革ベルトで椅子に縛り付けられた雫を残し、司は女秘書からの電話一本で、振り返ることもなくその場を去っていった。 雫は、そのあまりにも屈辱的で無様な格好のまま、夜が明けるまで拘束され続けた。 一晩中もがき続け、手首が血に染まるほど擦れて、ようやくベルトを解くことができた雫は、命からがら家へと辿り着いた。 だが、ボロボロになりながら帰宅した雫を待ち受けていたのは、リビングに集まった大勢の来客と、大型モニターに映し出された――映画館で見知らぬ肥満男と情を交わす、彼女自身の淫らな映像だった。 目を凝らせば、それがAIによって精巧に作られた動画であることは明らかだ。

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Chapter 1

第1話

小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ姿になった。

しかし、革ベルトで椅子に縛り付けられた雫を残し、司は女秘書からの電話一本で、振り返ることもなくその場を去っていった。

雫は、そのあまりにも屈辱的で無様な格好のまま、夜が明けるまで拘束され続けた。

一晩中もがき続け、手首が血に染まるほど擦れて、ようやくベルトを解くことができた雫は、命からがら家へと辿り着いた。

だが、ボロボロになりながら帰宅した雫を待ち受けていたのは、リビングに集まった大勢の来客と、大型モニターに映し出された――映画館で見知らぬ肥満男と情を交わす、彼女自身の淫らな映像だった。

目を凝らせば、それがAIによって精巧に作られた動画であることは明らかだ。

「意外ですね。普段はあんなに清楚で上品な雫さんが、裏ではいやらしい遊びをなさっているなんて」

秘書の西内美咲(にしうち みさき)は司に寄り添い、わざとらしく甘えた声を出した。

「社長、奥様とは結婚して五年間、一度も夜を共にしたことがないと伺いましたけど、それってもしや……」

美咲が言い終える前に、司はその体を抱き寄せた。薄い唇が侵略的とも言えるほど迫ったが、理性に縛られるように、美咲の唇のすぐ傍に、キスを落とした。

彼の黒い瞳には情欲が渦巻き、含みのある声で囁いた。

「五年間、あいつに指一本触れなかった理由は、君がいるからだ」

その一言で、場にいた人々は一斉に騒ぎ出した。

雫はそのおぞましい光景を目の当たりにし、玄関にあったアンティークの花瓶を力任せに叩き割った。

一瞬にして室内は静まり返った。雫は目を真っ赤に腫らし、花瓶の破片を踏みつけながら中へと歩を進めた。

彼女はスクリーンを指差し、枯れた声を絞り出した。

「あなたが、やったの?」

しかし、美咲は恐れる様子もなく、勝ち誇ったように笑った。

「奥様、社長を責めないでください。あの動画は……私が作ったんです」

そして、わざとらしく言葉を付け加えた。

「でも、素材を提供してくださったのは社長ですわよ」

再び沸き起こる嘲笑の中、雫の表情はますます険しくなっていった。

司は美咲をかばうように自分の背後に引き寄せると、冷徹な眼差しを雫に向け、軽々しく言った。

「美咲はまだ若くて遊びたい盛りだ。このAI動画、ただの悪ふざけに過ぎない。

そこまで目くじらを立てる必要がないだろう?」

雫はあまりの言い草に失笑した。鼻の奥がツンと痛み、激しい悲しみがこみ上げてきた。

彼女の声は震えていた。

「悪ふざけ?なら、彼女の顔をAIでアダルト動画のヒロインに差し替えるのはどうでしょうか?」

司の顔が瞬時に険しくなった。彼は雫に向かって大股で歩み寄った。

初めて自ら雫に伸ばした手は、情愛ではなく、彼女の襟元を力任せに掴むためのものだった。

「雫、貴様……やれるものならやってみろ」

司の瞳に宿る剥き出しの殺気は、氷の楔となって雫の心臓を深く突き刺した。

美咲は司の背後に隠れ、いかにも無実だと言わんばかりの表情を浮かべた。

「奥様、どうしてそんなに私を嫌うのですか?

昨夜、映画館で社長と楽しんだあの『プレイ』は私が提案したものですが、悪気はなかったんです。

社長が奥様を嫌っているからこそ、私を口実にして、全裸の奥様に触れることさえ拒んだのでしょうに」

雫の心は極限まで冷え切った。彼女は司の手を振り払い、傍らにあったスマホを手に取って電話をかけた。

背後からは司の氷のように冷たい脅し文句が響いた。

「言ったはずだ、美咲はただの冗談だとな。もしどうしても通報すると言うなら、この動画を京川市の人間にバラまいても構わないんだぞ」

そう言い捨てると、司は美咲を連れて部屋を出ようとした。

雫とすれ違いざま、美咲はわざとらしく口を開いた。

「社長、そんなに優しくしないでください。奥様がまた怒ってしまいますわ」

司の態度は依然として硬く、雫について語るその口調は、まるで縁もゆかりもない他人について話しているかのようだった。

「あいつは名ばかりの妻だ。俺が求めてるのは、最初からあいつじゃない。

美咲、あの時、M国の暴動から命懸けで俺を救い出してくれたのは君だ。

俺の体も、命も、すべて君のものだ」

過去の出来事を口にする彼を背に、雫が瞬きをすると、堪えていた涙がスマホの画面に音もなく落ちた。

それと同時に、雫がかけた海外の電話がつながった。

スマホの向こうから、男のからかうような声が聞こえてきた。

「おや、M国で助けた男といちゃつくのに忙しいんじゃないのか?俺に電話なんて、何の用だ?」

雫の声には、隠しきれない疲弊と決意が滲んでいた。

「そこは、まだ人手が足りていないわよね?

……急いで彼との関係をすべて断ち切ってから、そちらへ向かうわ」

雫はカレンダーを見上げた。

七日後の日付には、丁寧に赤い印がつけられている。その日は、彼女と司の五周年の結婚記念日だ。

「七日後のフライトよ。必ず、時間通りに行くわ」

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第1話
小野寺司(おのでら つかさ)の誕生日、彼の「欲しい」という一言に応えるため、古泉雫(こいずみ しずく)は映画館の暗闇の中で、一糸まとわぬ姿になった。しかし、革ベルトで椅子に縛り付けられた雫を残し、司は女秘書からの電話一本で、振り返ることもなくその場を去っていった。雫は、そのあまりにも屈辱的で無様な格好のまま、夜が明けるまで拘束され続けた。 一晩中もがき続け、手首が血に染まるほど擦れて、ようやくベルトを解くことができた雫は、命からがら家へと辿り着いた。だが、ボロボロになりながら帰宅した雫を待ち受けていたのは、リビングに集まった大勢の来客と、大型モニターに映し出された――映画館で見知らぬ肥満男と情を交わす、彼女自身の淫らな映像だった。目を凝らせば、それがAIによって精巧に作られた動画であることは明らかだ。「意外ですね。普段はあんなに清楚で上品な雫さんが、裏ではいやらしい遊びをなさっているなんて」秘書の西内美咲(にしうち みさき)は司に寄り添い、わざとらしく甘えた声を出した。「社長、奥様とは結婚して五年間、一度も夜を共にしたことがないと伺いましたけど、それってもしや……」美咲が言い終える前に、司はその体を抱き寄せた。薄い唇が侵略的とも言えるほど迫ったが、理性に縛られるように、美咲の唇のすぐ傍に、キスを落とした。彼の黒い瞳には情欲が渦巻き、含みのある声で囁いた。「五年間、あいつに指一本触れなかった理由は、君がいるからだ」その一言で、場にいた人々は一斉に騒ぎ出した。雫はそのおぞましい光景を目の当たりにし、玄関にあったアンティークの花瓶を力任せに叩き割った。一瞬にして室内は静まり返った。雫は目を真っ赤に腫らし、花瓶の破片を踏みつけながら中へと歩を進めた。彼女はスクリーンを指差し、枯れた声を絞り出した。「あなたが、やったの?」しかし、美咲は恐れる様子もなく、勝ち誇ったように笑った。「奥様、社長を責めないでください。あの動画は……私が作ったんです」そして、わざとらしく言葉を付け加えた。「でも、素材を提供してくださったのは社長ですわよ」再び沸き起こる嘲笑の中、雫の表情はますます険しくなっていった。司は美咲をかばうように自分の背後に引き寄せると、冷徹な眼差しを雫に向け、軽々しく言った。「美咲はま
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第2話
雫は最速で離婚協議書をプリントアウトすると、小野寺グループへと急いだ。司は一日の大半を会社で過ごす。以前の雫は、それを彼の仕事人間ゆえの性格だと思い込んでいた。しかし、これまで一度も足を踏み入れたことのなかったこの「禁域」に立った今、雫は、壊れかけた結婚を庇い続けていた自分がどれほど滑稽なのかを、ようやく思い知らされた。オフィスにはピンク色のラグが敷き詰められた。ミニマリズムを基調としたモノトーンのソファには、オフィスにそぐわない可愛らしいぬいぐるみが山のように積まれている。それどころか、引き裂かれた女性用のストッキング数本がその上に放り出されている。雫は離婚協議書を握りしめる手に力を込め、冷淡な声で言った。「司はどこ?急用があるの。この重要な書類にサインしてもらいたい」アシスタントは気まずそうに咳払いをした。「社長は西内さんと休憩室にいらっしゃいます。今は……手が離せない状況ですので」「手が離せない」理由など、もはや説明されるまでもない。雫は吐き気を堪えながら一度引き返そうとしたが、会社の入り口でボディガードたちに遮られた。そこへ、泣きじゃくる美咲を抱きかかえた司がやってきた。彼は慈しむように視線を落とし、美咲の涙を拭ってやっている。雫には一瞥もくれない。「やれ」雫が反応する間もなく、ボディガードたちが彼女を地面に組み伏せた。無遠慮な手が彼女の体を探り、力を込めて布地を力任せに引き裂いていく。雫はもがきながら叫び、声はほとんど枯れかけていた。司は冷徹な眼差しで彼女を見下ろした。「被害者面をするな。オフィスには君しか入っていない。その結果、美咲が母親の形見として大切にしていたネックレスが叩き割られ、ゴミ箱に捨てられてた。どうしても美咲を攻撃するというのなら、こちらも相応の罰を与えるまでだ」雫はようやく事態を把握し、露出しかけた胸元を惨めな思いで覆い隠した。血走った瞳に屈辱の涙を浮かべ、雫は顔を上げて司を睨みつけた。「司、あんたは本当に頭が悪いの?!私がやったのなら、それをオフィスに捨てるわけないでしょ!」その言葉に、司は初めて雫ををまともに見た。冷酷な黒い瞳に、わずかな驚きが走った。結婚して五年間、雫がこれほど激しく怒ったのは初めてのことだから。だがその迷いも、腕の中の美咲の
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第3話
美咲が協力会社に与えた損失は、少なくとも二十億円以上にのぼった。先方の社長は激怒していたが、雫と司の関係に免じて、過度な嫌がらせはしてこなかった。ただ、テーブルに並べられた十杯の焼酎をすべて飲み干せ、と雫に命じた。雫の顔から一瞬で血の気が引いたが、司の脅しを思い出し、一杯、また一杯と酒を煽り続けた。半分ほど飲み進めたところで、胃をナイフで掻き回されるような激痛が走り、意識が遠のきそうになる。その時、窓の外の夜空に、色鮮やかな打ち上げ花火が次々と咲いた。その美しさに、室内の全員の目が奪われた。「おい、これは何だ?」「決まってるだろ。小野寺社長がまた京川市一番高いタワーを買い占めて、愛人を喜ばせようと花火を上げてるのさ。珍しいことじゃない」雫は痛みに耐えかね、朦朧とする意識の中で司に電話をかけた。しかし、呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに拒絶され、すぐにメッセージが届いた。【会社だ。手が離せない】【何かあるなら、アシスタントを向かわせる】雫は自嘲気味に口角を上げたが、大粒の涙が堪えきれずに地面へこぼれ落ちた。結局、見かねた協力会社の人に運ばれ、雫は病院へと担ぎ込まれた。目が覚めると、回診に来た看護師が呆れたように言った。「仕事の付き合いだとしても、これほど飲むなんて無茶ですよ……古泉さんは急性アルコール中毒ですよ。あと少し遅れていたら、胃洗浄をしても助からなかったところだったんです」雫は何も答えず、ただ疼くように痛む腹部を静かにさすった。そこへ、聞き覚えのある不快な声が響いた。「奥様、看護師さんの言う通りですよ。でも、昨夜はあの方たちも、そこまで飲むよう強要はしていなかったはずですけど?」美咲が、底意地の悪い笑みを浮かべて現れた。「そういえば、昨夜は商業界の大物たちが何人も同席していたとか。奥様も、あんなにすごい方々を前にして気分が良くなって、ついつい飲みすぎちゃったんでしょうね?」美咲の悪意ある誘導により、看護師が雫に向ける視線は、同情から軽蔑へと一変した。雫は、虚ろで生気のない瞳を美咲に向けた。「何の用?」美咲はテーブルに置かれたスープを指差し、悪戯っぽく笑った。「もちろん、社長の代わりに様子を見に来たんですよ。彼は昨夜、とっても『お疲れ』でしたから」美咲がわざ
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第4話
三日間病院で静養し、雫はようやく気力を取り戻しつつあった。しかし退院するやいなや、彼女は司の差し金で京川市の乗馬クラブへと連れて行かれた。司が彼女をこうした社交の場に同伴させるのは、これが初めてのことだ。雫は、使用人たちがすぐさま運んできたブランドのバッグや服を冷ややかな目で見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。「司、用があるならはっきり言って」司の眼差しは冷たく、その整った顔立ちには何の感情も浮かんでいない。「例のスープの件、調べがついた。美咲に悪気はなかったんだ。遊び盛りの彼女は、ちょっとした悪戯をしただけだ。君も彼女を火傷寸前に追い込んだだろ。今回の件は帳消しにする」あまりにも露骨な偏愛を前に、雫の心臓はまたしても情けなく疼いた。さらには、五年もの月日をかけて、ようやく愛した男の本性に気づいた自分自身の愚かさに、彼女は腹が立って仕方がなかった。雫が反応を示さないのを見て、司の目は苛立ちを帯び始めた。それ以上付け上がるな、と言わんばかりだ。雫は並べられた品々に視線を落とし、嘲笑を深めた。「司……私がこのブランドのデザインを一番嫌ってることすら知らないのね」司は虚を突かれたように目を見開き、反射的に口走った。「まさか、君が一番好きなのは……」言いかけて、彼はようやく気づいた。これらの品々を好んでいたのは、美咲だ。雫はもう彼を相手にせず、立ち上がると一頭の馬を選んで跨った。その無駄のない洗練された動作を見つめ、司の胸中には一瞬、荒唐無稽な考えがよぎった。――もし美咲に救われた恩義を返さなくて済むのなら……自分は本当に、雫と静かに暮らす道を選んでいたのかもしれない。だが、仮定の話に意味はない。司の瞳に宿ったわずかな揺らぎは、すぐに冷酷な光にかき消された。雫が走り出して間もなく、美咲が馬に乗って追いかけてきた。「奥様、プレゼントがお気に召さなかったのかしら?私が社長と一緒に、わざわざ選んで差し上げたのに」今の雫にとって、美咲の小細工など眼中にない。一瞥もくれず、馬の腹を軽く蹴って加速した。美咲の瞳に嫉妬の火が灯った。彼女も速度を上げ、突然、雫の前を遮るように馬を割り込ませた。雫は目を見開いたが、避ける間もなかった。二頭の馬が衝突した瞬間、二人は同時に宙へ放り出され
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第5話
雫の手が一瞬止まった。しかし、雫が口を開くより先に、美咲の泣き声が再び響き渡った。「どうしましょう、社長……お医者さんが、手を傷めたって。これじゃあもう、以前のようにあなたの怪我を治してあげることもできなくなっちゃいますよ……」泣きじゃくりながら、美咲は恨みがましい視線を雫に向けた。「私、奥様の気分を害するようなことを何かしたのでしょうか。私にこんなに惨い仕打ちをするなんて……」美咲の意図的な誘導によって、司が雫に向ける眼差しは、再び骨を刺すような冷たさへと変わった。司はあろうことか、接いだばかりの雫の腕を思い切り踏みつけにした。めりめりと、骨が軋む鈍い音が漏れた。雫は、あまりの激痛に意識を失いかけた。額に滲んだ大粒の冷汗が、血の気の引いた頬を伝い落ちた。雫は荒い息をつきながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。「司……ここには、監視カメラがあるわ。どっちが先に手を出したか、調べればすぐに分かる……」司が足を退けた。彼は雫の襟元を乱暴に掴み上げ、無理やり自分と目を合わせさせた。「雫」整いながらも冷酷な司の顔が目の前に迫る。わずかにつり上がった目元は、毒を塗った針のように鋭い。「この件が君と無関係であることを、精々祈っておくんだな」言い捨てると、司はゴミでも捨てるかのように雫を地面へ放り出した。病院へ運ばれた後、ほどなくして調査結果が届いた。アシスタントは顔に愛想笑いを浮かべ、雫に深々と頭を下げた。「奥様、社長がお詫びを。先ほどは誤解だったと伝えてくれとのことです」雫は無表情に窓の外を見つめていたが、そのまつげが微かに震えた。「調べがついたの?」アシスタントは作り笑いした。「……監視カメラが、あいにく故障しておりまして。ですが社長は、真相がどうあれ奥様を信じるとおっしゃっています」「ふん」雫は、一生後遺症が残るであろう右手を血の滲むような思いで見つめ、憎しみを隠そうともせず掠れた声で言った。「カメラが『あいにく』壊れていたのか……それとも、誰かさんの責任を隠蔽するために壊したのかしらね」「雫、どういう意味だ」言葉が終わるか終わらないかのうちに、司の冷淡な声が耳元に突き刺さった。雫は臆することなく顔を上げ、もはや情愛など微塵も残っていない瞳で彼を見据えた。「それ
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第6話
あの日以来、雫の胸には、拭い去れない不安が澱のように溜まっていた。だが、彼女がここを去るまであと三日だ。退院の許可が下りるやいなや、雫はすぐに荷物をまとめようと帰宅したが、玄関先で何者かに背後から殴られ、意識を失った。再び目を覚ました時、雫は冷蔵倉庫の中で、椅子に厳重に縛り付けられていた。全身の服は冷気で湿り、あまりの寒さに呼吸をすることさえ苦しい。外で見張っていた犯人が、彼女が目覚めたのに気づいて中に入ってきた。犯人は雫に歩み寄るなり、そのみぞおちを力任せに蹴り上げた。激痛に襲われ、雫は目の前が真っ白になり、喉の奥から血の味が込み上げてきた。「ちっ、この女、いつまで寝てやがる。俺の稼ぎの邪魔をしてんじゃねえぞ」犯人は悪態をつきながら雫の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。「さっさと家族の電話番号を言え。二億の身代金を用意させろ。金さえ手に入れば、解放してやる」雫は必死に呼吸を整え、震える声で司の番号を告げた。電話はすぐに繋がった。犯人が横柄に要求を突きつけると、電話の向こうの司は即座に答えた。「分かった。金は出す。その女には手を出すな」その一瞬、雫の心には、情けなくも切ない感情がこみ上げた。しかし、彼女と犯人が一日一夜待ち続け、約束の時間を過ぎても、犯人の元に金が届くことはなかった。焦れた犯人は激昂し、雫を執拗にいたぶりながら罵り続けた。「このアマ!恨むなら、俺をコケにした旦那を恨むんだな!」何度も殴打され、雫は意識が遠のきそうになる。もう助からない――そう諦めかけた時、ようやく警察が雫を救出した。救急隊員たちが雫の体を検査し、思わず息を呑んだ。「なんて酷いことを……わざと命に関わらない場所ばかりを狙って痛めつけてる」誰かがポツリと漏らした。「それにしても、この方の旦那さん、妙ですね。昨日、彼女がさらわれた後に通報があった時も、警察の調べに対して『あの女は自分とは無関係だ』なんて言い張って捜査を遅らせたそうですよ。そうでなければ、もっと早く救い出せたはずなのに」その瞬間、雫は心臓を鋭い爪で掴まれたような衝撃を受けた。声を上げて泣きたかったが、喉が詰まって、漏れ出るのは壊れたような嗚咽だけだった。隊員の一人が心配そうに声をかけた。「奥様、どうなさいましたか?どこかお
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第7話
雫は我に返ると、ドアノブを探り当て、力任せにドアを後ろへと叩きつけた。凄まじい衝撃音がリビングに響き渡る。今の雫にその光景は見えなくとも、ソファで情を交わしていた男女がどれほど狼狽し、慌てふためいているかは容易に想像がついた。雫の乾いた唇に、皮肉で冷ややかな笑みが浮かぶ。彼女は壁を伝いながら、ゆっくりと玄関へと歩を進めた。司の低く抑えられた声が、冬の風ように冷たく刺さった。「雫、どういうつもりだ?」一方で美咲は、慌てたふりをしながらも、隠しきれない得意げな口調で言った。「あら、奥様……ノックもせずに中に入るなんて」雫の声には、もはや何の抑揚もなかった。「ここは私の家よ。ノックする必要なんてないわ」雫は小さく鼻で笑った。「視神経を傷めて、今は一時的に目が見えないの……何、見られては困るような、汚らわしいことでもしていたの?」司は大股で雫に歩み寄ると、その手首を力任せに掴んだ。彼女の瞳に生気がなく、嘘をついているわけではないと確信した司は、一瞬だけ呆然とした。だがすぐに冷笑を浮かべた。「かつてM国で、俺も一時的に失明したことがあった。それを治してくれたのは美咲だ。雫、自業自得だな。これは、君が無理やり美咲の手をダメにした報いだ。そうでなければ、君の目も助かる見込みがあっただろうに」雫の口元に刻まれた皮肉な笑みは、さらに深まった。……愚か者め。心の中でそう吐き捨てると、雫は力を込めてその手を振り払った。「部屋に戻って休むわ」二階の自室へ戻るまでの道のりを、雫は惨めにも手探りで進み、十分もかかってしまった。ようやく階段に足をかけた時、背後から美咲の勝ち誇ったような嘲笑が飛んできた。「奥様、今の階段を這い上がる姿、ぜひご自分でも見ていただきたいですね。手足を使って這いつくばって、まるで犬みたいですね」雫の指先が一瞬強張ったが、彼女は冷淡に言い返した。「犬になる方が、泥棒猫になるよりはマシよ。少なくとも、堂々としてるもの」美咲は言葉に詰まり、笑い声はすぐさま冷ややかなものへと変わった。雫がなおも上がろうとすると、美咲の冷たいハイヒールに手が触れた。嫌な予感がした瞬間、そのヒールが怪我をしている雫の手を容赦なく踏みにじった。鋭い激痛が骨の髄まで突き刺さり、雫は息をするこ
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第8話
美咲の泣き声がすぐに響き渡った。「これ、これが梨のスープだったなんて……社長、あなたが止めてくれなかったら、何も知らずに飲んでしまうところでしたわ。奥様、喉を潤すものを作ってくれると自分からおっしゃったのに、まさかこんなおつもりだったなんて!」雫は無感情のまま、光のない瞳を上げた。二人の表情は見えないが、今この瞬間、彼らがどれほど醜く忌まわしい顔をしているかは想像に難くない。雫はもう、弁明する気すら起きなかった。新しくできた火傷の跡をそっとなぞり、淡々と言った。「……それで、今度はどうやって私をいたぶりたいの?」司は激怒しているはずだった。だが、なぜか感情を失った雫の姿を見た瞬間、彼の心臓は何かに強く締め付けられるような感覚に陥った。しかし、その理性が働く前に、美咲の悲痛な泣き声がそれをかき消した。雫へ向けられた瞳から、最後の一筋の温もりが失望へと変わった。「雫、君には頭を冷やす時間が必要だ。西山へ送らせる。君が己の過ちを認め、反省するまで、ここへ戻ることは許さない」その瞬間、雫は自分の耳を疑った。彼女の感情は激しく昂ぶり、怒りに満ちた声を上げた。「西山ですって!?司、知ってるはずよ。あそこは未開発で、人が住める場所なんてない。それどころか、野生の獣がどれだけ潜んでいるかも分からない場所よ!目も見えず、手も動かない私をあんな場所へ送るなんて、死ねと言っているのと同じじゃない!」司の口調は依然として冷酷で無情だっ。「君には、本当のことを言っておこう。今、美咲の腹には俺の子がいる。子が生まれるまで、彼女に万が一のことがあってはならないんだ。雫、美咲に無事に子を産ませること。それが彼女への恩返しだ。その後、君とやり直すことも考えてやろう」施しを与えるようなその物言いに、雫は思わず笑い声を漏らした。笑い続けているうちに、目元が熱く、激しく疼きだす。司が美咲の手を引き、雫の横を通り過ぎようとした時――雫は、凍てつくような声で告げた。「司、あなたはきっと後悔するわ」司の心に、一瞬の不安がよぎった。だが、彼はその奇妙な胸騒ぎをすぐに振り払い、ボディガードたちに雫を今すぐ山へ送るよう命じた。ただ、司は一言だけ付け加えた。「護衛を多めにつけろ。本当に山で死なせるんじゃな
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第9話
車内、美咲は露出度の高い服をまとい、司の膝の上に座り込んでいた。彼女は彼の手を首に回し、色香を漂わせる瞳で誘いかける。しかし、顔が重なり合おうとしたその瞬間、司は眉をひそめ、美咲の体を引き離した。「パーティーに連れて行けとせがんだのは君だろう?さっさと運転手を出発させろ」美咲は不満げに唇を尖らせ、甘ったるい声で媚びた。「なんだか、今日のあなたは冷たいですね。まさか、本気で雫のことが心配になったのですか?」司はため息をつくと、美咲の細い腰を引き寄せ、宥めるように抱きしめた。「何を言ってる」その眼差しはいつものように優しかった。「夜に会議があるんだ。遅れるわけにはいかないだろう」美咲はようやく機嫌を直し、意気揚々と運転手に車を出すよう促した。だが、会場に到着した瞬間、司の顔から笑みが消え失せた。会場の装飾は、以前彼と雫が過ごした結婚記念日のパーティーと、何から何まで瓜二つだったのだ。司の目が冷たくなるのを見て、美咲は慌てて彼の腕にすがりついた。「怒らないで。わざとこうしたのですよ。だってあなたも言ったでしょ……雫は私に借りがあるって。今日、彼女に恥をかかせるくらい、大したことないでしょう?どうせ雫は今日のパーティーには来られないのですし、せっかく準備してあったものを無駄にするのはもったいないですよ」司のまぶたがぴくりと跳ねた。「準備してあった?」たまたま通りかかったウェイターがその言葉を耳にし、にこやかに説明を加えた。「はい、これほどの規模のパーティーですから。会場の細かなデザインまで含め、半年前から準備を始めなければ、ここまでの完成度にはなりません」言い終えると、ウェイターは二人を喜ばせようと続けて述べた。「こうしたディテールの一つひとつから、奥様が旦那様をどれほど深く愛していらっしゃるかが伝わってまいります」美咲は得意げに口角を上げ、そのまま頷こうとした。しかし、その手は司によって激しく振り払われた。彼の瞳は氷のように冷え切り、整った顔立ちからは一切の感情が消えていた。「あいにくだが、彼女は俺の妻ではない」空気が一瞬で凍りつき、完璧だった美咲の笑顔に亀裂が走った。司は、少し離れた人混みの中に潜んでいる記者たちに視線をやり、瞳の奥に残っていた最後の一筋の
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第10話
結局、エンジンはかからなかった。司は、またしても絆されてしまったのだ。彼がドアを開けて車を降りると、美咲がすぐさま小走りで駆け寄り、その胸に飛び込んだ。司が口を開くより先に、美咲は彼の手を取り、自分の下腹部にそっと添えた。「司」美咲が声を詰まらせた。「私、普段はわがままばかり言ってますけれど……今は本当に心細いのです。私にも、この子にも、あなたが必要なのですよ。お願いです。せめてこの子が生まれるまでは、雫を迎えに行かないと約束してください。もう二度と、わがままを言いませんから」美咲が珍しくも卑下した態度を見せた。司は溜め息をつくと、彼女の額に口づけを落とそうと顔を寄せた。だが、唇が触れる直前、司は鋭く危険を察知した。彼は咄嗟に美咲を抱きかかえ、横へと転がった。次の瞬間、凄まじい爆発音が鼓膜を震わせた。爆風の余波を受け、司の腕には無残な火傷の跡が刻まれた。彼が戦慄しながら振り返ると、そこには炎に包まれた自分の車が無惨な姿を晒していた。現場は一気にパニックに陥った。しかし美咲は、傷を負った司の腕など目に入らないかのように、彼の服を掴んで狂ったように泣き叫んだ。「司、私を連れて逃げて!怖いの!」尖った爪が、服の上から彼の傷口に食い込んだ。司は激痛に呻き、美咲を向ける眼差しは、情愛から疑念へと変わった。「美咲、爆発が怖いのか?」かつてM国の暴動の中、降り注ぐ爆撃を潜り抜け、命懸けで自分を救い出した。そう語ったのは、美咲本人ではなかったか。美咲は心の動揺と焦りを必死に隠し、震える声で言い訳をひねり出した。「わ、私は、この子に何かあったらと思うと……」その言葉を聞き、司の表情はようやく和らいだ。彼はすぐさまボディガードに命じ、何よりも優先して美咲を避難させた。この襲撃は極めて突発的、かつ明確な目的を持っていた。無関係な者には一切手を出さず、すべて司一人に向けられ、そのどれもが急所を狙った一撃だった。死を目前にし、常に沈着冷静だった司も、流石に余裕を失った。再び深手を負って倒れ込んだ彼は、無意識に傍らにいた美咲の手を掴んだ。「美咲……」司が苦しげに声を絞り出した。「早く……支えてくれ……」だが、美咲はその手を冷酷に振り払った。身勝手さと臆病さに支配された美咲
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