LOGIN有楽町の雨の夜。 39歳の佐野椿は、愛した男・九條檀に突然捨てられ、泣き崩れていた。 そんな彼女を拾ったのは、元銀座No.1ママ・桜鏡子。 「鏡の桜」で新しい居場所を与えられた椿は、彼女に不思議な懐かしさを感じる。 一方で檀は、手放したはずの椿を忘れられない。 やがて明かされるのは、残酷な真実。 二人は——異母兄妹かもしれない。 それでも惹かれ合う、許されない恋。 桜の下で、運命が静かに狂い始める。
View More雨に溶ける涙雨が、冷たく頰を叩いていた。有楽町のネオンがぼやけて見える。マスカラはとっくに落ちて、視界がぐちゃぐちゃだ。
私は佐野椿(さの つばき)、39歳。今日、九條檀(くじょう だん)に振られた。「もう、会わない方がいい」彼の声が、まだ耳の奥に残っている。低くて静かで、まるで何かを我慢しているような響きだった。 理由は教えてくれなかった。ただ、レストランの柔らかな照明の下で、彼の指がワイングラスを強く握っていたことだけを覚えている。どうして? あんなに優しく微笑んでくれたのに。 あんなに、私の話をちゃんと聞いてくれたのに。胸が苦しくて、足が止まった。ビルの壁に寄りかかり、声を殺して泣いた。肩が震えて、息がうまく吸えない。 39歳にもなって、こんな風に泣くなんて情けない。でも、止められなかった。「大丈夫ですか?」突然、柔らかい声が降ってきた。私は慌てて顔を上げた。雨の向こうに、傘を差した女性が立っている。 白髪を優雅にまとめ、黒いコートを着た、上品な佇まい。60歳くらいに見える。 目元がとても優しくて、まるで知っている誰かのように私を見つめていた。「雨に打たれて泣いていると、体を壊してしまいますよ。私は桜鏡子(さくら きょうこ)と申します。近くに小さな店をやっています。……よければ、お茶でもいかがかしら?」その声は穏やかで、温かかった。 私は反射的に首を振ろうとした。でも、喉が詰まって言葉が出ない。 今夜だけは、誰かにそばにいてほしかった。どんなに短い時間でも。「……すみません。ご迷惑じゃありませんか」「迷惑だなんて思いません。ほら、傘に入って」鏡子さんは自然に私の肩に手を添え、傘を近づけてくれた。 その手の温もりが、冷えた体にじんわりと染みてきた。 私は黙って彼女の横を歩いた。傘の中で、雨の音だけが響いている。連れて行かれたのは、有楽町の裏通りにある小さなバー「鏡の桜」だった。 暖かい照明が優しくて、静かなジャズが流れている。カウンターに座ると、鏡子さんは温かいハーブティーを淹れてくれた。「失恋……ですか?」私はカップを両手で包み、ゆっくり頷いた。「はい。今日、振られました。理由も、よくわからないまま……」鏡子さんは私の顔をじっと見つめていた。 その視線が、少し長く感じた。まるで、私の目元や口元を探るように。 でも、すぐに優しい笑顔に戻った。「私は……佐野椿です」「椿……素敵な名前ね。桜と椿。なんだか不思議な縁を感じるわ」彼女の言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。 39歳の私が「素敵な名前」と言われるなんて、久しぶりだった。 鏡子さんの声には、どこか母のような安心感があった。店を閉めた後、鏡子さんは「今夜だけでもゆっくりしなさい」と、私を自分のマンションに連れて帰ってくれた。 客用の部屋を整えながら、彼女は静かに言った。「雨に打たれて泣いている女性を見過ごせないの。特に、あなたのような綺麗な瞳の人は」その言葉が、胸に染みた。 私はベッドに横になり、天井を見つめた。 九條檀の顔が浮かぶ。 彼の瞳の奥に、一瞬だけ見えた苦しげな影。 「もう、会わない方がいい」と言ったときの、微かな声の震え。どうしてあんな目をしたのだろう。 本当に、私を嫌いになったわけじゃない気がする。 でも、もう会えない。 そう思うと、また涙が溢れてきた。私は布団を頭まで被り、声を殺して泣いた。 拾ってくれた鏡子さんに、こんな姿は見せたくない。 それなのに、心のどこかで、今日出会ったこの女性の温かさが、ほんの少しだけ救いになっていた。雨はまだ降り続けている。 有楽町の夜に、たった一人で泣いていた私を、優しい人が拾ってくれた。 それが、今の私にできる、たった一つの幸運のように感じた。でも、私はまだ知らない。触れてはいけない人 雨は、夜になる頃には本降りになっていた。 店の窓を細かな雫が叩いている。 有楽町のネオンが、その向こうで滲んでいた。 「鏡の桜」は、今夜も静かだった。 私はカウンターの中でグラスを拭きながら、ぼんやりと雨音を聞いていた。 似ている。 その言葉が、まだ胸の奥に残っている。 鏡子さんは何かを知っている。 それだけは、もう分かっていた。 でも、何を。 どうして。 考えれば考えるほど、足元が曖昧になっていく。「椿さん」 鏡子さんが、棚の奥から顔を出した。「少し休憩してきなさい。顔色がよくないわ」「……そんなに分かりますか?」「ええ。あなた、自分で思ってるより顔に出るもの」 ふっと笑われる。 私は苦笑しながら、小さく頭を下げた。「少しだけ、外の空気吸ってきます」 コートを羽織り、店の外へ出る。 夜の空気は冷たかった。 雨の匂い。 濡れたアスファルト。 遠くを走る車の音。 私は店の軒下に立ち、ゆっくり息を吐いた。 そのときだった。「……こんなところで何してる」 低い声。 心臓が、強く跳ねる。 振り向く。 黒い傘。 黒いスーツ。 雨の夜によく似合う、静かな影。 九條檀だった。 どうして。 言葉が出ない。 檀は数歩こちらへ近づくと、私の顔を見て、わずかに眉を寄せた。「顔色が悪い」「……檀さんには関係ないです」 反射的にそう返してしまう。 本当は、会えただけで嬉しかった。 なのに、素直になれない。 檀は何も言わない。 ただ、静かにこちらを見ている。 その視線が苦しくて、私は目を逸らした。「どうして、ここに来るんですか」 ぽつりと零れる。「もう関わるなって言ったのは、檀さんでしょう」 雨音だけが響く。 しばらく沈黙したあと、彼は低く息を吐いた。「……だから来た」「え?」「お前が、この店にいるって聞いた」 胸がざわつく。 探していたの? その期待が浮かびかけて——次の言葉で凍りついた。「これ以上、近づくな」 低い声。 はっきりとした拒絶。 私は言葉を失う。「どうして……」 やっと出た声は、自分でも情けないほど弱かった。 檀は答えない。 代わりに、視線を少しだけ逸らす。 その横顔が、ひどく苦しそうに見えた。「理由くらい、教えてください」
雨の気配が、空気に混じっていた。 まだ降ってはいないのに、街は少しだけ重たい。 「鏡の桜」の開店準備を終えた頃、店内には静かな緊張が漂っていた。 私はカウンターに立ち、ボトルの位置を整えていた。 同じ動作を繰り返しているのに、なぜか落ち着かない。 ——似ている。 頭の中で、その言葉が離れない。 昨日の写真。 若い鏡子さんの横顔。 そして、常連客の視線。 偶然にしては、重なりすぎている。「椿さん」 鏡子さんの声に、肩が小さく揺れた。「はい」「今日は少し早く開けるわ。予約が入っているの」 穏やかな口調。 でも、その奥に何かが隠れている気がした。「予約……ですか?」「ええ。大事なお客さまよ」 それ以上は説明しない。 私は頷いて、グラスに手を伸ばす。 やがて、扉のベルが鳴った。 いつもより、少しだけ重い音。 振り向く。 入ってきたのは、三人の男だった。 黒いスーツ。 揃った歩幅。 言葉を交わさなくても分かる、同じ世界の人間。 その中の一人が、私を見て、わずかに足を止めた。 そして、すぐに視線を逸らす。 ——やっぱり。 胸の奥が、じわりと冷える。「こちらへ」 鏡子さんが、奥の席へと案内する。 その動きは、いつもより静かで、正確だった。 私はカウンターに残りながら、彼らの気配を感じていた。 会話はほとんど聞こえない。 でも、時折落ちる単語だけが、やけに耳に残る。「……若」「……報告」「……例の件」 意味は分からない。 でも—— 関わってはいけない場所の言葉だと、直感する。 グラスを持つ手に、力が入る。 そのとき、奥の席から視線を感じた。 顔を上げる。 一人の男が、こちらを見ていた。 じっと。 確かめるように。 その視線は、昨日の常連客と同じだった。 ——似ている、と言いたげな目。 私は思わず目を逸らす。 逃げるように、ボトルを並べ直した。 その間にも、胸の鼓動が速くなる。 どうして、こんなに見られるのだろう。 どうして、同じ反応をされるのだろう。 やがて、男たちは席を立った。 鏡子さんが、静かに見送る。 扉が閉まる。 その瞬間、店の空気が一気に軽くなった。 張り詰めていた何かが、ほどける。「……怖かった?」 背後から、鏡子さんの声。「少しだけ」 正
夕方の空は、淡く色を失いかけていた。 開店前の店内に、薄い影がゆっくりと広がっていく。 私はカウンターの中で、グラスを並べていた。 同じ形のガラスが、等間隔に並ぶ。その規則正しさが、少しだけ心を落ち着かせる。「椿さん、これお願い」 鏡子さんが、小さな箱を差し出した。「はい」 受け取ると、軽い。 中には何かの書類と、古い鍵がひとつ入っていた。「裏の棚の上に置いておいて。開けなくていいから」「……わかりました」 “開けなくていい”。 そう言われると、逆に気になる。 でも私は、何も言わずに頷いた。 奥の棚に向かう。 少しだけ高い位置にある木の扉。 背伸びをして、箱を置く。 そのとき、視界の端に何かが入った。 ——写真。 棚の奥、半分だけ見える場所に、古い写真が立てかけてあった。 視線が、自然と引き寄せられる。 そこに写っていたのは、若い女性だった。 艶のある髪。 整った横顔。 強くもやわらかい眼差し。 ——綺麗。 思わず、息を止める。 その女性は、笑っていなかった。 けれど、どこか満たされた表情をしている。 隣には、スーツ姿の男性。 顔は少し影になっていて、はっきりとは見えない。 でも、その立ち方だけで分かる。 ——ただの人じゃない。 写真の端に、小さく日付が書かれている。 ——三十年以上前。 そのとき。「椿さん」 背後から声がして、肩がびくりと跳ねた。 振り返ると、鏡子さんが立っていた。 いつもの微笑み。 でも、その目は——少しだけ鋭い。「……すみません。つい」 私は慌てて一歩下がる。 鏡子さんは、ゆっくりと棚の方に目を向けた。 そして、写真を静かに手に取る。「懐かしいわね」 それだけ言って、軽く指で縁をなぞった。 その仕草はやさしいのに、触れてはいけないものに触れているようにも見えた。「その人……鏡子さんですか?」 恐る恐る聞く。 彼女は少しだけ笑った。「そうよ。若い頃の私」 やっぱり。 納得と同時に、さっきの違和感が戻ってくる。「隣の方は……」 言いかけたところで、鏡子さんの指が止まった。 ほんの一瞬。 空気が、静かに張り詰める。「……昔のお客さまよ」 淡々とした声。 それ以上は語らない、という線が引かれる。 私は小さく頷いた。 でも——
午後の光は、夜とは違う顔で店内を満たしていた。 「鏡の桜」は、まだ静かだ。開店前の空気は、どこか柔らかくて、少しだけ眠気を誘う。 私はカウンターに立ち、グラスを磨いていた。 指先に触れるガラスの冷たさが、妙に心地いい。 ここに来て、三日目。 慣れた、とはまだ言えない。 けれど——落ち着く場所になりつつあるのは、確かだった。「その持ち方、いいわね」 背後から、鏡子さんの声がする。 振り向くと、彼女はカウンターの端に立ち、私の手元を見ていた。 その視線はやわらかいのに、どこか正確だ。「え……そうですか?」「ええ。指の力を抜いているでしょう。無理に握らない方が、長く続くの」 そう言って、彼女は私の手にそっと触れた。 あたたかい。 思わず、少しだけ力が抜ける。「……不思議ですね」「何が?」「こういう仕事、初めてなのに……怒られないんだなって」 言ってから、少し恥ずかしくなる。 鏡子さんは、小さく笑った。「怒る必要があるときは怒るわよ。でも、あなたはまだそこじゃないもの」 やさしい言葉だった。 でも、その奥に、きちんと線が引かれているのが分かる。 この人は——甘やかしているようで、見ている。 ちゃんと、見ている。 カウンターに、光が差し込む。 磨いたグラスが、透明な音を立てた。 そのとき、入口のベルが鳴る。 振り向くと、初老の男性がひとり、静かに入ってきた。「いらっしゃいませ」 自然に声が出る。 鏡子さんは一歩前に出て、軽く頭を下げた。「お久しぶりです」 その一言だけで、空気が少し変わった。 男性は頷き、カウンターに座る。 私の方を一瞬だけ見て——ほんのわずかに、目を細めた。 ……今の、何? 違和感が、指先に残る。「新しい子かい」 低い声で、男性が言う。「ええ。少し前から」 鏡子さんは、それ以上説明しない。 男性は、また私を見た。 今度は、もう少し長く。 まるで——何かを確かめるように。 私は、思わず視線を逸らした。「……似てるな」 ぽつりと落ちた言葉。「何に、ですか?」 反射的に聞き返す。 男性は少しだけ笑った。「いや、昔の話だ」 それだけ言って、グラスを指で軽く叩く。「いつものを」「かしこまりました」 鏡子さんが、静かに酒を注ぐ。 その横顔を、私は見ていた