花明かりー愛した人は兄だったーHana Akari — Blood & Blossom —

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last updateLast Updated : 2026-05-07
By:  天咲琴乃Updated just now
Language: Japanese
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有楽町の雨の夜。 39歳の佐野椿は、愛した男・九條檀に突然捨てられ、泣き崩れていた。 そんな彼女を拾ったのは、元銀座No.1ママ・桜鏡子。 「鏡の桜」で新しい居場所を与えられた椿は、彼女に不思議な懐かしさを感じる。 一方で檀は、手放したはずの椿を忘れられない。 やがて明かされるのは、残酷な真実。 二人は——異母兄妹かもしれない。 それでも惹かれ合う、許されない恋。 桜の下で、運命が静かに狂い始める。

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Chapter 1

第1話 出逢いの雨

雨に溶ける涙雨が、冷たく頰を叩いていた。有楽町のネオンがぼやけて見える。マスカラはとっくに落ちて、視界がぐちゃぐちゃだ。

私は佐野椿(さの つばき)、39歳。今日、九條檀(くじょう

だん)に振られた。「もう、会わない方がいい」彼の声が、まだ耳の奥に残っている。低くて静かで、まるで何かを我慢しているような響きだった。

理由は教えてくれなかった。ただ、レストランの柔らかな照明の下で、彼の指がワイングラスを強く握っていたことだけを覚えている。どうして?

あんなに優しく微笑んでくれたのに。

あんなに、私の話をちゃんと聞いてくれたのに。胸が苦しくて、足が止まった。ビルの壁に寄りかかり、声を殺して泣いた。肩が震えて、息がうまく吸えない。

39歳にもなって、こんな風に泣くなんて情けない。でも、止められなかった。「大丈夫ですか?」突然、柔らかい声が降ってきた。私は慌てて顔を上げた。雨の向こうに、傘を差した女性が立っている。

白髪を優雅にまとめ、黒いコートを着た、上品な佇まい。60歳くらいに見える。

目元がとても優しくて、まるで知っている誰かのように私を見つめていた。「雨に打たれて泣いていると、体を壊してしまいますよ。私は桜鏡子(さくら きょうこ)と申します。近くに小さな店をやっています。……よければ、お茶でもいかがかしら?」その声は穏やかで、温かかった。

私は反射的に首を振ろうとした。でも、喉が詰まって言葉が出ない。

今夜だけは、誰かにそばにいてほしかった。どんなに短い時間でも。「……すみません。ご迷惑じゃありませんか」「迷惑だなんて思いません。ほら、傘に入って」鏡子さんは自然に私の肩に手を添え、傘を近づけてくれた。

その手の温もりが、冷えた体にじんわりと染みてきた。

私は黙って彼女の横を歩いた。傘の中で、雨の音だけが響いている。連れて行かれたのは、有楽町の裏通りにある小さなバー「鏡の桜」だった。

暖かい照明が優しくて、静かなジャズが流れている。カウンターに座ると、鏡子さんは温かいハーブティーを淹れてくれた。「失恋……ですか?」私はカップを両手で包み、ゆっくり頷いた。「はい。今日、振られました。理由も、よくわからないまま……」鏡子さんは私の顔をじっと見つめていた。

その視線が、少し長く感じた。まるで、私の目元や口元を探るように。

でも、すぐに優しい笑顔に戻った。「私は……佐野椿です」「椿……素敵な名前ね。桜と椿。なんだか不思議な縁を感じるわ」彼女の言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。

39歳の私が「素敵な名前」と言われるなんて、久しぶりだった。

鏡子さんの声には、どこか母のような安心感があった。店を閉めた後、鏡子さんは「今夜だけでもゆっくりしなさい」と、私を自分のマンションに連れて帰ってくれた。

客用の部屋を整えながら、彼女は静かに言った。「雨に打たれて泣いている女性を見過ごせないの。特に、あなたのような綺麗な瞳の人は」その言葉が、胸に染みた。

私はベッドに横になり、天井を見つめた。

九條檀の顔が浮かぶ。

彼の瞳の奥に、一瞬だけ見えた苦しげな影。

「もう、会わない方がいい」と言ったときの、微かな声の震え。どうしてあんな目をしたのだろう。

本当に、私を嫌いになったわけじゃない気がする。

でも、もう会えない。

そう思うと、また涙が溢れてきた。私は布団を頭まで被り、声を殺して泣いた。

拾ってくれた鏡子さんに、こんな姿は見せたくない。

それなのに、心のどこかで、今日出会ったこの女性の温かさが、ほんの少しだけ救いになっていた。雨はまだ降り続けている。

有楽町の夜に、たった一人で泣いていた私を、優しい人が拾ってくれた。

それが、今の私にできる、たった一つの幸運のように感じた。でも、私はまだ知らない。

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第1話 出逢いの雨
雨に溶ける涙雨が、冷たく頰を叩いていた。有楽町のネオンがぼやけて見える。マスカラはとっくに落ちて、視界がぐちゃぐちゃだ。 私は佐野椿(さの つばき)、39歳。今日、九條檀(くじょうだん)に振られた。「もう、会わない方がいい」彼の声が、まだ耳の奥に残っている。低くて静かで、まるで何かを我慢しているような響きだった。 理由は教えてくれなかった。ただ、レストランの柔らかな照明の下で、彼の指がワイングラスを強く握っていたことだけを覚えている。どうして? あんなに優しく微笑んでくれたのに。 あんなに、私の話をちゃんと聞いてくれたのに。胸が苦しくて、足が止まった。ビルの壁に寄りかかり、声を殺して泣いた。肩が震えて、息がうまく吸えない。 39歳にもなって、こんな風に泣くなんて情けない。でも、止められなかった。「大丈夫ですか?」突然、柔らかい声が降ってきた。私は慌てて顔を上げた。雨の向こうに、傘を差した女性が立っている。 白髪を優雅にまとめ、黒いコートを着た、上品な佇まい。60歳くらいに見える。 目元がとても優しくて、まるで知っている誰かのように私を見つめていた。「雨に打たれて泣いていると、体を壊してしまいますよ。私は桜鏡子(さくら きょうこ)と申します。近くに小さな店をやっています。……よければ、お茶でもいかがかしら?」その声は穏やかで、温かかった。 私は反射的に首を振ろうとした。でも、喉が詰まって言葉が出ない。 今夜だけは、誰かにそばにいてほしかった。どんなに短い時間でも。「……すみません。ご迷惑じゃありませんか」「迷惑だなんて思いません。ほら、傘に入って」鏡子さんは自然に私の肩に手を添え、傘を近づけてくれた。 その手の温もりが、冷えた体にじんわりと染みてきた。 私は黙って彼女の横を歩いた。傘の中で、雨の音だけが響いている。連れて行かれたのは、有楽町の裏通りにある小さなバー「鏡の桜」だった。 暖かい照明が優しくて、静かなジャズが流れている。カウンターに座ると、鏡子さんは温かいハーブティーを淹れてくれた。「失恋……ですか?」私はカップを両手で包み、ゆっくり頷いた。「はい。今日、振られました。理由も、よくわからないまま……」鏡子さんは私の顔をじっと見つめていた。 その視線が、少し長く感じた。まるで、私の目元や口元を探るように
last updateLast Updated : 2026-04-05
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第2話 目覚めの朝
温かな朝と、優しい影朝の柔らかな光が、カーテンの隙間からそっと部屋に差し込んでいた。私はゆっくりと目を覚ました。昨夜の雨の冷たさが、まだ少し体に残っている。鏡子さんのマンションの客室は、静かで清潔で、どこか懐かしい香りがした。キッチンからコーヒーのいい匂いが漂ってくる。恐る恐る起き上がり、リビングへ向かうと、鏡子さんがエプロン姿で微笑んでいた。「おはよう、椿さん。よく眠れた?」「はい……お世話になりすぎて、本当に申し訳ありません」「そんなに堅苦しくしないで。どうぞ座って。一緒に朝ごはんを食べましょう」テーブルには、トーストとスクランブルエッグ、温かいコーヒーが並んでいた。私は素直に椅子に座り、鏡子さんは私の向かいに腰を下ろした。彼女はコーヒーカップを両手で包むように持ち、静かに私を見つめた。「椿さん、39歳よね?」「はい。鏡子さんは……?」「私はもう60よ。歳を取ると、こんな静かな朝が嬉しいの」鏡子さんは小さく笑った。その笑顔は穏やかで、胸の奥がじんわりと温かくなった。でも、同時に、なぜか少し切ない気持ちも湧いてくる。「昨夜は本当にありがとうございました。雨の中で泣いているところを、拾っていただいて……」「拾うだなんて大げさよ。ただ、放っておけなかっただけ。あなた、目元がとても優しくて……少し寂しそうだったから」鏡子さんの視線が、私の顔に留まった。少し長く、探るような感じがした。私はカップを置いて、軽く首を傾げた。「私の顔……どこかで見たことありますか?」彼女は一瞬、手を止めた。指先がほんの少し震えた気がした。でも、すぐに柔らかい笑顔に戻った。「ええ、ちょっとね。昔、銀座で働いていた頃に、似たような瞳の女性を知っていたわ。でも、あなたの方がずっと若くて、もっと優しい雰囲気がある」「銀座……鏡子さん、昔は銀座で働いていたんですか?」「そうよ。『鏡の桜』という店を任されていて、ナンバーワンと呼ばれていた時期もあったの。今は有楽町の小さなバーだけれど、あの頃の賑やかさは懐かしいわ」彼女の声は穏やかだったけれど、遠い過去を思い出すような響きがあった。私は自然と身を乗り出した。「すごいですね……私なんか、普通の会社員です。失恋して、雨の中で泣いているだけの情けない女で……」「情けないだなんて思わないで。誰もが一度は、誰かに傷つけられて泣くものよ。大切なの
last updateLast Updated : 2026-04-08
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第3話 交差する再会
再会は、偶然の顔をして 昼下がりの有楽町は、どこか現実味が薄い。 午前中の静かな時間とは違って、人の流れが一気に増えていた。 私は「鏡の桜」の開店準備を終え、買い出しを頼まれて外に出ていた。 紙袋を腕に抱えながら、ふと足を止める。 ——ここは、昨日泣いていた場所に近い。 雨はもう降っていない。 なのに、胸の奥だけが、まだ濡れたままだった。 九條檀。 名前を思い浮かべるだけで、息が少し浅くなる。 もう会わないはずの人。 それなのに、どうしてこんなに近くに感じるのだろう。 信号が赤に変わる。 人の波が止まり、静かな一瞬が生まれた。 そのときだった。 ——視線を感じた。 強く、まっすぐな、逃げ場のない視線。 ゆっくりと顔を上げる。 向かいの歩道に、ひとりの男が立っていた。 黒いスーツ。 整えられた髪。 見慣れているはずなのに、どこか遠く感じるその輪郭。 ……嘘。 心臓が、強く跳ねた。 九條檀だった。 彼もまた、こちらを見ていた。 その目は、昨日レストランで見たものと同じ——いや、少し違う。 静かで、深くて、何かを決めたような眼差し。 どうして。 声が出ない。 足も動かない。 ただ、見つめ返すことしかできなかった。 信号が青に変わる。 人の流れが、再び動き出す。 その波の中で、彼は一歩だけこちらに近づいた。 それだけで、距離が一気に縮まった気がした。 逃げなきゃ。 そう思ったのに、体が言うことを聞かない。 彼が、私の目の前で止まる。「……椿」 低い声。 名前を呼ばれただけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。「どうして……ここに」 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。 檀は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。 そして、ゆっくりと顔を上げる。「偶然だ」 短い一言。 でも、その声には、わずかな迷いが滲んでいた。 本当に偶然なの? そう聞きたかった。 でも、言葉が続かない。 沈黙が落ちる。 周りの雑踏だけが、やけに遠くに聞こえた。「……昨日のことは」 彼が口を開く。 その瞬間、胸が強く波打った。 でも。 次の言葉を待つ前に—— 誰かの声が割り込んできた。「若」 低く、鋭い声。 振り向くと、黒服の男が数人、少し離れた場所に立っていた。 こちら
last updateLast Updated : 2026-04-26
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第4話 話の手の温度
 午後の光は、夜とは違う顔で店内を満たしていた。 「鏡の桜」は、まだ静かだ。開店前の空気は、どこか柔らかくて、少しだけ眠気を誘う。 私はカウンターに立ち、グラスを磨いていた。 指先に触れるガラスの冷たさが、妙に心地いい。 ここに来て、三日目。 慣れた、とはまだ言えない。 けれど——落ち着く場所になりつつあるのは、確かだった。「その持ち方、いいわね」 背後から、鏡子さんの声がする。 振り向くと、彼女はカウンターの端に立ち、私の手元を見ていた。 その視線はやわらかいのに、どこか正確だ。「え……そうですか?」「ええ。指の力を抜いているでしょう。無理に握らない方が、長く続くの」 そう言って、彼女は私の手にそっと触れた。 あたたかい。 思わず、少しだけ力が抜ける。「……不思議ですね」「何が?」「こういう仕事、初めてなのに……怒られないんだなって」 言ってから、少し恥ずかしくなる。 鏡子さんは、小さく笑った。「怒る必要があるときは怒るわよ。でも、あなたはまだそこじゃないもの」 やさしい言葉だった。 でも、その奥に、きちんと線が引かれているのが分かる。 この人は——甘やかしているようで、見ている。 ちゃんと、見ている。 カウンターに、光が差し込む。 磨いたグラスが、透明な音を立てた。 そのとき、入口のベルが鳴る。 振り向くと、初老の男性がひとり、静かに入ってきた。「いらっしゃいませ」 自然に声が出る。 鏡子さんは一歩前に出て、軽く頭を下げた。「お久しぶりです」 その一言だけで、空気が少し変わった。 男性は頷き、カウンターに座る。 私の方を一瞬だけ見て——ほんのわずかに、目を細めた。 ……今の、何? 違和感が、指先に残る。「新しい子かい」 低い声で、男性が言う。「ええ。少し前から」 鏡子さんは、それ以上説明しない。 男性は、また私を見た。 今度は、もう少し長く。 まるで——何かを確かめるように。 私は、思わず視線を逸らした。「……似てるな」 ぽつりと落ちた言葉。「何に、ですか?」 反射的に聞き返す。 男性は少しだけ笑った。「いや、昔の話だ」 それだけ言って、グラスを指で軽く叩く。「いつものを」「かしこまりました」 鏡子さんが、静かに酒を注ぐ。 その横顔を、私は見ていた
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第5話 似た面影
 夕方の空は、淡く色を失いかけていた。 開店前の店内に、薄い影がゆっくりと広がっていく。 私はカウンターの中で、グラスを並べていた。 同じ形のガラスが、等間隔に並ぶ。その規則正しさが、少しだけ心を落ち着かせる。「椿さん、これお願い」 鏡子さんが、小さな箱を差し出した。「はい」 受け取ると、軽い。 中には何かの書類と、古い鍵がひとつ入っていた。「裏の棚の上に置いておいて。開けなくていいから」「……わかりました」 “開けなくていい”。 そう言われると、逆に気になる。 でも私は、何も言わずに頷いた。 奥の棚に向かう。 少しだけ高い位置にある木の扉。 背伸びをして、箱を置く。 そのとき、視界の端に何かが入った。 ——写真。 棚の奥、半分だけ見える場所に、古い写真が立てかけてあった。 視線が、自然と引き寄せられる。 そこに写っていたのは、若い女性だった。 艶のある髪。 整った横顔。 強くもやわらかい眼差し。 ——綺麗。 思わず、息を止める。 その女性は、笑っていなかった。 けれど、どこか満たされた表情をしている。 隣には、スーツ姿の男性。 顔は少し影になっていて、はっきりとは見えない。 でも、その立ち方だけで分かる。 ——ただの人じゃない。 写真の端に、小さく日付が書かれている。 ——三十年以上前。 そのとき。「椿さん」 背後から声がして、肩がびくりと跳ねた。 振り返ると、鏡子さんが立っていた。 いつもの微笑み。 でも、その目は——少しだけ鋭い。「……すみません。つい」 私は慌てて一歩下がる。 鏡子さんは、ゆっくりと棚の方に目を向けた。 そして、写真を静かに手に取る。「懐かしいわね」 それだけ言って、軽く指で縁をなぞった。 その仕草はやさしいのに、触れてはいけないものに触れているようにも見えた。「その人……鏡子さんですか?」 恐る恐る聞く。 彼女は少しだけ笑った。「そうよ。若い頃の私」 やっぱり。 納得と同時に、さっきの違和感が戻ってくる。「隣の方は……」 言いかけたところで、鏡子さんの指が止まった。 ほんの一瞬。 空気が、静かに張り詰める。「……昔のお客さまよ」 淡々とした声。 それ以上は語らない、という線が引かれる。 私は小さく頷いた。 でも——
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第6話 解けない輪郭
雨の気配が、空気に混じっていた。 まだ降ってはいないのに、街は少しだけ重たい。 「鏡の桜」の開店準備を終えた頃、店内には静かな緊張が漂っていた。 私はカウンターに立ち、ボトルの位置を整えていた。 同じ動作を繰り返しているのに、なぜか落ち着かない。 ——似ている。 頭の中で、その言葉が離れない。 昨日の写真。 若い鏡子さんの横顔。 そして、常連客の視線。 偶然にしては、重なりすぎている。「椿さん」 鏡子さんの声に、肩が小さく揺れた。「はい」「今日は少し早く開けるわ。予約が入っているの」 穏やかな口調。 でも、その奥に何かが隠れている気がした。「予約……ですか?」「ええ。大事なお客さまよ」 それ以上は説明しない。 私は頷いて、グラスに手を伸ばす。 やがて、扉のベルが鳴った。 いつもより、少しだけ重い音。 振り向く。 入ってきたのは、三人の男だった。 黒いスーツ。 揃った歩幅。 言葉を交わさなくても分かる、同じ世界の人間。 その中の一人が、私を見て、わずかに足を止めた。 そして、すぐに視線を逸らす。 ——やっぱり。 胸の奥が、じわりと冷える。「こちらへ」 鏡子さんが、奥の席へと案内する。 その動きは、いつもより静かで、正確だった。 私はカウンターに残りながら、彼らの気配を感じていた。 会話はほとんど聞こえない。 でも、時折落ちる単語だけが、やけに耳に残る。「……若」「……報告」「……例の件」 意味は分からない。 でも—— 関わってはいけない場所の言葉だと、直感する。 グラスを持つ手に、力が入る。 そのとき、奥の席から視線を感じた。 顔を上げる。 一人の男が、こちらを見ていた。 じっと。 確かめるように。 その視線は、昨日の常連客と同じだった。 ——似ている、と言いたげな目。 私は思わず目を逸らす。 逃げるように、ボトルを並べ直した。 その間にも、胸の鼓動が速くなる。 どうして、こんなに見られるのだろう。 どうして、同じ反応をされるのだろう。 やがて、男たちは席を立った。 鏡子さんが、静かに見送る。 扉が閉まる。 その瞬間、店の空気が一気に軽くなった。 張り詰めていた何かが、ほどける。「……怖かった?」 背後から、鏡子さんの声。「少しだけ」 正
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第7話 触れない
触れてはいけない人 雨は、夜になる頃には本降りになっていた。 店の窓を細かな雫が叩いている。 有楽町のネオンが、その向こうで滲んでいた。 「鏡の桜」は、今夜も静かだった。 私はカウンターの中でグラスを拭きながら、ぼんやりと雨音を聞いていた。 似ている。 その言葉が、まだ胸の奥に残っている。 鏡子さんは何かを知っている。 それだけは、もう分かっていた。 でも、何を。 どうして。 考えれば考えるほど、足元が曖昧になっていく。「椿さん」 鏡子さんが、棚の奥から顔を出した。「少し休憩してきなさい。顔色がよくないわ」「……そんなに分かりますか?」「ええ。あなた、自分で思ってるより顔に出るもの」 ふっと笑われる。 私は苦笑しながら、小さく頭を下げた。「少しだけ、外の空気吸ってきます」 コートを羽織り、店の外へ出る。 夜の空気は冷たかった。 雨の匂い。 濡れたアスファルト。 遠くを走る車の音。 私は店の軒下に立ち、ゆっくり息を吐いた。 そのときだった。「……こんなところで何してる」 低い声。 心臓が、強く跳ねる。 振り向く。 黒い傘。 黒いスーツ。 雨の夜によく似合う、静かな影。 九條檀だった。 どうして。 言葉が出ない。 檀は数歩こちらへ近づくと、私の顔を見て、わずかに眉を寄せた。「顔色が悪い」「……檀さんには関係ないです」 反射的にそう返してしまう。 本当は、会えただけで嬉しかった。 なのに、素直になれない。 檀は何も言わない。 ただ、静かにこちらを見ている。 その視線が苦しくて、私は目を逸らした。「どうして、ここに来るんですか」 ぽつりと零れる。「もう関わるなって言ったのは、檀さんでしょう」 雨音だけが響く。 しばらく沈黙したあと、彼は低く息を吐いた。「……だから来た」「え?」「お前が、この店にいるって聞いた」 胸がざわつく。 探していたの? その期待が浮かびかけて——次の言葉で凍りついた。「これ以上、近づくな」 低い声。 はっきりとした拒絶。 私は言葉を失う。「どうして……」 やっと出た声は、自分でも情けないほど弱かった。 檀は答えない。 代わりに、視線を少しだけ逸らす。 その横顔が、ひどく苦しそうに見えた。「理由くらい、教えてください」
last updateLast Updated : 2026-05-07
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