LOGINその日から、私は残業をしないよう、仕事を定時きっかりに切り上げるようにした。
アイツとも、偶然でも会わないように時間をずらす。何か察したのだろう。二週間が過ぎた頃だった。会議が終わり、会議室の片付けをしていると、突然ドアが閉まり、鍵の掛かる音がした。ハッとして振り向くと、アイツが立っていた。「何で避けるの? 俺、何かした?」そう聞かれて、私は震える手を悟られないよう、手にしていたトレイをテーブルに置いた。(ダメだ……。まだ、こんなにもアイツが好きだ……)胸を締め付ける痛みに、ゆっくりと深呼吸をする。「ねぇ! 黙っていたら分からないじゃないか!」アイツの手が、私の手首を掴み上げた。見上げたアイツの、切なそうな顔。一度は自分の気持ちにケリをつけたはずなのに……脆くも崩れ落ちそうになる。「もう……止めよう」ぽつりと呟いた私「あれ?彩花?」 アイツと別れてから、五年の月日が流れた。 会社を辞めてから抜け殻のようになった私を心配して、主人が猫を二匹もらってきた。 「俺達には子供はいないから、代わりにでもなれば……」 そう言って渡された小さな命。 その子達のおかげで、私は少しずつ日常を取り戻していった。 近所のスーパーでパートをしている私に、ある日、懐かしい人物が声をかけてきた。 「小田切!どうしたの?」 品出しの手を止めて振り向くと、小田切はベビー用品を手にしていた。 「え!小田切、もしかして!」 私が笑うと、 「違う違う!これは三島のお祝いだよ!」 と叫ばれた。 『三島』という名前に、心臓がドキリと跳ねる。 「お前が辞めたあと、あいつかなり荒れてたんだよ。それで今は、ウチの営業所にいる」 そう言われ、胸の奥がざわついた。 「まあ、何度か離婚の危機もあったみたいだけどな。奥さんが必死に立て直して、やっと今年パパになったんだ」 小田切はそう言って笑った。 「そっか……」 小さく呟く。 「なあ……お前が会社辞めたのって……」 小田切が言いかけた言葉を、私は遮った。 「ほら!お祝い包んでもらうんでしょう?」 背中を押して、話題を逸らす。 小田切は少し黙ってから言った。 「なあ彩花。お前はこれで良かったのか?」 私は笑顔を返した。 「ねえ、小田切。私にも可愛い子供がいるの」
「じゃあね」 私は玄関で先に靴を履き、アイツに別れを告げた。 アイツとは、この部屋で別れようと決めていた。 私が先に部屋を出て、そのあとでアイツが出る。 それが、私の最後のケジメだった。 ずっと黙っていたアイツが、握手を求めて差し出した私の手首を掴み、強く抱き寄せた。 「このまま……二人でどこかへ逃げましょう」 そう言われて、私は首を横に振る。 「もう、これで本当に最後だよ」 真っ直ぐに見つめて言うと、アイツの瞳から涙が溢れて落ちていく。 頬を伝う涙を拭ってあげたくなった。 でも私は拳を握り締め、必死に笑顔を作った。 「じゃあね。バイバイ」 背中を向けた瞬間、アイツが後ろから強く抱き締める。 「そんな顔されたら……手放せない」 その言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。 それでも私は、アイツの腕をそっと解いた。 「健人……愛してる」 震える声で、言葉を続ける。 「でも──愛してるから……さよなら」 そう言って、私はドアを飛び出した。 閉まりかけたドアの向こうで、アイツが崩れ落ちる姿が見えた。 本当は── 引き返したかった。 震える身体を、強く抱き締めたかった。 でも、私達にはそれぞれ待っている人がいる。 それは、変えられない事実だった。 涙を拭い、私は足早に駅へ向かう。 電車の乗り継ぎでアイツと鉢合わせしないよう、わざと遠回りをして帰った。 帰り道
久しぶりに重ねた肌は熱くて、このまま互いの熱で燃え尽き、灰になれたらいいのに……と思った。アイツの、私を求める熱が嬉しかった。もう、二度と誰かをこんなふうに愛せないだろう。抱かれる幸せも、女に生まれた喜びも……全部、アイツが教えてくれた。何度も肌を重ね、私は初めて、私を抱き締めて眠るアイツの寝顔を見た。長くて綺麗な睫毛に触れると、ぴくりと瞼が動く。触れ合うアイツの肌はどこも瑞々しくて、自分の老いた肌とは明らかに違っていた。こんな私を、どうしてこんなにも求めてくれるのか――分からなかった。もう少しだけ遅く生まれていたら。もう少しだけ早く出会えていたら。どうにもならない想いばかりが浮かんで、胸が痛くなる。タラレバを思ったところで、現実は何も変わらない。だったら、残された時間を大切に過ごそうと決めた。朝起きて近くの漁港へご飯を食べに行き、朝市で食材を買う。昼は二人でキッチンに並び、料理をした。すべてを忘れて、普通の恋人のような時間を過ごした。買い物をすると、すぐ荷物を持ってくれるところ。別々の物を買うと、人の買った物が気になって食べたがるところ。手を繋いで歩きたがるところ。初めて知るアイツの姿が愛しくて、私はその全部を胸に刻み続けた。「彩花」そう呼ぶ声が好きだと思った。差し出す大きな手も。風に揺れる漆黒の髪も。笑うと細くなる目も。全部、全部――大好きだった。そう思う時間が積み重なるほど、別れの時は近付いてくる。夜の帳が下り、夕飯を終えた私達は、ダブルベッドに腰掛けて窓の外を眺めていた。海辺に近いこのマンションからは、毎週土曜日に打ち上がる花火がよく見える。「綺麗……」ぽつりと呟く私を見つめて、アイツは「うん……」
独身の頃から勤めていた職場の最終日は、あっけないほど静かに終わった。送別会の類はすべて断った私は、アイツとの待ち合わせ場所へ急いだ。元々その日は、奥さんが学生時代の友人のハワイ挙式に出席するため、前日から留守にしているらしい。アイツは前から、私と旅行に行こうとリゾートマンションの宿泊を手配していたのだという。「さよなら旅行になっちゃいましたね」そう言って、彼は悲しそうに笑った。電車を乗り継ぎ、ようやく宿泊先のリゾートマンションに到着する。マンションなので受付もフロントもなく、アイツは持っていた鍵で部屋のドアを開けた。そして振り返り、「彩花はちょっと待ってて」と言うと、先に中へ入っていく。「五分経ったら入って!」そう言い残して、ドアを閉めた。キッチンの灯りが漏れ、バタバタと走り回る影が見える。(何してるんだか……)苦笑いしているうちに五分が過ぎ、私は玄関のドアを開けた。すると――「彩花、おかえり」アイツが笑顔で迎えてくれた。「お風呂にする? ご飯にする?それとも俺にする?」努めて明るく、ふざけた調子で言うアイツ。その気持ちが胸に刺さり、涙がこみ上げる。「健人……」そう呟いた瞬間、涙が溢れた。「え? 何? どうした? 彩花?」突然泣き出した私に、アイツは慌てている。私は靴も脱ぎきらないまま、彼に抱きついた。「健人がいい!」思わず叫んでしまう。するとアイツは、くしゃくしゃの笑顔を浮かべて言った。「ネタだったのに……」そう呟きながら、私を抱きしめた。唇が重なり、ゆっくりと抱き合う。「今から明後日の昼まで、俺達は夫婦だよ」そう言って、彼の額が私の額にそっと触れる。
その日、私は部長に退職届を提出した。アイツと別れるには、離れるしかないと分かっていたからだ。あの日以来、アイツの奥さんが泣いている姿は見ていない。「きちんとするから……バレないようにするから……」縋るように言われ、結局、有耶無耶にされてしまった。それでも私は、アイツとの逢瀬だけは避け続けた。会社で会えば挨拶を交わす。まるで出会った頃に戻ったような関係。違うのは──書類を渡す時、指先が触れるだけで泣きたくなってしまう、この厄介な気持ちだった。そんなある日。緊急事態で残業していると、「鮫島サン、ラストですよ。サーバー切りたいんですけど」懐かしい言葉に、涙が込み上げてくる。必死に堪えて、「あ!今終わらせる。遅くまでお疲れ様」そう言って微笑むと、アイツは私の腕を掴み、スマホでどこかへ連絡を入れ始めた。「あ、俺。うん。今朝話した通り、夕飯外で食べて帰るから」そう言われ、慌てて見上げると、「じゃあ、帰りましょうか」そう言って歩き出した。駅に着いても、乗り換えても、アイツは手を離さない。「ホテルに行かなくて良いですから。飯くらいは付き合って下さいよ」そう言われ、私は小さく頷いた。「会社……なんで辞めるの?」ぽつりと呟かれ、ハッとして顔を上げる。泣きそうなアイツの顔に、胸が痛くなる。「俺のせい?俺が好きになったから?しつこく追い回すから?」歩きながら言われ、私は首を横に振り続けた。「私が……健人を好きになったから……」涙を堪えながら、必死に笑顔を作る。「だったら!」「私じゃ……私じゃ、あなたの遺伝子を残せない……」一粒の涙が、頬を伝って落ちた。「そんなの要らない!」強
その日から、私は残業をしないよう、仕事を定時きっかりに切り上げるようにした。アイツとも、偶然でも会わないように時間をずらす。何か察したのだろう。二週間が過ぎた頃だった。会議が終わり、会議室の片付けをしていると、突然ドアが閉まり、鍵の掛かる音がした。ハッとして振り向くと、アイツが立っていた。「何で避けるの? 俺、何かした?」そう聞かれて、私は震える手を悟られないよう、手にしていたトレイをテーブルに置いた。(ダメだ……。まだ、こんなにもアイツが好きだ……)胸を締め付ける痛みに、ゆっくりと深呼吸をする。「ねぇ! 黙っていたら分からないじゃないか!」アイツの手が、私の手首を掴み上げた。見上げたアイツの、切なそうな顔。一度は自分の気持ちにケリをつけたはずなのに……脆くも崩れ落ちそうになる。「もう……止めよう」ぽつりと呟いた私に、アイツは目を見開いた。「何で?」肩を掴まれて問われる。「お互い、家で待つ人が居るじゃない……」絞り出すように言うと、「離婚すれば良いの?」そう返され、私は首を横に振った。恋人関係とは違う。結婚したら、簡単に離婚なんて出来ない。お互いに、それは分かっている。分かっているからこそ、今の関係を選んだのに……。「奥さん、泣いてたよ」ぽつりと呟くと、「彩花は俺と別れて平気なの?」そう言われ、泣きそうになる。「そんな事、聞かないで……」涙が溢れ出した私を、アイツはゆっくりと抱き締めた。身体に馴染んだ体温。覚えてしまった体臭《におい》。それが、私の身体を熱くさせる。どれほどアイツを求めているのか。どれほど深く愛してしまったのか。







