LOGIN男性社員に可愛がられているらしく、ここぞとばかりに主張されて、私はうんざりしていた。
今日も残業確定だな……と思っていたら、 「あの……すみません」 と、彼がひょっこり顔を出した。 「情シスですけど、勝手にチャットシステム入れて、勤務中にやり取りしている方がいるみたいで。困るんですけど」 その瞬間、友利さんがヤバいという顔をした。 「あ、今アンインストールしても無駄なんで。友利さん、勤務中に他部署の人とチャットツールで遊んでるってクレーム来てるんですよね」 飄々と話す彼に、部長が困惑した顔をした。 「あの……注意するのもいいですけど、きちんと双方の意見を聞くべきじゃないですか? あと、最近のジョブカード。全部、鮫島サンが作ってますよ。残業されてるんで、俺、帰り遅くなるんで困るんですよ」 そう言い残して、彼は去っていった。 その後、情シスから友利さんのチャットシステムの件が明るみになり、彼女は厳重注意を受けた。 しかし、私も手を貸していたことになるので、ダメ書類は本人にやり直しさせるようにと言われた。 でもさ……。 散々お願いして無視されて、鮫島がいじめているみたいな話になったから、自分でやり始めたのに。 その件は無視されてしまうらしい。 仕方ないのかな……。 私はため息を吐きながら、会社近くの公園のベンチに座っていた。 本社の今の部署に所属してから、社内に居場所がなくて、天気の良い日は一人で公園で食事をしていた。 遅い昼休みを取っていると、 「やっぱりここですか……」 呆れた顔をした彼が立っていた。 私はちょうど口に入れたおにぎりを詰まらせ、慌てて飲み物を口にする。 「どうして社内で食べないんですか? 冬になったら寒くないですか?」 相変わらず感情の掴めない無表情な彼に、 「まぁ……その時は近くに食べに行くよ。それより何?」 と訊くと、 「いや、別に……」 とだけ答えて、彼は踵を返し、ビルへ戻りかけた。 「あ!」 私が慌てて声を掛けると、彼は「なにか?」と言いたげな顔で振り向いた。 「さっきはありがとう。その……助かりました」 そう伝えると、彼は眉を少しだけ動かして、 「別に、鮫島サンの為じゃないんで」 と呟いた。 (あれ? 私の名前、知ってるんだ) 驚いて彼の顔を見上げると、 「三島」 と彼が言った。 「え?」 「俺の名前。ちゃんと覚えて」 そう言って、私に顔を近付けてきた。 (近い、近い!) 慌てて身体を後ろに反らすと、彼は小さく笑った。 「何、意識してるんですか? 真っ赤になって……。鮫島サンって、案外可愛いんですね」 (ムカつく! 年下のくせに生意気な!) 私がムッとしていると、彼は私の顔を見て吹き出した。 「鮫島サンって、本当に思ったことが顔に出ますよね」 そう言って笑う彼の笑顔が、私の胸をドキリと高鳴らせた。 その時、ファイルを持つ彼の左薬指に、銀色に輝く指輪があるのに気が付いた。 (……まぁ、綺麗な子だから、結婚してて当たり前か) ふとガッカリした気持ちになった自分に驚いてしまい、私は大きく首を横に振った。 そんな私を見て、彼は笑ったまま隣に座った。 「鮫島さん、いくつですか?」 突然そう聞かれて、思わず言葉に詰まる。 「こうして話していると、年上って感じしないですよね」 そう言って、彼は私の顔をじっと見つめた。 もっと若かったら、この視線にも平気でいられたのかもしれない。 十歳以上は年上であろう自分が急に恥ずかしくなり、思わず俯いた。 「ババアをからかうと、痛い目に遭うからね!」 自虐気味にそう言って、無理やり笑顔を作る。 すると彼は私の肩を掴み、 「自分で自分をババアって言うの、良くないですよ」 と真顔で言った。 真剣な彼の視線に、心臓がバクバクと激しく鳴り出す。 私は慌てて彼の手を振り払った。 「若い子がオバサンをからかうもんじゃないわよ! ほら、さっさと戻りなさい」 そう言って、彼の背中をわざと強く叩く。 彼は大袈裟に 「痛てぇ!」 と叫ぶと、小さく笑った。 「凹んだ顔より、あんたはそうしてるくらいがちょうど良いよ」 そう言うと、私の頭をぽんぽんと軽く叩いて去っていった。 年甲斐もなく、かなり年下であろう彼にドキドキさせられてしまった。 ……悔しい。 ガキのくせに、とか。 年下のくせに、とか。 私は必死に頭の中で、彼に心を奪われないための予防線を張り巡らせる。 怖かった。 今までの自分が、塗り替えられてしまいそうで。 「年下のくせに、生意気なんだよ……」 泣き出しそうな自分をごまかすように、私は遠ざかる彼の背中に向かって、ぽつりと呟いた。「あれ?彩花?」 アイツと別れてから、五年の月日が流れた。 会社を辞めてから抜け殻のようになった私を心配して、主人が猫を二匹もらってきた。 「俺達には子供はいないから、代わりにでもなれば……」 そう言って渡された小さな命。 その子達のおかげで、私は少しずつ日常を取り戻していった。 近所のスーパーでパートをしている私に、ある日、懐かしい人物が声をかけてきた。 「小田切!どうしたの?」 品出しの手を止めて振り向くと、小田切はベビー用品を手にしていた。 「え!小田切、もしかして!」 私が笑うと、 「違う違う!これは三島のお祝いだよ!」 と叫ばれた。 『三島』という名前に、心臓がドキリと跳ねる。 「お前が辞めたあと、あいつかなり荒れてたんだよ。それで今は、ウチの営業所にいる」 そう言われ、胸の奥がざわついた。 「まあ、何度か離婚の危機もあったみたいだけどな。奥さんが必死に立て直して、やっと今年パパになったんだ」 小田切はそう言って笑った。 「そっか……」 小さく呟く。 「なあ……お前が会社辞めたのって……」 小田切が言いかけた言葉を、私は遮った。 「ほら!お祝い包んでもらうんでしょう?」 背中を押して、話題を逸らす。 小田切は少し黙ってから言った。 「なあ彩花。お前はこれで良かったのか?」 私は笑顔を返した。 「ねえ、小田切。私にも可愛い子供がいるの」
「じゃあね」 私は玄関で先に靴を履き、アイツに別れを告げた。 アイツとは、この部屋で別れようと決めていた。 私が先に部屋を出て、そのあとでアイツが出る。 それが、私の最後のケジメだった。 ずっと黙っていたアイツが、握手を求めて差し出した私の手首を掴み、強く抱き寄せた。 「このまま……二人でどこかへ逃げましょう」 そう言われて、私は首を横に振る。 「もう、これで本当に最後だよ」 真っ直ぐに見つめて言うと、アイツの瞳から涙が溢れて落ちていく。 頬を伝う涙を拭ってあげたくなった。 でも私は拳を握り締め、必死に笑顔を作った。 「じゃあね。バイバイ」 背中を向けた瞬間、アイツが後ろから強く抱き締める。 「そんな顔されたら……手放せない」 その言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。 それでも私は、アイツの腕をそっと解いた。 「健人……愛してる」 震える声で、言葉を続ける。 「でも──愛してるから……さよなら」 そう言って、私はドアを飛び出した。 閉まりかけたドアの向こうで、アイツが崩れ落ちる姿が見えた。 本当は── 引き返したかった。 震える身体を、強く抱き締めたかった。 でも、私達にはそれぞれ待っている人がいる。 それは、変えられない事実だった。 涙を拭い、私は足早に駅へ向かう。 電車の乗り継ぎでアイツと鉢合わせしないよう、わざと遠回りをして帰った。 帰り道
久しぶりに重ねた肌は熱くて、このまま互いの熱で燃え尽き、灰になれたらいいのに……と思った。アイツの、私を求める熱が嬉しかった。もう、二度と誰かをこんなふうに愛せないだろう。抱かれる幸せも、女に生まれた喜びも……全部、アイツが教えてくれた。何度も肌を重ね、私は初めて、私を抱き締めて眠るアイツの寝顔を見た。長くて綺麗な睫毛に触れると、ぴくりと瞼が動く。触れ合うアイツの肌はどこも瑞々しくて、自分の老いた肌とは明らかに違っていた。こんな私を、どうしてこんなにも求めてくれるのか――分からなかった。もう少しだけ遅く生まれていたら。もう少しだけ早く出会えていたら。どうにもならない想いばかりが浮かんで、胸が痛くなる。タラレバを思ったところで、現実は何も変わらない。だったら、残された時間を大切に過ごそうと決めた。朝起きて近くの漁港へご飯を食べに行き、朝市で食材を買う。昼は二人でキッチンに並び、料理をした。すべてを忘れて、普通の恋人のような時間を過ごした。買い物をすると、すぐ荷物を持ってくれるところ。別々の物を買うと、人の買った物が気になって食べたがるところ。手を繋いで歩きたがるところ。初めて知るアイツの姿が愛しくて、私はその全部を胸に刻み続けた。「彩花」そう呼ぶ声が好きだと思った。差し出す大きな手も。風に揺れる漆黒の髪も。笑うと細くなる目も。全部、全部――大好きだった。そう思う時間が積み重なるほど、別れの時は近付いてくる。夜の帳が下り、夕飯を終えた私達は、ダブルベッドに腰掛けて窓の外を眺めていた。海辺に近いこのマンションからは、毎週土曜日に打ち上がる花火がよく見える。「綺麗……」ぽつりと呟く私を見つめて、アイツは「うん……」
独身の頃から勤めていた職場の最終日は、あっけないほど静かに終わった。送別会の類はすべて断った私は、アイツとの待ち合わせ場所へ急いだ。元々その日は、奥さんが学生時代の友人のハワイ挙式に出席するため、前日から留守にしているらしい。アイツは前から、私と旅行に行こうとリゾートマンションの宿泊を手配していたのだという。「さよなら旅行になっちゃいましたね」そう言って、彼は悲しそうに笑った。電車を乗り継ぎ、ようやく宿泊先のリゾートマンションに到着する。マンションなので受付もフロントもなく、アイツは持っていた鍵で部屋のドアを開けた。そして振り返り、「彩花はちょっと待ってて」と言うと、先に中へ入っていく。「五分経ったら入って!」そう言い残して、ドアを閉めた。キッチンの灯りが漏れ、バタバタと走り回る影が見える。(何してるんだか……)苦笑いしているうちに五分が過ぎ、私は玄関のドアを開けた。すると――「彩花、おかえり」アイツが笑顔で迎えてくれた。「お風呂にする? ご飯にする?それとも俺にする?」努めて明るく、ふざけた調子で言うアイツ。その気持ちが胸に刺さり、涙がこみ上げる。「健人……」そう呟いた瞬間、涙が溢れた。「え? 何? どうした? 彩花?」突然泣き出した私に、アイツは慌てている。私は靴も脱ぎきらないまま、彼に抱きついた。「健人がいい!」思わず叫んでしまう。するとアイツは、くしゃくしゃの笑顔を浮かべて言った。「ネタだったのに……」そう呟きながら、私を抱きしめた。唇が重なり、ゆっくりと抱き合う。「今から明後日の昼まで、俺達は夫婦だよ」そう言って、彼の額が私の額にそっと触れる。
その日、私は部長に退職届を提出した。アイツと別れるには、離れるしかないと分かっていたからだ。あの日以来、アイツの奥さんが泣いている姿は見ていない。「きちんとするから……バレないようにするから……」縋るように言われ、結局、有耶無耶にされてしまった。それでも私は、アイツとの逢瀬だけは避け続けた。会社で会えば挨拶を交わす。まるで出会った頃に戻ったような関係。違うのは──書類を渡す時、指先が触れるだけで泣きたくなってしまう、この厄介な気持ちだった。そんなある日。緊急事態で残業していると、「鮫島サン、ラストですよ。サーバー切りたいんですけど」懐かしい言葉に、涙が込み上げてくる。必死に堪えて、「あ!今終わらせる。遅くまでお疲れ様」そう言って微笑むと、アイツは私の腕を掴み、スマホでどこかへ連絡を入れ始めた。「あ、俺。うん。今朝話した通り、夕飯外で食べて帰るから」そう言われ、慌てて見上げると、「じゃあ、帰りましょうか」そう言って歩き出した。駅に着いても、乗り換えても、アイツは手を離さない。「ホテルに行かなくて良いですから。飯くらいは付き合って下さいよ」そう言われ、私は小さく頷いた。「会社……なんで辞めるの?」ぽつりと呟かれ、ハッとして顔を上げる。泣きそうなアイツの顔に、胸が痛くなる。「俺のせい?俺が好きになったから?しつこく追い回すから?」歩きながら言われ、私は首を横に振り続けた。「私が……健人を好きになったから……」涙を堪えながら、必死に笑顔を作る。「だったら!」「私じゃ……私じゃ、あなたの遺伝子を残せない……」一粒の涙が、頬を伝って落ちた。「そんなの要らない!」強
その日から、私は残業をしないよう、仕事を定時きっかりに切り上げるようにした。アイツとも、偶然でも会わないように時間をずらす。何か察したのだろう。二週間が過ぎた頃だった。会議が終わり、会議室の片付けをしていると、突然ドアが閉まり、鍵の掛かる音がした。ハッとして振り向くと、アイツが立っていた。「何で避けるの? 俺、何かした?」そう聞かれて、私は震える手を悟られないよう、手にしていたトレイをテーブルに置いた。(ダメだ……。まだ、こんなにもアイツが好きだ……)胸を締め付ける痛みに、ゆっくりと深呼吸をする。「ねぇ! 黙っていたら分からないじゃないか!」アイツの手が、私の手首を掴み上げた。見上げたアイツの、切なそうな顔。一度は自分の気持ちにケリをつけたはずなのに……脆くも崩れ落ちそうになる。「もう……止めよう」ぽつりと呟いた私に、アイツは目を見開いた。「何で?」肩を掴まれて問われる。「お互い、家で待つ人が居るじゃない……」絞り出すように言うと、「離婚すれば良いの?」そう返され、私は首を横に振った。恋人関係とは違う。結婚したら、簡単に離婚なんて出来ない。お互いに、それは分かっている。分かっているからこそ、今の関係を選んだのに……。「奥さん、泣いてたよ」ぽつりと呟くと、「彩花は俺と別れて平気なの?」そう言われ、泣きそうになる。「そんな事、聞かないで……」涙が溢れ出した私を、アイツはゆっくりと抱き締めた。身体に馴染んだ体温。覚えてしまった体臭《におい》。それが、私の身体を熱くさせる。どれほどアイツを求めているのか。どれほど深く愛してしまったのか。
なんだかんだと小田切の話術で話題は尽きず、飲み会はそのまま続いていた。やがて小田切が時計を見て言う。「やべ! 三島君、終電なくなるから帰った方がいいよ」彼は慌てる様子もなく時計を確認すると、「あ……もう無理ですね」そう言って落ち着いた様子で残りのビールを飲み干した。小田切は申し訳なさそうな顔をする。「新婚なのに……朝帰りさせてごめんな」彼は席を立ち、「ちょっと電話してきます」そう言い残して外へ出た。
会社が実態調査を行い、結局それは全くの勘違いだと分かり、事なきを得た。小田切は人当たりが良く、誰に対しても優しい。若い頃はとにかくモテていた。小田切の元奥さんは、学生時代から付き合っていた人で、小田切を押して押して、やっと結婚まで漕ぎ着けた人だった。小田切がモテるのを知っていたので、定時の時間になると会社に電話をかけ、何時に帰宅するのか確認していたほど執着していたっけ……。当時、小田切は営業所を任され、なんとか立て直そうと必死だったのだと思う。そんな小田切に、元奥さんは私との仲を勘ぐってし
小田切は 「じゃあ、行くか!」 そう言って私の隣に並んだ。 「私より三島君にお店を案内しなさいよ」 そう言うと、小田切は 「あぁ、そっか」 と言いながら彼に視線を向けた。 「じゃあ、行きますか」三人で歩き出したが、彼は口数が少なく、店へ向かう道中も小田切の話に相槌を打つくらいだった。 営業所時代によく通った店に入ると、 「おぉ!彩花ちゃん、いらっしゃい」マスターが声を掛け
私は──(このまま一緒にいたらダメだ!)と咄嗟に感じた。「もう! 三島君も酔っ払い?私、ここで大丈夫だから。三島君はホテルに行きなさい。私はタクシーで帰るから」そう言って三島に背を向け、タクシーを止めて乗り込んだ。「蓮田さん!」私を旧姓で呼ぶ三島の声を置き去りにして、その場から逃げ出した。怖かった。もし、あのまま強引に誘われたら──拒める自信がなかった。まだ結婚する前、総務人事の仕事をしていた私を見て入社してく