LOGIN朝靄が森の端を覆っていた。
鳥たちの声が遠くで響き、風が枝葉を揺らす。昨日までの騒がしさが嘘のように静かだった。 ユウリは小さな道を、セリアと並んで歩いていた。互いに無理に話すこともせず、魔導書だけが二人の共通点のように肩に寄り添っていた。 「ねえ、ユウリ」 セリアが前を向いたまま言った。 「あなたの旅の目的、本当に“死をほどく魔法”なの?」 「……うん」 「誰かを、生き返らせたいんだね」 「いや……もう遅いのはわかってる。でも、読めなかった言葉があったんだ。あのとき、何も言えなかった。だから……」 ユウリは足元の土を見ながら言葉を選んだ。 「せめて、読めるようになりたい。“伝えられなかった想い”ってやつを」 セリアは小さく笑ってうなずいた。 「それなら、いい旅になるわ。私も似たようなものよ。ずっと昔、“読まなかった言葉”があるの。怖くて、逃げたの」 彼女の声に、一瞬だけ寂しさが混じった気がした。 けれどそれ以上は聞かず、ユウリも無理に探らなかった。 二人が向かっているのは、“詩の標”と呼ばれる場所。 この世界に点在する、魔法図書館の痕跡。かつて“分館”とされていた場所にだけ現れる、特別な記録の石碑。 「詩の標には、今はもう読めない古い魔導詩が刻まれているらしいわ。 でも、花紋者なら“触れるだけで意味が流れ込む”って噂もあるの」 「……それ、本当なのかな」 「確かめに行くのよ、これから」 セリアがふわっと笑った。 その笑顔を見て、ユウリは少しだけ気を抜いたように息を吐く。 不安はまだあった。けれど、昨日までの“独りの旅”とは明らかに違う。 言葉を交わせる誰かが隣にいるというだけで、足取りは少しだけ軽かった。 森の道を進みながら、ユウリは何度も魔導書を開いていた。 ページは風に揺れ、詩文はそこに確かに在る。けれど何度読み上げても、魔法は咲かなかった。 「《還雷の詩・第二節》……」 言葉に出す。感情を込める。意識を集中する。 それでも光は灯らない。音もなく、ただ沈黙が残るだけだった。 セリアが横で足を止め、少しだけ首をかしげた。 「少し焦ってない? 魔法って、無理やり咲かせるものじゃないから」 「昨日は……ちゃんと咲いたんだ。セリアと一緒に」 「うん。でもあれは“共鳴”だった。言葉と想いが一瞬だけ重なったから、咲いたんだよ」 セリアは足元の草を撫でるようにしゃがみ込み、小さな青い花を見つめた。 「魔導書に書かれてる詩は、誰が読んでもいい。でも、その魔法が“どんな形で咲くか”は、読み手の心で決まるの」 「心、か……」 「一人で咲かせようとするのも大事。でも、時には“誰かと読むこと”で、初めて咲く詩もある」 ユウリは黙って魔導書を見つめた。 親友と一緒に魔法の練習をしていた日々。彼は笑って、いつも鮮やかに花を咲かせていた。 自分は後ろで、何度読んでも光すら出せなかった。 「アイツは、最期の瞬間まで花を咲かせようとしてた。 俺はただ、立ち尽くして、何も読めなかった」 言葉が口をついて出た。 セリアはそれに返事をしなかった。ただ、静かにその場にいてくれた。 「咲かなかった詩って、無駄じゃないんだよ。 そのまま残る言葉が、いつか誰かと重なることもあるから」 その言葉を受け止めながら、ユウリは再び魔導書を開いた。 風が一枚、ページをめくる。 そこにあるのは、まだ誰にも読まれていない“未詩篇”。 彼の旅は、まだ始まったばかりだった。 森の奥に進むにつれ、空気が変わった。 風が止み、鳥の声も消え、ただ木々のざわめきだけが響いている。 「この先だよ。詩の標がある場所」 セリアが足を止めて指をさした先には、苔むした石碑のようなものが立っていた。 その表面には風化した文字が刻まれており、今となっては解読できない詩文が浮かび上がっている。 「……これが、魔法図書館の痕跡?」 「分館の封印記録だと思う。昔ここに、本があったって証」 ユウリが一歩近づいた、そのときだった。 空気が震えた。 足元の地面が軋み、石碑の根元から何かが這い出してくる。 金属が軋むような音と共に現れたのは、獣のような形をした“何か”だった。 四足の体に、剣のような尻尾。眼には光はなく、かわりに詩文が刻まれている。 「詩の獣……アーカイブビースト」 セリアが低くつぶやく。 「これは、読み残された詩に宿る記録体。誰にも読まれなかった“言葉”の憎しみが、形を持ったものよ」 咆哮。鋼のような唸り。 獣の背中に刻まれた詩が、黒い煙のように空間に拡がっていく。 ユウリが反射的に魔導書を開く。 「《還雷の詩・第二節──》!」 詩を読む。けれど、光は咲かない。 「……っ!」 焦りだけが空回りする。読み切ったはずの言葉が、今は何も反応しない。 「ユウリ、下がって!」 セリアの詩が先に咲く。《癒光の防壁》が展開され、ユウリの前に防御の花が開く。 けれど、詩の獣は構わず突進してきた。防壁が軋み、セリアの肩に力が入る。 「この獣は、“読まれなかった言葉”を喰らって成長する。 言葉に迷いがあると、詩が効かなくなる……!」 ユウリは、震える手で魔導書を握りしめる。 どうすれば、“咲かない詩”が咲くのか。どうすれば、自分の言葉が届くのか。 答えはまだ、見つからない。 ユウリの目の前で、セリアの防壁がひび割れていた。 詩の獣の咆哮とともに、魔力の衝撃波が地面をえぐる。 このままでは防ぎきれない。ユウリは詩を咲かせようと、何度も読み上げる。 「《還雷の詩・第二節──光花散雷!》」 けれど、雷は咲かない。 言葉が震え、魔導書のページがかすれるだけだった。 「読めてるはずなのに……っ!」 自分の声が空へと溶けていく。 恐怖でも怒りでもない。ただ、悔しさだけが胸を支配していた。 「ユウリ!」 セリアの叫びが聞こえた。 振り返ると、彼女が片膝をつきながら詩を構えていた。 結界が限界に達しようとしている。 「詩は、咲かせるものじゃない……!届けるの……!あなたが、誰に、何を伝えたいのか、それが先よ!」 その言葉が、ユウリの胸に突き刺さった。 届ける—— 思い出す。 過去。あの親友の笑顔。最期の瞬間、言えなかった一言。 本当は、何が言いたかったのか。 「……お前に、伝えたかったんだ」 ユウリは魔導書を閉じ、そっと胸に当てた。 目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整える。心の底に沈んでいた言葉を、もう一度拾い上げるように。 「《還雷の詩・終節──導雷咲華》」 音が変わった。 詩文が静かに光り、雷が優しく、けれど鋭く放たれる。 それは攻撃でも、防御でもなかった。 ひとつの言葉を、獣に“読ませる”ための詩。 魔法ではなく、祈りのような魔力の流れだった。 雷が獣の身体を包む。 刻まれた詩文が一瞬だけ光を帯び、やがてふっと消えていく。 咆哮が止み、詩の獣は静かに崩れた。 風が吹いた。 石碑の表面がきらりと光り、そこに新たな詩文が浮かび上がった。 「……これは、次の“詩の標”の座標だね」 セリアが立ち上がり、ユウリに微笑む。 「やっと、あなたの言葉が咲いたね」 ユウリは何も言わずに、魔導書を見つめた。 そこには、今までにないやさしい光が灯っていた。それから、一年が経った。八人は世界中を旅し、無数の街や村を訪れていた。言葉の守護者として、人々を助け、言葉の大切さを伝え続けている。ある日、八人は懐かしい場所へ戻ってきた。「無音図書館」——旅の最初に訪れた場所の一つ。「懐かしいわね」セリアが微笑む。図書館の前には、サイレンティウスが立っていた。今では「調和司書」として、多くの人々に慕われている。「お帰りなさい」サイレンティウスが温かく迎える。「言葉の守護者たち」「ただいま」八人が笑顔で応える。図書館の中は、以前とは様変わりしていた。静かに読書する人々もいれば、活発に議論する人々もいる。静寂と音、両方が調和している。「素晴らしい場所になったわね」トアが感動する。「あなたたちのおかげです」サイレンティウスが礼を言う。八人は他の街も訪れた。「真語市」では、フォルサスが優しく真実を伝える詩を朗読していた。「共存市」では、ミラーリア女王が多様な視点を尊重する街作りを進めていた。「多様表現市」では、ヴォイスとソノラスが手話と音声の両方を教えていた。「調和市」では、パーフェクタが個性を育てる教育をしていた。すべての街が、八人の教えを守り、言葉を大切にしていた。「みんな、幸せそうね」エスティアが嬉しそうに言う。「ああ」ユウリが頷く。「俺たちの旅は、無駄じゃなかった」しかし、旅はまだ続く。新しい街で、新しい問題が待っている。八人は、それらを一つ一つ解決していく。ある街では、言葉の壁で苦しむ人々を助けた。別の街では、誤解で争う人々を仲裁した。また別の街では、沈黙に閉じこもる人々を救い出した。八人の名声は、世界中に広がっていった。
絶対沈黙を救った八人は、ついに最後の場所に到着した。「言葉の聖域」——そこは、想像を超える美しさだった。無数の言葉が光となって舞い、虹色の輝きを放っている。「ありがとう」「愛してる」「頑張れ」「ごめんなさい」——世界中のすべての言葉が、ここで生まれ、ここへ還る。聖域の中央には、巨大な泉があった。そこから、新しい言葉が湧き出ている。「これが……言葉の源……」セリアが感動する。泉のそばに、ロゴスが立っていた。「よく来ましたね」ロゴスが微笑む。「最後の試練を、すべて乗り越えて」「ロゴス様……」ユウリが一歩前に出る。「あなたたちは、本当の意味で『言葉の守護者』となりました」ロゴスが八人を見つめる。「ニヒルワードを救い」「セレクトの試練を乗り越え」「アブソリュート・サイレンスを救済した」「これ以上の資格を持つ者は、いません」ロゴスが泉を指差す。「さあ、見てください」「これが、言葉の真実です」八人が泉を覗き込むと、そこには世界のすべてが映っていた。優しい言葉で癒される人々。励ましの言葉で立ち上がる人々。愛の言葉で結ばれる人々。しかし同時に——傷つける言葉で泣く人々。罵倒の言葉で絶望する人々。嘘の言葉で裏切られる人々。光と影、両方がある。「言葉は、完璧じゃない」ロゴスが語る。「人を幸せにすることもあれば、不幸にすることもある」「癒すこともあれば、傷つけることもある」「それが、言葉の真実です」ユウリが頷く。「それでも……」「言葉は必要だ」「なぜ?」ロゴスが問いかける。「不完全で、
完全な沈黙が、世界を支配した。八人は声を出そうとするが、音が出ない。魔法を発動しようとするが、詠唱ができない。心の声すらも、届かない。アブソリュート・サイレンスの力は、絶対的だった。「無駄だ」アブソリュートだけが、声を発することができる。「私の領域では、私以外は沈黙する」「お前たちは、言葉を守ると言った」「だが、言葉がなければ何もできない」「それが、言葉の弱さだ」アブソリュートが手を振ると、八人に攻撃が襲いかかる。沈黙の刃、無音の爆発——声を出せない八人は、防御も反撃もままならない。「くっ……」ユウリが吹き飛ばされる。セリアが癒しの魔法を使おうとするが、詠唱できない。トアが花を咲かせようとするが、言葉が出ない。八人は、ただ一方的に攻撃を受ける。「これが現実だ」アブソリュートが冷たく言う。「言葉に頼る者は、言葉を失えば無力」「私は何千年も前から、言葉の脆さを知っていた」「だから、すべての言葉を消し去ることにした」空間に、アブソリュートの過去が映し出される。遥か昔、彼は偉大な詩人だった。その言葉は人々を動かし、国を変え、歴史を作った。しかし——彼の言葉は、戦争を引き起こした。彼の詩は、憎悪を煽った。彼の演説は、無数の命を奪った。「私の言葉が……人を殺した……」古代のアブソリュートが絶望する。「なら、言葉など消してしまえ」「二度と、私の言葉で誰も傷つかないように」彼は究極の魔法を編み出し、自らを「絶対沈黙」へと変えた。そして何千年も、言葉を消し続けてきた。「あなたも……言葉で苦しんだのね……」セリアが声にならない言葉で思う。しかし、アブソリュートには届かない。
ニヒルワードを救ってから二日後。 八人は奇妙な分岐点に立っていた。 二つの道がある。 一方は「言葉の世界」へ続く道——これまで歩いてきた道。 もう一方は「沈黙の世界」へ続く道——言葉が存在しない世界への道。 「これは……」 セリアが戸惑う。 道の間に、一人の存在が立っていた。 それは光でも闇でもない、中立の存在。 「ようこそ、選択の地へ」 存在が語りかける。 「私は『選択の番人』セレクト」 「選択の番人……?」 ユウリが問う。 「そうです」 セレクトが二つの道を指差す。 「あなたたちに、選んでもらいます」 「言葉のある世界で生きるか」 「言葉のない世界で生きるか」 八人が驚く。 「言葉のない世界……?」 トアが首を傾げる。 「はい」 セレクトが「沈黙の世界」への道を示す。 その道の先には、美しい光景が広がっていた。 人々が笑顔で暮らしているが、誰も言葉を発していない。 すべてが、心の繋がりだけで成立している世界。 「言葉がなければ、誤解もありません」 セレクトが説明する。 「傷つけることもありません」 「嘘もありません」 「心と心が直接繋がり、真実だけが伝わる」 確かに、その世界は平和に見えた。 争いもなく、悲しみもなく、ただ穏やかな日々が流れている。 「一方、言葉のある世界は……」
言葉の源流を後にして一日後。八人は異様な気配を感じた。空が暗くなり、風が冷たく、すべての音が歪んでいく。「これは……」セリアが警戒する。前方から、巨大な黒い影が現れた。それは人の形をしているが、顔は見えない。全身から、言葉への憎悪が溢れ出ている。「ようやく……見つけた……」影が低い声で呟く。「お前たちが……『言葉の守護者』か……」影から、恐ろしい圧力が放たれる。これまでの敵とは、格が違う。「誰だ、お前は!」ユウリが身構える。「私は……」影がゆっくりと姿を現す。それは、かつて人間だった何か。無数の言葉の傷跡が、体中に刻まれている。「『言葉の破壊者』ニヒルワード」影が名乗る。「言葉を、この世から消し去る者だ」空間に、ニヒルワードの過去が映し出される。彼は幼い頃から、言葉によって傷つけられ続けた。親からの罵倒、友人からの裏切り、恋人からの拒絶——「お前は無価値だ」「生まれてこなければよかった」「死んでしまえ」無数の言葉が、彼を殺し続けた。やがて彼は、すべての言葉を憎むようになった。「言葉など、この世に要らない」若きニヒルワードが絶望する。彼は禁断の魔法を習得し、「言葉の破壊者」となった。目的は一つ——世界からすべての言葉を消し去ること。「そうだったのか……」セリアが理解する。「でも、それは……」トアが言いかける。「黙れ!」ニヒルワードが叫ぶ。その叫びが、言葉を破壊する魔法となって放たれる。「《言語崩壊・虚無への帰還》」周囲のすべての言葉が消滅し始めた。看板の文字が消え、本の中身が真っ白になり、人々の会話が無音
真心村を後にして二日後。八人は、旅の終わりが近づいていることを感じていた。空気が変わり、風が違う意味を持ち始めている。「もうすぐね……」セリアが呟く。「ああ」ユウリが頷く。「言葉の源流が、近い」これまで八十以上の街や村を巡り、様々な言葉の問題と向き合ってきた。そして、ついに——前方に、巨大な光の柱が見えた。「あれが……」トアが息を呑む。「言葉の源流」八人が声を揃える。光の柱の根元に向かうと、そこには古代の神殿があった。「原初言語の神殿」と呼ばれる、世界で最初の言葉が生まれた場所。神殿の入り口には、不思議な文字が刻まれている。それは、どの言語でもない——いや、すべての言語の原型。『言葉を理解する者のみ、入ることを許す』八人が神殿に近づくと、扉がゆっくりと開いた。中は幻想的な空間だった。無数の言葉が光となって飛び交い、美しい交響曲を奏でている。「綺麗……」マリナが見とれる。神殿の最奥に、一人の存在が座っていた。それは老人でもあり、子供でもあり、男性でもあり、女性でもある——すべての姿を同時に持つ、不思議な存在。「ようこそ」存在が語りかけてくる。その声は、すべての言語で同時に聞こえた。「私は『言霊の守護者』ロゴス」「言葉の源流を守る者です」「ロゴス……」ユウリが一歩前に出る。「あなたたちの旅を、ずっと見ていました」ロゴスが微笑む。「よく、ここまで辿り着きましたね」「私たちは……」セリアが言葉を探す。「知っています」ロゴスが頷く。「あなたたちは、言葉の真実を求めて旅をしてきた」「そして、多くのことを学びました」