LOGIN夜の森を駆け抜ける足音だけが、静寂を切り裂いていた。
ユウリは息を殺し、草をかき分け、ただ前へと走っていた。胸にはあの魔導書。誰にも渡さない、それだけは決めていた。 背後からは複数の足音。規則的な隊列、魔力の気配、まちがいなく“追ってくる者たち”のものだった。 「非登録花紋者、確認。対象は十五歳程度の少年。詩による雷系魔法を所持」 森に響くのは、冷たく訓練された声だった。 行政魔術監視隊──国家が花紋者を管理・登録するための部隊。咲いたばかりのユウリの力は、彼らにとって“未申告の危険魔法”に他ならなかった。 「待ってくれ、俺は……!」 木立の中で振り返り、声を上げる。けれど返事はなかった。代わりに飛んできたのは、拘束結界の詩。 「《停止命句・五連鎖》!」 魔法が編まれる音と共に、青白い鎖がユウリの足元に巻きついた。詩を読む暇もない。感情が暴れた。 「やめろっ……!」 反射的に魔導書が開く。ページが光り、言葉にならない言葉が弾けた。 咲いたのは、不安定な雷の花。形を保てずに軌道が逸れ、周囲の木々を焼き払った。 「制御が……できないっ……!」 ユウリは自分の手に怯えながら、それでも逃げ続けた。 誰かを助けるために咲いたはずの花が、今は誰かを傷つけかけている。 「これが……花紋者ってやつかよ……」 そのときだった。 森の奥から、まったく別の魔力の気配が広がった。やわらかく、けれど澄んだ感触。次の瞬間、淡い光が放たれ、追跡隊の足元に結界の花が咲く。 「……ここから先は、通さないわ」 静かな声が、闇を貫いた。 光が咲いた。 それは攻撃でも防御でもなく、ただ“拒む”ための魔法だった。 追跡部隊の足元に展開された半透明の結界が、静かにその場の動きを止める。 「詩結界……これは、正式な構文……?」 隊の一人が驚きに息を呑む。彼らが使う術式とはまるで系統が違う、上位詩文だった。 「退いて。これ以上は許可されていない追撃行為になるわよ」 声がした方を振り返る。 そこには、白衣のような上着を羽織った少女が立っていた。銀髪が月明かりに照らされ、瞳は淡い青。 その胸元には、はっきりと花紋が浮かんでいた。 「あなた……花紋者……?」 「国家登録済の、医療補助任務担当よ。コードは西部第七区所属、セリア=ノルン。ちゃんと名乗ったわよね?」 隊員たちは顔を見合わせると、無言で退いた。 国家登録の花紋者に干渉することは、たとえ監視隊でも簡単にはできない。 その場に残されたのは、ユウリとセリアだけだった。 ユウリは肩で息をしながら、距離を保ちつつ言葉を探した。 「……助けてくれたのか?」 「ええ。でもその前に、あなた……暴走しかけてたわよ。雷の詩が崩れてた。無理して読んだでしょう?」 「……そうかもしれない」 ユウリはうつむきながら魔導書を見た。 ページの端が焦げていた。詩が読みきれなかったのだ。 「怖かった。でも、逃げたくなかった……」 セリアは小さくうなずくと、手を差し出した。 彼女の指先には、光の花が咲いていた。それは傷を癒す、小さな百合の形をしていた。 「落ち着いたら、ちゃんと話してくれる? ここから少し離れたところに、私の結界シェルターがあるの」 ユウリは迷った。けれど、咲いたばかりの自分の花では、この先一人で何かを咲かせる力はまだなかった。 「……わかった」 その手を取った瞬間、彼は“花紋者同士”の旅の始まりを選んだ。 森の奥、岩壁の裏に隠された結界シェルター。 まるで空間そのものを折りたたんだような静けさが広がっていた。 暖かな光に包まれた室内は簡素だが整っていて、風も魔力のざわめきも感じなかった。 ユウリは魔導書を抱いたまま、用意された椅子に腰を下ろしていた。 隣ではセリアが小鍋に湯を沸かしている。湯気が柔らかく立ち昇る。 不思議だった。さっきまで自分を捕まえようとしていた人間たちとは、まるで違う。 「さっきの詩、雷の花だったわね」 静かな問いに、ユウリは小さくうなずいた。 「……でも、全然制御できなかった。咲いたのは、初めてだったから」 「それでも、あれは本物だった。あの詩は、ちゃんとあなたの中に咲いていたわ」 セリアは湯を注ぎながら言う。 彼女の言葉は、責めるのでも、慰めるのでもなく、ただ事実として語られていた。 「……俺、自分の言葉に自信がないんだ。どれが正しいかも、どう読めば魔法になるかも、わからなくて」 ユウリの声が、少しだけ震えた。 口に出して初めて気づく。自分が、どれだけ“咲かないこと”を恐れていたか。 セリアはそれを遮らず、ただ優しく答えた。 「魔導書には、花を咲かせる“種”だけがあるの。水を与えるのは、読む人の感情と経験よ」 「……水?」 「そう。読み方、感じ方、そしてその言葉を“どう伝えたいか”……それが、魔法になるの」 ユウリは黙って魔導書を見つめた。 焦げたページ、ちぎれた端。失われた言葉ばかりの本。 でも、それでも——咲いたのだ。あの時。 「あなたの本、優しいのね」 ふいに、セリアが笑った。 「ちゃんと、誰かを守ろうとする言葉に、応えてくれた」 ユウリは返事ができなかった。 けれどその言葉が、胸の奥に静かにしみていくのを感じていた。 警告音のような魔力のざわめきが、静寂を裂いた。 シェルターの外に、再び気配が近づいてくる。先ほど退いた監視隊の一部が、諦めずに追ってきたらしい。 セリアが立ち上がる。目は静かに鋭くなっていた。 「早いわね……ここを見つけるなんて、ちょっと勘が良すぎる」 「どうする?」 「やるしかないわ。防衛ラインを破られたら、あとは私たちしかいないもの」 セリアは魔導書を開いた。ページが風にめくれ、淡く光る詩文が浮かび上がる。 「《白詠詩篇・第六句──癒光の拒絶》」 その声とともに、結界の外に白百合の花が咲いた。 だが、複数の詩文が同時に読み上げられ、白の防壁がたちまち削られていく。 「数が多い……っ、ユウリ!」 セリアの声に呼ばれて、ユウリも魔導書を開いた。 恐怖はある。咲いたばかりの花紋はまだ頼りない。けれど、あの時の感覚は、今も指先に残っている。 「……もう、誰かを巻き込むのは嫌なんだ」 ユウリは震える声で詩を綴る。 「《還雷の詩・第二節──光花散雷》!」 雷の花が咲いた。先ほどよりも穏やかに、けれど確かな強さを持って。 そして── その雷が、セリアの癒光と触れ合った瞬間。 二つの魔法が、ふわりと溶け合い、空中に淡い花弁が咲いた。白と金。光と雷。 それはまるで、ひとつの言葉を二人で読んだかのような“共鳴”だった。 敵は驚き、後退した。二人の詩が混じり合うことなど、想定されていなかったのだ。 しばしの沈黙の後、セリアが微笑む。 「……今の、見えた?」 「花……が咲いた、よな」 「ええ。あなたの言葉と、わたしの言葉が、たぶん同じ方向を向いてたから」 ユウリは、初めて“読めた”気がした。誰かと共に、詩を綴ったという実感。 「図書館を探してるんでしょう?」 セリアが静かに言う。ユウリは息を呑んだ。 「“死をほどく魔法”……あっても、なくても、確かめたいんだ」 「じゃあ、一緒に行こうか。咲かせるために。まだ読めてない言葉を」 ユウリは迷いなく頷いた。 二つの魔導書が、静かに重なった。それから、一年が経った。八人は世界中を旅し、無数の街や村を訪れていた。言葉の守護者として、人々を助け、言葉の大切さを伝え続けている。ある日、八人は懐かしい場所へ戻ってきた。「無音図書館」——旅の最初に訪れた場所の一つ。「懐かしいわね」セリアが微笑む。図書館の前には、サイレンティウスが立っていた。今では「調和司書」として、多くの人々に慕われている。「お帰りなさい」サイレンティウスが温かく迎える。「言葉の守護者たち」「ただいま」八人が笑顔で応える。図書館の中は、以前とは様変わりしていた。静かに読書する人々もいれば、活発に議論する人々もいる。静寂と音、両方が調和している。「素晴らしい場所になったわね」トアが感動する。「あなたたちのおかげです」サイレンティウスが礼を言う。八人は他の街も訪れた。「真語市」では、フォルサスが優しく真実を伝える詩を朗読していた。「共存市」では、ミラーリア女王が多様な視点を尊重する街作りを進めていた。「多様表現市」では、ヴォイスとソノラスが手話と音声の両方を教えていた。「調和市」では、パーフェクタが個性を育てる教育をしていた。すべての街が、八人の教えを守り、言葉を大切にしていた。「みんな、幸せそうね」エスティアが嬉しそうに言う。「ああ」ユウリが頷く。「俺たちの旅は、無駄じゃなかった」しかし、旅はまだ続く。新しい街で、新しい問題が待っている。八人は、それらを一つ一つ解決していく。ある街では、言葉の壁で苦しむ人々を助けた。別の街では、誤解で争う人々を仲裁した。また別の街では、沈黙に閉じこもる人々を救い出した。八人の名声は、世界中に広がっていった。
絶対沈黙を救った八人は、ついに最後の場所に到着した。「言葉の聖域」——そこは、想像を超える美しさだった。無数の言葉が光となって舞い、虹色の輝きを放っている。「ありがとう」「愛してる」「頑張れ」「ごめんなさい」——世界中のすべての言葉が、ここで生まれ、ここへ還る。聖域の中央には、巨大な泉があった。そこから、新しい言葉が湧き出ている。「これが……言葉の源……」セリアが感動する。泉のそばに、ロゴスが立っていた。「よく来ましたね」ロゴスが微笑む。「最後の試練を、すべて乗り越えて」「ロゴス様……」ユウリが一歩前に出る。「あなたたちは、本当の意味で『言葉の守護者』となりました」ロゴスが八人を見つめる。「ニヒルワードを救い」「セレクトの試練を乗り越え」「アブソリュート・サイレンスを救済した」「これ以上の資格を持つ者は、いません」ロゴスが泉を指差す。「さあ、見てください」「これが、言葉の真実です」八人が泉を覗き込むと、そこには世界のすべてが映っていた。優しい言葉で癒される人々。励ましの言葉で立ち上がる人々。愛の言葉で結ばれる人々。しかし同時に——傷つける言葉で泣く人々。罵倒の言葉で絶望する人々。嘘の言葉で裏切られる人々。光と影、両方がある。「言葉は、完璧じゃない」ロゴスが語る。「人を幸せにすることもあれば、不幸にすることもある」「癒すこともあれば、傷つけることもある」「それが、言葉の真実です」ユウリが頷く。「それでも……」「言葉は必要だ」「なぜ?」ロゴスが問いかける。「不完全で、
完全な沈黙が、世界を支配した。八人は声を出そうとするが、音が出ない。魔法を発動しようとするが、詠唱ができない。心の声すらも、届かない。アブソリュート・サイレンスの力は、絶対的だった。「無駄だ」アブソリュートだけが、声を発することができる。「私の領域では、私以外は沈黙する」「お前たちは、言葉を守ると言った」「だが、言葉がなければ何もできない」「それが、言葉の弱さだ」アブソリュートが手を振ると、八人に攻撃が襲いかかる。沈黙の刃、無音の爆発——声を出せない八人は、防御も反撃もままならない。「くっ……」ユウリが吹き飛ばされる。セリアが癒しの魔法を使おうとするが、詠唱できない。トアが花を咲かせようとするが、言葉が出ない。八人は、ただ一方的に攻撃を受ける。「これが現実だ」アブソリュートが冷たく言う。「言葉に頼る者は、言葉を失えば無力」「私は何千年も前から、言葉の脆さを知っていた」「だから、すべての言葉を消し去ることにした」空間に、アブソリュートの過去が映し出される。遥か昔、彼は偉大な詩人だった。その言葉は人々を動かし、国を変え、歴史を作った。しかし——彼の言葉は、戦争を引き起こした。彼の詩は、憎悪を煽った。彼の演説は、無数の命を奪った。「私の言葉が……人を殺した……」古代のアブソリュートが絶望する。「なら、言葉など消してしまえ」「二度と、私の言葉で誰も傷つかないように」彼は究極の魔法を編み出し、自らを「絶対沈黙」へと変えた。そして何千年も、言葉を消し続けてきた。「あなたも……言葉で苦しんだのね……」セリアが声にならない言葉で思う。しかし、アブソリュートには届かない。
ニヒルワードを救ってから二日後。 八人は奇妙な分岐点に立っていた。 二つの道がある。 一方は「言葉の世界」へ続く道——これまで歩いてきた道。 もう一方は「沈黙の世界」へ続く道——言葉が存在しない世界への道。 「これは……」 セリアが戸惑う。 道の間に、一人の存在が立っていた。 それは光でも闇でもない、中立の存在。 「ようこそ、選択の地へ」 存在が語りかける。 「私は『選択の番人』セレクト」 「選択の番人……?」 ユウリが問う。 「そうです」 セレクトが二つの道を指差す。 「あなたたちに、選んでもらいます」 「言葉のある世界で生きるか」 「言葉のない世界で生きるか」 八人が驚く。 「言葉のない世界……?」 トアが首を傾げる。 「はい」 セレクトが「沈黙の世界」への道を示す。 その道の先には、美しい光景が広がっていた。 人々が笑顔で暮らしているが、誰も言葉を発していない。 すべてが、心の繋がりだけで成立している世界。 「言葉がなければ、誤解もありません」 セレクトが説明する。 「傷つけることもありません」 「嘘もありません」 「心と心が直接繋がり、真実だけが伝わる」 確かに、その世界は平和に見えた。 争いもなく、悲しみもなく、ただ穏やかな日々が流れている。 「一方、言葉のある世界は……」
言葉の源流を後にして一日後。八人は異様な気配を感じた。空が暗くなり、風が冷たく、すべての音が歪んでいく。「これは……」セリアが警戒する。前方から、巨大な黒い影が現れた。それは人の形をしているが、顔は見えない。全身から、言葉への憎悪が溢れ出ている。「ようやく……見つけた……」影が低い声で呟く。「お前たちが……『言葉の守護者』か……」影から、恐ろしい圧力が放たれる。これまでの敵とは、格が違う。「誰だ、お前は!」ユウリが身構える。「私は……」影がゆっくりと姿を現す。それは、かつて人間だった何か。無数の言葉の傷跡が、体中に刻まれている。「『言葉の破壊者』ニヒルワード」影が名乗る。「言葉を、この世から消し去る者だ」空間に、ニヒルワードの過去が映し出される。彼は幼い頃から、言葉によって傷つけられ続けた。親からの罵倒、友人からの裏切り、恋人からの拒絶——「お前は無価値だ」「生まれてこなければよかった」「死んでしまえ」無数の言葉が、彼を殺し続けた。やがて彼は、すべての言葉を憎むようになった。「言葉など、この世に要らない」若きニヒルワードが絶望する。彼は禁断の魔法を習得し、「言葉の破壊者」となった。目的は一つ——世界からすべての言葉を消し去ること。「そうだったのか……」セリアが理解する。「でも、それは……」トアが言いかける。「黙れ!」ニヒルワードが叫ぶ。その叫びが、言葉を破壊する魔法となって放たれる。「《言語崩壊・虚無への帰還》」周囲のすべての言葉が消滅し始めた。看板の文字が消え、本の中身が真っ白になり、人々の会話が無音
真心村を後にして二日後。八人は、旅の終わりが近づいていることを感じていた。空気が変わり、風が違う意味を持ち始めている。「もうすぐね……」セリアが呟く。「ああ」ユウリが頷く。「言葉の源流が、近い」これまで八十以上の街や村を巡り、様々な言葉の問題と向き合ってきた。そして、ついに——前方に、巨大な光の柱が見えた。「あれが……」トアが息を呑む。「言葉の源流」八人が声を揃える。光の柱の根元に向かうと、そこには古代の神殿があった。「原初言語の神殿」と呼ばれる、世界で最初の言葉が生まれた場所。神殿の入り口には、不思議な文字が刻まれている。それは、どの言語でもない——いや、すべての言語の原型。『言葉を理解する者のみ、入ることを許す』八人が神殿に近づくと、扉がゆっくりと開いた。中は幻想的な空間だった。無数の言葉が光となって飛び交い、美しい交響曲を奏でている。「綺麗……」マリナが見とれる。神殿の最奥に、一人の存在が座っていた。それは老人でもあり、子供でもあり、男性でもあり、女性でもある——すべての姿を同時に持つ、不思議な存在。「ようこそ」存在が語りかけてくる。その声は、すべての言語で同時に聞こえた。「私は『言霊の守護者』ロゴス」「言葉の源流を守る者です」「ロゴス……」ユウリが一歩前に出る。「あなたたちの旅を、ずっと見ていました」ロゴスが微笑む。「よく、ここまで辿り着きましたね」「私たちは……」セリアが言葉を探す。「知っています」ロゴスが頷く。「あなたたちは、言葉の真実を求めて旅をしてきた」「そして、多くのことを学びました」







