LOGIN七月に入ったある日の晩。
律と蓮は珍しく母屋で夕食後、くつろいでいた。どうでもいい些細な雑談をしながら、食後の茶を啜っていた。大きな座卓の端に、自然と何人かの若い衆が集まっており、年齢もそう大きく離れておらずどうということのない会話に花が咲く。そんなことをしていて離れに引き上げる時間がいつもより遅くなったタイミングで玄関がバァン! と勢いのいい音を立てて開けられたかと思うと、ほぼ同時に大声が黒瀬家の食堂まで届いてきた。
「おーう! いま帰ったぞー!」
そんな玄関の開け方をする人間も、大声を上げる人間もこの家には一人しかいない。律は思わず溜息をついた。確か今日は会合があるとかで父も修治も夕食にはいなかった。大方、酒を飲んでいるに違いない。
「……酔っ払い親父め……」
珍しく律が悪態をつくと、周りから堪え切れない笑いが零れた。
「まあまあ。親父が酒飲んでしんみりしてる方が辛気臭くて嫌っすよ」
「それはそれで想像できねーなー」
若い男と蓮が口々に好き勝手言って、律は更に眉間を押さえた。追い打ちのように廊下をどすどすと歩いてくる足音と共に、外廊下側から障子が勢いよく開く。
「いやぁ! お前ら、今年も気合入れんぞ。神社の神主さんと商店街と町会の会長と盛り上がってなぁ!」
酔っ払って上機嫌になっている父の後ろで修治も溜息をついている。
「竜一さん。声が大きいです」
「うるせぇっ! 景気付けだ、景気付け! おい、誰か酒もってこい!」
その会話を聞いて律は顔を上げた。
「ああ。もうお祭りの準備の時期か」
「えー? もうそんな時期? 早っ!」
ふと呟いた律の言葉を拾った蓮が思い出したように言いながらも、表情が楽しそうに変化していく。食堂に残っていた男たちの数人が台所へ酒を取りに走った。
この町内の氏神の神社の例祭には毎年、黒瀬組が屋台を出し、神輿を担ぎ──果ては警備まがいのことまで担当する。要は年に一度の正に祭りなのだ。実務はほとんど修治が取り仕切り、父は神輿を担ぎに行く。屋台は食べ物と祭りらしい射的や型抜き、ボールすくいなどで食べ物の屋台の方が割り合いが多く、価格設定が一般的な祭りより低いらしい上に、父の「子どもら腹いっぱいにさせたれ!」という方針で毎年赤字ぎりぎりで修治が胃を痛めている。
──年一のイベントだけど、ある意味修羅場なんだよな……。
律は父のテンションの高さと修治を見比べて、くすりと笑う。
「あんな、修治。明日でええから二丁目のばあちゃんとこ連絡したっといてや」
「ああ……わかりました」
ふと聞こえた父と修治の会話に律は首を傾げた。二丁目の老婆には時々世話になっているが、そういえば律はなにを依頼しているのか知らない。
しかし、深く考える間もなく、律の背中が思い切りよく叩かれた。「痛ぁっ!」と思わず声が出る。
「おう、律。今年も手伝ってくれんやろ?」
「……型抜きの店番なら、するよ?」
叩かれた勢いで座卓に突っ伏したまま、律は答えた。まだ背中がじんじんとして熱い。父の馬鹿力は蓮より上だ。加減位してほしいが、酔っ払いに言うのも無駄だ。
「蓮はなぁ、お前にまだ神輿の先頭は譲れんなぁ! 修治からまだ一本も取れてねえんじゃ、俺から一本取るんなんて何年先だぁ?」
「うるせぇっ酔っ払い親父がっ! 来年には取ってやんよ!」
馬鹿でかい声が増えたな、と律はむきになる蓮を見ながら座卓に突っ伏したままでいる。「酒持ってきたっす!」と台所から日本酒の一升瓶を複数抱えた男と、簡素なコップを乗せたお盆を持ってきた男が座卓に酒を並べ始めると宴会が始まるのも毎年のことだ。
「まあ……今日は具体的な話は進みませんから、酔っ払いが増える前に若と蓮は部屋に戻りなさい」
上座に陣取った父の様子を見て、修治が耳打ちしてきた。確かに今日はもう引き上げた方がよさそうだ。父も修治も男たちも未成年の律と蓮に酒を飲ませるような真似はしないが、絡まれる。修治は絡むことなく、黒瀬組の父を筆頭とした酔っ払いからの最後の砦ではあるが、限界がある。特に、父が上機嫌の時と怒り狂っている時。
「じゃあ、行こうか、蓮。……修治、父さんが飲みすぎそうだったら沈めていいからね」
「はい」
律がするりと立つと、蓮もひょいと立ち上がる。外廊下から渡り廊下を辿って離れの部屋に戻る。
「なあ、親父の言ってること無理ゲーくない? 一本取らねえと神輿の先頭担がせてくんないなんてさー」
「んー……あれはさー、蓮のこと構いたいんじゃないの? 僕がそういうのやんないからさ」
当然のように、蓮の部屋に一緒に律も落ち着いた。
*****
翌日から最初に忙しくなるのは修治だ。神社の敷地内の屋台配置図、保健所への届け出、神輿のルートは毎年同じだが神社、商店街、町会を代表しての警察へ届け出、組内の神輿、屋台、警備それぞれの配置、その他諸々。その合間に通常の雑務──繁華街にいくつか持っている黒瀬組が経営する飲食店の事務や経理、父の突発的な指示。しかも、祭りの屋台は毎年ほぼ収益がなく、一大イベントではあるが組の者の楽しみと化している面が強い。主に父を筆頭に。
昼間から走り周り、いつ寝ているのか不明な修治と、呑気な父を見ていると律は自然と修治に同情する。
夕食後もこの時期は律と蓮は食後に祭りの準備の話に混ざる。
「いいですか、若。今年の型抜きスペースはここです。……去年よりスペースを広くしたので、子供たちを贔屓しないでくださいね」
「……贔屓、してるかな? わかんないけど。そんなに場所広く取っちゃっていいの」
「ええ。……なんと言うか、商店街の奥さまたちの圧が……」
修治の濁した言葉に律は首を傾げる。
「修治さん! 今年、リンゴ飴とイチゴ飴やんねえっすか!? 綿あめとチョコバナナとかき氷じゃ毎年同じですって!」
「林檎と苺は! 原価が……!」
「子どもたち新しいもん出したら喜びますって!」
「おう! ええな! 修治、やったれよ。大丈夫やて」
会話に割り込んだ来た若い衆と父に挟まれて、修治は胃を押さえていた。早くも収益ぎりぎりのところに若い者のアイディアで、修治の予算計画が狂いそうになっている。
「あのさ、修治。無理しないでね?」
「……面目ない。問題ありません。どうにかしましょう」
一瞬で苦虫を嚙み潰したような顔を通常通りに戻した修治に、律は素直に凄いなと思う。特に父の無茶振りを操縦できる人間を、律は修治しか知らない。すっと修治が立ち上がり、若い衆の方へと向かう前に言い置かれた。
「若は型抜きの発注数の決定をお願いします」
修治のような人間がいるからこの家も成り立っているのだろうな、と律は関心する。
「修治ってさ、かっこいいよね」
ふと、隣の蓮に話を振ると、物凄く嫌そうな顔をされた。
「……なんで?」
「え? なんでって、なんで?」
「うわー! 俺、親父から一本取るより先にやっぱ修治から一本取んねえとダメだー!」
「だから、なんで?」
「わかんねえけど、めっちゃ悔しいから!」
「蓮は修治とはタイプ違うじゃん? 修治より父さんの方がたぶん似たタイプ」
「そうじゃなくて!」
一人で頭を抱えて暴れている蓮に、律は手を伸ばした。癖っ毛を緩く撫でる。
「蓮はかっこいいから大丈夫だよ」
何気なく呟くと、手のひらの下で暴れていた蓮が大人しくなった。律にはわからないが、時々、何気ない一言で蓮の暴走は止まる。いまのは敵意ではないが、それが身内以外への感情であったらこないだの喧嘩よりも明確に暴走するだろう。そういうことを律は体感で知っている。
「でも、修治にも勝つ。連敗中だし」
「うん。それはちゃんと道場でね」
「わかってる。じゃねえと親父も認めねえし」
*****
リンゴ飴とイチゴ飴の件は律と蓮が知らないうちに解決していた。
学校から帰宅すると、食堂の大きな座卓にたくさんの紙が散乱していた。子どもの落書き、幼い文字。黒瀬家は子どもの立ち入りが多い。不登校児から未就学の子どもまで。不登校児は昼間、若い衆が公園やファストフード店にいる明らかに学校をサボっている学生を、補導されるよりはマシだと連れて来る。未就学児はなぜか父に懐くケースが多い。
その子どもたちが残しただろう落書きの中に「黒瀬組屋台、フルーツ飴会議」なるものがあった。曰く、
リンゴ飴は大きすぎて食べきれない。
イチゴあめって、イチゴたかくない? りゅうちゃんだいじょうぶ?
他のフルーツ飴がいいな! パインとか!
じゃあ、みかんは? 缶詰なら安いんじゃない?
ちいさいのがいい。おおきいのたべきれない。
パインとみかんならキウイも入れよう!? そんな高くないよ!
そんな散乱した紙類を見て、律は脱力した。確かに昼間、律と蓮が学校に行っている間に近所の子どもたちの世話をしていることは知っていたが、こんなことまでしていたとは。
「蓮、うちってなんだっけ?」
「ぼーりょくだん」
「……コレが?」
全く律が知らなかったわけではない。ただ、その痕跡を実際に目にすることが少ないだけで、家業の悪い部分にばかり神経質になっていた。
「おや。若、蓮、おかえりなさい。どうかしましたか」
「いや……リンゴ飴イチゴ飴論争に決着ついたんだろうなって思っただけ」
律が通りかかった修治に返事をすると、柔和な笑みが返ってきた。
「そうですね。子どもの目線は大事です。大人がいくら喜ばせようとしても、子どもたちが喜ばないのでは本末転倒ですからね」
「あのさ、修治。うちってなんだっけ」
「暴力団ですが?」
大人に確認した後、律は更に脱力して蓮の肩に手をかけ、ぐったりした。
「若。ところで、型抜きの発注数は決まりましたか?」
「どうしてって、律。お前なぁ……」 父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」 パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」 父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」 律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。 普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。 それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。「……けったくそ悪い話やぞ……」 苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」 感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知ってい
がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。 帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。 律、どこいんの? 立ち聞きしてねーって 待ってただけ なあ、律? シカト? 怒ってんの? どーして? 全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」 なにも持たない身一つで。 心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。 冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、 まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。「探さなきゃ。……探して……」 それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。
帰宅すると律は自室にこもって頭を抱えた。 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔が襲ってくる。ちゃんと蓮と普通に接することができると思った矢先なのだ。完全に律の八つ当たりで、蓮に非はないのに勝手に立ち聞きだと決めつけて怒鳴り散らした。律は蓮がどんな顔をしていたのかも見ていない。好きだと思う。大事だと思うのに、自覚するほど上手くできない。 気持ちは本当なのに、嘘をついている様な感覚が拭えない。 何度も蓮が壊れてしまう前に戻りたいと修復を試みているのに失敗してしまう。一度壊れてしまったら同じには戻れないのだろうか。割れた茶碗を直しても金継ぎの跡が残ってしまうように、なにもかも元通りなどというのは都合が良すぎる願いなのか。「このままじゃ……蓮に嫌われる」 呟いた言葉は想像以上に現実味を帯びて律を震わせた。 いままで例え些細な喧嘩をしてもすぐに仲直りしていたが、律がこのままではいくら蓮でも我慢の限界が来るだろう。その果てにあるのは、蓮のいない世界。六歳から数えて十一年、ずっと一緒にいた分、律には蓮のいない世界など想像もつかない。父や修治がずっといたのと同じく、律の世界に蓮は存在していることが当然で当たり前すぎた。それが自分の身勝手で失うとしたら、恐ろしすぎる。「それは……駄目。ちゃんとしなきゃ。普通に、しなきゃ」 律が小さくなって頭を抱えている間に放りだしたかばんのポケットからはみ出したスマホの画面が明るくなり、通知を知らせていたが音声を切ったままで律は気付きようもなかった。 しばらくして部屋の木戸が遠慮なしにがらりと開けられ、驚いて律は顔を上げた。肩に引っかけたかばんを放り投げ、蓮がずかすかと律に近寄り、しゃがみこんで近い距離を詰めてくる。それだけで律は緊張してしまい、混乱する。なにか言わなくてはならないと思いながら、言葉が出てこない。「なあ、律。俺、なんかした?」 普段よりも低い蓮の声。かばんを放り投げた仕草に滲む苛立ち。「して、ない。ごめん……八つ当たり、した」「そんだけじゃねえよなー? 別に八つ当たりなんてどーでもいいんだよ。最近の律、変。だから、俺、なんかしたんかなって訊いてんの」「してない。蓮はなにもしてない。僕が悪いだけだから」 少しでも距離を取ろうとしても律の背中はベッドでどうにもならない。蓮の真っ直ぐな視線が
──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。 けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに? いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。 律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。 恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。 そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。 恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。 これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。 律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」 ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。 そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、 手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。 単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱
「ただいまっ」 普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。 かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。 蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!! いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。 舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。「ううー……」 ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。 律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。 律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」 ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」「なにしたかわかってんの!?」「傷、血ィ出てたから舐めようとした」 怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は
「……あ。またやっちゃった」 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多くなった。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま蓮の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。***** 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。 胸の奥のぐちゃぐちゃが