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#6 黒瀬組の年中行事

Auteur: 灯屋いと
last update Date de publication: 2026-01-21 02:38:22

 七月に入ったある日の晩。

 律と蓮は珍しく母屋で夕食後、くつろいでいた。どうでもいい些細な雑談をしながら、食後の茶を啜っていた。大きな座卓の端に、自然と何人かの若い衆が集まっており、年齢もそう大きく離れておらずどうということのない会話に花が咲く。

 そんなことをしていて離れに引き上げる時間がいつもより遅くなったタイミングで玄関がバァン! と勢いのいい音を立てて開けられたかと思うと、ほぼ同時に大声が黒瀬家の食堂まで届いてきた。

「おーう! いま帰ったぞー!」

 そんな玄関の開け方をする人間も、大声を上げる人間もこの家には一人しかいない。律は思わず溜息をついた。確か今日は会合があるとかで父も修治も夕食にはいなかった。大方、酒を飲んでいるに違いない。

「……酔っ払い親父め……」

 珍しく律が悪態をつくと、周りから堪え切れない笑いが零れた。

「まあまあ。親父が酒飲んでしんみりしてる方が辛気臭くて嫌っすよ」

「それはそれで想像できねーなー」

 若い男と蓮が口々に好き勝手言って、律は更に眉間を押さえた。追い打ちのように廊下をどすどすと歩いてくる足音と共に、外廊下側から障子が勢いよく開く。

「いやぁ! お前ら、今年も気合入れんぞ。神社の神主さんと商店街と町会の会長と盛り上がってなぁ!」

 酔っ払って上機嫌になっている父の後ろで修治も溜息をついている。

「竜一さん。声が大きいです」

「うるせぇっ! 景気付けだ、景気付け! おい、誰か酒もってこい!」

 その会話を聞いて律は顔を上げた。

「ああ。もうお祭りの準備の時期か」

「えー? もうそんな時期? 早っ!」

 ふと呟いた律の言葉を拾った蓮が思い出したように言いながらも、表情が楽しそうに変化していく。食堂に残っていた男たちの数人が台所へ酒を取りに走った。

 この町内の氏神の神社の例祭には毎年、黒瀬組が屋台を出し、神輿を担ぎ──果ては警備まがいのことまで担当する。要は年に一度の正に祭りなのだ。実務はほとんど修治が取り仕切り、父は神輿を担ぎに行く。屋台は食べ物と祭りらしい射的や型抜き、ボールすくいなどで食べ物の屋台の方が割り合いが多く、価格設定が一般的な祭りより低いらしい上に、父の「子どもら腹いっぱいにさせたれ!」という方針で毎年赤字ぎりぎりで修治が胃を痛めている。

 ──年一のイベントだけど、ある意味修羅場なんだよな……。

 律は父のテンションの高さと修治を見比べて、くすりと笑う。

「あんな、修治。明日でええから二丁目のばあちゃんとこ連絡したっといてや」

「ああ……わかりました」

 ふと聞こえた父と修治の会話に律は首を傾げた。二丁目の老婆には時々世話になっているが、そういえば律はなにを依頼しているのか知らない。

 しかし、深く考える間もなく、律の背中が思い切りよく叩かれた。「痛ぁっ!」と思わず声が出る。

「おう、律。今年も手伝ってくれんやろ?」

「……型抜きの店番なら、するよ?」

 叩かれた勢いで座卓に突っ伏したまま、律は答えた。まだ背中がじんじんとして熱い。父の馬鹿力は蓮より上だ。加減位してほしいが、酔っ払いに言うのも無駄だ。

「蓮はなぁ、お前にまだ神輿の先頭は譲れんなぁ! 修治からまだ一本も取れてねえんじゃ、俺から一本取るんなんて何年先だぁ?」

「うるせぇっ酔っ払い親父がっ! 来年には取ってやんよ!」

 馬鹿でかい声が増えたな、と律はむきになる蓮を見ながら座卓に突っ伏したままでいる。「酒持ってきたっす!」と台所から日本酒の一升瓶を複数抱えた男と、簡素なコップを乗せたお盆を持ってきた男が座卓に酒を並べ始めると宴会が始まるのも毎年のことだ。

「まあ……今日は具体的な話は進みませんから、酔っ払いが増える前に若と蓮は部屋に戻りなさい」

 上座に陣取った父の様子を見て、修治が耳打ちしてきた。確かに今日はもう引き上げた方がよさそうだ。父も修治も男たちも未成年の律と蓮に酒を飲ませるような真似はしないが、絡まれる。修治は絡むことなく、黒瀬組の父を筆頭とした酔っ払いからの最後の砦ではあるが、限界がある。特に、父が上機嫌の時と怒り狂っている時。

「じゃあ、行こうか、蓮。……修治、父さんが飲みすぎそうだったら沈めていいからね」

「はい」

 律がするりと立つと、蓮もひょいと立ち上がる。外廊下から渡り廊下を辿って離れの部屋に戻る。

「なあ、親父の言ってること無理ゲーくない? 一本取らねえと神輿の先頭担がせてくんないなんてさー」

「んー……あれはさー、蓮のこと構いたいんじゃないの? 僕がそういうのやんないからさ」

 当然のように、蓮の部屋に一緒に律も落ち着いた。

*****

 翌日から最初に忙しくなるのは修治だ。神社の敷地内の屋台配置図、保健所への届け出、神輿のルートは毎年同じだが神社、商店街、町会を代表しての警察へ届け出、組内の神輿、屋台、警備それぞれの配置、その他諸々。その合間に通常の雑務──繁華街にいくつか持っている黒瀬組が経営する飲食店の事務や経理、父の突発的な指示。しかも、祭りの屋台は毎年ほぼ収益がなく、一大イベントではあるが組の者の楽しみと化している面が強い。主に父を筆頭に。

 昼間から走り周り、いつ寝ているのか不明な修治と、呑気な父を見ていると律は自然と修治に同情する。

 夕食後もこの時期は律と蓮は食後に祭りの準備の話に混ざる。

「いいですか、若。今年の型抜きスペースはここです。……去年よりスペースを広くしたので、子供たちを贔屓しないでくださいね」

「……贔屓、してるかな? わかんないけど。そんなに場所広く取っちゃっていいの」

「ええ。……なんと言うか、商店街の奥さまたちの圧が……」

 修治の濁した言葉に律は首を傾げる。

「修治さん! 今年、リンゴ飴とイチゴ飴やんねえっすか!? 綿あめとチョコバナナとかき氷じゃ毎年同じですって!」

「林檎と苺は! 原価が……!」

「子どもたち新しいもん出したら喜びますって!」

「おう! ええな! 修治、やったれよ。大丈夫やて」

 会話に割り込んだ来た若い衆と父に挟まれて、修治は胃を押さえていた。早くも収益ぎりぎりのところに若い者のアイディアで、修治の予算計画が狂いそうになっている。

「あのさ、修治。無理しないでね?」

「……面目ない。問題ありません。どうにかしましょう」

 一瞬で苦虫を嚙み潰したような顔を通常通りに戻した修治に、律は素直に凄いなと思う。特に父の無茶振りを操縦できる人間を、律は修治しか知らない。すっと修治が立ち上がり、若い衆の方へと向かう前に言い置かれた。

「若は型抜きの発注数の決定をお願いします」

 修治のような人間がいるからこの家も成り立っているのだろうな、と律は関心する。

「修治ってさ、かっこいいよね」

 ふと、隣の蓮に話を振ると、物凄く嫌そうな顔をされた。

「……なんで?」

「え? なんでって、なんで?」

「うわー! 俺、親父から一本取るより先にやっぱ修治から一本取んねえとダメだー!」

「だから、なんで?」

「わかんねえけど、めっちゃ悔しいから!」

「蓮は修治とはタイプ違うじゃん? 修治より父さんの方がたぶん似たタイプ」

「そうじゃなくて!」

 一人で頭を抱えて暴れている蓮に、律は手を伸ばした。癖っ毛を緩く撫でる。

「蓮はかっこいいから大丈夫だよ」

 何気なく呟くと、手のひらの下で暴れていた蓮が大人しくなった。律にはわからないが、時々、何気ない一言で蓮の暴走は止まる。いまのは敵意ではないが、それが身内以外への感情であったらこないだの喧嘩よりも明確に暴走するだろう。そういうことを律は体感で知っている。

「でも、修治にも勝つ。連敗中だし」

「うん。それはちゃんと道場でね」

「わかってる。じゃねえと親父も認めねえし」

*****

 リンゴ飴とイチゴ飴の件は律と蓮が知らないうちに解決していた。

 学校から帰宅すると、食堂の大きな座卓にたくさんの紙が散乱していた。子どもの落書き、幼い文字。黒瀬家は子どもの立ち入りが多い。不登校児から未就学の子どもまで。不登校児は昼間、若い衆が公園やファストフード店にいる明らかに学校をサボっている学生を、補導されるよりはマシだと連れて来る。未就学児はなぜか父に懐くケースが多い。

 その子どもたちが残しただろう落書きの中に「黒瀬組屋台、フルーツ飴会議」なるものがあった。曰く、

 リンゴ飴は大きすぎて食べきれない。

 イチゴあめって、イチゴたかくない? りゅうちゃんだいじょうぶ?

 他のフルーツ飴がいいな! パインとか!

 じゃあ、みかんは? 缶詰なら安いんじゃない?

 ちいさいのがいい。おおきいのたべきれない。

 パインとみかんならキウイも入れよう!? そんな高くないよ!

 そんな散乱した紙類を見て、律は脱力した。確かに昼間、律と蓮が学校に行っている間に近所の子どもたちの世話をしていることは知っていたが、こんなことまでしていたとは。

「蓮、うちってなんだっけ?」

「ぼーりょくだん」

「……コレが?」

 全く律が知らなかったわけではない。ただ、その痕跡を実際に目にすることが少ないだけで、家業の悪い部分にばかり神経質になっていた。

「おや。若、蓮、おかえりなさい。どうかしましたか」

「いや……リンゴ飴イチゴ飴論争に決着ついたんだろうなって思っただけ」

 律が通りかかった修治に返事をすると、柔和な笑みが返ってきた。

「そうですね。子どもの目線は大事です。大人がいくら喜ばせようとしても、子どもたちが喜ばないのでは本末転倒ですからね」

「あのさ、修治。うちってなんだっけ」

「暴力団ですが?」

 大人に確認した後、律は更に脱力して蓮の肩に手をかけ、ぐったりした。

「若。ところで、型抜きの発注数は決まりましたか?」

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  • 若と忠犬と黒瀬組   #26 律と蓮

     修治に相談した足でそのまま父に進路を決めたことを告げた後、律は父に茶化される前に早々に一度離れの自室にノートを戻し、食堂へと戻った。食堂では今日も何人かの子どもたちが集まって賑やかにしている。その中に混ざった蓮が一番騒がしい。そんな姿を見て、律はほっとした。──このままいて欲しい。起点が蓮だとしても、律の願いは案外シンプルなのだ。だからこそ、難しくもある。***** 夕食を終えて律と蓮が離れに引き上げ、蓮の部屋に落ち着く前に律は自室から昼間に修治と父に見せたノートを取ってきた。律が蓮に自分の気持ちを伝えるのはまだ早いと止めていた理由はほとんど解消した。高校卒業後の進路の確定。家業を継ぐことへの意思表示。その上で自分がしたいと思っていることの主張。 大学進学に関しては、最初から一時的な現実逃避にしかならないと考えていた。いずれ、家業は継がなければならない。暴力団という組織に与えられた一般的イメージから律の嫌悪は生まれたが、春から夏にかけて色々なことがあり、いままで律が気付いていなかった面を垣間見、考えることができた。蓮の過去に関しては、正直なところもっと穏やかな形で知りたかったと思わなくもないが、律自身が迷い、間違いを繰り返しながら関係を修復できたことは律の進路に対する方向性を決定づける要因の根源となったことは間違いない。蓮が進路のことを訊いても「律の行くところ」と迷いもなくすんなり答えるのと、律が散々考え抜いて決めた挙句に出した答えが似たり寄ったりなことに関しては性質の違い上仕方ないのだが、結果的には律にはその回り道が必要だったのだ。「蓮。考え事、終わった」 並んで座って、ぺたりと蓮に寄りかかったまま律は率直に言って、手にしていたノートを蓮の膝の上に置いた。この先、律がどうしたいかがそのノートには全て書かれている。もちろん、蓮にも知って欲しいと思ったのだ。元々、律は蓮に隠し事をしない。考え事をしている時だけ、頭の中の整理を兼ねてノートに散々書き散らし、終わるとノート自体は隠す気もない。蓮もどこか律が考え事を纏めたノートを見ることを楽しみにしている節がある。「んー?」 膝の上に置かれたノートをぱらりとめくる蓮に、律は恥ずかしさを感じ並んだ体の向きを変えた。少しだけ蓮に寄りかかっている面が背中に移る。「りーつー。いままでで最高のびっしり度なんじゃね?

  • 若と忠犬と黒瀬組   #25 このままでいるための条件

     うーん、と唸りながら律は蓮の部屋のベッドでうつ伏せになってノートにメモ書きをしながら頭を悩ませていた。 蓮はオンラインゲームのレイド戦の真っ最中で、ボイスチャットをオンにしたまま時々スラング英語で喚いている。鼻歌を歌う時といい、オンラインゲームのボイスチャットといい、なぜか蓮は学校の英語の成績がいい訳ではないのに発音はきれいだしコミュニケーションも取れてしまう。ぱたりと顔をノートに伏せて律は賑やかにしている蓮の声を聞く。「Incoming! I got him!! Aaaaaah!!」 深夜帯のオンラインゲームになると野良でレイドバトルに参加し、臆面もなくすんなりとその場限りのプレイヤーとボス戦を繰り返しては楽しそうにしている蓮の声を聞いていると、律は素直に凄いなと思う。恐らく武道と同じで文法や単語よりも体感で覚えて実践でなんとかなってしまうタイプなのだ。英語の発音がいいのは蓮の母親が英語の歌を歌って聞かせていた影響もあるかもしれない。「let's gooo!! gg ez!」 ふふん、と得意げにしている声を聞くに、蓮はボスを仕留めたらしい。 ようやく律は突っ伏していた顔を上げた。蓮が好きなゲームの画面を見ていると、律は時々画面酔いをしてしまい気持ち悪くなり、できるだけ見ないようにしている。「蓮、今日もお手柄?」「もちろーん」 ベッドの上から律が声をかけると、蓮が律を振り返って上機嫌で返事する。戦闘終了画面のまま両手に持っていたコントローラを手放して、ベッドにぺたりと寄りかかる蓮に律は片手を伸ばして茶色い癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。……本当に大型犬だったらどうしよう、などと律はふと笑う。ゲームのボス戦で手柄を立てたから偉いでしょ。だから撫でて。返事したときの蓮がそんな風に律を振り返ったように思えたのだ。「蓮ってさ、警戒心とかある?」 ふと律が蓮を撫でながら訊くと「あるよー」と全く警戒心を感じさせない緩い声が返ってきた。言葉と声音が一致していなくて思わず律は本当か? と疑いそうになる。「もし仮に、僕がこうやって蓮のこと撫でたまま、いきなり殴ったりとか……考えたことないの」「ない。律はそんなことしないもん」 きっぱりと言い切られてしまうと律はなにも言い返せなくなり、蓮を引き寄せて両手でぎゅっと抱いた。「うん。しないよ」 どうしてそん

  • 若と忠犬と黒瀬組   #24 知らなかったこと

     夏休みの間、律は普段より長い間起床後、離れの縁側で考え事をし、その後は蓮を起こして朝食の後は休みだというのに昼間黒瀬家に入り浸る子どもたちと一緒に過ごすことが多い。時々、蓮と二人で町中華を食べに行ったり買い物をしたりと出かけもする。 子どもたちと言っても小学生から上は律と蓮と同じく高校生まで幅が広い。中学生や高校生ともなると言うこともほぼ同年代のレベルになるが、学校のクラスメイトだと女子を律から遠ざける蓮はなぜか黒瀬家に入り浸る不登校児には威嚇しない。むしろ不思議なくらい馴染んで一緒にはしゃいですらいる。 夏休みの間、黒瀬家に入り浸る子どもたちは顔ぶれがくるくると入れ替わるが、中に律が知っている中で毎日くる子がいた。まだ小学校中学年か高学年かの痩せた女の子。無口で、あまり誰とも喋らず、いつも隅で膝を抱えて静かに本を読んでいる。普段の律は学校に行っている間に子どもたちが帰ってしまうため、事情に詳しくないが、なぜかその子どもが気になっていた。 盆が終わり、八月も下旬に差し掛かったある日。珍しく昼間黒瀬家の食堂で賑やかしく遊ぶ子どもが少なく、年齢もばらばらな子が五人ほどしかいなかった。そして、その日もその痩せた女の子は部屋の隅で本を読んでいた。他には同じく小学生が二人、中学生と高校生が一人ずつ。中学生と高校生は両方とも女の子で話に熱中しており、二人の小学生は蓮が一緒に庭で遊んでいた。 律は痩せた女の子がどうしても気になり、そっと近づいてしゃがみこんだ。「ねえ、隣にいてもいいかな」 怖がらせないように、と内心びくびくしながら律は女の子に声をかけた。祭りの屋台に遊びに来る子どもたちとは雰囲気が違う。無邪気な人懐っこさがなく、子どもに慣れている律でも慎重になってしまう。いつも一人で部屋の隅で一人で本を読んでいて、無口で、ほとんど誰とも喋らないのに毎日来る子ども。どこか矛盾を感じる。 女の子は顔を上げてこくりと頷いて、また視線を本に移した。一瞬だけあった目が、子どもなのに無気力で律はぞくりとする。その目を律は知っている。律と父が蓮に怒鳴り散らし、傷を抉ってしまった時の虚ろさに似ていた。 隣に座り込んだはいいが、律はどう彼女に話しかけていいのか会話の糸口が見つからない。女の子は律がいることには頷いたが、そのまま本を読んでいて話をする意思はなさそうだ。無理に話しか

  • 若と忠犬と黒瀬組   #23 白い百合に願いを

     蓮が安静を言い渡された一週間はあっという間に過ぎて、その後の検査でも異常はなく、晴れて自由の身となり律はほっとした。家出騒ぎ──なのか、逃走劇か──の後、数日間だけ蓮の様子はぎこちなかったが、揶揄いこそするものの誰も蓮を責めなかったのもあってか、安静中の一週間のうちに普段の調子に戻っていた。ただ、ひとつだけ蓮には不満が残った。週末の朝稽古で許可が出るまで先制を封じられたのだ。手合わせの際に癖で先制攻撃をしてしまった場合、稽古後の道場の床掃除がペナルティ。「りーつー……先制禁止とかもうキッツイんだけどー!」 二週目の朝稽古の後、蓮は勢いよくモップを手に走り回りながら文句を言ってきた。「んー、それはさあ、蓮の自業自得? だよね。間が悪かったとはいえさ。ちゃんと反撃も防御もできるのにしなかったから。あー。あと、蓮ってさ、手合わせだと先制取って相手を自分のペースに巻き込むじゃん。だから、みんなからしたら先制禁止にしないと、蓮に反撃と防御を叩き込めないって言うか……」 ペナルティの床掃除中の蓮に向かって律は考えながら返事した。掃除中の蓮の邪魔にならないよう、律は道場の入り口のところで戸口に背を預けている。蓮が早く掃除を終わらそうとモップがけをしながら「ええー!」と抗議を示した。「僕はあまりそういうのわかんないけど、何度もそういう条件でやってたら体が覚えるっていうじゃん。付け焼刃かもしんないけど、蓮に同じ目にあってほしくないんだよ」「……」 基礎の部分だけ習得した後は向いていないからとやめてしまった律に言われた蓮は無言になった。優劣の問題ではなく、そもそも先制を封じられた理由を蓮自身も自覚しているからだろう。 なにも考えてなかった、と父に説教された時に答えた言葉は間違いなく蓮の本心だ。それだけ自暴自棄になった蓮には危害に対する防御も反撃も無意味になってしまうことが既に立証済みなのだから、先制を封じて反撃と防御を叩き込もうとしているのだろう。元々、運動神経も反射神経も優れていて飲み込みが早かった分、ここまでゲームのように得意な部分だけを楽しむように伸ばしてきた蓮が不服に感じるのは仕方ない。「じゃあさ、蓮。僕と一本やってみる?」 ふと律が思いついて言うと、モップを掛けて走り回っていた蓮がぴたりと止まった。「は? マジ言ってんの?」「嘘ついてどうすんの」

  • 若と忠犬と黒瀬組   #22 ただいま

     朝になって蓮は院長から簡単な問診を受けると、帰宅の許可が下りた。その後、修治が蓮の着替えを持ってきた。普段と変わらない様子で着替えの入った袋を渡し「準備ができたら帰りますよ」とだけ言った修治に、蓮は少し迷ったように俯いて唇を噛んでいたが、思い切ったのか勢いよく頭を上げた。「修治! 昨日は……ごめん」 バツの悪そうな顔をしている蓮を振り返った修治は、顔色一つ変えずにあっさりと返事した。「私は仕事を遂行しただけです。謝罪する相手が違うでしょう、蓮」 それだけ言い残して修治は病室を出ていった。恐らく、廊下で蓮の帰り支度を待っているだろう。「……修治、こえー……」 受け取った袋を抱えて蓮はぐったりとへたりこんだ。律は蓮の様子に笑いそうになってしまう。いままでも、律や蓮が一般的に叱られるようなことをしても修治は一切の謝罪を受け取らない。窘められることはあっても「ごめんなさい」を受け入れてもらえない。蓮も修治の態度にはなれているはずだが、今回はさすがに近くで修治の実務を見ていた分、律は少しだけ修治も根に持っているだろうなと邪推してしまう。「ほら、蓮。着替えて帰ろ」「帰ったら、親父にも説教されんだろ? いーやーだー……」「連も、ちゃんと父さんに言ったらいいよ。僕に言ったのと同じこと。父さんだって理由もなく頭ごなしにお説教しないし」 律がフォローのつもりで蓮を促すと、ベッドに座ってぐったりとしていた蓮が恨みがましそうな目で見上げてきた。「それさー、俺がなんか言っても火に油じゃん? バカか、って言われて余計説長くなんじゃん」 それも確かにそうだ、と律は思ったが、口にした言葉は違った。「でもさ、やっぱ言った方がいいんじゃないかな。僕は蓮がちゃんと話してくれたから納得したし、いま蓮がまだ少し怖がってんじゃないかなって思うけど、言わないとわかんないよ。父さんなんてただでさえ勢いだけで生きてるような人なんだから、話さないと伝わんないよ。だから、親子喧嘩、すればいいじゃん」 ふふ、と律は笑う。律は蓮の本当の父親を知らない。知りたいとも思わないが、六歳から一緒に育って蓮の方がよほど父の子と言われても不思議ではないほど似ているところがあると思う。直情的で勢い任せなところ、声が大きいところ、不器用なところ。上げたらきりがない。修治の言うように、蓮が母親似の部分はたくさ

  • 若と忠犬と黒瀬組   #21 なくなったと思ってた

     蓮は病室で病衣に着替えさせられて眠っていた。着ていたものは丁寧に畳まれているが、血痕や汚れが酷く律は思わず目を背けた。備え付けの簡素な椅子をベッドの脇に引き寄せ、消灯後の暗い病室に読書灯だけが灯る中で腰を下ろしてしばらくじっと蓮の寝顔を見ていた。 体の至る所に包帯やガーゼの処置さえなければ、いつもと同じく眠っているように見える。痛みに苦しんでいる様子も、悪夢にうなされている様子もない。──でも、蓮は目を覚ましたらどんな反応をするだろう? 律にはそれが気がかりだ。 父は荒い気性ゆえに蓮を殴って目を覚まさせろだなどと言う。律にも今回ばかりは一発くらいは殴ってしまいたい気持ちはある。けれど、生来の乱暴を好まない性質と、いまだ自責してしまう不器用さが簡単に手を上げる判断に至らない。そもそも、殴るという暴力を行使してもなんの解決にもならない。状態の悪化すら考えられる。好きなのに、手を上げるなんておかしい。 ふと、思いついて律は蓮の片手を布団からそっと出すと、背中を丸めて両手で包んだ。 まだ、蓮が黒瀬家に引き取られたばかりの頃、よく手を繋いだまま同じ布団で眠っていた。一人寝に慣れていないのは蓮の方だったのだ。六歳とはいえ母を亡くしたばかりで、表面上の悲壮感は薄かったが、夜になると寂しさで押し潰されそうになり「りつ……」と枕を抱えて布団に潜り込んできていた。そんなことを律は思い出した。 家の者たちから追いかけられ、逃げ回った蓮の本意はわからない。だが、蓮は大きな勘違いをしたままだということだけは確かだ。自分に対して疑心暗鬼のまま。その内側は不安と寂しさに満ちているのだろう。蓮はもう、律を受け入れないかもしれないが、律にも譲れない気持ちがある。だから、目が覚めるまででも伝う温度が少しでも蓮の心を癒せばいい。「蓮が、怖くない場所を僕が作れたら、まだここにいてくれるかな」 ぽつりと律は呟く。 暗い病室で読書灯だけが頼りの中、呟いた声はやけに大きく響いたように感じた。頼りない明かりに浮かぶ蓮は眠ったままで律の独り言には返事をしない。 ──優しい場所。そんな風に律は初めて自分の家のことを認識した。粗暴さはあっても、理不尽な暴力はない。蓮が出て行くといって飛び出したと知れば、理由など聞く前に誰もが探すことに必死になる。困っている、弱い立場の人間に無尽蔵に手を伸ばしてしま

  • 若と忠犬と黒瀬組   #3 忠犬、朝から全力

     週末の朝だけ、蓮は律が起こしに行かなくても自分で起きる。 土曜と日曜は敷地内の道場で父と修治が武道の稽古をつけてくれる。蓮にはそれが楽しいのだ。父は柔道。修治は空手やほかの武術にも長けている。更に、その稽古には黒瀬家に住み着いている若い者たちも参加するため、さながら異種格闘技場といった雰囲気だ。 週末の朝、律は普段通りに離れの縁側で水のグラスを横にぼんやりしていると廊下を走る蓮の足音がする。平日の寝起きの悪さはなんなのだろうかと疑いたくなるくらいに週末の朝の蓮は生き生きとしている。 蓮の好きなことと言えばゲーム、週末の稽古、それから時々夜に走りにも行っている。 ──体力があり余って、

  • 若と忠犬と黒瀬組   #7 前夜、静かな熱

     屋台の大盛禁止。任意の追加料金をいただくこと。不明点は榊修治まで。 妙な威圧感のある張り紙が台所と食堂に張り出された。  祭りの前日は毎年とても忙しい。数日前から屋台で使う粉や景品の類が普段は使っていない倉庫を埋めはじめ、テント設営の準備のために経年劣化のチェックから始まり、前日の夜は食品屋台用の仕込みが夜まで続く。台所だけでは狭く、黒瀬家の食堂まではみ出した仕込み隊が焼きそば用、お好み焼き用などに分けて大量のキャベツを刻んで袋に分類し、朝までは冷蔵庫で保管し、当日は大量のクーラーボックスに詰められる。その他にも、食べ物ごとに分類された食材。卵や紅生姜、天かす、青のりなど。フランクフル

  • 若と忠犬と黒瀬組   #5 喧嘩すんなバカ

     あーあ……タイミング悪っ……。 律が眉間を指先で押さえたのと、うっかり絡んできた大学生かフリーターか年上らしい男が蓮の蹴りで吹っ飛んだのは同時だった。 恐らく、大した悪気もなく多少めんどくさい絡まれ方をしただけで、ありがちなことだ。前方不注意ですれ違いざまに肩がぶつかる、かばんが当たってしまうなどの日常的なトラブルで普通であれば互いに無視するか精々謝罪し合って済むものだったが、相手が柄悪く絡んできた。 それもきっと蓮本人が絡まれていたなら、大した問題ではなかったが、絡まれたのは律の方だった。律はテンプレ通りに謝って切り抜けようとしたが、相手はその態度が気に入らなかったらしい。そうなる

  • 若と忠犬と黒瀬組   #4 優しい町とレバニラとホルモン

     八時半。週末の遅い朝食の時間。 ──もしかしたら、一般的な家よりもよっぽど健康的な生活習慣なんじゃないだろうかと時々律は自分の家ながら不安になる。よその家がどのような習慣であるかは知らないが、黒瀬家は律でも家業を疑いたくなるくらいには“そこ”に目を向けなければ健全に思えてしまう。食事の時間に遅れても、なにかしら誰かが食べる物を用意することが当然になっている。律には当たり前すぎるのだが、それが当たり前ではないと知ったのは小学校高学年に差し掛かった頃だったろうか。*****「あああああああああ!」 午前中、もうすぐ昼に差し掛かる頃。ゲームをしていたはずの蓮が突然大声を上げてコントローラ

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