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第3話

Author: はる
「ここにサインして」紗良は書類の最後のページを開き、冒頭部分を隠しながら英樹に差し出す。声はか細く、ほとんど聞こえなかっただろう。

英樹はちらっと書類に目を向けた。どうせまた、アクセサリーか不動産でもねだっているのだろう。この茶番を早く終わらせたかった英樹は、中身を確認しないでサインした。

サインを終えると、英樹は顔を上げた。「美希は体調が優れないし、家で看病する人もいないから、しばらくはうちに泊まってもらうから」

紗良は無表情で頷き、「ご自由にどうぞ」と答えた。

そして書類を手に取ると、振り返ることなく部屋を出て行った。

法律事務所。

弁護士は離婚届を注意深く確認し、頷いた。「サインは有効です。鈴木さん、あとは離婚に関する他の手続きを終えれば、無事婚姻関係を解消することができるでしょう」

紗良は、指先が白くなるほど強く書類を握りしめた。

ようやく……終わるんだ。

夜、紗良が家に帰ると、リビングからは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

ソファには美希が座り、真司と浩平がその両脇から彼女に寄り添いながら、物語を聞いている。

「こうして、王子様はお姫様を目覚めさせるキスをし、二人は末永く幸せに暮らしました」そう物語を終えると、美希は優しく二人の子供の頭をなでた。

真司が小さな顔を上げて言う。「美希さんは、ママよりずっと優しいや」

浩平も頷いた。「美希さんが僕のママだったらいいのにな……」

入り口に立っていた紗良は、心臓をナイフで抉られたような衝撃を受けた。

無表情のまま2階へ上がり、ゲストルームのシャワーを浴びる。

温かいお湯が体を流れていく。でも、心の寒さまでは洗い流してはくれなかった。

紗良は目を閉じた。安心して……その願い、もうすぐ叶えてあげるから。

ベッドに横になってまもなく、隣の部分が不意にぐっと沈んだ。

シャワーを浴び終えた英樹が、隣に寝転がったのだ。

しかし紗良は英樹に背を向け、ぴくりとも動かなかった。

突然、英樹がぐっと体を寄せてきた。腕が紗良の腰に回り、薄い唇がうなじに触れる。

紗良の体は強張り、とっさに英樹を強く突き放した。

英樹が眉を顰める。「お前が望んだ埋め合わせはしたはずだろ。海斗くんもたいして怪我をしたわけじゃない。なのに、いつまで拗ねているつもりだ?」

紗良が口を開こうとした、その時だった。

コン、コン、コン。

ドアがノックされ、真司がひょっこりと顔を覗かせる。「パパ!今夜、雷が鳴るって。美希さんは、雷がすごく苦手だって、パパ言ってたよね?」

浩平も顔を出し続いた。「パパ、早く美希さんのところへ行ってあげてよ!怖がってるから!」

すると英樹は窓の外の暗い空をちらりと見ると、躊躇うことなくベッドから出た。

部屋を出て行く前、英樹は「今夜は一人で寝てくれ」とだけ言った。

ドアがきちんと閉まっていなかったのか、隣の部屋からの楽しげな声がかすかに聞こえてくる。

「英樹、来てくれたの?」美希の甘えるような声が聞こえた。

「パパ!美希さんが話してくれるお話、すごく面白いんだよ!」真司が興奮した声で言う。

浩平も甘えた声で、「ねぇパパ、美希さんにずっとここに住んでもらおうよ」と言った。

英樹は穏やかに笑い、「いいよ」と答えた。

紗良はベッドの上で彼らの笑い声を聞きながら、静かに目を閉じる。

翌朝、紗良が階下へ降りていくと、キッチンからは楽しげな笑い声が聞こえてきた。

エプロンをつけた英樹がキッチンに立ち、その長い指でフライ返しを握っている。隣では美希が、時折漂ういい匂いに目を細めていた。

真司と浩平も二人の足元で、小さな顔を上げながら楽しそうにはしゃいでいた。

「英樹、何年も経つのに私の好きな味を覚えていてくれたなんて」美希の声は甘く、感動しているようだった。

英樹は美希の方を向き、紗良には決して見せたことのない優しい眼差しで言った。「一度だって忘れたことはないよ」

英樹は焼きあがった卵焼きを皿に乗せると、美希の前に差し出す。「味、変わってないか食べてみて」

一口食べた美希は、嬉しそうに顔をほころばせた。「前よりもっと美味しくなってる」

すかさず真司が口をひらく。「美希さん、これからパパが忙しい時は、僕が作ってあげるよ!」

浩平もぴょんぴょん跳ねながら続いた。「僕も料理を覚えるよ!パパより美味しいのを作ってあげるから!」

美希は二人に笑いかけ、その頭をなでた。英樹もその光景を見て、普段の厳しい顔をほころばせていた。

階段の途中でその光景を見ていた紗良は、自嘲するように唇を歪める。

英樹は裕福な家の御曹司で、生活水準がとても高いし、二人の子供も甘やかされて育ったため、やりたい放題だった。だから紗良は、これまでずっと家族のために身を粉にして尽くしてきた。

しかし、本当は……

家事なんて一切しなかった英樹が、愛する人のためには料理までするなんて。

あれほど我が儘だった真司と浩平が、こんなにも聞き分けのいい子になるとは思いもしなかった。

自分が彼らのためにどれだけ尽くしても無駄だったのに、美希の前ではみんな素直になる。

やっぱり、先に愛した方が負けなのだ。
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