Se connecter和彦は寝返りを打ち、体ごと三田村のほうを向く。その三田村は、テレビに視線を向けていた。和彦がなんのことを言っているのかわかったらしく、小さく声を洩らす。
「ああ、そうか……」 申し合わせたように二人は、同じ単語を口にした。 クリスマス、と。 物騒なヤクザが口にするには不似合いな言葉だなと思った途端、和彦はつい声を洩らして笑ってしまう。そんな和彦を、三田村は優しい眼差しで見つめてくる。「クリスマスの日は、イブも含めて、先生は大忙しだろうな」「どうかな。案外、みんな予定が入って、ぼくは一人で過ごすかもしれない」「それはないだろう。……もし仮にそうなったら、俺が喜んで、先生の予定を押さえさせてもらう」 和彦は三田村の頬を撫でてから、囁く。「ぼくより忙しい若頭補佐が、何言ってるんだ」 三田村は、淡く苦笑した。否定しなかったということは、実際、忙しいのだろう。こうして一晩過ごす時間も、スケジュール管理をある程度自由に「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」 気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。 和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」 いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。「えっ?」 ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」「……そんなふうに言われると、確かに」「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」 秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」「まあ、そうでしょうね」 あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」「おや、やっぱり興味がありますか」 賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそ
「先生は、王様のように振る舞ってください。なんといっても、わたしの友人でもあるし、命の恩人でもありますから。それにこの間は、わたしの事情で迷惑をかけてしまいましたしね」 ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。「――いろいろと大変だったようですね」 和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」「先生はいつでも、波瀾万丈だ」 自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」 物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」 わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」 賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒
守光の言葉に潜む凄みに、和彦は静かに気圧されていた。言おうとしていることはわかるし、これまでこなしてきた仕事の中で、この世界特有の考え方は少しずつ和彦に染み込んできた。しかし守光は、さらに踏み込んでくる。 今いる世界で和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉であることが大きな比重を占めてきた。しかし守光の申し出を受けることで、その比重が変わる。「知らず知らずのうちに、あんたには身についたはずだ。腹に呑み込む、ということが。組のために、男のために、何かしら呑み込んできただろう。これからは、医者として、あんたが呑み込むものは増えてくる。単なる医者ではなく、組織に必要とされる医者としてだ」 あんたならできる、と賢吾によく似た声が力強く言い切る。 強い拒否感と、逃げ出したい気持ちと、それすら凌駕する、見えない圧倒的な力に気持ちを押さえつけられる感覚に、和彦は眩暈に襲われる。 たまらず目を閉じると、じわじわと体内に満ちていくものがあった。強い男に求められているという、奇妙な安堵感だった。**** すっかり様子が変わった店内を見回した和彦は、所在なくその場に立ち尽くし、少し戸惑う。 男の自分が来ていい場所なのだろうかと、いまさらながら思ったのだ。 気を利かせた従業員がすぐに動き、和彦をこの場に招いた当人を呼んでくる。開店準備のため、忙しく立ち働いている従業員――ホストたちの誰よりも、華やかな雰囲気と美貌を持つ男は、和彦を見るなり、艶やかな笑みを浮かべた。こんな笑みを向けられては女性客はたまらないだろうが、残念なことに、秦がホストとして接客することはない。特別な場合を除いて。「いらっしゃいませ」 秦からそう声をかけられ、和彦は苦笑で返す。「別にぼくは、ホスト遊びがしたくて来たわけじゃないんだが」「お望みなら、店の者をつけますよ」「それでぼくがハマったら、君はいろいろ困るんじゃないか」 和彦がそう返すと、秦は芝居がかった仕種であごに指を当て、何か思案するような顔をする。「それもそうですね……。大事な先生に悪い遊
忘れたことはなかった。英俊と会うことに神経をすり減らしながらも、常に頭の片隅にあった件だ。このままなかったことにならないだろうかと、願わなかったといえばウソになるが、巨大な組織を背負う者に、そんな甘さがあるはずもない。和彦の状態が落ち着くのを待っていたということは、虎視淡々と機会をうかがっていたのだ。「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」「ぼくに、そこまでの価値は――」「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」 これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。 自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。 堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」 話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に
和彦を案内した男が声をかけ、スッと襖を開ける。座椅子についた守光と目が合い、穏やかに微笑みかけられた。和彦もぎこちなく微笑み返す。「しっかり働いたあとだと、腹も減っただろう。すぐに料理を運ばせよう」 和彦が向かいに座ると同時に、守光がそう切り出す。和彦は、お茶と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら、改めて守光を見つめる。今晩はすでに総和会会長としての仕事を終えているのか、ノーネクタイ姿だった。 和彦の視線に気づいたのか、守光は自分の格好を見下ろしてから、こう言った。「あんたが相手だと、体面を取り繕う必要もない。もしかすると普段から、大物ぶった格好をしているとか、年甲斐のない格好をしているとか思われているのかもしれんが」「いえっ、そんなことっ……」 わかっている、と言って、守光が笑う。「今のような立場にいると、相手の目にどう映るのが効果的か、そういう賢しいことでも神経を使う。大なり小なり、この世界で生きている人間は、そういうものだ。己の存在を軽んじられるのは、何よりの侮辱だということだ」 肩書きは医者である和彦にこういうことを説くのは、そういう人間になれというわけではなく、関わりを持つ男たちがどういう生き物なのか、理解しておけということだろう。その関わりを持つ男たちの中には当然、守光自身も含まれている。 他愛ない会話を交わしている間に、料理が運ばれてきて目の前に並ぶ。ここで意外に感じたが、今晩は酒は用意されておらず、守光はお茶で口を湿らせた。和彦には、グラスワインが。あまり細かいことを指摘するのも不躾に思え、和彦は口当たりの軽いワインを一口飲む。 和やかな雰囲気のまま食事は始まった。守光に呼ばれた理由を、最初はあれこれと推測していた和彦だが、料理の一品一品を満足げに味わう守光につられて、食事に集中する。確かに、働いたあとだけに空腹だったのだ。「本宅では、しっかりと美味いものを食わせてもらっているかね?」 揚げ物をすべて食べ終えた和彦に、守光がそう問いかけてくる。美味しいものを食べてすっかり気分が解れた和彦は、笑みをこぼして頷く。「はい。すっかりぼくが好きな味を把握されたみた
「あいつは番犬どころか、今じゃ先生の騎士気取りかもな。自分が犬であることを忘れたんだ。それもこれも先生が、鷹津を甘やかすからだ。躾もせず、ちょっとしたお使い仕事をこなすだけで、美味い餌をたっぷり与えて……。甘やかすだけじゃ狂犬は、単なる駄犬になる」 賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。「痛っ」「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」 底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。 和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。「少し、中庭で風に当たってくる」 賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」 和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。 鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。 今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。 ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。**** 最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。 仕方なく
突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。 こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。 南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。 南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。「これが、長嶺組長のオンナ……」 和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手
「……それは、ぼくの実家のことを指しているのですか?」「わしは、難しい話に興味はないよ」 機嫌よさそうに話す守光の表情から、狡猾さは感じられない。しかし、本当に狡猾で、頭が切れる人間は、完璧に自分の本性を隠せるものだ。和彦の父親が、まさにそうだ。 急に警戒心を露にした和彦に向けて、守光はさらに言葉を続ける。「あるのは、長嶺の〈悪ガキ〉二人を骨抜きにしている先生への興味だ」「悪ガキ……」「わしにしてみれば、でかくなったつもりの賢吾はまだ悪ガキのままで、千尋はさらに
長嶺組という看板に守られている和彦は、エレベーターの中で南郷に話しかけられたとき、ひどく不安だった。その理由が、今ならわかる。 長嶺組を恐れない男の前では、自分があまりに無防備で、危険を避けようとする本能が働いたのだ。 力があるのは長嶺組の男たちで、和彦自身ではない。頭ではわかっていても、あまりに周囲の男たちから大事にされ、少し浮かれていたのかもしれない。 「――……やっぱり、ヤクザは怖いな……」 声に出して呟いて、苦々しく唇を歪める。 カーテンを開けたままの窓から夕日が差し込む。眠るには明るすぎる気もするが、もう起き上がるのも
ハッとして顔を上げると、大きく分厚い手が眼前に迫っていた。何が起こっているのか理解できず、ただ本能的に危険を感じて体が硬直する。それをいいことに、南郷が和彦の髪を撫でてきた。 和彦の運転手を兼ねている総和会の組員は、扉の前に立ってこちらに背を向けているため、何が起こっているか気づいていないようだ。仮に何か感じていても、南郷のような男が背後に立っていては気をつかい、振り返るのをためらうだろう。 たった一声上げればいいはずなのに、和彦は唇を動かすことすらできなかった。南郷の手つきが無造作で、次の瞬間には髪を鷲掴まれ、引き抜かれそうで怖かったのだ。このときになって和彦







