LOGIN*
*
*
*
俊哉と再び対面することが決まったからといって、特別な変化が起こるでもなく、いつものようにクリニックで過ごす月曜日は始まった。
「……うーん」 診察室のイスに深くもたれかかって、一声唸った和彦はこめかみを押さえる。前夜、中嶋の愚痴につき合ったあと、自宅マンションに帰宅した和彦だが、今度は一人で深酒をしてしまったのだ。おかげで、朝から頭痛がする。 次の予約まで時間があるため、紅茶を飲みながらのんびりしているが、頭の中ではめまぐるしく懸念事項が駆け巡っていた。この辺りも頭痛と関係しているのだろう。 和彦は深いため息をつくと、デスク上の卓上カレンダーを手に取る。週末まであっという間だと思ったあと、十一月ももうすぐ終わることに気づかされる。今年最後の月が巡ってくるということに、ささやかな感慨に耽っていた。 そこでふと、去年の今頃、自分はどうしていたのだろうかと思い返す。男たちの事情に振り回されてはいたが、それでも比較的穏やかな日々を「できれば朝から来たかったんだけど、午前中は診療所を開けていてね。案の定診察が長引いて、こんな時間になってしまった」 賀谷の横顔には強い疲労感が漂っている。そこに悲しみも加わっているのは、腫れた両瞼が物語っている。「――……この階段は、和泉家の人しか使わない秘密通路みたいなものでね。下りた先に、正時さんの趣味の道具を仕舞ってある小屋がある。屋敷に持ち込まないのは、総子さんに見つかって小言を言われるのが嫌だって……。けっこう子供みたいなところがあったんだ。まあ、総子さんは全部知ってたんだけどね」「どんな趣味なんですか」「釣りだよ。川釣り。子供の頃から川遊びが好きだったらしい。ときどきぼくも連れて行ってもらってね。残念ながら、正時さんの指導のわりに、ぼくは全然上手くならなかったんだけど」 よく釣りの話をしていたという小屋で、賀谷はひっそりと思い出に浸っていたのだろう。 少しの間、二人の間に沈黙が流れる。それは息が詰まるような重苦しいものではなく、ただなんとなく、互いの存在を空気のように受け入れる自然なものだった。和彦は特別な感情を込めて、改めて賀谷の横顔に視線を向ける。「あの――」「前に君が打ち明けてくれただろう、〈これから〉のことを」 鷹津とログハウスで生活していたときのことだ。和彦は電話で賀谷にある相談をしていた。「君は可能性の一つとして言っていたけど、ぼくはずっと悩んでいたんだ。いままで返事をしなかったことで察しているけど思うけど」「……自分でも、迷惑を顧みないことを言ってしまったと思います。だから、忘れてもらっていたほうが……」「正時さんを看取りながら、ぼくは君のことを考えていた。――独身だったぼくには、父を亡くしてから身内と呼べる人がいなくてね。前にも言ったけど、そんな中、ずっとよくしてくれたのが正時さんと総子さんのご夫妻だ。……紗香さんのこともあるのに、本当によくしてくれた」 総子もずいぶん賀谷を頼りにしているようだったので、この言葉にうそはないとわかる。
「まあ、総子さんが出入りを許しているのなら、わたしがとやかく言う権利はないな」 俊哉はスマートフォンにちらりと視線を落としてから、とうとう電源を切ってしまう。目頭を押さえる姿を見て、和彦は声をかけずにはいられなかった。「父さんも少し休んだら。おばあ様の側にはぼくがついているから」「そうだな。お前と総子さんは、相性がいい」 なんと応じればいいかわからず、三人分の食器を洗い場に運ぶ。 一人になった和彦は、ひとまず総子に挨拶をしておこうと広間に行ってみる。思ったとおり、総子は正時の側にいた。「朝食は食べましたか?」 控えめに室内を覗く和彦に気づいて、総子がそう問いかけてくる。頷いてから、総子の傍らに腰を下ろす。「父さんと母さんは、少し休むそうです。昨夜は眠れなかったようなので」「夜、何度か様子を見に来てくれたんですよ。仕事を終えてこちらに移動するだけでも大変だったでしょうに。――でもおかげで、俊哉さんとはいろいろと話すことができました」 視線を伏せ気味だった総子が、ふっと襖のほうに目をやってから声を潜めた。「あなたが預かってきた香典だけど、後日、あなた宛てに香典返しと礼状を送ります。それをあなたから、〈あちら〉に渡してもらえますか? ただし、わたしの名は記しません。礼儀知らずな行為になりますけど、事情は汲んでもらえると思っています」 長嶺組と総和会と直接和泉家が繋がったという証を残す危険性を言っているのだ。それぞれ大きな組織を背負う父子が迂闊なことをするはずもないと信じたいが、全面的に信用するわけにはいかない総子の立場もよくわかる。礼状を送ることが精一杯の誠意なのだろう。「ぼくからきちんと説明しておきます。……大変なときに、おばあ様には面倒をかけてしまって――」「こんなの面倒のうちに入りませんよ」 そう言ってようやく総子が笑みを浮かべる。すぐにでも消えてしまいそうな儚い表情であっても、和彦には救いになる。正時を亡くしたばかりであっても、総子は決して絶望はしていないのだと。** 午後になってから湯灌と納棺
**** 和泉家の屋敷での家族揃っての朝食は、ひたすら静かなものだった。和彦は昆布入りのおにぎりを黙々と食べる。正面に座る俊哉は一見いつも通りに見えるが、少し離れた席につく綾香のほうは違う。憔悴しきった様子で、食欲がないのか味噌汁を一口、二口啜っただけで、箸はとまったままだ。 和彦は、昨夜はほとんど夕食が喉を通らなかったが、現金なもので今朝は、大皿にのる大量のおにぎりを見た途端に空腹を自覚した。他の器にはきんぴらごぼうや、牛肉のしぐれ煮、小松菜の卵炒め、ポテトサラダといった総菜が盛られており、好きなものを自分で取り分ける形式になっている。夕方からの通夜の準備で朝から慌ただしくしているため、手が空いている人から朝食をとるよう言われていた。今のところ食堂には和彦たち家族三人の姿しかない。 だからといって家族だけの会話があるわけではなく、俊哉は持ち込んだスマートフォンが点滅するたびに確認している。忙しい身ながら、少なくとも二泊する予定を立てる程度には、和泉家を尊重しているとも言える。 気を使い続けると沈黙したままになるため、和彦はおずおずと口を開く。「……父さん、兄さんから連絡は……?」「夜中にあった。やはり、仕事で身動きが取れないそうだ。子供じゃないんだ。来られるなら来る。無理なら来ない。それぐらい自分で判断するだろう」 俊哉ですらこちらに来ている中、英俊はもしかすると自分と顔を合わせたくないのだろうかと、ふと和彦は考える。わずかながら罪悪感を覚えなくもないが、たった今俊哉から言われたように、判断するのは英俊だ。 食堂の窓の外で、葬儀会社のスタッフたちが慌ただしく何かを運び込んでいる姿がちらちらと映る。通夜はこの屋敷で、葬儀は近所にある和泉家の菩提寺で執り行うことになっている。年明けに、和彦が紗香の墓参りのため訪ねた寺だ。生前の正時の希望だそうだ。 ガタッとイスを引く音がする。振り返ると、綾香が立ち上がったところだった。「少し……、部屋で休むわね。昨夜は全然眠れなくて」「…&hellip
「ご両親が到着しましたよ。広間に行かれましたが、和彦さんはどうしますか?」「……ぼくも、行きます」 九鬼とともに広間に向かう。一声かけて襖を開けると、すでに両親は、正時の遺体と対面していた。傍らでは気丈な様子で総子が見守っている。 賀谷は一旦自宅に戻ったと、背後から小声で九鬼が教えてくれた。あとはご家族だけでと言い置いて、静かに襖が閉まる。和彦は遠慮しつつ総子の側に腰を下ろした。 綾香は、苦しげな表情でボロボロと涙を流していた。滅多に感情を露わにせず、泣いたところなど子供の前で見せたことのない母親が。「優しいお父さんだった……。ずっとわたしの心配をしてくれて――。もっと会って、話せばよかった。優しくすればよかった。……お父さんにだけは」 恨み言とも取れる綾香の言葉を聞いても、総子は表情を変えなかった。母と娘の間にどんな葛藤や諍いがあったのか、和彦は何も知らない。それでも側で聞いていてヒヤリとしてしまう。 俊哉はじっと目を伏せていた。何か思索しているようにも見え、話しかけるのをためらわれる。しかしどうしても気になることがあった。「……兄さんは、まだ?」 小声で尋ねると、ふっと視線を上げた俊哉が一瞬不快げに唇の端を動かした。「仕事があって来られないそうだ」「でも――」「いいのよ。今生きている人間は、背負って果たす義務がある。忙しいのでしょう、英俊は」 こう応じたのは総子だった。何かが断ち切られたように沈黙が訪れ、誰も身じろぎしない中、線香の煙だけが緩やかに立ち昇っていく。 誰か、会話のきっかけを作ってくれないだろうかと願っていると、ふと思い出したように総子が和彦を見た。「お風呂の準備ができているから、和彦さんが先に入ってきなさい。わたしはこれから、お寺や葬儀会社の方たちと相談することがありますから。それと、綾香と俊哉さんとも話したいことがあります」 あなたには聞かせたくないと、総子の眼差しが言っている。過去に重いものを背負い過ぎた三人でしか話せないこともあ
** せっかく用意してもらった夕食はあまり喉を通らなかった。和彦は前回と同じ客間に案内されてから、落ち着かない時間を過ごす。何か手伝えればいいのだが、この家や地域のやり方を一切知らない人間はかえって足手まといになるだろう。総子からも、休んでいてくれと言われてしまった。 一方の九鬼たちのほうは、総子と別室に移動するのを見かけた。広間に残ったのは賀谷だけだ。広間を出るとき、その光景を目にした和彦は、やはり賀谷は和泉家にとって特別な存在なのだと実感した。 賀谷とはもう一度会って、いろいろと話したいと考えてはいたが、こういう形での再会は望んでいなかった。 部屋でじっとしているのも落ち着かなくて、思いきって客間を出る。外はもう暗くなっているが、廊下には煌々と電気がついており、おかげでいくらか外の様子を見ることができる。年明けには鮮やかな赤い花をつけていた山茶花の木は、枝を刈り込まれてさっぱりとしていた。 ぼんやりと眺めていると、ふいに山茶花の木の根元近くで何かが蠢く。ぎょっとして目を凝らせば、全身灰色の猫だ。「この猫……」 ついガラス戸を開けると、和彦を見上げた灰色猫はのんきな鳴き声を上げる。ここで和彦は、この家の異変にいまさらながら気がついた。年明けにはあれだけあちこちで見かけた猫たちの姿がないのだ。 ニャア、ともう一度鳴いた灰色猫が身軽に廊下へと乗り上がってくる。勝手に入れてしまっていいのだろうかとおろおろする和彦にかまわず、灰色猫は人懐こく足元にまとわりついてくる。この猫も正時に可愛がられていたのだろうなと思ったら、堪らない気持ちになった。廊下に膝をつき、ぎこちなく灰色猫を抱き上げる。 特に嫌がる素振りも見せない灰色猫をしっかり抱きながら、廊下に座り込む。琥珀色の瞳でじっと見上げてくるので、なんとなく和彦は語り掛けていた。「お前、おじい様に可愛がられてたか? ふふ、少し肉付きがよすぎるみたいだ。美味しいものをいつも食べさせてもらってるんだろ」 言葉がわかるはずもないのだが、返事をするように灰色猫は小さく鳴く。腕の中の猫の温かな感触が愛しいと同時に切なくて、和彦はそれ以上何も言えなくなる。
高速道路を下りてからもう一度休憩を取ったあと、ひたすら車は走り続けた。そのうち見覚えのある景色が外を流れるようになる。 背もたれから体を起こした和彦はウィンドーに顔を寄せていた。すでに通り過ぎた小さな駅を振り返って眺める。寒い中、缶コーヒーで手を暖めながらバスを待っていた場所だ。 貯水湖にかかる橋に差し掛かったときには、夕日が水面に反射していた。ここまでくると、和泉家まではもう少しだ。 和彦の胸を重苦しい感覚が塞いでいく。正時の死を直視する瞬間がもうすぐ訪れるのだ。そして、総子になんと言葉をかけ、どう振る舞えばいいのかと思い悩む。 そんな和彦の苦悩を察したのか、九鬼が口を開いた。「諸々の差配は、和泉家と馴染みの深い人たちがやってくれるでしょうし、事務的な手続きや処理も総子さんだけじゃなく、必要があればあなたのご両親がやるでしょう。あなたは孫として、静かに総子さんに寄り添えばいいと思いますよ。あなたが駆け付けてくれたことが、総子さんの支えになる。……正時さんも喜んでくれるでしょう」 和泉家の敷地を囲う土塀が見えてくる。九鬼と烏丸がぼそぼそと何かを相談したあと、車は立派な数寄屋門を通り過ぎてから、駐車場へと入った。かつて人の出入りが多かった頃の名残りなのか、駐車場は広く、数台の車や自転車などが停まっていてもまだ余裕がある。 今日は開け放たれている門から中を覗くと、駐車場の様子が見えていたのか、ちょうど玄関から、和泉家に住み込みで働いている君代が出てきたところだった。前回会ったときは明るく溌剌としていたが、今は目が真っ赤になって明らかに憔悴していた。和彦を見るなり、無理したような笑顔を浮かべる。「遠いところを、お疲れになったでしょう。さあ、中に入ってください。奥様がお待ちになっています」 玄関に入ると、高齢の男性が丁寧に頭を下げたあと、荷物を部屋に運んでおくと手を出してきた。戸惑う和彦とは対照的に、九鬼は前に出て自分が持っているバッグだけでなく、和彦の手からも荷物一式を取り上げて男性に渡す。スリッパに履き替えながら小声で教えてくれた。「古くから和泉家で働いていた人です。もう引退されていますが、手が必要なときにはこうして