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第14話(7)

Author: 北川とも
last update publish date: 2026-01-23 20:00:56

 それでも今は、優しい錯覚に浸っていたい。

 三田村に促され、サンドイッチを手に取る。和彦が眠っている間に、近くのファストフード店まで三田村が買いに行ってくれたものだ。具がたっぷりの大きなサンドイッチとスープは、和彦の普段の朝食としては十分すぎる量だ。

「昼まで一緒にいられるんだろ?」

 サンドイッチを頬張る合間に問いかけると、和彦を安心させるように三田村は目元を和らげる。

「ああ。もうそんなに時間はないが、先生の行きたいところがあればつき合う」

「別に今日、どうしても行きたいってところは……ないな。あんたこそ、出かける用はないのか? どこだってつき合うぞ」

「……そんなふうに言われたら、何か考えないとな」

 生まじめな顔で考え込む三田村を眺めながら、サンドイッチを食べていた和彦だが、ふと今の時間が気になる。三田村とあとどれぐらい一緒にいられるか、知っておきたかったのだ。

 イスの背もたれにかけたジャケットのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す
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  • 血と束縛と   第48話(7)

     ふと、外で車のドアが閉まった音がした。和彦が何げなく視線を窓のほうに向けたときには、音もなく南郷は立ち上がっていた。今度は、段ボールの一つを開けて何かを取り出し、和彦の膝の上に置く。小さな手提げ袋だった。反射的に中を覗き込んだ和彦は、パッと南郷を見上げる。「拾ってクリーニングに出しておいた。寒くなったらまた使ってくれ」 南郷から贈られた手袋だった。駅構内で落としてそのままになっていたが、皮肉なことに南郷の手によってまた手元に戻ってきたのだ。物に罪はないため、無碍に突き返すこともできない。「もっと話したいことがあったが、時間だ。先生、玄関まで送る」 いきなり面談の終了を告げられ、南郷にドアのほうを示される。和彦は手提げ袋を胸元に抱えて立ち上がった。 再び白い回廊のような廊下を歩きながら、なんとなく気になった和彦は控えめに提案してみた。「この壁、何か、飾らないんですか? あまりに殺風景というか……」「今、悩んでいる。風景画にするか、古い映画のポスターでも額に入れて飾るか。版画……リトグラフというのか、ああいうのでもいい。買い揃えたいところだが、俺はインテリアとか美術についてはまったくお手上げだ」 本部の建物には麗々しい日本画や書を飾ってはあるのだが、あれらは南郷が求めているものではないようだ。 美術、という単語にふっと脳裏を過ったのは賢吾の顔だった。美術館巡りをするような男なので相応の知識はあるのだろうが、まさか南郷の相談に乗るはずもない。余計なことは言わないでおくに限ると、和彦は無意識に口元に手を遣っていた。「――ああ、言い忘れるところだった。便宜上、ここは〈寮〉と呼ぶことになっている。先生もそうしてくれ」「寮ですか……。表から見ると、雰囲気のいい喫茶店みたいな造りなのに、変な感じですね」「便宜上、だからな。先生がシャレた名前をつけたいというなら任せるが」「ぼくは関係ないので」 淡々と会話を交わしながら玄関まで来たところで、ガラスドアの向こうでちらちらと人影が動いている。南郷が恭しくドアを開けると、そこには着物姿

  • 血と束縛と   第48話(6)

    「強面の俺がちょっと揶揄えば、さっさと尻まくって逃げ出すかと期待もしてたんだがな。見た目によらず、あんたは下手な極道より肝が太かった。――オヤジさんと渡り合える佐伯俊哉の息子なら、さもありなんか」「……父は、関係ないです。あの人はあの人の生き方を貫いて、ぼくは、どう生きるか模索している最中ですから」「上手いな、先生」 ニヤリとした南郷の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。もしかすると、和彦と俊哉の血の繋がりについて、守光から何か聞かされており、鎌をかけたつもりなのかもしれない。 ここでふいに短く電子音が鳴り、南郷は一旦立ち上がって書斎デスクに歩み寄る。スマートフォンを手にして何か確認したあと、すぐにまたソファに腰掛けた。メッセージが届いたようだが、返信する必要はなかったようだ。何事もなかったように南郷は会話を再開した。「あちら――長嶺組長には、オヤジさんから伝えておいたんだが、月に一度、あんたを本部に派遣してもらうというのは聞いたか? 一泊してもらうことになる」「決定、なんですよね」 ついさきほどの南郷の話を聞いたうえで、拒否できる人間などいるのだろうか。賢吾や長嶺組のことが頭にある和彦には無理だった。だから南郷も『同志』などという単語を使ったのだ。「できることなら、あんたが月の半分でも、ここに住んでくれればいいんだがな」「ぼくを衰弱死させたいんですか」 言葉に遠慮がなくなった和彦を、南郷は鼻先で笑った。「大事にするが?」「ええ、大事にしてください。ぼくは、長嶺賢吾のオンナですから」 スッと笑みを消した南郷が、まっすぐ見据えてくる。敵意も悪意もなく、ただ、目の前の存在を網膜と脳に焼き付けようとしているかのようだ。「……雪に足跡を残しながら逃げ惑うあんたの姿は、今でも夢に見るほどよかった。ガキの頃に見た、追われるうさぎそのもので。俺の今の仕事は猟犬に例えられるが、あのときは心底、猟犬の気持ちがわかった」 昨年末の総和会の別荘での出来事を持ち出されるたびに、体の内に冷たい感覚が走る。つまり、心底不愉快なのだ。「それが

  • 血と束縛と   第48話(5)

     南郷の口調はいつの間にかわずかな熱を帯びていた。どこか誇らしげでもある表情を目にした和彦は、この男は長嶺の血に縛られることに焦がれているのかもしれないと、嫌悪とも憐憫ともつかない複雑な感情を抱く。「――……もしかして、あなたが長嶺会長の隠し子だという噂は、あなた自身が流したんですか?」「どうだろうな。そう思わせるよう振る舞ったかもしれないし、誰かが邪推して流したのかもしれない。特定したところで意味はない。利用できる噂話だから、表立って否定はしていないし、オヤジさんもそれを良しとしている。腹に何かしら抱えていると、下衆な期待をする奴もいる。本妻の子と妾腹の子が後継者の座を巡って争えば、おもしろいことになるかもしれない、とかな。俺と長嶺組長が反目し合っていると思わせるほうが、何かと動きやすい」 和彦は意識しないまま、小さく声を洩らしていた。 そんな二人の関係が、和彦の登場によって険悪さを増したと周囲は思っているだろう。賢吾がかつて南郷を殴った原因は、和彦だった。総和会と長嶺組の緊張感が高まったのも和彦によるところが大きく、そんな中で、南郷が和彦の後見人となったのだ。誰もが、賢吾の神経を逆撫でる決定だと感じたはずだ。「ぼくとあなたは、組織どころか父子の仲を引き裂きかねない。それが、さっきの同志という言葉に繋がるんですか……?」「長嶺組長と長嶺組の安寧は、総和会での絶対的な立場にいることで約束される――と、オヤジさんは考えている。あの人は、ずっとそうだった。総和会で誰を蹴落とし、誰かと誰かを共食いさせてじわじわと影響力を削ぎ落とし、そうしながら常に頭にあるのは、長嶺組と、長嶺の血を継ぐ男たちのことだ。だが、肝心の長嶺組長は総和会を忌避したがっていた」 歯がゆい、とはっきり南郷は言い切った。「警戒心の強い蛇なんだと、いつだったかオヤジさんが、長嶺組長の気質を語っていたことがある。巣穴にこもった蛇を外に引っ張り出すのは容易じゃない。美味い餌でおびき出すか、燻し出すか――」 ここで南郷に向けられた視線に、和彦は顔をしかめて返す。露骨な当て擦りに、いまさらムキになって反論はしない。「あんたはきちんと、

  • 血と束縛と   第48話(4)

     突然の提案に呆然としたあと、我に返った和彦はきっぱりと拒否する。前にも南郷から同じ提案をされたことを思い出した。 和彦の返事は予想通りだったのだろう。南郷は気を悪くした素振りを見せるどころか、むしろ満足げな表情を浮かべている。揶揄われていると感じて席を立とうとしたが、次の南郷の言葉で動きを止めた。「俺とあんたは、敵同士ではなく、限りなく同志に近いと思っている」「えっ……?」「――長嶺組長の将来について話をしようか、先生」 ぎこちない動きで和彦は座り直していた。南郷は窓のほうに視線を向けると、何かを思い出しているのかふっと遠い目をした。「去年の末の総和会の別荘での出来事については、俺はまったく謝る気はない。必要だから実行した。興味もあったしな。長嶺の男に愛されるあんたの体に」「……謝らなくていいです。どうせ、一生許す気はないですから」「それでこそ、特別な〈オンナ〉だ」 何も感じないわけではないのだ。服の下では肌が粟立っているし、じっとりと冷や汗もかいている。和彦は、たまらなく南郷が怖い。だが賢吾の話題を出されては、逃げ出すわけにはいかない。 南郷に負けたくないと強い対抗心を持つのは、目の前にいる男が賢吾に抱く特殊な感情に気づいているからだ。「あんたが元刑事のもとへ逃げ出したのは、想定外だった。そして、がっかりもした。俺の見込み違いだったのかと」「見込み違い?」「あんたは自分の人生を、長嶺組長に賭けたんだと思っていた。――俺がそうであるように」 賭ける相手は守光ではないのかと、和彦は大きく目を見開く。その反応の意味を、南郷は正確に読み取っていた。「俺にとってオヤジさんは、大恩ある人だ。肥溜めみたいな世界から掬い上げて、獣から人にしてくれたんだからな。あの人が成し遂げたいことがあるというなら、俺は喜んで命を差し出す。長嶺組長は、そんなオヤジさんの一人息子だ。俺は当然、何かあれば身を挺して守るつもりだったが……、自分は本当にそんなことで納得するのかと思い始めたんだ。納得というのは、そのまま満足して死ねるかと

  • 血と束縛と   第48話(3)

     エントランスの正面には受付カウンターが設けられているが、誰もいない。左右に廊下が分かれており、南郷は左に進んだので和彦もスリッパに履き替えてついていく。 新築の建物特有の匂いに軽く鼻を鳴らし、歩きながら天井を見上げる。壁だけでなく天井も真っ白だ。二階までの吹き抜けとなっており、高い位置にある窓から差し込む陽射しによって、白さが際立ち目が眩む。ここは白い回廊だなと、愚にもつかないことを考えてしまう。「うわっ」 立ち止まった南郷の背にぶつかってよろめく。「ここから先が、俺個人が自由に使えるスペースだ。さっきの廊下を右に行ったら、若い連中の居住スペースになってる。個室がいくつか。今はプライバシー重視で、一つの部屋でまとめて雑魚寝生活というのは嫌われるらしい」「……若い連中というのは、第二遊撃隊の人たちですか?」「総和会の資金が注ぎ込まれている手前、そういう露骨な贔屓もできない。いろいろ、だ。俺を慕っている者も、反感を抱いている者もいるだろう。もしかして、俺の動向を探る目的の奴も入り込んでいるかもな」 第一遊撃隊の人間も入居していると、思わせぶりな口調で南郷は付け加えた。「隊や組を超えた交流が必要だ。縄張り意識だけ強くなった頭の固い人間は、この先の組織運営には障害となる――とオヤジさんの言葉だが、俺も同感だ」 ドアを開けた南郷に促され、おずおずと部屋に足を踏み入れる。広々としたリビングダイニングには、まるでモデルルームのように趣味のいい家具が一通り揃っている。キッチンも見えるが、使っている形跡はない。「メシは、本部の食堂で食ったほうが手間がかからなくていい。ここには、寝に通ってるようなもんだ」 南郷が階段にちらりと視線を向ける。二階に寝室があるとわかって和彦は本能的に体を強張らせたが、気づいているのかいないのか、南郷はリビングダイニングを通り抜け、さらに奥に続くドアを開けた。白い回廊とは対照的な、薄暗く狭い廊下が伸びている。 南郷に招き入れられたのは、廊下以上に暗い部屋だった。まだ片付いていないのか段ボールが部屋の隅に積み上げられているが、和彦が興味を惹かれたのは、壁際の大きな書棚だった。傍らには

  • 血と束縛と   第48話(2)

    「――元はレンガ敷きの道だったが、工事車両が出入りするのに不便でこうなった。今、舗装材を手配してもらっているから、少しの間、見た目が悪いのは我慢してくれ。先生」 前触れもなく話しかけられ、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。パッと振り返ると、いつの間にか玄関のドアが開いており、男が立っていた。厚みのある大柄な体を真っ白なワイシャツで包んだ南郷だ。 存在を認識した途端、和彦は総毛立つ。自分とこの男との間に起こった出来事が、一瞬にして脳裏に蘇っていた。 顔色をなくして立ち尽くす和彦にかまわず、南郷はさらに話しかけてくる。「総括参謀なんて肩書きがつくなら、本部の一室にネズミみたいにいつまでも棲みついているなと、使っていた部屋を追い出されたんだ。ちょうど、テニスコートを潰して若い奴らのための寮のようなものでも造るかという話が出ていたから、俺は体のいい管理人みたいなものだな。そうでなかったら、こんなシャレた建物に住むことなんて、一生なかったはずだ」「ここに、住んでいるんですか……?」「オヤジさんが会長を引退するまでは、一応ここが、俺の家ということになる。わかりにくいなら、表札をかけておこうか?」 決して懐かしさを覚えたわけではないが、皮肉っぽい物言いが南郷らしいと実感させられる。この男とまともに会話を交わすのはいつ以来かと、つい頭の中で数えていた。最後に顔を合わせたのは和泉家から戻ってきた日の駅構内だった。総和会の男たちに追われ、駆け出した先で鷹津に救われたのだ。そこからおよそ三か月経って、またこうして南郷と相対している。「今日、あんたがここに来ると聞いていたから、お披露目しておこうと思ってな。――あんたとも無関係の場所ではないし」 それはどういう意味かと和彦は眉をひそめる。南郷はスッと視線を逸らし、土が剥き出しとなっている一角に目を向けた。「ここに頑丈な柵を立てて、犬を飼おうかという話が出ている。番犬のような男揃いの本部に、いまさら本物の犬を飼うのもどうだという話だが……、先生なら、この空き地をどう使う?」「ぼくは、関係ないので」 和彦の返答に、南郷は軽く肩を竦める。

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