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別れ際、玄関で秦に抱き締められてから、和彦は部屋をあとにした。
エレベーターの中で、もう二度と秦と会わないということはおそらく不可能だろうなと、ぼんやりと考える。秘密を共有してしまったということもあるが、秦との間に確かな結びつきができたことを実感していたのだ。 賢吾や千尋、三田村との間で生まれた結びつき――縁と、同種だ。肉欲と切っても切れない縁で、それはすぐに、情へと変化する。さすがに和彦も、それぐらいは学習していた。 複雑になった事態と人間関係を、自分はどうするつもりなのか、考えたくなかった。体も心も、秦から与えられた感覚にまだ酔っている。そのくせ、熱い欲望を受け入れなかったせいか情欲の火が燻っており、胸が甘苦しい。 今、自分を知っている人間と会いたくなかった。特に、体の関係を持っている男たちとは。一目見て、和彦の異変に気づくはずだ。 エントランスを出ると、乾いた夜風に、汗ばんでいる肌をさらりと撫でられる。 和彦は髪を掻き上げてから、歩き出す。深夜とはいえ、繁華街に近い「知ることで、どんどんこの世界の深みにハマる。そうやって、長嶺の男たちが大事にしている先生を、逃がさないようにしている」 本気とも冗談とも取れることを言って、守光は声を上げて笑った。さすがにその声に驚いたのか、店内の男たちが一斉にこちらに向き、和彦一人がうろたえてしまう。 視線を避けるようにグラスを取り上げ、水割りを飲もうとしたところで、膝の上に置かれたままの守光の手に気づいた。その手が意味ありげに動き、膝を撫でて離れる。たったそれだけのことだが、肌に直接触れられたような生々しさを感じ、和彦は体を硬直させる。「――賢吾も千尋も、あんたをこの世界から逃すまいと、必死だ。そしてわしも、同じ気持ちだ」 片手を出すよう守光に言われ、おずおずと従う。てのひらにそっとカードキーがのせられた。それが何を意味しているか瞬時に理解した和彦は、顔を強張らせつつも、体が熱くなっていくのを止められなかった。「あんたをもっと、この世界の奥深くに取り込みたい。わしの家で一泊したあとも、あんたは長嶺の庇護の下から逃げ出さなかった。つまり、こう解釈できる。あんたはどんな形であれ、長嶺の男〈たち〉を受け入れてくれる、と」「……よく、わかりません……。いろいろと考えることが多くて、ぼくはどうすればいいのか……」「だが、佐伯和彦という人間はここにいる。わしの隣に、こうして行儀よく座ってな。それはもう、流されているにせよ、一つの選択肢を選んだということだ」 守光が顔を寄せ、耳元にあることを囁いてくる。和彦は瞬きもせず守光の顔を凝視していた。 いつも賢吾に対してそうしているせいか、半ば習性のように目の奥にあるものを探る。息づいているのは大蛇ではなく、だが確かに物騒な気配を漂わせた〈何か〉だ。 怖いが、目を背けられず、触れてみたいとすら思ってしまう。 和彦は視線を伏せると、浅く頷いた。** バスローブ姿でベッドの隅に腰掛けた和彦は、閉じたカーテンをぼんやりと眺めていた。カーテンの向こうには、いくら眺めても飽きないほどの夜景が広がっているとわかっ
「人間の価値を決めるのは本人ではなく、関わりを持つ人間たちだ。あんたにとっては、世間から嫌われ、恐れられている我々ということだ。わしらに価値を認めてもらったところで、嬉しくはないだろうがね」 和彦は、静かに視線を周囲に向ける。守光を絶対の存在として仕えている総和会の男たちは、鉄の壁だ。総和会という組織と、総和会会長を守るための。そんな男たちが和彦という存在にどれだけの価値を見出しているのか、推し量る術はない。ただ、守光が言うのなら、それが男たちにとっては絶対となるのだろう。「あなた方が、佐伯家についてどれだけ調べているのか知りませんが、佐伯家にとってぼくは、そう価値がある存在ではありませんでした。佐伯の姓を持つから、存在を認めてもらっているんです。正直、こんなに大勢の人たちに、ここまで大事にしてもらったことはありません」 ここでボーイがスマートな動作で歩み寄ってきて、空になった和彦のグラスを取り替えてくれる。さきほどからこの繰り返しで、意識しないまま和彦の酒量は増えていた。「――近いうちに、春の行事の打ち合わせも兼ねて、泊まりでちょっと遠出することになっている。医者であるあんたに同行してもらえるとありがたいんだが」 グラスに口をつけた和彦に、守光が思いがけない提案をしてくる。唐突な話題に戸惑うと、守光は物腰の柔らかさには似合わない、ゾクリとするほど冷徹な眼差しを向けてきた。いや、本当は眼差しすらも柔らかいのかもしれないが、少なくとも和彦にとっては怖かった。「泊まった先で、おもしろい話をしてやろう。千尋はもちろん、賢吾すら知らない話だ。わしとあんたの秘密……というには大げさだが、あんたにとっても興味深い話のはずだ」 守光の眼差しは、怖くある反面、強烈に和彦を惹きつける。太く艶のある声で語られる言葉には、好奇心を刺激される。「ぼくの、一存では……」「賢吾が許可すれば、来てくれると?」 ためらいつつも、和彦は頷く。守光ほどの人間が、子供騙しのようなウソをつくとは思えなかった。「わかっているとは思いますが、ぼくは内科は専門外です。同行しても、いざというときお役に立てるかは――」
そんなことを漫然と考えているうちに、車はある雑居ビルの前に停まる。夜に差しかかろうとしている時間帯の繁華街はにぎわっており、人通りも多い。そんな中、行き交う人たちとは明らかに異質な空気を放つスーツ姿の男が、素早く車に歩み寄ってきた。それが総和会の出迎えの人間だとわかり、和彦はシートベルトを外す。 降りる準備をしながら、ここで今日は別れることになる運転手の組員に、さきほどデパートで買い込んだものをマンションの部屋に運ぶよう頼んでおく。 車を降りると、一礼した男に周囲から庇うようにしてビルの中へと案内される。やけに入り組んだビル内を歩き、狭い通路の奥まった場所に、年齢もばらばらの数人の男が立っていた。特別服装が崩れているというわけでもないのに、一目で筋者とわかる。持っている空気が、とにかく鋭い。 賢吾と出かけたときに、さんざんこういった光景を目にしているが、やはり総和会会長ともなると、警護の厳重さが違う。 会釈した男たちの向こうに重々しい扉があり、総和会会長がいることを物語っていた。 扉が開けられ、促されるまま中に足を踏み入れた和彦は、妙齢の着物姿の女性に出迎えられた。わけがわからないままコートを預け、席へと案内される。 当然だが、クラブは貸切となっていた。テーブルのいくつかは埋まっているが、それはすべて総和会の人間だろう。落ち着いた雰囲気の中、会話を楽しんでいる様子はあるが、やはり何かが違う。 緊張するあまり、息苦しさすら覚えた和彦が喉元に手をやったとき、ある男と目が合った。南郷だ。 テーブルの一角に二人の男たちと陣取り、何事か話し込んでいる様子だったが、和彦を見るなりのっそりと立ち上がり、頭を下げた。無視するわけにはいかず、テーブルの側を通るとき和彦も会釈をする。 そしてやっと、和彦を招いた本人と対面が叶う。「――よく来てくれた、先生」 ソファに腰掛けたノーネクタイで寛いだ姿の守光が、笑いかけてくる。和彦もぎこちないながらも笑みを浮かべて挨拶をする。すると、守光と同じテーブルについていた男が立ち上がり、和彦に着席を促した。恭しい手つきで示されたのは、守光の隣の席だ。 何も考えられず、求められるままに行動する。この状況
**** 三田村が言うところの『世俗的なイベント』を、和彦は無視できなくなっていた。誕生日を祝ってくれた男たちに対して、ささやかなお返しをしようと考えたとき、これ以上ない口実として利用できるからだ。 仕事を終え、いつもより早めにクリニックを閉めた和彦は、組員に頼んでデパートへと寄ってもらう。 そこで、自分の考えがチョコレートよりも甘いことを痛感させられた。 バレンタインデー前日のデパートのチョコレート売り場は、目を瞠る混雑ぶりだ。 こんなときだからこそ、豊富な種類が揃ったチョコレートをじっくり見て回ろうと思っていたが、ショーケースに近づくのも苦労しそうだ。とにかく女性客でごった返しており、心なしか殺気立っているようにも感じる。 すでに他のフロアで買い物を済ませた和彦だが、さすがにこのフロアでの自分の場違いぶりを肌で感じ、怯んでしまう。辺りに漂う甘い香りが、その感覚に拍車をかける。 当然といえば当然だろう。バレンタインデーのために買い物をするのは、やはり女性だ。もしくは、勇気あるチョコレート好きの男性か。実際、女性客に交じって、ちらほらと男性客の姿もある。 同性の恋人のために――と勘繰るほど悪趣味ではない和彦は、自分もチョコレート好きなのだと思い込むことで、大勢の女性客の中を進んでいく。 誰に対する言い訳なのか、自分も食べるから、と心の中で繰り返しつつ、少し値の張るチョコレートをいくつも買い込む。長嶺の本宅に置いておけば、組員の誰かが摘まんでくれるだろう。もちろん、買い込んだチョコレートの中には、〈本命〉に渡すものもある。 いくつかの袋を手に、和彦はやっと売り場から抜け出す。 自意識過剰だと思いつつも、途中までは他の客の視線が気になっていたが、買い物好きの気質は、こういうとき便利だ。チョコレート選びに夢中になってしまうと、他人どころではなくなった。どうせ一年に一回のことだと、開き直るのも容易だ。 肩の荷が下りた気分で歩いていた和彦だが、すぐに歩調を緩め、手にした袋を見下ろす。チョコレートを買って気分が浮ついている一方で、自分のズルさがチクチクと胸に突き刺さる。いつもなら
通訳を介しながら外国人患者相手に治療手順を説明してから、レントゲンを撮り、局所麻酔のあとに傷を洗い、皮膚を縫い合わせるという一通りのことをこなしたが、大変なのは、むしろそのあとだった。患者が貧血を起こし、大きな体で卒倒したのだ。さんざんアルコール臭い息を吐いていたが、どうやらようやく酔いが醒め、現状を認識したらしい。 患者をベッドで休ませている間に、和彦やスタッフはクリニックを片付け、組員は慌しくスケジュールの変更を電話で告げていた。 幸いにも、患者は三十分ほどで目を覚まし、自分の足でしっかりと立ち上がった。 まるで儀式のように、組員たちは律儀に和彦に頭を下げ、礼を言う。力ない声でそれに応じた和彦は、非常口から来訪者とスタッフを見送った。 ここで、ずっと和彦の傍らに控えていた護衛の組員が口を開く。「先生も疲れたでしょう。すぐにお送りします」「そうだな……」 和彦は緩慢な動作で腕時計に視線を落とす。疲れ果ててはいても、簡単な計算ぐらいはできる。今からマンションに戻ったところで、横になれるのはわずかな時間だろう。 とにかくすぐにでも横になりたかったため、和彦が結論を出すのは早かった。「――……今日はもう、このままクリニックに泊まる。そのための仮眠室だし。だからもう、君は引き上げていいよ」「しかし、夜のクリニックに先生一人を残すわけには……」「平気だ。ここはセキュリティーシステムも入れてあるし、仮眠室のドアはしっかり中から鍵をかける。組長には、ぼくからあとで説明しておく――」 ここで和彦は、たまらずあくびを洩らす。話すのもつらくなってきたと察してくれたのか、組員は一礼したあと、気をつけるよう何度も和彦に念を押して帰っていった。 一人となった和彦は、給湯室でお湯を沸かす間に玄関の施錠を確認し、防犯システムを作動させる。 熱いお茶の入ったカップを手に仮眠室に入ったとき、すでに和彦はふらふらの状態だった。ベッドの傍らの小さなテーブルにカップを置くと、スウェットの上下に着替える。仮眠室はひどく寒いが、スタッフの休憩室からヒー
こういうときはさっさと入浴を済ませ、熱いお茶を飲んでベッドに入るに限る。とにかく体を温めて休みたかった。 前触れもなく寒気を感じ、身震いしてエレベーターに向かおうとしたとき、携帯電話が鳴る。こんな時間に電話をかけてくる相手は決まっており、和彦はやや緊張しながら電話に出た。『――誕生日の夜は楽しめたか?』 耳に届くバリトンが、いつになく皮肉げな響きを帯びているように感じるのは、後ろめたさの表れかもしれない。ちらりとそんなことを考えた和彦は、小さくため息をついた。「鷹津は、今日がぼくの誕生日なんて知らなかった。危うく、あの男の食事代を奢らされるところだったんだ」『その口ぶりだと、さすがにメシは奢ってもらったか?』「あとであんたに笑われるのが癪だからと言って、渋々出してくれた」『先生というフルコースが食えるなら、安いものだ』 賢吾の物言いに、意識しないまま和彦の全身は熱くなる。鷹津と食事することは報告してあったが、その後どうなるか、当然のように賢吾は予測していたようだ。和彦としては、報告の手間が省けたと喜ぶ気にもなれない。「……予定外だった。ぼくは仕事を頼んだつもりはなかったけど、鷹津が勝手に……」『あの狂犬みたいな男を、上手く手懐けているみたいだな。ただ、手綱はしっかり締めておけよ。なんの拍子で暴走するかわからない。例えば、俺の可愛いオンナに執着するあまり――とかな』 賢吾の声はあくまで柔らかいが、和彦はそこに怖さを感じる。もしかして怒っているのだろうかと思いはするが、本人に尋ねる勇気は持っていない。『それで鷹津は、先生のためにどんな仕事をしたんだ』 咄嗟に頭の中が真っ白になった和彦は、ぎこちなくエレベーター前まで移動する。その間に呼吸を整えた。「南郷さんのことを調べた。……鷹津本人が気になっていたみたいだ。あちこちで話を聞いて、前科についても調べたと」『それだけか?』 口が裂けても、里見のことを調べるよう頼んだとは言えない。和彦は感情の揺れを読まれないよう、短く答えた。「ああ」
「……見た目は優男なのに、肝が据わってるな。ヤクザに囲まれて、その姿で笑える奴は、そういないだろ」 千尋の父親が軽くあごをしゃくり、和彦の内奥深くに収まっている道具がゆっくりと引き抜かれる。短く息を吐き出して声を堪えた和彦は、千尋の父親にあごを掴み上げられた。燃えそうに熱い手だとまず思った。 千尋とはまったく似たところのない顔が真正面に迫る。 「今、どうして笑った?」 あごを砕かれそうなほど指に力が込められる。痛めつけられてまで秘密にするようなことでもないので、和彦は答えた。 「笑ったのは……千尋だ」 「どういう意味だ」
「――答えないなら、オヤジに直接聞くからな。先生に何をしたか、何を言ったか、全部聞いてやる。それに、俺が先生と別れる気がないことも言ってやる」 「やめろっ」 そう叫んだ和彦は、自分でも顔から血の気が引くのがわかった。あの男に、和彦が千尋を唆して行動を起こさせたと思われたら、そこで和彦のすべてが終わる。今度こそ、殺されるかもしれない。 千尋の父親からすれば、息子のおもちゃを取り上げるような感覚だろう。 恐怖で震える和彦の手を、痛いほど千尋は握り締めてくる。 「何、された……? こんなに怖がってる」 「何も……、何もされてない
「ぼくの生活も人生も、この何日かで全部変わってしまった。納得も釈然もしてないが、受け入れないと生きていけない。そんなぼくに対して、お前は何をしてくれる? ただ、甘えてくるだけか?」 「先生……」 ふっと千尋の腕の力が抜け、その間に和彦は体を離して靴を履く。 「お前は、平均的な二十歳に比べたら、甘え好きではあるけど、しっかりしているとは思う。……ぼくがお前より十歳も年上じゃなくて、お前の家庭の事情に関わってなかったら、もっと長く、楽しい関係を続けられたんだろうがな」 もう一度千尋の頭を撫でてから、和彦は三田村に伴われて玄関を出る。 「千
抽象的な和彦の表現に、千尋はきょとんとした顔をする。千尋のその表情に、ここのところずっと荒んでいた気持ちが少し和らぐ。和彦はちらりと笑みを浮かべると、あえてサバサバとした口調で言った。 「とにかくぼくは、長嶺組の世話になることになった。この間の、お前としばらく会わないという言葉は撤回するが、ぼくはクリニックを辞めて、しばらくは開業の準備で忙しいから、あまり遊んでやる時間はないぞ」 「だったら、その準備を俺も手伝う」 「――却下」 「どうしてっ?」 「ぼくの独立開業と、お前は関わりがない。それに、お前にはバイトがあるだろう」