LOGIN往来で何を言っているんだと、ため息をついて和彦は顔を反らす。この瞬間、見覚えのある姿を視界の隅に捉えた気がして、心臓が締め付けられる。血の気が引く思いで周囲を見回したが、気のせいだとわかり、一気に緊張が解けた。
精神的に落ち着いたのだが、こうして人ごみの中にいると、どこかに英俊がいて、自分を見ているのではないかという強迫観念に襲われるときがある。誰かの手引きがない限り、街中で出会うはずもないのだが、やはり、先日の出来事は強烈すぎた。 大丈夫だと自分に言い聞かせ、和彦はなんとか気持ちを切り替える。 二人が向かったのは、ビルの近くにあるデパートの駐車場だった。 満車となっているスペースを見回していたが、相手からは二人の姿は見えていたらしく、軽くクラクションが鳴らされる。見ると、長嶺組の組員の姿があった。 後部座席のドアが開けられ、千尋が乗り込む。今日はここで、お別れだ。 和彦は腰を屈め、千尋に声をかけた。「宴会もいいけど、飲みすぎて、ハメを外すなよ。それと――クリスマスプレゼントをありがとう」** グラスに入ったワインを飲み干した鷹津が、正面の席につく和彦を無遠慮な眼差しで見つめてくる。これは今に始まったことではなく、待ち合わせ場所となっていたシティホテルのロビーで顔を合わせてから、ずっとだ。 まずは食事をと、ホテル内のレストランに入ったが、メニューを見るよりも、和彦の顔を見つめる時間のほうが長かったぐらいだ。 嫌になるほど勘の鋭い男は、和彦の異変を一目で見抜いたのだろう。和彦も、あえて鷹津の前で自分を取り繕うマネはしなかった。とにかく今日は、疲れていた。 英俊との間で交わされた会話を端的に伝えてしまうと、もう口を開くのも嫌になっていた。「本当は来たくなかった、という顔だな。朝電話をしたときは、乗り気という感じだったのに」 いつもであれば、鷹津の性質の悪い冗談に即言い返すところだが、和彦は表情を変えないまま顔を背ける。「……今夜はもう帰りたい」「ふざけたことを言うなよ、佐伯。目の前で餌を見せ付けておいて、お預けなんて、許すわけがないだろ」 食事を続ける気にもならなくて、和彦は静かにナイフとフォークを置く。すかさず鷹津に問われた。「何があった? 今のお前にそんな顔をさせるとしたら、実家のことぐらいだろ」「実家はまったく関係ない」 ここで和彦は一旦口を閉じるが、鷹津はさらなる言葉を待っている。黙り込んでいるわけにもいかず、和彦は周囲のテーブルにつく客たちの耳を気にしつつ、短く告げた。「――患者を死なせた」 鷹津は特に表情も変えず、自分でグラスにワインを注ぎながら、事も無げに答える。「なんだ。いままで死なせたことがなかったのか」 さすがの和彦も絶句して、すぐには声が出てこなかった。別に鷹津から、慰めや励ましの言葉を期待していたわけではない。だが、さすがにこの反応は予想外だった。「あんた……、本当に嫌な男だな」「お前の期待に応えてやったんだ。それとも、俺が優しい男だとでも思っていたのか?」 和彦は、まじまじと鷹津の顔を見つめる。癖のある髪をオールバックに撫で
あえて病院に行かないということは、状況は限られている。説明を受けながら和彦は、自分の表情がどんどん厳しくなっていくのがわかった。 車で一時間近く走って到着したのは、古びたマンションだった。もともとの住人が少ないのか、それとも平日の昼間ということで仕事に出ているのか、不気味なほど静まり返っている。付近は空き地が多く、往来を歩く人の姿もないため、緊迫した顔の男たちが慌しくうろついたところで、見咎められることはなさそうだ。 組員に伴われてエレベーターで三階へと上がる。一室だけドアが開いたままとなっており、男が一人立っていた。こちらを見るなり、暗い表情のまま頭を下げた。その光景を見た途端、和彦は嫌な気分に陥った。嫌な予感はさきほどから感じていた。それが裏づけられたという意味で、嫌な気分になったのだ。 部屋に上がった和彦はすぐに手を消毒して、手術の準備を整えてから奥の部屋へと足を踏み入れる。むせるほどの血の匂いが漂っており、ビニールが敷き詰められた床の上には、真っ赤に染まったガーゼがいくつも落ちていた。 手術台の上に男が横たわっているが、血の鮮烈な赤さとは対照的に、顔色は蒼白を通り越し、紙のように白かった。驚いたことに、バイタルモニターに繋がれてもおらず、まさに放置されているような状態だ。 その理由を、和彦はすぐに察した。男に声をかけながら脈を取ってみる。意識はなく、脈拍も弱々しい。腰に当てられたガーゼを取り除いてから、小さく声を洩らす。刺傷だと聞かされてはいたが、治療した痕跡は見られなかった。「……ぼくの前にも、医者が来ていたんじゃないのか……?」 和彦が鋭い視線を向けると、部屋の外に立った男が淡々とした表情で応じる。「自分では治療は無理だと言っていました。傷口に触って、これ以上出血をさせるほうが危険だと」「だからといって、輸血もしなかったのかっ? 明らかに、ショック状態の症状が出ているじゃないかっ」 患者はすでに、体から大量の血液を失っており、瀕死となっている。和彦の前に来た医者が『無理』という言葉を使ったのは、手の施しようがないという意味も含んでいるのだろう。「――&helli
ここで和彦の脳裏に、今朝の鷹津との電話の内容が蘇る。同時に、電話の最中の自分の反応も。 一人でうろたえた和彦は、慌てて思考を切り替える。あの男のことは、今は関係ないはずだ。 気分を変えるため、紅茶でも淹れてこようかと立ち上がろうとしたとき、デスクの引き出しに入れてある携帯電話が鳴った。一瞬、鷹津からかと思ったが、それはありえないことだと、次の瞬間には思い直す。 実際、電話は長嶺組からだった。和彦がクリニックに詰めている時間帯に電話がかかってくるとなると、用件は限られている。 和彦の中に緊張が走る。診察室を出た和彦は廊下を見渡し、スタッフたちがミーティング室にまだ集まっていることを確認してから、素早く仮眠室に移動する。 ドアを閉めると同時に電話に出ると、緊迫した空気が即座に伝わってきた。「何かあったのか?」 和彦の問いかけに、組員がわずかに口ごもった気配がした。『……お仕事中にすみません。先生に連絡していいものか、迷ったのですが――』「今日は夕方まで予約が入っていないから、大丈夫だ。それで?」『実はある組から、緊急で診てもらいたい患者がいると連絡が入りました。最初は、別の医者に診せたそうなのですが、ひどい状態らしくて……』「どうひどいのか、実際に診てみないとわからないが、もしかして、ぼくの手に余る状態かもしれないな」 これまでも、具体的な症状がわからないまま現場に連れて行かれ、想像以上に凄惨な患者の姿を目の当たりにしたことはあった。そのたびに、動揺したあと、逃げ場のない状況で覚悟を決めてきた。これが、自分がこの世界で与えられた義務なのだからと。それと、おこがましいが、医者としての使命感から。「とにかく行ってみよう。もし、患者の治療に手間取るようなら、こちらの予約を断るしかない。状況を見て判断するから、いつものように準備をしておいてくれ。今から――五分後に下りる」 和彦は仮眠室を出ると、その足でミーティング室を覗く。廊下の短い距離を歩く間に、適当な言い訳は考えた。 家族が体調を崩して病院に運ばれたため、付き添ってくる、というものだ
**** 水が撒かれ、葉についた水滴がきらめいている中庭を、和彦はうっとりと眺める。 朝、眠気を完全に払拭できた状態で、出勤するまでのわずかな時間をこうやって過ごせるということは、肉体的にも精神的にも安定している証拠だと思っている。 もう、自分は大丈夫だ――。 確認するように、胸の内で呟く。英俊と会うと決めてから、会ってから、日常に影が差したようで、不安で落ち着かない日々を過ごしていたが、その感覚もずいぶん薄らいだ。和彦にとっての日常が戻ってきたのだ。 長嶺の本宅に滞在し、誰彼となく気遣ってくれる生活は、ある種の癒しだ。ささくれ立った気持ちが和らぐ。だが、癒しも過ぎれば、甘えが出てきそうで、それが和彦は少し怖い。いくらでも甘えればいいだろうと、ここで暮らしている長嶺の男たちは言うだろうが。 不意に、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。こんな時間に誰だろうかと思いながら携帯電話を取り出した和彦は、表示された名を見て、微妙な表情を浮かべる。『――いつまで俺を放っておく気だ』 電話に出た途端、皮肉っぽい口調で言われた。和彦はさりげなく周囲を見回してから応じる。「朝からどうして、あんたの声を聞かないといけないんだ……」『それは、俺が真っ当な勤め人だからだ。一応、お前もな。連絡を取り合うには、一番いい時間帯だと思うぜ』 和彦は露骨にため息をついたが、鷹津は意に介した様子もなく、朝は忙しいとばかりにすぐに本題を切り出した。『で、俺に餌を食わせてくれる気はあるのか?』 とぼける要領のよさがあるはずもなく、和彦は動揺しながら応じる。「朝から話すようなことかっ」『ほお、感心だな。覚えていたか。俺がお前のために働いたことを。役に立っただろ』「……あいにく、あんたが教えてくれた情報を、兄さんに直接ぶつけることはできなかった。ぼくの背後に誰がいるのか、探られるのも嫌だったし。だけど、事情を少しでも知っておいたおかげで、兄さんの話に対して警戒できた」 話しながら、英俊と会
賢吾の腕が肩に回され、ぐいっと引き寄せられる。浴衣越しに、賢吾のてのひらの感触を感じ、千尋との行為の余韻のせいか、体の疼きと後ろめたさが同時に湧き起こる。「……まだ、体が熱いな」 汗で湿った和彦の髪に顔を寄せ、賢吾が官能的なバリトンで囁く。和彦は小さく身震いをしていた。「千尋は、先生を丹念に愛してやったようだ」 和彦はおずおずと賢吾に体を預けると、千尋との行為の最中、ずっと頭の片隅にあったことを口にした。「――……ぼくを慕ってくれる千尋を愛しいとは思うが、ときどき怖くなるときがある。十歳も年上の男と、あいつはずっと一緒にいるつもりでいる。少し前までなら、今だけの情熱で言っているんだと、落ち着いていられたが、刺青を入れ始めたと聞いて、なんだか……怖くなった」「何が怖いんだ」「千尋はもうガキじゃなく、自分で決断できる大人の男になったんだと、痛感させられた。そんな男が、将来、自分だけのものになってくれと言うんだ。もしかして、本気なんじゃないかと――」「本気だと、都合が悪いか?」 パッと顔を上げた和彦は、賢吾を睨みつける。「あんたの息子だろ。将来を憂えるぐらい、したらどうだ」「組を継ぐのが決まっている千尋の将来をか」「だからこそだ。……若いんだから、この先いくらだって出会いはある。将来どころか、ほんの先のことだって、何があるかわからないんだ。ぼくの存在のせいで、千尋の選択の幅を狭めたくない」「あいつはそれほど、バカじゃない。必要とあれば、必要なものを選択する。もちろん、先生をしっかり抱き締めたままな。長嶺の男の執着心と独占欲を舐めるなよ、先生」 賢吾の息遣いが唇に触れる。あっと思ったときには、唇を吸われていた。話の途中だと抗議の声を上げようとした和彦だが、きつく唇を吸われ、熱い舌を口腔に押し込まれると、ほとんど条件反射のように賢吾の口づけに応えてしまう。 賢吾の腕が腰に回され浴衣をたくし上げられた。下着を身につけていないため露わになった尻を揉まれ、さすがに和彦はその手を押し退けよ
** 寝顔だけは無邪気すぎるほどなのだが、と心の中で嘆息した和彦は、隣で眠っている千尋の顔をまじまじと眺める。和彦を貪りつくして満足したのか、大きなあくびを二度、三度としたかと思うと、あっという間に寝息を立て始めたのだ。 無防備な姿を見ていると、自分の部屋に戻れと叩き起こす気にもなれない。 和彦は、千尋の茶色の髪をそっと撫でてから、Tシャツの上から肩に触れる。行為の最中も、千尋は決してTシャツを脱ぎ捨てることはなかったため、背に一体どんな刺青が彫られつつあるのか、片鱗をうかがい知ることすらできなかった。 今の状態の千尋なら、Tシャツを少し捲ったところで気づかないかもしれないが、それはそれで千尋のプライドを傷つけそうでもあり、疼きそうになる好奇心は抑えておく。 和彦は慎重に起き上がると、肌掛け布団を千尋の体にかけてやる。ドロドロに汚れた状態で眠るわけにもいかず、簡単にシャワーを浴びてこようと、浴衣を引き寄せて着込む。さすがに、枕元に丸まっていた帯を解いていたときは、顔が熱くなった。 覚束ない足取りで寝室を出た和彦は、ギョッとして立ち竦む。「――……帰って、いたのか……」 ようやく和彦が声を発すると、悠然と座椅子に座っている賢吾が、ニヤリと笑いかけてくる。「俺の部屋だからな」 これは当てこすりだなと、さすがに和彦でもわかる。しかも、かなりこちらの分は悪い。襖を開けたままにしていたため、すべての声も、衣擦れの音すら聞かれていただろう。 賢吾がいつからいたのかは知らないが、布団に横になっていると、隣室の座卓はまったく視界に入らないため、気づかなかった。物音でも立ててくれたなら、和彦よりも鋭い千尋が反応していたはずだが、その様子がなかったということは、賢吾もあえて、気配を殺していたということだ。 いろいろと言いたいことはあったが、ここで賢吾を責めては、完全に八つ当たりだ。 よほど苦い顔をしていたらしく、賢吾が機嫌を取るように、和彦に向かって優しい仕種で手招きする。仕方なく和彦は歩み寄り、賢吾の傍らに座り込んだ。「俺の部屋で、俺の息
ああ、と声を洩らして中嶋は苦笑する。怪我をした秦の治療を、和彦に頼んだことを思い出したらしい。 「今になって考えるんですよ。あのときの俺の選択は正しかったのかどうか、と。結果として、秦さんは無事だったし、先生との距離も近くなりましたが……その分、しっかり代償を払ったような気もします」 「君と秦さんとの距離間が、わからなくなってきたか」 中嶋は驚いたように和彦を見て、皮肉っぽく唇の端を持ち上げた。 参ったな……。先生と秦さんが、普段どんなことを話しているのか、すごく気になりますよ。その様子だと、俺のことも聞いているんでしょう?」 「彼の
頭を上げさせられた和彦は、賢吾に引っ張り起こされ、向き合う形となって抱き締められる。その背後で千尋が身じろぐ気配と衣擦れの音を聞いた。「俺の息子に対しては、先生は徹底して甘いな。俺が妬けるほどだ」 賢吾の肩に額を押し当て、息を喘がせていた和彦は、その言葉を聞いて顔を上げる。楽しげに見える賢吾だが、大蛇を潜ませた目はじっとりとした熱を孕んでいる。この男も興奮しているのだ。 今朝まで、別の男に抱かれていた和彦の体に触れながら、賢吾は何を思っているのか。 想像の余地はあるが、深い闇を覗き込むような行為に思え、怖かった。 ただ、和彦に
**** 次第に現実感が薄れているようだと、寝返りを打った和彦は、自分の手首に指先を這わせる。鷹津にかけられた手錠の痕は、すでにそこにはない。もともとひどい痕ではなかったので、数日ほどできれいに消えてしまったのだ。 残っているのは、手錠の感触の記憶だけだ。 痕が消えるのに比例するように、鷹津と体を重ねたという事実の重みが、和彦の中で失われていく。それが、現実感が薄れていくという表現になる。 別に鷹津と会いたいわけではないが、連絡も取り合っていないため、あの男は本当に無事なのだろうかと、気に
「……別に。あんたの過去に興味はない」 「賢い奴だな。危険な蛇の尾を踏まないよう、余計なことは耳に入れたくないってことか」 「サソリの尾だって踏みたくない。あんたも、長嶺組長も、物騒すぎるんだ」 「俺は物騒じゃないだろ。あんなに丁寧にお前を抱いてやったんだ。けっこう、紳士なつもりだぜ」 言葉とは裏腹に、和彦の体はソファに押し倒され、傲慢に鷹津がのしかかってくる。きつい眼差しを向けると、それ以上の眼差しの鋭さで言われた。 「あまり、俺と長嶺を同類で語るなよ。同じ悪党ではあっても、俺とあいつは敵対関係であることに変わりはない。手を組む気はな