LOGIN「――あそこだ、先生」
あそこ、と言われても和彦にはわからない。車がすれ違うのもやっとの通りの左右には、住宅や商店が並んでいるのだ。 車は狭い駐車場に入り、降りた和彦は辺りを見回す。古い建物が多いなと思っていると、賢吾に呼ばれてあとをついていく。どうやら護衛の組員は車に待機させておくようだ。 和彦が物言いたげな眼差しを向けると、賢吾は軽くあごをしゃくった。「店は目の前だ。それに、これから優雅な気分を味わおうってのに、護衛をつけてたら不粋だろ」「……優雅?」「いい品を揃えてある店だからな。目が肥えるぞ」 そう言って賢吾が、駐車場前の店の扉を開ける。〈準備中〉の札が表になっているのもお構いなしだ。 電気がついている店の中を覗き込んだ和彦は目を見開くと同時に、かつて賢吾に言われた言葉を思い出した。「春には、着物の着付けができるようになってもらうって言ってたが、もしかして――……」「着付けをするためには、まずは肝心千尋の口調がいくらか和らいだのを感じ、和彦は緊張を解こうとしたが、甘かった。シートから身を乗り出した千尋が強い光を放つ目で見据えてきながら、恫喝するようにこう囁いてきたのだ。「だから――、俺たち以外の奴が、先生を振り回すのは許さない。特に、先生を怯えさせるような奴は」「誰のことを、言ってるんだ」「とぼけないでよ。先生、電話越しでも、あんなに自分の兄貴のことを怖がってただろ。その理由をオヤジは教えてくれなかったけど、でもなんとなく、あのときの先生を見たら、察したよ。……どうして、先生にひどいことしてた奴に会う必要がある? 何かあったらどうするんだよ」「そうならないよう、気をつけるつもりだ」 ダメだ、と言うように千尋が緩く首を振る。千尋がときどき発揮する頑迷さを、和彦はよく知っている。子供じみており、突拍子もない行動に出るのだ。だからこそ、ここで対応を誤り、千尋を暴走させるわけにはいかない。 賢吾に連絡して説得してもらおうかと思っていると、和彦の困惑を読み取ったように、千尋がこう言った。「オヤジに相談するつもりなら、残念。今日は泊まりで会合に出かけていて、電話も繋がらない。まあ、オヤジが何言ったところで、俺は意見を変えるつもりはないけど」「意見って……?」「――先生を、どこにも行かせない」 長嶺の男――というより、千尋の情は強い。改めてそのことを痛感しながら、和彦は懸命に頭を働かせる。和彦としても、家族恋しさで英俊に会うわけではないのだ。ただ、こちらの言い分を伝え、佐伯家の事情を把握しておきたいだけだ。「無理だ。ぼくはもう決めたし、いろいろと人に動いてもらっている」「先生の初めての男にも?」 その物言いが癇に障り、千尋を睨みつける。「ああ。段取りをつけてもらった。……来週、兄さんと会う」 カッとしたように千尋が口を開きかけたが、すぐに何かに思い当たったように思案顔となる。その隙に和彦は、掴まれたままだった手をそっと抜き取る。それを咎めるでもなく、千尋は自分の携帯電話を取り出してどこかにかける。
**** 普段の言動のせいですっかり忘れてしまいそうになるが、長嶺千尋の本質は決して、可愛い犬っころなどではない。 したたかでありながら激しい気性を持つ〈何か〉だ。それは、祖父の守光のような老獪な化け狐かもしれないし、父親の賢吾のような冷酷な大蛇かもしれない。もしくは、まったく別の獣か――。 クリニックを一歩出た和彦は、目の前に立つ千尋を一目見た瞬間、総毛立つような感覚に襲われた。明らかに千尋の様子が尋常ではなかったからだ。 細身のスーツにナロータイという、オシャレな若手ビジネスマンのような格好は、恵まれた容姿を持つ千尋を、育ちのいい青年に見せる道具としては効果的だ。だが、まるで炎をまとったように、激しい怒りを全身に漲らせている今の千尋は、ジャケットの前を開き、ナロータイを緩めているだけなのに、筋者らしい凶暴さを感じさせる。 こんな千尋に声をかけたくないが、まさか無視をするわけにもいかない。和彦はできるだけ、いつもの調子で声をかけた。「お前、こんなところで何をしてるんだ……」 千尋に歩み寄りながら、周囲に視線を向ける。通りを行き交う人たちが、この青年が長嶺組の跡目だとわかるとは思えない。しかしそれを抜きにしても、千尋の存在は人目を惹く。クリニックが入るビルの前で、目立ちたくなかった。「先生を待ってた」「それはわかるが……、せめて車で待つぐらいできるだろ。もし、お前の素性を知っている人間に見つかったらどうするんだ」「いいよ。そのときは、そのときだ」 低く抑えた声に、自暴自棄な響きを感じ取り、和彦は眉をひそめる。「お前――」「先生に話があるんだ」 そう言って千尋に腕を掴まれたが、反射的に振り払う。カッとしたように睨みつけてきた千尋を、和彦は睨み返す。「どうして、そんなに怒ってるんだ」「……先生に心当たりはあるはずだよ」「心当たりって……」「来週、会うんだろ。あんなに怖がってた、自分の兄貴に」
少しの間、ぼうっとしていた和彦だが、その間も、鷹津が次々に皿に肉を放り込んでくるので、仕方なく食事を再開する。「……あんた本当に、嫌な男だな」 ぼそりと毒づいた和彦は、網の上で焦げかけた肉を摘み上げ、鷹津の皿に放り込む。一瞬動きを止めた鷹津だが、文句も言わずその肉を食べた。「お前がひょこひょこと兄貴に会いに出かけて、あっさり連れ戻されても困るからな。こういう話を聞いておけば、多少は警戒心も芽生えるだろ」「警戒はしているっ。……ただ本当に、いろいろと予想外で、頭が追いつかない……」「だが、お前は受け入れる。これまでのとんでもない状況だって、結局受け入れているだろ。お前は自分が思っているより図太くて、したたかだ。俺程度の悪辣さなんて、可愛く思えるぐらいな」 貶されているようで、それだけとも言い切れない。ある考えがふっと和彦の脳裏を過ぎったが、鷹津に限ってそれはないと打ち消した。「――……あんたの口から、『可愛い』なんて単語を聞くとは思わなかった」「意外な単語を聞けたうえに、メシまで奢ってもらえて、今夜は得したな」「高くつきそうだ……」 ため息交じりに和彦が洩らした言葉に、すかさず鷹津が応じた。「当然だろ」** フロントガラスをぽつぽつと雨粒が叩いたかと思うと、あっという間に降りが強くなる。 助手席のシートに身を預けた和彦は、運動後に腹が満たされたうえに、雨音に鼓膜を刺激され、どんどん眠気が強くなっていくのを感じていた。 そんな和彦の様子に気づいたらしく、信号待ちで車を停めた鷹津が口を開いた。「ヤクザの組長のオンナが、よくまあ、刑事の車に乗って寛げるもんだな」「どうせぼくは、図太いからな……」「なんだ。俺が言ったことを気にしてるのか」 鷹津が低く笑い声を洩らす。不思議なもので、車全体を包む雨音に重なると、その声すら心地よく聞こえる。「まさか
ここまで聞いて、さすがに和彦も察するものがあった。眉をひそめて黙り込むと、何事もなかった様子で鷹津は金網に肉をのせていく。このとき和彦の視線は吸い寄せられるように、肉を焼く鷹津の右手に吸い寄せられていた。シャツの袖からわずかに、まだ生々しい傷跡が覗いているのだ。「――お前の考えは?」 鷹津に声をかけられ、ハッとする。「それだけじゃ、なんとも……。なんでもない二つの事実を、強引に関連付けているとも取れる」「今、お前が言ったんだろ。人脈を求める人間が、お前の父親と繋がりたがると。名門の佐伯家というだけでなく、佐伯家にいる独身息子個人も、かなりの価値があるしな。職業的に隙がなく、見た目も、申し分がない。結婚するとなると、高く売れそうだ」 露骨な表現に顔をしかめた和彦だが、否定の言葉は出なかった。あり得ないと断言できるほど、和彦は今の佐伯家の内情を知らない。つまり、あり得る話でもあるのだ。「……別世界の話を聞いているようだ。ぼくが家にいるときは、兄の結婚話なんて出たこともなかったから。そうか。もうとっくに、そういう歳なんだな……」 仲が悪いという以上に、殺伐とした兄弟関係であるため、和彦は兄である英俊の私生活に立ち入ることはおろか、あれこれと想像を巡らせることすら避けてきた。ここにきて、他人の口から思いがけないことを聞かされ、戸惑うしかない。 鷹津は、そんな和彦を興味深そうに見ていた。口元がわずかに緩んでいることに気づき、きつい眼差しを向ける。「変な顔をするな」「いや、途方に暮れたようなお前が、おもしろくてな。そうか、そんなに意外な話なのか」「あくまで、ぼくの感覚だ」「この件、もっと突っ込んで調べてやろうか?」 和彦が返事をためらう間、鷹津は淡々と肉を食べていた。その姿を眺めながらなんとなく、普段からこんな感じで、この店で一人で食事をしているのだろうかと、想像してしまう。それとも、誰かと悪だくみの相談をしながら――。「――……動くのは、少し待ってほしい。ぼくが実家のことを嗅ぎまわっていると知
和彦は後部座席のシートで身を固くしていたが、助手席に座る組員は平然と、携帯電話で誰かと連絡を取り合っていた。 おそるおそる背後を振り返ると、この数日で見慣れてしまった総和会の車はついてきていない。「相手もムキになって追いかけてはこなかったようですね」「……まあ、向こうにしても、本気で誰かがぼくに接触するとは思ってないんだろう。あくまで、ぼくに見せ付けるのが目的だったんじゃないか」 そんな会話を交わしているうちに、鷹津に指定された場所に到着する。飲み屋の多い一角で、人だけではなく、タクシーで混雑している。路地に入り込むと、抜け出すのに苦労しそうだと思い、和彦だけ車を降りる。「帰りは鷹津に送らせるから、今日はもうぼくについてなくていい。あと、車を撒いたことで何か言われたら、ぼくの指示だったと言ってくれ」「大丈夫ですよ。先生はご心配なく」 その言葉に送られて和彦は、にぎわう路地へと入る。鷹津には、とにかく路地を歩いていろと言われたのだが、その意味はすぐにわかった。「――今夜は、誰も連れてないのか」 前触れもなく、背後から声をかけられる。聞き覚えのある声に振り返ると、黒のソリッドシャツにジーンズという定番の格好をした鷹津がいた。いつの間に、と和彦は目を丸くする。すると鷹津は、ニヤリと笑った。「お前を誘拐するのは、簡単そうだな。護衛がついてなかったら、無防備そのものだ」「……仮にも刑事が、物騒なことを言うな。それより、実家の話って?」 和彦の問いかけは、あっさり無視された。先に歩き始めた鷹津の背を睨みつけた和彦だが、往来で問い詰めるわけにもいかず、仕方なくあとを追いかける。 鷹津は人気のない細い路地へと入り、その突き当たりにあるこじんまりとした古い店の前で立ち止まる。「ここだ」 素っ気なく言って鷹津は店に入り、ため息をついて和彦もあとに続く。 店に一歩足を踏み入れると、なんとも食欲をそそる匂いが鼻先を掠めた。あちこちのテーブルから煙が立ち上り、そこに、肉の焼ける音も加わり、反射的に和彦の腹が鳴る。肉が食べたいと自覚はしていな
中嶋から意味ありげな視線を投げかけられたが、和彦は露骨に無視する。タイミングよく、数人のグループがジャグジーにやってきたため、入れ替わる形で和彦は立ち上がる。あとを追うように中嶋もジャグジーを出ようとしたので、すかさず和彦はこう言った。「せっかく筋肉が解れたんだから、そのままプールで泳いできたらどうだ。ぼくはもう、たっぷり体を動かしたから、先に帰るけど」 更衣室までついて来るなという和彦の牽制がわかったらしく、中嶋は苦笑を浮かべる。「俺が、先生の一人の時間を邪魔したから、怒ってますね」「ぼくが怒っていると言ったところで、君は怖くもなんともないだろ」「いえいえ。先生に嫌われたらどうしようかと、内心ドキドキしてますよ」「――……本当に、秦に口ぶりが似てきたな」 そう言って和彦は軽く手をあげると、更衣室に向かう。さすがの中嶋も、今度ばかりは追いかけてはこなかった。** ジムを出た和彦は、湿気を含んだ風に頬を撫でられ、思わず空を見上げる。闇に覆われているせいばかりではなく、厚い雲も出ているのか、星はおろか、月の姿すら見ることができない。 そろそろ梅雨入りだろうかと、その時季特有の鬱陶しさを想像してため息をつく。それをきっかけに、一時遠ざけていた現実が肩にのしかかってきた。オーバーワーク気味に体を動かして気分転換をしたところで、抱えた状況は何も変わっていないのだ。 もう一度ため息をついて、ジムの駐車場がある方向を一瞥する。待機している長嶺組の車に乗り込むと、当然のように、総和会の車も背後からついてくるのだろう。さきほど中嶋と話した内容もあって、心底うんざりしてくる。 少しの間、一人で外の空気を堪能しようかと、間が差したようにそんなことを考える。魅力的な企みではあったが、数十秒ほどその場に立ち尽くしていた和彦は、結局、駐車場に向かっていた。長嶺組の男たちに迷惑をかけるのは、本意ではない。 和彦が駐車場に入ってすぐに、待機していた長嶺組の組員の一人が車から降り、出迎えてくれる。総和会の車は、駐車場の外に停まっていた。「――……気
「それでも減らず口を叩く度胸は褒めてやる。だが、頭はよくない。この状況でそういうことを言えば、半殺しにされても文句は言えんぞ」 鷹津の片手が振り上げられるのを見て、咄嗟に顔を背けてきつく目を閉じる。殴られると思ったのだ。だが、鷹津は予想外の行動に出た。 和彦が着ているシャツの襟元を掴み、一気に引き破ったのだ。声も出せず見上げた先で、鷹津は下手なヤクザよりよほど獰猛な笑みを浮かべていた。「自覚がないようだから、教えてやる。お前は弱くはない。むしろ、したたかだ。したたかで妖しい、〈オンナ〉だ」 鷹津の彫りの深い顔が近づいてきて、有無を言わせず唇
「俺を潰したいからなんて理由で、こいつに近づくなよ。大事な大事な、俺たちのオンナだ。お前みたいな下衆が近づいていいような、安い人間じゃない」「蛇みたいな男が、薄ら寒くなるようなことを言うな。……お前は、弱みを晒すような男じゃねーだろ。それとも、弱みを隠し切れないほど、そいつに骨抜きにされたか? 俺を失望させるようなことを言うなよ、クズどもの親玉ともあろう男が」「しばらく辛酸を舐めたようだが、相変わらず口汚いな、鷹津。そんなんじゃ、誰にも好かれんだろ。それこそ、女だろうが、男だろうが――」 急に賢吾の腕が肩に回され、抱き寄せら
鷹津の手が、いきなり柔らかな膨らみをまさぐってきた。反射的に上体を捩って逃れようとしたが、力を込めて揉まれると、瞬く間に下肢から力が抜け、動けなくなる。「長嶺に、ここも開発してもらったのか? 一番弱い部分を無防備に晒して、あれだけ感じてたんだ。さぞかし、あの蛇みたいな男は、たっぷりとお前を可愛がってるんだろうな」 何かを探るように柔らかな膨らみを指で揉みしだかれる。痛みと、ときおり背筋まで駆け上がってくる強い刺激に、和彦はビクビクと腰を震わせる。それでも、やめろとは言えなかった。鷹津がまさぐっているのは、肉体的な弱みだ。そこを押さえられると、何もできない。
**** ソファに腰掛けた和彦の顔を見るなり、無表情が売りである男は、わずかに目を丸くしたあと、微苦笑を浮かべた。「――これからパーティーに出かける人間の顔じゃないな、先生」 三田村の言葉に、和彦は眉をひそめてから、自分の顔に触れる。「そんなに嫌そうな顔をしているか?」「ヘソを曲げた子供みたいな顔をしている」 三田村が冗談を言うのは珍しいと思ったが、もしかすると本当に、そんな顔をしていたのかもしれない。今の和彦は、少々の機嫌の悪さと、釈然としない気持ちを引きずってい