Mag-log in**** 午前中の患者の施術がすべて終わり、手を洗って仮眠室に入った和彦は、窓から外を眺める。灰色の雲で覆われた空は、今にも何かが降ってきそうで、どうせなら雪がいいなと、子供じみたことを考えた。 和彦はダッフルコートを羽織り、財布をポケットに突っ込むと、待合室へと向かう。電話番のスタッフがにこにこしながらメモ用紙を出してきた。寒いとどうしても、昼食をとりに外へ出るのが億劫になるもので、それは和彦も例外ではない。ただ今日はジャンケンで負けてしまい、買い出し担当となったのだ。 メモ用紙にざっと目を通していると、どこからかスタッフの咳き込む声が聞こえてくる。「風邪かな……」 思わず和彦は呟いていた。美容外科クリニックであるため、風邪を引いて駆け込んでくる患者はまずいないのだが、和彦やスタッフから風邪が移ってしまっては大変だ。全員、インフルエンザの予防接種を打ってはいるものの、だからといって完全に防げるものではない。 職業柄、あれこれ心配して眉をひそめていると、スタッフが苦笑しながら教えてくれた。「風邪じゃないんですよ。最近、乾燥がひどいから、喉を痛めたらしくて」「なるほど……」「でも、明日の〈あれ〉は絶対行くって、はりきってましたよ。多少の喉の痛みぐらい平気だって」 クリニックのスタッフたちとの、ささやかな忘年会を兼ねた食事会のことを言っているのだ。「でも確かに、乾燥は気になるな。日に何度も静電気の直撃を受けてるから……」 待合室や診察室、施術室には加湿器を置いてあるのだが、効果は限定的だ。クリニックは部屋数も多いうえに、ドアや扉で仕切っており、空気の流れは期待できない。ときどき換気はしているのだが、肝心の外気が乾燥しきっているのだ。 今年、年が明けてからクリニックを開業したときはどうだっただろうと、和彦は記憶を辿る。慣れない立場にあって、日々の仕事をこなすのに精一杯で、患者には気を配っても、スタッフの労働環境に対しては意識がおざなりだったかもしれないと、今になって反省する。
和彦は、苦しげな息の下で優也が言っていたことを思い出す。宮森は、賢吾への義理立てのために、自分を病院に連れて行くことなく、和彦に診察を頼んだのだと。 どうやら優也の叔父は、そこまで打算的ではなかったようだ。 そう和彦が結論を出そうとしたとき、当の叔父がニヤリと笑った。凡庸な容貌の男は、たったそれだけで、鳥肌が立つほど物騒な空気をまとう。無意識に和彦は背筋を伸ばしていた。「優也はずいぶんと、捻くれたことを言っていただろう?」「……えっ、あの、まあ……」「頭の回転は悪くない子だ。何より、数字に強い。今はまだ、積極的に外に出るというわけにはいかないが、リハビリがてら、部屋に人を招いたり、在宅仕事をしてみるのはどうかと、あれこれと考えている」「そうなんですか」「実は、そのことを長嶺組長に相談してみた」 意味ありげに見つめられ、和彦は急にソワソワとしてくる。漠然とながら、これが今日の本題なのではないかと思った。「甘えついでに、うちの先生に頼んでみたらどうだと言われた」「何を、ですか……?」「優也の話し相手になってもらうことを。その代わりといってはなんだが、あの子を、面倒な帳簿付けでもなんでも使ってもらってかまわない」「あっ、いえ、そういう仕事は全部、ぼくも人にやってもらっているので――……」 そうか、と残念そうに宮森が呟く。芝居がかっていると見えなくもなかったが、賢吾と長いつき合いがあり、信頼も得ている人物の頼みを断るのは良心が咎める。何より和彦自身、いくら優也の風邪が完治したとはいえ、それで縁が切れてしまうのも寂しいという思いが多少はあるのだ。 勝手にこちらの気持ちを見透かさないでほしいと、心の中で控えめに賢吾を詰ってから、和彦はおずおずと切り出す。「……今月は忙しいので、部屋を訪ねるのは難しいですが、電話やメールでやり取りをするぐらいなら、大丈夫です。その、優也くんさえよければ」「それは大丈夫。優也も、楽しみにしていると言っていた」
初めて、宮森の声音に感情が混じる。「本宅にうかがうつもりだったが、堅苦しいことはやめておけと長嶺組長に言われて、こうしてお膳立てをしてもらうことになった」 賢吾に対してずいぶん砕けた物言いをしているなと思っていると、宮森が手短に説明してくれた。 年齢が近いこともあり、昔から側で仕事をさせてもらっていたこと。かつては賢吾の護衛も務めていたこと。宮森本人は口にしなかったが、つまり賢吾と親しい間柄なのだろう。「昨日も、わたしの甥――優也を診てくれたと聞いた。ひどかった咳も完全に治まって、もう大丈夫だと……」「ええ。一時はどうなるかと思いましたが、ぼくも安心しました。城東会の組員の方が、よくお世話をされていたようですね。初日以外は、部屋がきれいで、冷蔵庫の中にはいろいろ入ってて」「うちの者が部屋に入っても、優也は何も言わなくなったんだ。格段の進歩だ。前は、怒鳴りまくって、部屋にも入れてもらえなかったから」 玄関のドアのチェーンも、そろそろ直して大丈夫ではないかと、和彦は控えめに進言しておく。優也の部屋を訪ねるたびに、恨み節を聞かされていたのだ。 宮森が口元を緩め、感心したように洩らした。「長嶺組長から聞かされていた通りだ。人間嫌いの相手に、うちの先生はちょうどいいだろうと言っていた」「そんな、ことを……」「冷めている部分と、どうしようもなく甘い部分を持ち合わせているから、お前の甥っ子に何かしら刺さるはずだと」 宮森は人さし指で、自分の心臓の真上辺りを指し示す。「三田村にも刺さったんだろう。〈あれ〉は元は、執着というものを持たない男だった。ひどい言い方だが、だからこそ使い勝手がよかった」 ヒヤリとするようなことを言った宮森が、ようやくチョコレートケーキを口に運ぶ。一方の和彦は急に口中の渇きを意識して、紅茶を一口飲んだ。「正直、いままでの優也の扱いが正しいのかどうか、わたしはずっと悩んでいた。部屋に閉じ込めておくのは簡単だが、さて、こんな仕事をしている身で、わたしは一生、優也の面倒を見てやれるのか。いっそのこと、無理やりでも外に引きずり出
和彦が口を開きかけたとき、宮森の手がそっと肘にかかって促される。前の女性客がいなくなり、和彦の番になっていた。しかし、賢吾から頼まれた通りの品を淀みなく注文したのは宮森だった。さらに、イートインコーナーの利用と、二人分の紅茶とチョコレートケーキも。 てきぱきと支払いまで終えた宮森に言われるまま、和彦はふらふらと店の奥へと移動する。すると、待っていたようなタイミングで、スーツ姿の男二人が素早く立ち上がった。鷹揚に頷いた宮森が、空いたばかりのテーブルを示す。 和彦は、テーブルの上の片付けが終わるまで、半ば呆然として宮森を見ていた。ここまでスムーズに物事が進むと、さすがに察しないわけにはいかない。 つまり今の状況は、賢吾と宮森の間で打ち合わせ済みなのだ。だから、和彦の護衛を務める組員も、店までついてこなかった。 これは安心していいのだろうと、和彦は詰めていた息をゆるゆると吐き出す。いくらか落ち着いて、正面の席についた宮森を見つめ返すことができた。 寸前までこのテーブルについていた男たちとは対照的に、宮森の格好はラフだった。羽織っているステンカラーコートの下はハイネックのニット、チノパンツという装いで、散歩帰りにこのケーキ屋に立ち寄ったというふうに見える。堅気の中に上手く溶け込んでいるようだが、しかし、溶け込みすぎて不自然さを感じる。 和彦の知る組関係者は、容貌を含めて際立った個性を持つ男たちが多い中、宮森は一見すべてにおいて凡庸だった。ごくごく普通の顔立ちに痩躯で中背。まっとうな勤め人のような険のない落ち着いた雰囲気。年齢は四十代前半から半ば。 凡庸さの中に、鋭すぎる本性を隠しているようで、本能的に畏怖めいた感情を抱いてしまう。 和彦が臆病だからこそ働く勘なのか、それとも、身構えすぎているだけなのか。これまで顔を合わせても二、三言、挨拶しか交わしてこなかったため、判断がつきかねた。しかし今――。 宮森がイスに座り直した拍子に、きれいにセットされている髪が一筋、額に落ちる。スッと髪を掻き上げる一連の仕種をなんとなく目で追った和彦だが、このとき、宮森の左手に小指がないことに気づいた。心臓に冷たい針を打ち込まれたようで、一瞬息が止まる。 見てはいけない
「してないよ。さすがに呼び捨ては……。総和会の領分に入ったら、悔しいけど南郷とは天と地ほども立場が違う。俺は後ろ盾があるから、総和会の中でも堂々歩けて、南郷も恭しく接してくるけどさ」 ここまで話したところで、組員が廊下を渡ってくる。どうやら和彦を探していたらしく、こちらの姿を認めると、ススッと側にやってきた。「申し訳ありません。お話し中。――先生、お風呂の用意ができてますが」 客間に着替えを取りに行く途中だったことを思い出し、すぐに向かうと応じる。「じゃあ、千尋、あとでな」 和彦が行こうとすると、背後から千尋がどこか投げ遣りな口調で言った。「第二遊撃隊の若い奴から聞いたけど、南郷、ここ何日か隊員の前に姿を見せてないらしいよ。じいちゃんは何か知ってるかもね。電話で話してたから。……何企んでるんだか」 最後の一言はどちらに向けてのものか、なんとなく聞けなかった。和彦が頷いて返すと、千尋はまた表情を一変させ、人懐こい笑顔を向けてきた。「一人で風呂入るの寂しかったら、二階の風呂使ってもいいよ。俺がすぐにあとから飛び込んでいくから」「……安心して、『ボス』とじっくり話してこい」 千尋は大げさに肩を落とすと、賢吾の部屋へと向かった。**** 守光が『会いたい』と言うのなら、何を差し置いても本部に顔を出すべきなのだろうが、賢吾がやや積極的に引き止めるせいもあり、それを言い訳にして和彦は行動に移せていない。 一応、日曜日の午前中は出かける用があり、さらに午後からは、一息つく間もなく賢吾によって連れ出されてしまったため、多忙ではあったのだ。和彦は忙しい身なのだと、罪悪感を抱かなくて済むよう、賢吾は既成事実を作ってくれたのかもしれない。 週が明けてしまえば、和彦にはクリニックの仕事があり、少なくとも日中から呼び出されることはない。もっとも、仕事終わりに有無を言わせず総和会本部に連れて行かれることは、これまで何度もあったが――。 いつも通り、仕事終わりに迎えに来てくれ
「長嶺の男は、土曜日でも忙しいな。悪かったな。今日は連れ回して」「ううん。ついて回ったのは、俺だし。それに楽しかった」 帰宅したのなら、千尋もこれから入浴か夕食をとるのだろうかと思ったが、まだ仕事は終わりではないようだ。賢吾の部屋がある方向を指さして、肩を竦めた。「ボスに、報告がある」 この呼び方は新鮮だ。和彦がくすっと笑い声を洩らすと、千尋が何かに驚いたように、顔を近づけてきた。「千尋?」「なんか、昼間別れたときと、和彦の雰囲気が違う。いや、顔つき、かな。キリッとしてるというか、ちょっとキツイ感じというか……」 何かあったのかと、眼差しで問われる。和彦は視線を泳がせながら、つい自分の顔に触れる。〈雄〉になった影響だと、すぐにわかった。千尋に勘づかれるということは、賢吾に至っては確信すら持っているだろう。「まあ、ちょっと……。何か嫌なことがあったとかじゃないから、気にしないでくれ」 納得したのか、そうでないのか、ふうんと声を洩らした千尋は深く追及してはこなかった。あとで晩メシを一緒に食べようと言い置いて行こうとしたので、咄嗟に和彦は呼び止める。 自分でもどうしてそうしたのかわからなかったが、首を傾けて待つ千尋に、この際だからと切り出してみた。「お前、昨日は総和会の本部に顔を出したんだよな?」「うん。年末に総本部である締会の打ち合わせ。今年は俺も顔を出せと言われてるから、ちょっと勉強をしてたんだ。実は今日も」 それがどうかしたのかと返される。和彦は口ごもりかけたが、誤魔化したところで、千尋が余計に勘繰るだけだ。「――……最近、総和会の様子はどうだ」「どうって、ずいぶん抽象的な質問だね。何か気になることあるの?」「えっと……、ちょこちょこと小耳に挟んだことがあるから、どうかなって」 千尋は頭を掻いて考える素振りを見せたが、すぐに大きなため息をつくと、さりげなく窓の側へと寄る。和彦も倣い、庭園灯がぼんやりと灯る中庭に、二人揃って目を向けた。「少
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する