LOGIN和彦は後部座席のシートで身を固くしていたが、助手席に座る組員は平然と、携帯電話で誰かと連絡を取り合っていた。
おそるおそる背後を振り返ると、この数日で見慣れてしまった総和会の車はついてきていない。「相手もムキになって追いかけてはこなかったようですね」「……まあ、向こうにしても、本気で誰かがぼくに接触するとは思ってないんだろう。あくまで、ぼくに見せ付けるのが目的だったんじゃないか」 そんな会話を交わしているうちに、鷹津に指定された場所に到着する。飲み屋の多い一角で、人だけではなく、タクシーで混雑している。路地に入り込むと、抜け出すのに苦労しそうだと思い、和彦だけ車を降りる。「帰りは鷹津に送らせるから、今日はもうぼくについてなくていい。あと、車を撒いたことで何か言われたら、ぼくの指示だったと言ってくれ」「大丈夫ですよ。先生はご心配なく」 その言葉に送られて和彦は、にぎわう路地へと入る。鷹津には、とにかく路地を歩いていろと言われたのだが、その意味はすぐにわかった。「――もうすっかり仲良しだね」 感心したような、しかしわずかに呆れを含んだ声が会話に割って入ってくる。障子の陰から、ひょっこりと千尋が姿を見せる。「俺なんて、会った初日は、稜人はまともに目も合わせないし、ろくに話もしてくれなかったんだぜ」「それはまあ、びっくりしたんじゃないか。見知らぬ大人の男というだけで、子供は警戒する。……今は違うんだろう?」 千尋は軽く唇を尖らせたあと、部屋に入って身を屈める。稜人に向かって手招きした。稜人は小さく、んしょっ、と声を出し、イスから下りる。その動作があまりスマートではないのは、イスも学習机も大きいからだ。同年代の子供に比べて、稜人は小柄なのかもしれない。ただ、かつて病弱だったという千尋の幼少時の写真を見たが、やはり線が細くて小柄な印象だった。それがいまやふてぶてしいほど元気で逞しく成長しているのだから、将来が楽しみだ。 稜人が遠慮がちに千尋の元に歩み寄る。見ていてハラハラしてしまうが、千尋はあっという間に腕の中に稜人を閉じ込める。照れたような表情を一瞬浮かべたあと、稜人はくすぐったげに首を竦める。そこに千尋に対する親愛の情を見て、和彦はほっとする。父子は着々と距離を縮めていたようだ。「よかった。そっちも仲良しなんだな」「そう。だから、稜人と和彦が気まずそうにしていたら、間に入ろうと待ち構えてたんだ。なのに、あっという間にニコニコし合ってさ、出番がなかった」「そこは喜べよ」「さすが、タラシの佐伯先生」 にんまりと笑いかけてきた千尋の背を、稜人にバレないよう拳で殴る。きょとんとした目で稜人が見上げてきて、取り繕うように微笑みで返す。「……子供の前で、変なこと言うなよ。教育に悪い」「和彦って、教育ママ――いや、なんでもない」 もう一発殴ってやろうかと思っていると、卑怯なことに千尋は稜人の背をこちらに向けて盾にする。もっとも、頑丈な男が、非力な和彦の拳など本気で恐れていないのだろうが。 オヤツだと言って、組員が器やカップがのったトレーを抱えて部屋にやってくる。器に盛られているのは、猫の顔の形を象った小さなクッキー
**** 和彦は子供とは縁遠い人生を歩んできた。親戚の子を可愛がるという経験もほぼなく、研修医時代に四苦八苦しながら小児科での研修を終えたぐらいで、はっきり言ってしまえば、子供は宇宙人にも等しい存在だ。だからといって接したくないというわけではなく、何かあれば守ってやりたいという使命感や庇護欲はあるのだ。これまで実行に移す機会には恵まれなかったが。 五歳児は、想像よりはるかに達者に話せるのだなと、昆虫図鑑を開いていろいろと説明してくれる稜人の相手をしながら、和彦は感心しきりだった。玄関での初対面では警戒されてしまったが、慣れないながらも和彦のほうから話しかけていると、意外に短時間のうちに笑顔を見せてくれるようになった。その様子がひたすら可愛い。もしかすると人懐こい性質なのかもしれない。 カマキリの写真を小さな指でさし示しながら、丸い目がこちらを見上げてくる。キラキラとした目の輝きに、知らず知らず和彦の表情は緩む。昆虫は苦手のような話を千尋から聞いたが、意外に写真だと平気のようだ。 稜人に用意されているのは、中庭に面した一室だった。この部屋の前から、遊具が置かれた場所に出られるようになっている。廊下に面した障子を開け放っているが、いつになく組員の姿が目につくのは、やはり稜人の存在が気になるからだろう。 稜人は来年の小学校入学を控えて本宅で暮らす予定で、今から環境に慣れさせていくのだという。とりあえず今日は日帰りで。様子を見ながら一泊させ、さらに宿泊の日数を伸ばしていく。常識的に考えれば、大人の男たちばかりに囲まれての環境は稜人にとって不安であるはずだが、生まれた頃から賢吾とはたびたび会っており、一応祖父だと理解もしているようだ。さらには、賢吾についている護衛の組員たちとも顔馴染みとなっている。 問題は、千尋への認識だ。「この本、チヒロくんが買ってくれたんだよ」 子供向けとはいえ、なかなかしっかりとした作りの図鑑だ。稜人は重そうに抱えていたその図鑑を真新しい学習机の上に置くと、最後のページを開いて見せてくれる。子供に人気のキャラクターが印刷されたネームシールがすでに貼られ、そこに『ながみねやまと』と書かれている。千尋の字
「組長から?」「ええ、はい。今日はちょっと、特別な日と言いますか……」 和彦はぎょっとして目を剥く。「それって、ぼくがのこのことと本宅に押しかけたら、迷惑になるだろ。釣った魚さえ笠野さんに渡してもらえたら、ぼくは別に本宅に寄らなくても――」「いやいやっ、そうじゃないんですっ」 とにかく本宅に行けばわかると、やや強引に押し切られた。 何が待ち構えているのかと和彦は戦々恐々とするが、車から降ろしてもらうという選択肢はない。 賢吾か千尋に電話して聞いてしまおうかと考えもしたが、実行できないまま車は本宅に到着した。表は普段通りで、物々しい警戒態勢が敷かれている様子もなく、それどころか組員の一人がのんびりと箒で掃き清めている最中だ。こちらに気づいて、手を上げて寄越してきた。 門の前に車を停めると、さっそく和彦の荷物を持った組員に促されて本宅の敷地に入る。防犯カメラで見ていたのか、玄関先に立つと同時に絶妙なタイミングでドアが開けられる。なぜか、正面の玄関ホールには賢吾と千尋が並んで立っていた。さらには数人の組員たちも。そのうちの一人である笠野は、玄関に入ると待ちかねていたように笑顔でクーラーボックスを受け取り、和彦に一礼して立ち去る。 和彦はおずおずと長嶺の男二人に問いかけた。「……ぼくの釣った魚を楽しみにしていた、というわけじゃないんだろう?」 失礼なことに、賢吾と千尋は互いに顔を見合わせ失笑した。和彦は唇を尖らせる。「もったいぶらずに――」 教えてくれ、と続けようとした和彦の視線は、賢吾の背後からひょっこりと現れたものに釘付けとなった。子供だ。賢吾の腰の位置よりやや低いぐらいの身長で、周囲の男たちが大きいせいもあり、だからこそ存在が際立って見える。 丸い目がこわごわとこちらをうかがっている。目が合うと、賢吾の腿に手をかけたまま背後に隠れるが、すぐにまた顔を覗かせる。年の頃は四、五歳ぐらいに見えた。身じろぐたびに薄茶色の髪がさらさらと揺れ、いかにも柔らかそうだ。色白で、まるで人形のように繊細な顔立ちをしており、パッと見ただけでは男の子なのか女の子かわ
「しかし、そんなあなたを守るのが、総子さんの生きる原動力になった。正時さんを亡くして、さらに拍車がかかるでしょう」「それは……」「紗香さんへの思い入れがそのままあなたに移ったというのもあるでしょうが、あなたは危ういと、総子さんはおっしゃってました」 確かにここ数年はふらふらとして褒められた生き方はしていないなと、苦い表情となる。「誰に対しても寄り添えて、だからこそ誰からも必要とされた結果、苦しむのではないか――。心当たりがあるんじゃないですか」「……暗に、八方美人の自業自得だと言われている気が……」 九鬼が肩を竦めたタイミングで、ふわりと鼻先をコーヒーの香りが掠める。いつの間にか傍らに烏丸が立っていた。その烏丸が向けている視線を辿ると、駐車場に護衛の組員たちの姿があった。ここで時間切れと言わんばかりに九鬼が立ち上がり、和彦も倣う。 駐車場で和彦の身柄は長嶺組へと移り、保冷バッグとクーラーボックスも車に運び入れてもらう。 自身も車に乗り込む前に、和彦は改めて九鬼と向き合う。複雑な心境ではあるが、世話になったことへの礼を述べる。「もしかして、さっきのやり取りで和彦さんから嫌われたかもしれませんね」「仮にそうだとしても、おばあ様があなたを信頼していることは変わらないんですから、ぼくとしては、一層嫌われないよう努めるだけです」 スッと九鬼から表情が消える。その変化にぽかんとする和彦に代わり、側に立つ組員がなぜか身構えた。興味深そうに九鬼が呟く。「あー、なるほど。そういうところが、ですか」「……なんですか」「いいえ。では気をつけてお帰りください」 胡散臭さ全開の笑顔を向けられ、和彦は首を傾げつつ車に乗り込んだ。** さほど遠出をしたわけでもなく、派手に立ち振る舞ったわけでもないが、疲労感が肩にのしかかる。それが顔に出ていたのか、いつもなら軽く会話を振ってくる組員たちは、移動の最中黙ったままだった。和彦としても、九鬼との込み入ったやり取り
「……総和会の動きについては、心当たりがあります」「いいですね。いっそのこと、うちと総和会とで連絡網を築きますか。調査員を使う手間がいくらか省ける」 聞いておきましょうかと和彦が答えると、九鬼はやや拍子抜けしたような顔をしたあと、テーブルに頬杖をついて視線を逸らす。和彦の視線は、牡丹の刺青に釘付けになる。「桐栄区がやけに騒がしくなった原因は、あなたにあるはずなんですよ。ヤクザと因縁があるあの土地に目をつけたのはたまたまだったかもしれないが、キリエ和泉ビルが物件として魅力的というより、あのビルに関わるあなたを当て込んだと考えたほうがすっきりする。目的は、あなたを通しての総和会や長嶺組との接触」「それは……わかりません」「でも、あなたの口から北辰連合会の名が出た」 とぼけているつもりはなく、和彦自身、北辰連合会――というより伊勢崎龍造の考えを確かめたわけではない。総和会が大がかりに情報収集に動いたうえで、見当外れということはまずないだろうし、龍造と近しい関係である御堂からはっきりと聞かされた。それでも確証は欲しいのだ。伊勢崎龍造と北辰連合会の間に諍いが生じて、息子の上京に託けて避難してきたというのも、外部の人間からはどれほど深刻な状況なのか量ることはできない。しかし、和彦側から動いて確かめるのは、明らかに出すぎた真似となる。 難しい。率直な気持ちが表情となって出る。思いきり眉をひそめて唇をへの字に曲げると、九鬼は驚いたように姿勢を正した。「すみません。ちょっと地が出ました。これじゃあ、尋問ですね」「……九鬼さんは、それが仕事でしょう」 遅ればせながら和彦はやっとソフトクリームを食べ終える。九鬼は申し訳なさそうに視線を伏せた。「――……元ヤクザというのは、なかなか生きいくいんですよ。このご時世。潰しが効かないというんですかね。暴力を効果的に使う方法や、汚れた金を作る方法はいくらでも思いつくんですけど、そういうの、堅気の世界じゃ求められないでしょう? かといって、またヤクザに戻りたいかというと……もう
「正時さんがお元気だった頃に聞いた話です。かつて、キリエ和泉ビルを欲しがった人がいたそうです。和泉家が手に入れて間もなくということですが、それでもけっこう昔ですね。地上げ紛いのこともされたそうで、腹に据えかねて相手の素性を調べてみたら、北陸の大きな組の代理人だったようです。そうこうしているうちに、その組がある組織に吸収された」「……北辰連合会とか……」「いや、まだですね。さらにその組織を呑み込んで、北辰連合会になるわけです。まあ、動きの激しい組織ですよ、あそこは。関東のどこかの大組織とは大違いです」 返事のしようがなくて、和彦はソフトクリームにかぶりつく。「桐栄区が開発されてからは、さすがに本業ヤクザが手出しできる規模ではなくなり、すっかり忘れていたそうです。和泉家は別件でややこしい相手と揉め事も抱えていましたしね。――紗香さんが亡くなってから、遠くから見守るしかなかったあなたが厄介な状況に見舞われ、どう手出ししようかと考えあぐねているうちに、当のあなたは物騒な人たちを手玉に取るようになった」「ちょっと……、人聞きが悪いですね、それ。ぼくは、手玉に取られているほうです」「謙遜しなくていいですよ。あなた自身がどう思おうが、〈彼ら〉はあなたを大事に扱い、事によってはあなたの意向をうかがっている」 もちろん九鬼は褒めているわけではない。それどころか、柔らかな口調の中に棘を潜ませている。 薄々、感じてはいたのだ。和泉家に雇われている九鬼は、当然和泉家の事情と安全を最優先に考えている。和彦は、何を引き起こすかわからない厄介者として内心では警戒されていても不思議ではない。それでも丁重に接してくれるのは、総子と正時の孫だから。そう考えれば、九鬼はかなり理性的、もしくは抑制的な人間だといえる。「――……何か、怖いことを考えてますか?」 九鬼に問われて我に返る。ソフトクリームが今にも手に垂れそうになっており、慌てて舐め取る。ついでに、首を横に振っておく。信じていないのか、軽くため息をつかれた。「あなたが、北辰連合会ともつき合いがあるとは、