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第50話(32)

Author: 北川とも
last update publish date: 2026-10-19 20:00:38

「組長から?」

「ええ、はい。今日はちょっと、特別な日と言いますか……」

 和彦はぎょっとして目を剥く。

「それって、ぼくがのこのことと本宅に押しかけたら、迷惑になるだろ。釣った魚さえ笠野さんに渡してもらえたら、ぼくは別に本宅に寄らなくても――」

「いやいやっ、そうじゃないんですっ」

 とにかく本宅に行けばわかると、やや強引に押し切られた。

 何が待ち構えているのかと和彦は戦々恐々とするが、車から降ろしてもらうという選択肢はない。

 賢吾か千尋に電話して聞いてしまおうかと考えもしたが、実行できないまま車は本宅に到着した。表は普段通りで、物々しい警戒態勢が敷かれている様子もなく、それどころか組員の一人がのんびりと箒で掃き清めている最中だ。こちらに気づいて、手を上げて寄越してきた。

 門の前に車を停めると、さっそく和彦の荷物を持った組員に促されて本宅の敷地に入る。防犯カメラで見ていたのか、玄関先に立つと同時に絶妙なタイミングでドアが開けられる。なぜか、正面の玄関ホールには賢吾と
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  • 血と束縛と   第50話(32)

    「組長から?」「ええ、はい。今日はちょっと、特別な日と言いますか……」 和彦はぎょっとして目を剥く。「それって、ぼくがのこのことと本宅に押しかけたら、迷惑になるだろ。釣った魚さえ笠野さんに渡してもらえたら、ぼくは別に本宅に寄らなくても――」「いやいやっ、そうじゃないんですっ」 とにかく本宅に行けばわかると、やや強引に押し切られた。 何が待ち構えているのかと和彦は戦々恐々とするが、車から降ろしてもらうという選択肢はない。 賢吾か千尋に電話して聞いてしまおうかと考えもしたが、実行できないまま車は本宅に到着した。表は普段通りで、物々しい警戒態勢が敷かれている様子もなく、それどころか組員の一人がのんびりと箒で掃き清めている最中だ。こちらに気づいて、手を上げて寄越してきた。 門の前に車を停めると、さっそく和彦の荷物を持った組員に促されて本宅の敷地に入る。防犯カメラで見ていたのか、玄関先に立つと同時に絶妙なタイミングでドアが開けられる。なぜか、正面の玄関ホールには賢吾と千尋が並んで立っていた。さらには数人の組員たちも。そのうちの一人である笠野は、玄関に入ると待ちかねていたように笑顔でクーラーボックスを受け取り、和彦に一礼して立ち去る。 和彦はおずおずと長嶺の男二人に問いかけた。「……ぼくの釣った魚を楽しみにしていた、というわけじゃないんだろう?」 失礼なことに、賢吾と千尋は互いに顔を見合わせ失笑した。和彦は唇を尖らせる。「もったいぶらずに――」 教えてくれ、と続けようとした和彦の視線は、賢吾の背後からひょっこりと現れたものに釘付けとなった。子供だ。賢吾の腰の位置よりやや低いぐらいの身長で、周囲の男たちが大きいせいもあり、だからこそ存在が際立って見える。 丸い目がこわごわとこちらをうかがっている。目が合うと、賢吾の腿に手をかけたまま背後に隠れるが、すぐにまた顔を覗かせる。年の頃は四、五歳ぐらいに見えた。身じろぐたびに薄茶色の髪がさらさらと揺れ、いかにも柔らかそうだ。色白で、まるで人形のように繊細な顔立ちをしており、パッと見ただけでは男の子なのか女の子かわ

  • 血と束縛と   第50話(31)

    「しかし、そんなあなたを守るのが、総子さんの生きる原動力になった。正時さんを亡くして、さらに拍車がかかるでしょう」「それは……」「紗香さんへの思い入れがそのままあなたに移ったというのもあるでしょうが、あなたは危ういと、総子さんはおっしゃってました」 確かにここ数年はふらふらとして褒められた生き方はしていないなと、苦い表情となる。「誰に対しても寄り添えて、だからこそ誰からも必要とされた結果、苦しむのではないか――。心当たりがあるんじゃないですか」「……暗に、八方美人の自業自得だと言われている気が……」 九鬼が肩を竦めたタイミングで、ふわりと鼻先をコーヒーの香りが掠める。いつの間にか傍らに烏丸が立っていた。その烏丸が向けている視線を辿ると、駐車場に護衛の組員たちの姿があった。ここで時間切れと言わんばかりに九鬼が立ち上がり、和彦も倣う。 駐車場で和彦の身柄は長嶺組へと移り、保冷バッグとクーラーボックスも車に運び入れてもらう。 自身も車に乗り込む前に、和彦は改めて九鬼と向き合う。複雑な心境ではあるが、世話になったことへの礼を述べる。「もしかして、さっきのやり取りで和彦さんから嫌われたかもしれませんね」「仮にそうだとしても、おばあ様があなたを信頼していることは変わらないんですから、ぼくとしては、一層嫌われないよう努めるだけです」 スッと九鬼から表情が消える。その変化にぽかんとする和彦に代わり、側に立つ組員がなぜか身構えた。興味深そうに九鬼が呟く。「あー、なるほど。そういうところが、ですか」「……なんですか」「いいえ。では気をつけてお帰りください」 胡散臭さ全開の笑顔を向けられ、和彦は首を傾げつつ車に乗り込んだ。** さほど遠出をしたわけでもなく、派手に立ち振る舞ったわけでもないが、疲労感が肩にのしかかる。それが顔に出ていたのか、いつもなら軽く会話を振ってくる組員たちは、移動の最中黙ったままだった。和彦としても、九鬼との込み入ったやり取り

  • 血と束縛と   第50話(30)

    「……総和会の動きについては、心当たりがあります」「いいですね。いっそのこと、うちと総和会とで連絡網を築きますか。調査員を使う手間がいくらか省ける」 聞いておきましょうかと和彦が答えると、九鬼はやや拍子抜けしたような顔をしたあと、テーブルに頬杖をついて視線を逸らす。和彦の視線は、牡丹の刺青に釘付けになる。「桐栄区がやけに騒がしくなった原因は、あなたにあるはずなんですよ。ヤクザと因縁があるあの土地に目をつけたのはたまたまだったかもしれないが、キリエ和泉ビルが物件として魅力的というより、あのビルに関わるあなたを当て込んだと考えたほうがすっきりする。目的は、あなたを通しての総和会や長嶺組との接触」「それは……わかりません」「でも、あなたの口から北辰連合会の名が出た」 とぼけているつもりはなく、和彦自身、北辰連合会――というより伊勢崎龍造の考えを確かめたわけではない。総和会が大がかりに情報収集に動いたうえで、見当外れということはまずないだろうし、龍造と近しい関係である御堂からはっきりと聞かされた。それでも確証は欲しいのだ。伊勢崎龍造と北辰連合会の間に諍いが生じて、息子の上京に託けて避難してきたというのも、外部の人間からはどれほど深刻な状況なのか量ることはできない。しかし、和彦側から動いて確かめるのは、明らかに出すぎた真似となる。 難しい。率直な気持ちが表情となって出る。思いきり眉をひそめて唇をへの字に曲げると、九鬼は驚いたように姿勢を正した。「すみません。ちょっと地が出ました。これじゃあ、尋問ですね」「……九鬼さんは、それが仕事でしょう」 遅ればせながら和彦はやっとソフトクリームを食べ終える。九鬼は申し訳なさそうに視線を伏せた。「――……元ヤクザというのは、なかなか生きいくいんですよ。このご時世。潰しが効かないというんですかね。暴力を効果的に使う方法や、汚れた金を作る方法はいくらでも思いつくんですけど、そういうの、堅気の世界じゃ求められないでしょう? かといって、またヤクザに戻りたいかというと……もう

  • 血と束縛と   第50話(29)

    「正時さんがお元気だった頃に聞いた話です。かつて、キリエ和泉ビルを欲しがった人がいたそうです。和泉家が手に入れて間もなくということですが、それでもけっこう昔ですね。地上げ紛いのこともされたそうで、腹に据えかねて相手の素性を調べてみたら、北陸の大きな組の代理人だったようです。そうこうしているうちに、その組がある組織に吸収された」「……北辰連合会とか……」「いや、まだですね。さらにその組織を呑み込んで、北辰連合会になるわけです。まあ、動きの激しい組織ですよ、あそこは。関東のどこかの大組織とは大違いです」 返事のしようがなくて、和彦はソフトクリームにかぶりつく。「桐栄区が開発されてからは、さすがに本業ヤクザが手出しできる規模ではなくなり、すっかり忘れていたそうです。和泉家は別件でややこしい相手と揉め事も抱えていましたしね。――紗香さんが亡くなってから、遠くから見守るしかなかったあなたが厄介な状況に見舞われ、どう手出ししようかと考えあぐねているうちに、当のあなたは物騒な人たちを手玉に取るようになった」「ちょっと……、人聞きが悪いですね、それ。ぼくは、手玉に取られているほうです」「謙遜しなくていいですよ。あなた自身がどう思おうが、〈彼ら〉はあなたを大事に扱い、事によってはあなたの意向をうかがっている」 もちろん九鬼は褒めているわけではない。それどころか、柔らかな口調の中に棘を潜ませている。 薄々、感じてはいたのだ。和泉家に雇われている九鬼は、当然和泉家の事情と安全を最優先に考えている。和彦は、何を引き起こすかわからない厄介者として内心では警戒されていても不思議ではない。それでも丁重に接してくれるのは、総子と正時の孫だから。そう考えれば、九鬼はかなり理性的、もしくは抑制的な人間だといえる。「――……何か、怖いことを考えてますか?」 九鬼に問われて我に返る。ソフトクリームが今にも手に垂れそうになっており、慌てて舐め取る。ついでに、首を横に振っておく。信じていないのか、軽くため息をつかれた。「あなたが、北辰連合会ともつき合いがあるとは、

  • 血と束縛と   第50話(28)

    ** 釣果はけっこうなものだった。大きめのクーラーボックスの半分が、釣った魚で埋まっている。和彦としては釣りができただけで満足で、魚はすべて九鬼が持って帰るものだと思っていたのだが、クーラーボックスごと譲られてしまった。当然、和彦は魚など捌けない。こうなると、泣きつける相手は限られていた。「本当に、突然すみませんっ」 電話の向こうで笠野が声を上げて笑っている。アジがたくさん釣れたのでこれから本宅に持っていっていいだろうかと相談したのだが、わずかな躊躇もなく快諾してくれて、正直ほっとした。本宅の生活サイクルをある程度把握しているが、普段であればそろそろ夕食の下ごしらえが始まっていたはずだ。 電話を終えてほっと息をついた和彦は、辺りを見回す。ここは、堤防から少し移動したところにある休憩施設だった。ソフトクリームののぼりが出ているのを見て、九鬼が寄ろうと言い出したのだ。 探すまでもなく、二人の姿はソフトクリーム売り場の近くにあった。ずらりと並んだテーブルの一つについており、家族連れやカップルたちに囲まれながらソフトクリームを舐めている。堂々と腕の刺青を見せた胡散臭い笑みを浮かべた男と、筋骨逞しい坊主頭の男の組み合わせは、どう控えめに見ても目立っている。悪目立ちのほうだ。 あの中に自分も加わるのかと思いながらも、それなりにつき合いがいい人間だと自負している和彦は、ソフトクリームを買って同じテーブルについた。「魚、どうでした?」「大丈夫でした。帰りに本宅に持っていきます」「量も多いですからね。フライにでもしてもらえば、すぐに平らげてくれますよ。組長の自宅ですから、住み込んでる組員も多いでしょう」 事実だが、多少は周囲の耳も気にしてほしい。和彦は無表情を保ちつつソフトクリームを一舐めする。本宅に連絡したついでに、近くで待機してもらっていた護衛の車にも、今いる場所を合流地点として知らせておいたので、さほどかからず迎えに来てくれるはずだ。 その間に、九鬼からしっかりと話を聞いておきたい。「それで、さっきのぼくの質問ですけど――」 堤防で一度尋ねたとき、運がいいのか悪いのか、急にまた魚が針に食いつき始めた

  • 血と束縛と   第50話(27)

    「話の続きですが、紗香さんの思い違いも何かの縁だろうということで、ビルを購入したそうです。今は荒れていても、遠からず地区全体が開発されるだろうと読んだうえで。実際、そうなったわけです」 紗香が年若いうちはテナントの一つで店を開かせるつもりだったのだという。それが花屋だったと聞いて、和彦はどういう顔をすればいいのかわからなかった。「遊園地は?」「子供の頃の夢なんて、ころころ変わるものですよ。……姉妹揃って、小学生のときにお花屋さんになりたいと言っていたのが、ご夫妻の印象に残っていたそうです。少しですが開店の計画は進んでいたみたいです。紗香さんはときどきビルに足を運んで、花屋の経営に必要な勉強をして――。綾香さんはご自分で進路も就職も決められた分、紗香さんはご両親の気持ちに寄り添いたいと思ったのかもしれません」 いわくつきのビルだ。手放そうと思えばとっくにしていたはずだが、それでも所有し続けていたのは、あのビルには多少なりと紗香の熱意や希望が込められていたからだろう。それと、家族の思い出が。紗香の子に相続させたいというのは必至の願いなのかもしれないが、和彦はそこにもう一つ、ある理由を見出していた。 桐栄区に望郷の念を抱くヤクザなど今の時代にはいないだろうが、関東での活動拠点として利点を感じる者はいるはずだ。かつては物騒な人間たちが集っていたという場所だ。そこに再び火種を持ち込みかねないと疑われているのは、北陸の大組織の幹部である伊勢崎龍造。総和会の警戒ぶりから、和彦が知らない事情も関係している可能性もある。 不穏になりつつある状況下で、娘との思い出が残るビルを和彦に継がせようとしているのだ。しかも、和彦がこの先を生き抜くための武器として。 和彦の背後には、長嶺組だけではなく総和会がついている。何かいざこざが起こったとき、長嶺の男たちは決して見過ごしたりはしないと断言できる。 和彦は誘蛾灯のように厄介な男たちを引き寄せるが、反面、その男たちに守られている。総子はいつから、どこまで狙ってビルを託そうとしているのか、落ち着いた頃にでも直接聞きたかった。「――和彦さん?」 身じろぎもせず考え込む和彦に、九鬼が声をかけてくる。我

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